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第二部
息子が私に懐かない
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「やだ!やだやだやだやだやだやだ!!」
息子が床に寝転がり、両手足をバタバタと動かしている。それを何とかなだめようと使用人たちは必死だが、こうなるともうどうしようもない。
「僕もお母様と一緒に行く!絶対絶対行くの!」
一週間前からずっとこの調子だ。つい先日五歳になったというのに、ソフィアにべったりで離れようとしない。
「奥様はすぐお帰りになりますから。それにアルベール様がいらっしゃるではありませんか」
「お父様じゃヤダ!!!」
グサリと胸に鋭い痛みが走った。自分の幼い頃と瓜二つな姿をした息子は、なぜか私に懐かない。
そこへ外出着に着替えたソフィアが現れた。息子は勢いよく起き上がり、彼女の足元に抱きついた。
「お母様!僕も一緒に行きます!」
「リヒト、それはダメですと何回も言っているでしょう?遊びに行くのではないのよ?」
今日から一週間ソフィアは王国の診療所へ父親の見舞いに行く。彼女の父の意識は戻らないままだが、ここ数年ソフィアは父親に会えていなかった。ようやく今日から時間ができたのだ。
リヒトを連れて行くことも考えたのだが、行き先は罪人用の診療所だ。幼い息子を連れていける場所ではなかった。
「すまないな、一緒に行けなくて」
「大丈夫ですわ、今年は領内が忙しいですもの」
今年の冬は各地で雪崩や落石事故があり、春になった今でも私はその支援に追われていた。
「やだ!お母様と一緒に行く!絶対行く!」
息子がソフィアと何日も離れるのは初めてのこと。私がしっかりしなくてはと思いながら、すでに心が折れそうになっていた。
「リヒト」
ソフィアは膝を曲げ、息子と目線を合わせる。するとリヒトは目に涙を浮かべ、唇をぎゅっと噛んだ。
「お母様が今日誰に会いに行くか、わかる?」
「……お母様の、お父様」
「そう。お祖父様にリヒトのことをご報告しに行くの。リヒトはとっても良い子だもの。お留守番もちゃんとできますってご報告したいわ」
息子は小さな手を握りしめ、必死に涙を堪えていた。私や使用人の前ではすぐに駄々をこねるのに、ソフィアの前でだけは良い子になる。
「僕は、お留守番、でき……ます」
「リヒトなら大丈夫よ」
小さな肩をソフィアが抱きしめ、ゆっくりと頭を撫でる。
「私の小さな騎士さん」
それは彼女だけに許された息子の呼び方だった。こう呼ばれると息子は誇らしげな顔をするのだ。
リヒトは見た目こそ私に似ているものの、勉学よりも体を動かすことのほうが得意で、乗馬や剣術に興味があるようだった。
そう、まるで私の兄のように。
金色の瞳が必死に涙を堪え、輝いていた。ソフィアが馬車に乗り込み、敷地を出ていくまでリヒトはもう泣くことはなかった。
* * *
「坊っちゃん!そろそろ出てきてくださーい!」
子ども部屋の扉を、アンが何度も叩いている。
「良い子でお留守番するんじゃなかったんですか!これじゃただの引きこもりですよ!」
ソフィアが家を出てから、リヒトは自分の部屋に籠もり出てこなくなった。昼食も食べず、返事もしない。
「ご当主様もなにか言ってくださいよ!」
「なにかと言われても……」
正直、リヒトになんと声をかければいいのか分からなかった。いつもそうなんだ。息子はなんというか、私の言葉をちゃんと聞いてくれない。同じことを言ってるはずなのに、私とソフィアでは天と地ほどの差がある、ように見える。
「坊っちゃん!昨日奥様の焼いてくれたクッキーとマドレーヌがありますよー?とっても美味しいですよー?坊っちゃんが食べないなら、私が食べちゃいますよー?」
すると子ども部屋のドアが少しだけ開き、そこから手だけが出てきた。
「捕まえた!!」
その手を掴み、リヒトが部屋から引っ張り出される。
「やだやだやだ!お母様が帰ってくるまで出ない!」
「どうしてそんなこと言うんですか!帰ってきたら奥様が悲しみますよ!」
ソフィアが悲しむ所を想像したのだろう。リヒトが逃げるのをやめた。
優しい子なのだ。まだまだ母親が恋しいのもよく分かる。私もそうだった。
「リヒト、少しだけ私と話をしないか?」
息子と向き合わないままでは、いつか天国の兄に叱られてしまう。兄ならきっとリヒトと友達のように仲良くなれただろうな。
珍しくリヒトは素直に頷いた。
* * *
ソフィアの焼いたお菓子を詰めたバスケットを持って、私は息子の手を引いて歩いた。いつもなら誰かを供につけるのだが、今日は二人だけ。少し湿った土の香りが鼻を突いた。
「リヒト」
「……はい、」
「お母様がいなくて淋しいか?」
私の手を小さな手が力強く握りしめた。
「……淋しくなんか、ない。僕はもう五歳だし、強いから……」
「そうか、リヒトはすごいな。私は淋しいよ」
「え!?」
息子は目を見開き、本当に驚いているようだ。その反応がなんだか面白くて笑ってしまった。
「お父様も、淋しいの?」
「あぁ、とっても淋しい」
森を抜け、草原に出るとリヒトが急に立ち止まった。
「どうした?」
するとリヒトの金色の瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「うぅ……嘘、ついた。やっぱり淋しいよぉ、お母様いないの、ヤダぁ」
ボロボロと涙を流すリヒトの頭をゆっくりと撫でる。
「そうか、そうだよな。私だって淋しいんだ。リヒトが淋しくないわけないよな」
息子を抱き上げるとまた少し重くなった気がする。ついこの間生まれたばかりだと思っていたのに、子どもは本当にあっという間に大きくなってしまう。
「お父様だけじゃダメか?」
「ヤダぁ、お母様じゃないとヤなの!」
また少し胸が痛む。
「どうしてもダメか?」
「ダメなの、だってぇ……だって……」
リヒトは言葉を選ぶように口をモゴモゴさせていた。
「だって……お母様はお父様のこと大好きなんだもん」
「ん?」
突然の言葉に私も言葉を失った。
「お母様いっつもお父様のお話する。もっともっと僕のこと見ててほしいのに、お父様ばっかり。そんなのズルいもん」
もしかして、リヒトが私の言うことをきかないのはそれが理由なのか?
「リヒトがそんなことを思っているとは知らなかったな」
「僕のほうがお母様のこと好きだもん。大きくなったらお母様と結婚する」
その顔で、その瞳に言われると私はなんとも複雑な気分になってしまう。
「それだけはダメだ」
いつかこの子が大きくなったら、ソフィアとの出逢いの話をしなくては。私と彼女と大切な家族を巡る物語を聞かせてあげよう。
いろいろ言えない部分もあるが……。
「アルベール様!アルベール様!!」
そのとき、森の中屋敷の方角から私を呼ぶ声が聞こえた。
「アルベール様!すぐにお戻りを!」
「どうした!?」
「ソフィア様が!!」
その名を聞いて、私はリヒトを抱えたまま駆け出した。
「ご懐妊です」
「「「「!!!!!」」」」
屋敷を出たあと、馬車の揺れでソフィアは気分が悪くなったそうだ。普段なら車酔いなどしない彼女を心配した付き添いのトロワ。そのまま街の診療所に駆け込んだ。
「お父様、ごかいにんってなんですか?」
出掛けるはずの母が帰ってきて喜んでいた息子も彼女の顔色が悪いのを見て不安げに私を見つめていた。
「リヒトに弟か妹ができたんだ」
私の言葉を息子はゆっくりと理解し、次の瞬間飛び跳ねて喜んだ。
「やったぁ!!絶対絶対絶対、妹がいい!」
ソフィアと顔を見合わせ、微笑みあった。
「あら、リヒトは弟がいいと言うと思っていたわ」
「妹!絶対だよ!」
まさかこの言葉が予言のようになるとは、このとき思ってもいなかった。
生まれた子はソフィアと瓜二つの可愛いらしい娘だった。私も、妻も、そして兄となった息子も皆彼女を愛した。
私たち家族の物語はこれからも続いていく。
息子が床に寝転がり、両手足をバタバタと動かしている。それを何とかなだめようと使用人たちは必死だが、こうなるともうどうしようもない。
「僕もお母様と一緒に行く!絶対絶対行くの!」
一週間前からずっとこの調子だ。つい先日五歳になったというのに、ソフィアにべったりで離れようとしない。
「奥様はすぐお帰りになりますから。それにアルベール様がいらっしゃるではありませんか」
「お父様じゃヤダ!!!」
グサリと胸に鋭い痛みが走った。自分の幼い頃と瓜二つな姿をした息子は、なぜか私に懐かない。
そこへ外出着に着替えたソフィアが現れた。息子は勢いよく起き上がり、彼女の足元に抱きついた。
「お母様!僕も一緒に行きます!」
「リヒト、それはダメですと何回も言っているでしょう?遊びに行くのではないのよ?」
今日から一週間ソフィアは王国の診療所へ父親の見舞いに行く。彼女の父の意識は戻らないままだが、ここ数年ソフィアは父親に会えていなかった。ようやく今日から時間ができたのだ。
リヒトを連れて行くことも考えたのだが、行き先は罪人用の診療所だ。幼い息子を連れていける場所ではなかった。
「すまないな、一緒に行けなくて」
「大丈夫ですわ、今年は領内が忙しいですもの」
今年の冬は各地で雪崩や落石事故があり、春になった今でも私はその支援に追われていた。
「やだ!お母様と一緒に行く!絶対行く!」
息子がソフィアと何日も離れるのは初めてのこと。私がしっかりしなくてはと思いながら、すでに心が折れそうになっていた。
「リヒト」
ソフィアは膝を曲げ、息子と目線を合わせる。するとリヒトは目に涙を浮かべ、唇をぎゅっと噛んだ。
「お母様が今日誰に会いに行くか、わかる?」
「……お母様の、お父様」
「そう。お祖父様にリヒトのことをご報告しに行くの。リヒトはとっても良い子だもの。お留守番もちゃんとできますってご報告したいわ」
息子は小さな手を握りしめ、必死に涙を堪えていた。私や使用人の前ではすぐに駄々をこねるのに、ソフィアの前でだけは良い子になる。
「僕は、お留守番、でき……ます」
「リヒトなら大丈夫よ」
小さな肩をソフィアが抱きしめ、ゆっくりと頭を撫でる。
「私の小さな騎士さん」
それは彼女だけに許された息子の呼び方だった。こう呼ばれると息子は誇らしげな顔をするのだ。
リヒトは見た目こそ私に似ているものの、勉学よりも体を動かすことのほうが得意で、乗馬や剣術に興味があるようだった。
そう、まるで私の兄のように。
金色の瞳が必死に涙を堪え、輝いていた。ソフィアが馬車に乗り込み、敷地を出ていくまでリヒトはもう泣くことはなかった。
* * *
「坊っちゃん!そろそろ出てきてくださーい!」
子ども部屋の扉を、アンが何度も叩いている。
「良い子でお留守番するんじゃなかったんですか!これじゃただの引きこもりですよ!」
ソフィアが家を出てから、リヒトは自分の部屋に籠もり出てこなくなった。昼食も食べず、返事もしない。
「ご当主様もなにか言ってくださいよ!」
「なにかと言われても……」
正直、リヒトになんと声をかければいいのか分からなかった。いつもそうなんだ。息子はなんというか、私の言葉をちゃんと聞いてくれない。同じことを言ってるはずなのに、私とソフィアでは天と地ほどの差がある、ように見える。
「坊っちゃん!昨日奥様の焼いてくれたクッキーとマドレーヌがありますよー?とっても美味しいですよー?坊っちゃんが食べないなら、私が食べちゃいますよー?」
すると子ども部屋のドアが少しだけ開き、そこから手だけが出てきた。
「捕まえた!!」
その手を掴み、リヒトが部屋から引っ張り出される。
「やだやだやだ!お母様が帰ってくるまで出ない!」
「どうしてそんなこと言うんですか!帰ってきたら奥様が悲しみますよ!」
ソフィアが悲しむ所を想像したのだろう。リヒトが逃げるのをやめた。
優しい子なのだ。まだまだ母親が恋しいのもよく分かる。私もそうだった。
「リヒト、少しだけ私と話をしないか?」
息子と向き合わないままでは、いつか天国の兄に叱られてしまう。兄ならきっとリヒトと友達のように仲良くなれただろうな。
珍しくリヒトは素直に頷いた。
* * *
ソフィアの焼いたお菓子を詰めたバスケットを持って、私は息子の手を引いて歩いた。いつもなら誰かを供につけるのだが、今日は二人だけ。少し湿った土の香りが鼻を突いた。
「リヒト」
「……はい、」
「お母様がいなくて淋しいか?」
私の手を小さな手が力強く握りしめた。
「……淋しくなんか、ない。僕はもう五歳だし、強いから……」
「そうか、リヒトはすごいな。私は淋しいよ」
「え!?」
息子は目を見開き、本当に驚いているようだ。その反応がなんだか面白くて笑ってしまった。
「お父様も、淋しいの?」
「あぁ、とっても淋しい」
森を抜け、草原に出るとリヒトが急に立ち止まった。
「どうした?」
するとリヒトの金色の瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「うぅ……嘘、ついた。やっぱり淋しいよぉ、お母様いないの、ヤダぁ」
ボロボロと涙を流すリヒトの頭をゆっくりと撫でる。
「そうか、そうだよな。私だって淋しいんだ。リヒトが淋しくないわけないよな」
息子を抱き上げるとまた少し重くなった気がする。ついこの間生まれたばかりだと思っていたのに、子どもは本当にあっという間に大きくなってしまう。
「お父様だけじゃダメか?」
「ヤダぁ、お母様じゃないとヤなの!」
また少し胸が痛む。
「どうしてもダメか?」
「ダメなの、だってぇ……だって……」
リヒトは言葉を選ぶように口をモゴモゴさせていた。
「だって……お母様はお父様のこと大好きなんだもん」
「ん?」
突然の言葉に私も言葉を失った。
「お母様いっつもお父様のお話する。もっともっと僕のこと見ててほしいのに、お父様ばっかり。そんなのズルいもん」
もしかして、リヒトが私の言うことをきかないのはそれが理由なのか?
「リヒトがそんなことを思っているとは知らなかったな」
「僕のほうがお母様のこと好きだもん。大きくなったらお母様と結婚する」
その顔で、その瞳に言われると私はなんとも複雑な気分になってしまう。
「それだけはダメだ」
いつかこの子が大きくなったら、ソフィアとの出逢いの話をしなくては。私と彼女と大切な家族を巡る物語を聞かせてあげよう。
いろいろ言えない部分もあるが……。
「アルベール様!アルベール様!!」
そのとき、森の中屋敷の方角から私を呼ぶ声が聞こえた。
「アルベール様!すぐにお戻りを!」
「どうした!?」
「ソフィア様が!!」
その名を聞いて、私はリヒトを抱えたまま駆け出した。
「ご懐妊です」
「「「「!!!!!」」」」
屋敷を出たあと、馬車の揺れでソフィアは気分が悪くなったそうだ。普段なら車酔いなどしない彼女を心配した付き添いのトロワ。そのまま街の診療所に駆け込んだ。
「お父様、ごかいにんってなんですか?」
出掛けるはずの母が帰ってきて喜んでいた息子も彼女の顔色が悪いのを見て不安げに私を見つめていた。
「リヒトに弟か妹ができたんだ」
私の言葉を息子はゆっくりと理解し、次の瞬間飛び跳ねて喜んだ。
「やったぁ!!絶対絶対絶対、妹がいい!」
ソフィアと顔を見合わせ、微笑みあった。
「あら、リヒトは弟がいいと言うと思っていたわ」
「妹!絶対だよ!」
まさかこの言葉が予言のようになるとは、このとき思ってもいなかった。
生まれた子はソフィアと瓜二つの可愛いらしい娘だった。私も、妻も、そして兄となった息子も皆彼女を愛した。
私たち家族の物語はこれからも続いていく。
応援ありがとうございます!
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一気に読みました!面白かったです♪
ヨルもアルベールも好きなだったので…ヨル…( ;∀;)
アルベールのめちゃくちゃ緊張してそうな結婚初夜の話見たいです(*ノω・*)テヘ♡
感想ありがとうございます(◍•ᴗ•◍)
完結してからもこうして温かい感想をいただけてとても嬉しいです!
クッキーに手だけ出すリヒトくんかわいいなぁ。お父様が、ライバルなんだね。
またまた感想ありがとうございます(◍•ᴗ•◍)
書いていてとても楽しい回でした( ꈍᴗꈍ)
お父様への反発はヤキモチからだったのですね。
お母様の『1番』は自分であって欲しいのに……と。
でも、新しい命の誕生が解決してくれた!
良かったです⸜( ॑꒳ ॑ )⸝♡︎
ただ、お兄ちゃんはシスコンになりそうな予感………(´∀`;)
またまた感想ありがとうございます(◍•ᴗ•◍)
作者的、満点ハッピーエンドになりました( ꈍᴗꈍ)シスコンは……なりそうですねw