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咲く灰
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石工の家のあった場所には、大人二人分の岩と煉瓦の塊が転がっているだろう。雪の結び目がほどけてゆく。瓦礫の山の頂から折れた梁が突き出していて、その末端には小さな氷柱が垂れ下がっている。柔らかい羽根が人々の家にひらひらと舞い落ちては思い出をうずめてゆくだろう。青みがかった雪原に影を落としていた木立は姿を消し、代わりにどこまでも続くような雪に覆われた丘が広がっているだろう。木々は裸になった枝を寒々しく晒している。石切台の上には砕けた陶片と石のかけらが散らばっていただろう。折れた鑿には血錆がこびりついているだろう。夜の静寂の中で囁き合うような音をたてて冷たい風が吹くだろう。鋭い月の出始めた夜の闇が割れた壁材の隙間から延々と広がっている。誰もその光景を見てはいない。石工の家は野ざらしになり、深い闇の中に、透明な季節が融解する。誰もそれを見てはいなかっただろう。あの夜の残像が燃えている。波の音は聞こえているだろうか。
「墓はどのように作るのか」
彼の言ったことが思い出されるが、誰もその答えは知らないだろう。彼は呪いを解こうとしている。しかし悪夢から覚めた時、その現実が必ずいいものである保証はどこにもない。黒い翼の生えた天使だったかもしれない。首のない骸骨だったかもしれない。それはロゲルトの眼にも見えていたはずだ。彼は空を見上げるだろう。空は暗く、星の輝きも見えない。億劫なワイバーンの目を逃れて、鳥が廃墟の上を舞っているだろう。凍った空気は澄んでいて、雪はしんと降り続いているだろう。慎ましくもこの村に残るはずだった人々はもういなくなった。そうだ、と私は思った。それがなんだと言うのか? 何もない村だ。ここには何もなかった。ただ、彼らの名前を呼べないだけだ。龍と月。雨とグリフォン。草原とカトブレパス。そもそも誰も覚えてなどいなかったのだ。粗末で不揃いな街並み、ばらついた息遣いや声を思い出すものはもういないだろう。私は部屋の中に縮こまって、ひたすら傷口から溢れる赤い液体を見つめている。指先から誰かの灰が入りこんだ。その灰は蟻塚のように固まって、厚くなった爪の先に巣食っている。私たちの村に届かない善意が、生暖かい血となって桃色の悴んだ親指から溢れていただろう。私はにわかに恐ろしくなった。まだ出来てもいない瘡蓋が誰かの顔の形になるのではないかと思って、それを拭い去ろうと指先を口に含む。血は喉の奥へと滑り落ち、胃の中で熱く膨らんでいった。その感覚は私の全てになるだろう。私は激しくえずきながら、自分の運命を呪い、村を滅ぼした男を憎み、自分自身を嘲笑っていた。肌を刺す空気の中で痛みが私の中に入り込み、濡れて光る粘膜の中でむせ返るような死の匂いを立ち昇らせるだろう。私は叫び出しそうになるのを堪えるために唇を強く噛んでいたかもしれない。私の体は震え、瞳からは涙がこぼれ落ちるだろう。私に残されたものはもはやこの体しかない。彼に悪気がなかったことは知っている。しかし悪意は世界にべったりと張り付いたまま、決して剥がれることはなかった。あの日見た風景が残っている。あの日の空の色や、風の強弱や、人々の顔が私の眼に浮かんでいる。炎はこの村を襲い、破壊し、蹂躙し、時間を掛けてゆっくりと私達を焼き焦がしていた。彼の降り下ろした刃は、彼自身を傷つけ始めるだろう。ロゲルトはベッドに腰掛け、洗い落とせない過去を眺めているだろう。彼の背には無数の言葉が刻まれていて、振り返れば、それらは音を立てて崩れ去るだろう。武器が彼の手から滑り落ちてゆく。墓を作ろう、と彼は考える。暗闇の中で、静かな声でそう呟いている。この世ならざる白い光が灯り始めた。その考えはどこか非現実的だった。奪ってきた数百の命にどんな物語があるのか、彼が知ることはないだろう。誰も自分の墓で眠ることはない。だが、彼はまだ墓を作りたがっていた。儚い記憶の中で、思い出は冷たい風に崩れてゆくだろう。私はロゲルトの背中に刻まれた言葉を数えているだろう。彼がかつて殺した人々の名前だ。彼自身が一つの墓標だった。ロゲルトの肩甲骨の間に刻み込まれた名前だ。私はそれを指先でなぞり、ひとつずつ読み上げていくだろう。灰交じりの血が私の掌に渦巻いている。ロゲルトは墓を作ろうと思っている。村人たちがワイバーンの腹の中にいることも、腐敗して液状化した体が煙の中で溶けてしまったことも、雪に混じった煤が大地の汚れと化したことも、彼は忘れているだろう。夜が静かに明けていった。
「墓はどのように作るのか」
彼の言ったことが思い出されるが、誰もその答えは知らないだろう。彼は呪いを解こうとしている。しかし悪夢から覚めた時、その現実が必ずいいものである保証はどこにもない。黒い翼の生えた天使だったかもしれない。首のない骸骨だったかもしれない。それはロゲルトの眼にも見えていたはずだ。彼は空を見上げるだろう。空は暗く、星の輝きも見えない。億劫なワイバーンの目を逃れて、鳥が廃墟の上を舞っているだろう。凍った空気は澄んでいて、雪はしんと降り続いているだろう。慎ましくもこの村に残るはずだった人々はもういなくなった。そうだ、と私は思った。それがなんだと言うのか? 何もない村だ。ここには何もなかった。ただ、彼らの名前を呼べないだけだ。龍と月。雨とグリフォン。草原とカトブレパス。そもそも誰も覚えてなどいなかったのだ。粗末で不揃いな街並み、ばらついた息遣いや声を思い出すものはもういないだろう。私は部屋の中に縮こまって、ひたすら傷口から溢れる赤い液体を見つめている。指先から誰かの灰が入りこんだ。その灰は蟻塚のように固まって、厚くなった爪の先に巣食っている。私たちの村に届かない善意が、生暖かい血となって桃色の悴んだ親指から溢れていただろう。私はにわかに恐ろしくなった。まだ出来てもいない瘡蓋が誰かの顔の形になるのではないかと思って、それを拭い去ろうと指先を口に含む。血は喉の奥へと滑り落ち、胃の中で熱く膨らんでいった。その感覚は私の全てになるだろう。私は激しくえずきながら、自分の運命を呪い、村を滅ぼした男を憎み、自分自身を嘲笑っていた。肌を刺す空気の中で痛みが私の中に入り込み、濡れて光る粘膜の中でむせ返るような死の匂いを立ち昇らせるだろう。私は叫び出しそうになるのを堪えるために唇を強く噛んでいたかもしれない。私の体は震え、瞳からは涙がこぼれ落ちるだろう。私に残されたものはもはやこの体しかない。彼に悪気がなかったことは知っている。しかし悪意は世界にべったりと張り付いたまま、決して剥がれることはなかった。あの日見た風景が残っている。あの日の空の色や、風の強弱や、人々の顔が私の眼に浮かんでいる。炎はこの村を襲い、破壊し、蹂躙し、時間を掛けてゆっくりと私達を焼き焦がしていた。彼の降り下ろした刃は、彼自身を傷つけ始めるだろう。ロゲルトはベッドに腰掛け、洗い落とせない過去を眺めているだろう。彼の背には無数の言葉が刻まれていて、振り返れば、それらは音を立てて崩れ去るだろう。武器が彼の手から滑り落ちてゆく。墓を作ろう、と彼は考える。暗闇の中で、静かな声でそう呟いている。この世ならざる白い光が灯り始めた。その考えはどこか非現実的だった。奪ってきた数百の命にどんな物語があるのか、彼が知ることはないだろう。誰も自分の墓で眠ることはない。だが、彼はまだ墓を作りたがっていた。儚い記憶の中で、思い出は冷たい風に崩れてゆくだろう。私はロゲルトの背中に刻まれた言葉を数えているだろう。彼がかつて殺した人々の名前だ。彼自身が一つの墓標だった。ロゲルトの肩甲骨の間に刻み込まれた名前だ。私はそれを指先でなぞり、ひとつずつ読み上げていくだろう。灰交じりの血が私の掌に渦巻いている。ロゲルトは墓を作ろうと思っている。村人たちがワイバーンの腹の中にいることも、腐敗して液状化した体が煙の中で溶けてしまったことも、雪に混じった煤が大地の汚れと化したことも、彼は忘れているだろう。夜が静かに明けていった。
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