忘却の海辺

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広場で

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 しかし、首と体はまだ繋がっていた。斧は私の首から数センチ離れた所で止まっていた。
「お前、名は?」
「……」
 私は怯えていて、咄嵯に答えることができなかった。
「一応聞いておこう。この村で何があった?」
「……蛮族が、来た。お前みたいな。みんな殺された」
 彼は私をじっと見つめていた。その瞳に映る感情を読み取ることはできなかった。そこにどのような思惑があったのかは分からない。初めから脅すつもりで斧を構えたのかもしれないし、突然何かに気付いたのかもしれない。確かに言えるのは、彼が斧を止めるこの瞬間がなければ、私が今ここにはいなかっただろうということだけだ。ロゲルトは怒りとも悲しみともつかない表情でしばらく私の顔を眺めていた。やがて静かに斧を引いた。彼はなにやら私を罵り、襟首を掴んで持ち上げた。もう抵抗する気力もなかった。彼はそのまま私を引きずるようにして村の方へと歩き始めた。私は知っている家が焼け焦げた匂いを放っているように感じたが、それは陽の光のせいだと分かった。しかし、あの時に聞こえた声たちはなんだったのか分からない。水をくれ。そうでなければ殺しておくれ。お前はなぜ生きている、裏切り者め。
 たまに、聞きなれた幻聴の中に彼の声が割り込んできた。
「そいつらがどこに行ったか分かるか?」
 私は、なぜそんなことを聞くのだろう、と思った。わからない、と答えると、彼は舌打ちをしてまた黙ってしまった。それ以上会話が続くことはなかった。
 ロゲルトはまだ崩れずに耐えている建物の扉を開けると、私を中に放って床に転がせた。彼が身にまとっていた布には泥の粒が薄汚れた模様を作っていた。私は転がったままぼんやりと天井を見上げた。あの晩、この部屋には誰もいなかったのだろう。天井にも壁にも血はついていなかった。死の匂いはする。しかし、それはいまや村全体を包んでいるのだから、仕方のないことだろう。今思うとまだ自分が生きていることに驚いていたが、それよりもこの男は何者なのかという疑問の方が大きかった。彼は私のことなど無視して窓辺に腰掛け、何か考えているように見えた。私は夢を見ているだけではないだろうか、と思った。あの家は火事で焼け焦げているように見えたが、本当は元の通りに家が建っているのではないだろうか。辺りは静まり返って、鳥の声が聞こえていた。耳をすませばいつものように遠くで子供が長い木の枝を振り回す声が聞こえてくるのではないだろうか。
 私がしばらくぼんやりしていると、いつのまにかロゲルトは居なくなっていた。扉の外には大きな梁が積まれている。私を閉じ込めるためだった。たぶん、村長の家か大きな集会場のものだった。私はふと彼が腰かけていた窓辺が気になった。窓は建物の陰になって見ることができない場所だ。何があるのか確かめたかった。
 私は立ち上がって窓から外を見た。そこは相変わらず広場があった。中央の日時計は殺戮を記憶してはいない。見慣れた景色が広がっている。やはり夢だったのだろうか? 私は呆然としながら、窓枠に手をかけてさらに身を乗り出した。奥の方に小ぶりな岩があるのに気付いたが、悪い予感がして目を逸らした。
  そのとき背後で足音がした。振り返ると、ロゲルトが立っていた。手には古びた斧を握っている。私は動けなかった。ロゲルトが近づいてくるのを黙って見ているしかなかった。彼は無言のまま私の手を掴むと外へ引きずり出した。小ぶりな岩のシルエットが頭から離れなかった。太陽が冷たい海に沈んでも、家並みは相変わらず壊れていた。彼が広場に向かっていることに気付き、私は本当に気が狂いそうになった。広場のシルエットがさらに鮮明になっていく。子供特有の素早い鼓動がさらに膨らんでゆく。
 ロゲルトが私を広場に投げ込んだ時、私はとうとう気付いた。あの岩は私と同じ子供の首だった。
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