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アキラ
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「お願い、アキラ。ここを開けて」
バイトを終え、帰宅した午後九時。マンションの廊下から、悲痛な叫びが聞こえた。
「開けて、開けて、もうしないから許して。ごめんなさい。お願い、アキラ。アキラ」
その声に、身が凍る。
このマンションに越して、そこそこ時間が経つ。
けれど、隣人とはほとんど交流がなかった。顔も、年齢も、性別さえも知らない。
それでも特に困らなかったから、気にすることもなかった。
────もしや、とんでもないドメスティックなバイオレンス男と、それに耐えている女が住んでいるのか?
私は厄介ごとに巻き込まれたくない一心で、携帯端末の音楽アプリを起動し、ワイヤレスイヤホンを接続する。それを耳にはめ込み、大音量で音楽を聴こうとした。
「アキラ、アキラ。お願い、許して、入れて」
その声に、手が止まる。
時期は冬。そして夜。
寒い中、外へ放り出された彼女は、一体どうするつもりだろうか。彼氏の許しを得るまで、マンションの廊下で凍えて待つ?
────そんなの、見過ごせない。
私はかぶりを振り、勢いよく玄関を開けた。隣の部屋のドアに女性が蹲っている。ドアノブへ手を伸ばし、泣きながら声を漏らしていた。
驚くべきはその格好だ。ロングTシャツに下はショーツのみ。素足には泥がついている。金髪はボサボサだ。
見窄らしい女が、そこにいた。思わず唾液を飲み込む。私が見つめている間も絶え間なく「入れて、開けて、謝るから」と中にいる恋人へ懇願していた。
私は急いでサンダルを履き、外へ出ようとする。
「ねぇ、大丈夫? お嬢さん」
声がした。男の声だ。私は玄関から廊下を覗く。隣人の隣に住んでいるらしき男が、彼女に声をかけていた。
彼女は枯れた声で「大丈夫です」と答える。男はその様子にさらに質問を重ねた。「ねぇ、ここは寒いよ。俺の家で、ゆっくりしない? 彼氏さんが頭を冷やすまで、コーヒーでも飲もうよ。ほら」。男はそう言い、彼女の肩に手をかける。
足が瞬時に廊下を蹴っていた。彼女の元へ近づき、彼から引き剥がす。
両者のポカンとした顔を見つつ、私は声を張り上げた。
「だ、大丈夫です。この子、友達なので、わ、私が面倒を見ます」
そう言い残し、急いで自宅へ彼女を引き摺り込む。困惑する男の声を聞きつつ、ドアを勢いよく閉めた。
玄関に立った彼女と近距離で見つめ合う。近くで見ると、頬が少し腫れ上がっていた。メイクも崩れているし、目は泣き疲れている。
「ごめんなさい。家に引き摺り込んじゃって。彼が悪人とか、そういうわけじゃあないけど、ほら、女性が連れ込まれそうになってたら、そりゃ、ねぇ? なんていうか」
「危ない、よね」
掠れた声で彼女がそう言った。口角を上げ、目を三日月型に変える。ふふと笑い「助けてくれて、ありがとう」とひとりごちた。
彼女は一つ身震いし、手で肩を摩る。
「あ、ごめん。寒いよね。中に入ろう」
「いいの?」
彼女は控えめな声をあげた。玄関まで引き摺り込んでおきながら冷えた廊下に追い返すような、そんな薄情者に見えたのだろうか。
乾いた笑いを漏らし「もちろん」と承諾する。
私はサンダルを脱ぎ、彼女を家の中へ招いた。彼女は自らの汚れた素足を見下ろした後、こちらを見上げる。
「……汚れちゃう……足、洗っていい?」
「あ、うん。ここ、風呂場がある。そうだ。ついでに湯船に浸かる?」
そう言うと、彼女は申し訳なさそうに頭を下げ、風呂場へ入った。蛇口を捻る音と、流れ出るシャワー音が聞こえる。
私は彼女の着替えとタオルを取るため、奥の部屋へ移動した。
◇
「ありがとうございました」
居間のローテーブルに置かれたコーヒーに口を付けた彼女は、ペコリと頭を下げた。ドライヤーで乾かした金髪が艶やかに光る。私は胸の前で手を振った。
「気にしないで……あ、このクッキー食べて。バイト先の店長が大量にくれたの。味は良くないけど、お腹は膨れるよ」
皿からクッキーを取った私は口に放り込み、咀嚼する。同様、彼女もクッキーを手に取った。少し間を置き、口を開く。
「……お騒がせして、ごめんなさい」
「いえ、気にしないで。ところで、ひどい恋人だねぇ。こんな寒い夜に追い出すなんて、さぁ」
喧しいテレビの音が脳内で混じり合い溶ける。画面に映った芸人が何かを言っている。
いや、あきまへん。兄さん、酷いわぁ。もうちょい手加減してくださいよ。
関西訛りの流暢な声がうるさい。私はリモコンに手を伸ばしかけ、動きを止めた。
彼女が泣いていたからだ。
私は手を引っ込め、膝の上に行儀良く手を乗せた。彼女は肩を揺らし、涙を溢した。こういう時、どう接していいかわからない。
私は口を開きかけ、やがて閉じ、近くに置かれていたティッシュ箱に手を伸ばす。それを掴み、差し出した。彼女は鼻を啜りながら、頭を下げる。
「……私が悪いんです」
緩やかに口を開いた彼女は、ポツリと語り出した。
「アキラがいない間、アキラの部屋に男を連れ込んで一日中セックスしてた私が悪い。でも、ゴムはちゃんとしたし、何よりあの男になんの感情も抱いてない。私にとってただの竿なんだもん。それなのに、アキラってば聞く耳を持ってくれない。一番はアキラで、それ以外、ありえない、のに。お前のことを信じた自分が馬鹿だったって、言うなんて。もう、愛してないなんて。酷いよ。アキラ。どうして、どうしてよ……」
私は思い切り後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を受け、眩暈がした。
まさか、この人、とんでもない地雷なのでは。そもそも、彼氏がいながら、浮気? その上、彼氏の部屋で性行為? それを咎められ追い出された挙句が、あの玄関での出来事?
自業自得とは、まさにこの事ではないか。
────
加筆+既存の作品が修正されたバージョンがKindleにて電子書籍で出ています。
読み放題でしたら無料となりますので、もしよろしければお暇つぶし程度に読んでいただけますと嬉しいです。
プロフィールのリンクから、もしくはAmazonで「女と女」で検索していただけますと幸いです。
バイトを終え、帰宅した午後九時。マンションの廊下から、悲痛な叫びが聞こえた。
「開けて、開けて、もうしないから許して。ごめんなさい。お願い、アキラ。アキラ」
その声に、身が凍る。
このマンションに越して、そこそこ時間が経つ。
けれど、隣人とはほとんど交流がなかった。顔も、年齢も、性別さえも知らない。
それでも特に困らなかったから、気にすることもなかった。
────もしや、とんでもないドメスティックなバイオレンス男と、それに耐えている女が住んでいるのか?
私は厄介ごとに巻き込まれたくない一心で、携帯端末の音楽アプリを起動し、ワイヤレスイヤホンを接続する。それを耳にはめ込み、大音量で音楽を聴こうとした。
「アキラ、アキラ。お願い、許して、入れて」
その声に、手が止まる。
時期は冬。そして夜。
寒い中、外へ放り出された彼女は、一体どうするつもりだろうか。彼氏の許しを得るまで、マンションの廊下で凍えて待つ?
────そんなの、見過ごせない。
私はかぶりを振り、勢いよく玄関を開けた。隣の部屋のドアに女性が蹲っている。ドアノブへ手を伸ばし、泣きながら声を漏らしていた。
驚くべきはその格好だ。ロングTシャツに下はショーツのみ。素足には泥がついている。金髪はボサボサだ。
見窄らしい女が、そこにいた。思わず唾液を飲み込む。私が見つめている間も絶え間なく「入れて、開けて、謝るから」と中にいる恋人へ懇願していた。
私は急いでサンダルを履き、外へ出ようとする。
「ねぇ、大丈夫? お嬢さん」
声がした。男の声だ。私は玄関から廊下を覗く。隣人の隣に住んでいるらしき男が、彼女に声をかけていた。
彼女は枯れた声で「大丈夫です」と答える。男はその様子にさらに質問を重ねた。「ねぇ、ここは寒いよ。俺の家で、ゆっくりしない? 彼氏さんが頭を冷やすまで、コーヒーでも飲もうよ。ほら」。男はそう言い、彼女の肩に手をかける。
足が瞬時に廊下を蹴っていた。彼女の元へ近づき、彼から引き剥がす。
両者のポカンとした顔を見つつ、私は声を張り上げた。
「だ、大丈夫です。この子、友達なので、わ、私が面倒を見ます」
そう言い残し、急いで自宅へ彼女を引き摺り込む。困惑する男の声を聞きつつ、ドアを勢いよく閉めた。
玄関に立った彼女と近距離で見つめ合う。近くで見ると、頬が少し腫れ上がっていた。メイクも崩れているし、目は泣き疲れている。
「ごめんなさい。家に引き摺り込んじゃって。彼が悪人とか、そういうわけじゃあないけど、ほら、女性が連れ込まれそうになってたら、そりゃ、ねぇ? なんていうか」
「危ない、よね」
掠れた声で彼女がそう言った。口角を上げ、目を三日月型に変える。ふふと笑い「助けてくれて、ありがとう」とひとりごちた。
彼女は一つ身震いし、手で肩を摩る。
「あ、ごめん。寒いよね。中に入ろう」
「いいの?」
彼女は控えめな声をあげた。玄関まで引き摺り込んでおきながら冷えた廊下に追い返すような、そんな薄情者に見えたのだろうか。
乾いた笑いを漏らし「もちろん」と承諾する。
私はサンダルを脱ぎ、彼女を家の中へ招いた。彼女は自らの汚れた素足を見下ろした後、こちらを見上げる。
「……汚れちゃう……足、洗っていい?」
「あ、うん。ここ、風呂場がある。そうだ。ついでに湯船に浸かる?」
そう言うと、彼女は申し訳なさそうに頭を下げ、風呂場へ入った。蛇口を捻る音と、流れ出るシャワー音が聞こえる。
私は彼女の着替えとタオルを取るため、奥の部屋へ移動した。
◇
「ありがとうございました」
居間のローテーブルに置かれたコーヒーに口を付けた彼女は、ペコリと頭を下げた。ドライヤーで乾かした金髪が艶やかに光る。私は胸の前で手を振った。
「気にしないで……あ、このクッキー食べて。バイト先の店長が大量にくれたの。味は良くないけど、お腹は膨れるよ」
皿からクッキーを取った私は口に放り込み、咀嚼する。同様、彼女もクッキーを手に取った。少し間を置き、口を開く。
「……お騒がせして、ごめんなさい」
「いえ、気にしないで。ところで、ひどい恋人だねぇ。こんな寒い夜に追い出すなんて、さぁ」
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いや、あきまへん。兄さん、酷いわぁ。もうちょい手加減してくださいよ。
関西訛りの流暢な声がうるさい。私はリモコンに手を伸ばしかけ、動きを止めた。
彼女が泣いていたからだ。
私は手を引っ込め、膝の上に行儀良く手を乗せた。彼女は肩を揺らし、涙を溢した。こういう時、どう接していいかわからない。
私は口を開きかけ、やがて閉じ、近くに置かれていたティッシュ箱に手を伸ばす。それを掴み、差し出した。彼女は鼻を啜りながら、頭を下げる。
「……私が悪いんです」
緩やかに口を開いた彼女は、ポツリと語り出した。
「アキラがいない間、アキラの部屋に男を連れ込んで一日中セックスしてた私が悪い。でも、ゴムはちゃんとしたし、何よりあの男になんの感情も抱いてない。私にとってただの竿なんだもん。それなのに、アキラってば聞く耳を持ってくれない。一番はアキラで、それ以外、ありえない、のに。お前のことを信じた自分が馬鹿だったって、言うなんて。もう、愛してないなんて。酷いよ。アキラ。どうして、どうしてよ……」
私は思い切り後頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を受け、眩暈がした。
まさか、この人、とんでもない地雷なのでは。そもそも、彼氏がいながら、浮気? その上、彼氏の部屋で性行為? それを咎められ追い出された挙句が、あの玄関での出来事?
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