忘却の海辺

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カトブレパス

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 寒く静かな村の風が雪を舞い上げ、野良犬のように吠えている。ロゲルトはその晩も矢の調整をしていただろう。鏃は一角兎の角に変わって、その鋭い先端を彼が見つめているようだ。彼は弓を構え、その重さと弦を引く力を確かめていただろう。その冷たい弦は彼の手に馴染んだはずだ。彼は凍てついた月に狙いを定め、弦を引き絞っているに違いない。彼の眼は研ぎ澄まされ、月の表面の凹凸まではっきりと見えていただろう。彼は呼吸を整え、静止し、その時を待つ。彼は弓を下ろし、その滑らかな曲線を手でなぞりながら溜息をつくだろう。しかし、彼の眼は月に向けられたままだったに違いない。彼はじっと立ち尽くしたまま、月の輪郭が歪み、大きくなっていくのを見ていただろう。それは歪曲した月だった。ロゲルトには、空に浮かび上がった巨大な三日月が、彼を嘲笑っているように見えたことだろう。
「お前の魂はどこにあるのか?」
 月はそう問いかけているだろう。一瞬の静寂の後、彼の放った矢は音もなく飛んだ。それは弧を描いて、正確無比に欠けた月の中心に潜む闇を捉えるだろう。ロゲルトはしばらく微動だにせず、何かの到来を待ってでもいるように立っていた。沈黙の中で雪だけが舞っていたが、やがてそれも止む。彼は自分の心臓が脈打つ音を聞いている。それはもう、戦いの鼓動を打ってはいなかった。
 我々が黙って道具を弄んでいる朝、変わったことが起きた。ロゲルトの顔にほんの少しだけ笑みが浮かんだような気がしたのだ。私は気のせいだろうと自分に言い聞かせたが、次の朝も彼は同じ表情を浮かべていた。彼がそれを何度か繰り返して、ようやく私はそれが錯覚でないことに気付いた。ロゲルトは確かに微笑んでいた。その口元に小さな喜びの欠片を見つけて、私は狼にでも出会ったかのように驚いてしまった。ロゲルトが笑うようになった理由は分からない。彼にとってはただの偶然に過ぎなかったのかもしれない。だが私はその変化を不気味に感じずにはいられなかった。何が彼に笑い方を思い出させたのだろうか?  私の知らぬ間に、何か恐ろしい企みが進行しつつあったのだろうか、と不安になった。
 ロゲルトと私は廃村の瓦礫から拾ってきた木や枝の山に目をやりながら、なめし皮の外套に包まっていた。これは冬の間に手作業で作る数少ない貴重な防寒具の一つで、毛皮の内側に木の繊維を詰め込んである。彼も私も、これからやってくる厳しい冬を乗り切るために、新しい家を作らなければならないと思っていた。重いため息をつきながら、私は枝を編んで新しい家の骨格を作り始める。ロゲルトの手は荒く、硬い。私は冬が終わる前に凍死してしまうのではないかという恐怖に駆られながら、ひたすら働き続けた。枝が軋んで唸り声をあげている。私は根気よく枝を編んでいき、頑丈なドームの骨組みを作り上げた。作業しながら、私は家族のことを思い出していた。外は暗く、どこまでも雪が降っていた。この村に春が来ることなどあり得ないのではないかと思った。私に残された時間があと僅かであることを思った。冬を越せば、船が出来上がるだろう。私の首は彼の斧によって一撃で断ち切られる。王都での処刑はうまくいかないと聞いたことがあった。一撃で首を落とされなかった受刑者は悶え苦しみ、血の涎を流し続けるというのだ。幸か不幸か、その心配はしなくてもよさそうだった。ロゲルトは手を震わせながら作業を中断した。荒れ果てた村を見渡すと、過ぎ去った過去が思い起こされた。風はますます強くなる。外套を揺らしながら黙祷を捧げた。ロゲルトは枝や板を土で固め、壁を作っていった。私もそれに続いた。
 夜通し働いたおかげで、二日後には屋根のある丈夫な小屋ができた。ロゲルトは小屋の暖炉を崩すとき、ほんの少しだけ、躊躇った。私はその一瞬の間が、憎くてたまらなかった。
 暖炉と弓矢。皮の外套と履物、投網、釣り竿。そして小さな家。我々が作ったものはこれだけで、しかしそれは彼の心を少しずつ変化させていた。私はそれに気づいていたが、見て見ぬふりをしていた。夜は長い。彼は小屋の中で毛皮に身を包んで暖を取った。踏みしめられた雪は氷に変わり、遠くに見える木々を眠らせている。静まり返った村を朝日が暗く照らすだろう。木々の間を通り抜ける風の焦げた匂いが鼻腔をくすぐるだろう。我々はそれを見つめている。やがて太陽が昇るだろう。この村には今日も雪が降る。私は顔を上げ、その光景をしばし我を忘れて見ているだろう。森から噴き出すように広がる灰色の雲と、その下で今にも崩れ落ちそうな山々を。この朝に狩りに出かけるロゲルトは、奇妙なほど孤独を感じていただろう。彼はいつもより慎重に獲物を狙うだろう。彼は薄明の冷たい空気の中で、白い息を吐きながら弓を引き絞っている。彼の指先が震えていることに気付く者は誰もいないだろう。彼は獣たちに向けて矢を放つが、その矢は頭上を通り過ぎ、遥か遠い木に向かって飛んでいってしまう。次の矢を番えようとしても、寒さのせいで手元は狂うだろう。矢筒から矢を取り出し、再び構えても、その矢は逸れて地面に落ちる。彼はしばらくその場に立ち尽くし、自分の体の中に渦巻く得体の知れない恐怖と戦っていることだろう。雪原を進むロゲルトの目には、吹雪の先に見え隠れする獣の影が映っているだろう。それはさほど大きなものではない。だがその影は古い館を思わせるように雄大で、遠目に見ても緞帳のような長い鬣が周囲に垂れているのが分かっただろう。彼は矢を番え、次いで重たい頭に生える二つの大角を見る。背後ではぐれ狼の悲鳴が聞こえて、彼は斧を握りしめ警戒しながら振り返るだろう。何の傷もなく狼が死んでいることに疑問を覚え、辺りを見回しながら雪がやむのを待つかもしれない。あの影は彼の方を一瞥し、踵を返して雪の中に消えていくだろう。やがて吹雪が晴れた時、彼はようやく気付くだろう。白亜の壁の向こうに待ち望んだ幻獣が、カトブレパスがいたということに。ああ、とロゲルトは声にならない声で呟くだろう。
「ああ、ああ……」
 カトブレパスの眼を見たものは死ぬというが、この幻獣は滅多に眼を開けない。普段は草を食むばかりだ。だが、己が眼で殺したものだけは必ず喰らうという。彼が食べられるべきだった幻獣はそこにいた。幻獣がいたのだ。
 ロゲルトはしばし呆然として、それから膝を折るだろう。体は冷え切って感覚を失っている。指先の痛みも麻痺してきっと感じられないだろう。彼の頬からはすっかり血が引いて、唇は青ざめているだろう。彼はじっと動けずに立ち尽くすことしかできない。彼は見ようとしただろう。巨大な石像の眼と、その瞳の奥に潜んでいたものを。それは永遠の闇だ。この世の全ての光を飲み込んでしまうような深みを持った闇の塊だったろう。それは今も蠢いており、冷たい瞼の中に埋もれて眠っている。彼には分かるはずだ。あの眼が自分を捉えようとして、直前で逸らされたことが。カトブレパスの眼は人々に己の運命と死を告げる。村の男はまだ生きている。だが、エファイマの英雄、ロゲルト・オッリは、凍てついた大地の上で体を横たえていただろう。
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