眠り姫に口付けを[完]

中頭[etc垢]

文字の大きさ
18 / 38

3 かな子の話

しおりを挟む
***

「離婚してくれ」

 彼の言葉が、ダイニングに響く。テーブルに向かい合うように座り、彼をただ見つめた。彼はテーブルに肘をつき、手で顔を覆っている。
 帰宅した彼に、病院での結果を伝えたのはつい先ほどだ。
 「ここに座って」と椅子へ招き、今日起こった出来事を説明した。
 声は震えていたし、心臓の音はいつもより大きく、掌には汗が滲んでいた。告げられた彼は静かに「そうか」と言ったきり、こちらが恐怖するほどの無表情を見せ黙り込んだ。
 逃げ出したくなるような沈黙の後、彼が言った言葉だ。
 ────離婚してくれ。
  結果はなんとなく、予想がついていたが、それでも、数パーセントの希望にかけてみた。が、無駄であった。
 君がいればいい。子供はいらない。二人でゆっくり過ごしたいんだ。そんな言葉を期待していたが。
 虚無感で脳が停止しそうだ。目の前が歪む。

「……体外受精とか色々あるみたいだけど」

 精一杯の気力で振り絞った声は、意外と難なく出た。彼はその言葉にピクリと反応した。

「それで」
「え?」
「それで、妊娠しなかったら君はどう責任とるつもり」
 
 ────どう、責任を、とるつもり。
 言葉が脳内で文字化し、それを何度も読み返す。
 責任、責任、責任。

「僕はさ、君のために三年数ヶ月と数日、時間を無駄にしているわけだ。いや、厳密に言えば、付き合ってた頃の時間も加算されるな……で、その上、まだ僕から時間を奪い取って下手に抵抗した結果、子供を授かれなかったら、どうするつもりだ。費やした時間を返してくれるのか?」

 今まで聞いたことない声音に、背筋が凍りつく。
 この男は本当に、木下タケルなのか。私が、愛した男なのだろうか。
 目の前の男は続けた。

「良いから何も言わずに離婚してくれ」
「タ、タケル……」 
「……とんだ貧乏くじだ」

 そのまま、ネクタイを緩めながら席を立ち自室へ戻るタケル。
 ────貧乏くじ。
 その言葉に体が動かなかった。



 後のタケルの対応は、今までに見たことないぐらいのスピードであった。
 離婚届を目の前に出し、サインさせ、お役所に届ける流れは見事だった。
 その間の日々は、目も合わせてくれず言葉を交わさなかった。私もなんとなく日々の出来事は記憶していない。ただ、呆然と時間が流れるのを待っていた。意外に脳は優秀で嫌な記憶は消し去ってくれるらしい。
 彼の、私を見るあの目はいまだに忘れさせてくれないくせに。
 あの不燃物を見るような眼差しを。
 彼は、私を愛していなかった。
 私の「子供ができる袋」を愛していたのだ。私との子供が欲しかったんじゃない。ただ子供が欲しかっただけだ。
 彼の中で自分は被害者。私は加害者。彼の大切な時間を貪り、尚且つなんのメリットも与えなかった悪女。
 私の、気も知らずに。

***

 彼と契約した家を離れ、一人暮らしを始めて、ちょうど一週間ほど。職場へまた苗字が変わったと告げた頃には星野はとっくに会社を辞めていた。今回は難なく報告できた。
 彼と離婚して悲しかったか、と聞かれたら答えはイエスだ。なんせ、愛していたからだ。彼の本性を知るまでの記憶はやはり、自分の生きてきた中で一番幸せな時間だった。あんな言葉を浴びせられても、今、いきなり目の前に現れてやり直そうと言われたらもちろん了承する。
 彼の手を取り、もう一度、やり直すだろう。
 まぁ、そんなことは現実に起きないが。
 私はラブストーリーの主人公ではない。都合よくはいかない。だが、スマホが揺れるたび、チャイムが鳴るたび、街で彼に似た人を見かけるたび、もしかしたらまたあの風景が戻ってくるのかもと無駄な期待に胸踊らせては、一人で落ち込む毎日なのだ。
 そうはいうものの、日々が過ぎていく。時間が解決してくれる、とはまさに言葉通りだ。毎日の繰り返しは記憶を薄れさせてくれる。今の私にとって時間は薬だった。これしか、解決方法がない。彼の嫌な記憶から逃げるにはこの方法しかないのだ。
 彼のSNSを見つけ、蓋をした記憶が蘇るのはそれから数年後の話だ。



 私は四十手前。もう、再婚は諦めた。
 時折、たまにチラつく彼の眼差しを思い出し思案に耽っていた。
 が、前までと違い、彼の詳細な顔も声も忘れかけていた時。何故か彼の名前を検索してしまった。ストーカーのようだなとは思った。しかし同時に、記憶に蓋をしていたと思っていたが無理矢理押し込めていただけで、やはり心残りがあるのだと改めて実感した。
 検索結果で出てきたSNSを覗いた時、後頭部を殴られたような衝撃を受ける。
 数々の笑顔の写真────記憶が一気に蘇る。楽しかったあの日。不意に涙が溢れ出た。と、同時に隣に映る女性へ目がいく。今の、パートナーだ。自分より遥かに若い、女性。派手でもない、どちらかというと普通のタイプの。
 写真はどれも笑顔だった。隅から隅まで確認した。食い入るように見ながら涙が止まらない。
 ────あぁ、何故こんなに、幸せそうに笑っているんだ。
 自分の惨めさに悲しみが止まらなかった。ここ最近、誰かと外出したか? いいや、していない。友達は既にみんな子供を持ち、育て、独立させ、夫と仲睦まじく生きている。自分は? 何がある。何もない。孤独だ。
 ネットに上げられた、彼の写真を見た。
 ────何故、お前はそんなに笑っていられるのだ。
 私は今でも、お前を思い出して、苦しんでいるのに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。

猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。 復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。 やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、 勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。 過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。 魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、 四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。 輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。 けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、 やがて――“本当の自分”を見つけていく――。 そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。 ※本作の章構成:  第一章:アカデミー&聖女覚醒編  第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編  第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編 ※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位) ※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...