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後編
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さらに翌週。シュゼットは王立女学院を退学した。
今後の彼女の教育は、すべてラ・コルデール家が用意した家庭教師が責任を持つし、シュゼット自身もラ・コルデール公子の婚約者として様々な場への出席を求められるようになったため、イリス達のように女学院に通う余裕と必要性がなくなったのだ。
シュゼットが、女学院に退学届を提出に来た日。
イリスとルーシーとカロリーヌは、涙をにじませて友人の門出を見送った。
裕福とはいえ、しょせん平民にすぎないイリス達だ。名門公爵家の夫人となるシュゼットとは今後、同じ舞踏会や夜会に出席すらないだろう。
実質的に、今日が四人で集まれる最後の日だった。
「聞いたわ。ラ・コルデール家での音楽会は大成功だったのですってね、おめでとう」
「シュゼットの独唱が大好評だったって、学院にまで噂が届いているのよ。やっぱりあなたはすばらしい歌姫だったのよ、シュゼット」
「大げさだわ。でも、本当にレオナード様には感謝しているの。とても熱心に、私に音楽会で歌うことを勧めてくださって…………みなさまにあんなに褒められるなんて思わなかったわ」
友人からの称賛に、シュゼットは頬を染めてはにかむ。
シュゼットは見違えるように変わっていた。
センスの良い上等な装いはお茶会の時と変わらないが、とにかく表情が明るく、話す口調もかろやかだ。ころころとよく笑う姿は、公子に愛され、公爵家での生活が幸せに満ちたものであることを、なにより雄弁に語っている。供の侍女達も、未来の女主人をほほ笑ましそうに優しげなまなざしで見守っていた。
親友のその様に、イリスは(もう心配は要らないわ)と安堵したのだが。
「レオナード様には、とても感謝しているの。あんな風に、私を引き立ててくださる方は初めて。今は、王宮の音楽会で私が歌えないか、いろいろ手を尽くしてくだっているの。あそこまで私のために奔走してくださる方に、生まれて初めて出会ったわ。私、あの方が誇りに思ってくださるような、立派な貴婦人になりたいの」
うっとりと夢見るまなざしで語るシュゼットの言葉に、イリスの胸に違和感が生じる。
だが、それをしっかりと捕まえる前に、新たな声が割り込んできて意識がそれた。
「退学手続きは済んだのか? シュゼット。迎えに来たぞ」
「まあ…………!」
イリス達は一様に驚きの表情を浮かべ、視線が釘付けになる。
「レオ様!」
はずむ声でシュゼットは青年に寄った。
現れたのは長身の、鋼の黒髪に黄金の瞳をした、どこか野生の獣めいた、それでいて高貴な育ちもうかがえる『洗練された獣』とでも表現すべき美青年。レオナード・ド・ラ・コルデール公子。
生まれて初めて間近に見る高貴な青年の登場に、イリス達は言葉を失って見入る。
三人を、シュゼットは喜々として愛する婚約者に紹介した。
「レオ様、紹介します。私の大事な友人、イリスとカロリーヌとルーシーです」
「はじめまして、イリス嬢、カロリーヌ嬢、ルーシー嬢。シュゼットから何度か、名前はうかがっている」
公子は一人ではなく、二人の従者を連れており、その従者ですら貴族の子息、つまりイリス達より身分が上だった。
「なんて、おそれおおい…………」
それ以外、イリス達が口に出せる言葉は見つからない。
公子は本当にシュゼットを迎えに来ただけのようで、それがかえって、彼のシュゼットに対する愛情や気遣いの深さを感じさせた。
公子から「帰ろう、シュゼット。父上がお待ちだ」とうながされ、シュゼットは友人一人ひとりと名残を惜しむ。
僭越かと思ったが、イリスはラ・コルデール公子に頭をさげて頼んだ。
「シュゼットをお願いします、公子様。彼女は優秀なのに自分に自信がなくて、引っ込み思案で…………でも公子様のおかげで自信がついたようで、とても明るくなって、安心しました。これからも彼女をお願いします」
「もちろん」と、公子は力強くうなずいた。
「シュゼットは泣いていた。ずっと自分には味方がいなかった、家族もかつての婚約者も、みな妹ばかりを愛し、称賛して、自分は一人放置され、途方もなく寂しい日々だった、と…………実家にありながら一人きりだったシュゼットを、私は長らく見つけてやれなかった。だが、これからは一生、私がシュゼットを守る。誰にも傷つけさせはしない――――」
(ん?)とイリスの脳裏に、ふたたび違和感がよぎる。
「シュゼットは『ずっと自分は一人だった』と言っていたが、あなたのように、心から彼女を案じてくれる友人もいたのだな。感謝する、イリス・フォーレ嬢」
公子はイリスに、シュゼットへの愛情に満ちた優しくも熱い、魅力的な笑顔を見せると、「行こう」とシュゼットを誘う。
「ラ・コルデール領に行っても、あなたのことは忘れないわ、イリス。手紙を書くから、絶対に返事を送ってね」
そう言い残して、シュゼットは公子の手に導かれて女学院を出て行った。
あとにはイリス達三人と、イリスの胸の違和感がぽつんと残される。
その後、シュゼットは王都の大聖堂で結婚式を挙げた。
式は名門公爵家にふさわしく、王族も出席した、それはそれは豪華なもので、今後数十年にわたって王都に語り継がれるであろう、華麗な式だった。
イリス達も招待状はもらったものの、身分が違いすぎて花嫁と話す機会はついぞ得られず、実妹のコレットにいたっては病気を理由に欠席していた。どうやら「出席させて、また暴れでもしたら」と周囲から不安視されたらしい。
シュゼットをあれほど冷遇していたロワイエ夫妻は上等の晴れ着に身を包み、終始とろけんばかりにご満悦だった。
式後、新婚夫婦はすぐにラ・コルデール公爵領に引っ越した。
王都に届いた新妻からの手紙によれば、新婚生活は甘々なようだ。
シュゼット・ド・ラ・コルデール夫人は夫に溺愛され、義理の両親にも可愛がられ、大きな館の大勢の使用人達は一致団結して若奥様を守り、領民達にも慕われているらしい。
そして娘の玉の輿により、飛躍的な出世が見込まれていたはずのロワイエ家は、というと。
「お姉さまが公子様に見初められたのは、絶対に間違いよ!! わたしこそが、本物の運命の妻だわ!!」
そう信じて疑わなかったコレットが、公子とどうにか面会しようと試みて『公子の親友』を名乗る怪しげな男に引っかかり、未婚の身でありながら、怪しげな舞踏会だの夜会だのに出入りしていたことが露見。ゴーチェ子爵令息とは破談になり、貴族の血統を求める平民の金持ち男に、後妻として嫁いだ…………と風の便りに聞いた。
シュゼットの父、ロワイエ男爵も、ラ・コルデール公子の後ろ盾を得た父(シュゼットの祖父)に当主の座を奪い返され「根性を叩き直されている」そうだ。
カロリーヌは親の決めた許嫁と結婚し、ルーシーも結婚式が迫っている。
そしてイリスは、というと。
「縁談…………私に?」
王都のラ・コルデール公爵家の応接間。
久々に王都を訪れ、すっかり『名家の若奥様』が板についたシュゼットが、目を丸くした親友に説明する。
「そう。覚えているかしら? レオ様の従者の一人で、レオ様が王立女学院に私を迎えに来た時、イリスとも顔を合わせているのだけれど…………」
覚えていない。あの時は公子の高貴さや華麗さにばかり注目していた。
「テオ・セルヴィン卿。セルヴィン男爵の三男で、レオ様の信頼も厚い、幼い頃からの親友なの。以前、女学院で会った時から、あなたのことが気になっていたのですって」
イリスはぽかんする。
寝耳に水。まさかの展開である。
「私も、テオ様は良い方だと思うわ。イリスさえその気になってくれれば、レオ様からフォーレ氏に縁談を持ち込みたいと思うのだけれど…………どうかしら?」
首をかしげたシュゼットは相変わらず垂れがちの眉尻と目尻をしていて、おっとりとおとなしげな印象を与える。
(いい話だわ)
イリスは思った。
彼女の家は、裕福なだけの平民。
本当なら男爵家との縁談だって、持ち込まれるような家柄ではない。
これは、親友が玉の輿に乗ったおかげで飛び込んできた幸運…………のはずだが。
「少し…………時間をいただいていいかしら?」
イリスは、そう答えていた。
「もちろんよ。お家に帰って、お父様とよくご相談なさって」
シュゼットは親友の戸惑いに気づく風もなく、夢見るまなざしで未来を語る。
「テオ様は優秀で気遣いもできるし、きっとイリスを大事にしてくれるわ。イリスがテオ様と結婚してラ・コルデール領に来れば、また毎日会えるようになるし、楽しみだわ」
悪気のまったくない表情でシュゼットはティーカップに口をつけるが、何故かイリスは素直にうなずけず、あいまいに笑って壮麗な公爵家を出た。
(どうしよう…………)
散歩に来た王都の公園で。日傘をさしてイリスは悩んでいた。
先日のシュゼットの話は、まだ父に伝えていない。
伝えれば、父は大喜びで話を進めるとわかっているからだ。
(どうして悩むの? 破格の良縁のはずなのに…………)
木陰よりなお表情を暗くして、イリスは園内をそぞろ歩く。
「まあ、イリス?」
懐かしい声が彼女を呼び止める。
カロリーヌだ。
若奥様風の友人数名と連れ立って公園に来たようだが、独りでこちらにむかってくる。
「久しぶりね。シュゼットから聞いたわ、男爵令息に見初められたのですって?」
「情報が早いわね。そう、ラ・コルデール公子の従者の方ですって」
「セルヴァン男爵といえば、身分は低いけれど国王陛下の覚えもめでたく、資産も潤沢と聞いているわ。三男も公子のお気に入りだというし。玉の輿じゃない、決めてしまったら?」
やや計算高いところのあるカロリーヌは、片目をつぶってイリスを誘う。
が、イリスは苦く笑うばかりで、うなずけない。
「迷っているの? なにが問題?」
「なんというか。…………結婚したら、ラ・コルデール領に移ることになるな、と思って」
「王都を離れたくないの? あなた、一人娘だったわね。ご両親が心配? 相手は三男なのだから、婿養子に入ってもらえばいいじゃない」
「それは無理よ。公子様の信頼厚い従者様だもの。平民の実業家の跡取りになるより、いずれ有力な公爵となられる公子様の側近の座のほうが、魅力的なはずだわ。それに…………」
「それに?」
「その方と結婚したら、たぶん私はラ・コルデール領で毎日シュゼットと会って、お茶をして、シュゼットに良縁を用意してもらった恩を感じて、公子様からは顔を合わせるたびに『シュゼットをよろしく』と頼まれると思うわ。そう考えたら…………」
イリスは口をつぐんだ。
「――――ごめんなさい。なにを言っているのかしら。今のは、忘れて」
イリスはカロリーヌから視線をそらした。
自分でもなにを言っているのか、わからない。
今、自身が語った未来予想図の、どこに不満があるのだろう。
夫と友人に恵まれた幸せな結婚生活。他人は、そう言うはずだ。
だが友人は違った。
「いいんじゃない?」
「え?」
「なんとなく、わかるわ。先日シュゼットとお茶をした時に、私も実感したの。もう、あの娘とは会いたくないわ」
友人の言葉にイリスは虚を突かれる。
パラソルの作る影の中、カロリーヌは淡々と語った。
「覚えている? 私達は女学院にいた頃、シュゼットを心配していた。彼女が両親に軽んじられ、妹になにもかも横取りされるたび、憤っていたわ。真剣にね。そして彼女の成績を評価して、彼女がすばらしい歌姫だってことを、私達は認めていたわ。でもシュゼットにとっては、どうでも良かったのよ。私達の評価なんて」
ふ、とカロリーヌの口もとから笑みが落ちる。
「私達がどれほどシュゼットを褒めても、シュゼットは『友人ゆえのお世辞』と思い込んで、信じなかった。私達の本気の称賛も評価も、シュゼットには届かなかったのよ。シュゼットが自信を持てなくて、妹に奪われるままになっていたのは、そのせい。もし私達の言葉が届いていれば、シュゼットは堂々と妹に反論して、なにも渡すことなかったでしょうよ」
「…………」
「でも、シュゼットは変わった。明るく、自分に自信を持つようになった。ラ・コルデール公子に愛されてからね。私達にはできなかったことを、公子様はやってのけた。そう言えば聞こえはいいけれど…………とどのつまり、シュゼットは私達の言葉ではなく、公子様の言葉を信じたのよ。言い換えれば、私達の言葉にそこまでの重みはなかった、ということ――――」
イリスは頭を殴られた気がした。
カロリーヌの言葉の一つ一つがイリスの内部に落ちて重なり、胸を突き刺していく。
とても深く深く、ぐっさりと、貫くように。
「私の言葉を信じず、価値も感じない相手と、話す必要がある? 私は、今後はシュゼット・ド・ラ・コルデールとは知人として、身分と立場をわきまえた付き合いをするつもりよ。私一人が離れても、心配はいらないわ。あの娘には溺愛してくれる夫も、可愛がってくれる義理の家族や使用人達もいる。愛情には不自由しないはずよ」
そう言うと、カロリーヌは友人達のもとに戻っていった。
大店の娘である彼女には、いろいろやることが山積みなのだろう。
昔の知人一人だけに、かまってはいられないのだ。
「…………」
イリスは足元の小石を一つ、爪先で蹴る。
来た道を戻り、公園を出て馬車に乗り、帰路につく。
結婚を機に、女の付き合いは変わる。
イリスは世の女性のいうその言葉を、つくづくかみしめる。
その晩、イリスは親友に手紙をしたためた。
内容は勧められた縁談のこと。
お断りの手紙だ。
後日、シュゼット・ド・ラ・コルデール夫人から、惜しむ手紙が届く。
『イリスがテオ様と結婚すれば、また毎日お話できると思っていたわ。しかたないけれど、残念だわ』
そういう内容だった。
イリスはひっそり笑うと、その手紙をシュゼットからの手紙だけを収めた箱にしまう。
もう二度と見ないだろうな、という確信と共に。
イリスの脳裏に、以前ラ・コルデール公子から聞いた言葉がよみがえる。
『シュゼットは泣いていた。ずっと自分には味方がいなかった、家族もかつての婚約者も、みな妹ばかりを愛し、称賛して、自分は一人放置され、途方もなく寂しい日々だった、と………』
(そんな風に思っていたのね)
イリスもルーシーもカロリーヌも、シュゼットを褒めていた。
彼女の成績を認め、歌声を称賛し、彼女の妹の横暴や両親の冷遇に憤っていた。
でも、そのどれもがシュゼットには届かなかった。
イリス達がシュゼットに贈った称賛の言葉、励ましの言葉、慰めの言葉、そのすべてが、シュゼットにとっては価値も重さも持たぬ、音の集合体だったのだ。
「さようなら、シュゼット。もう二度と、お会いすることはないでしょう」
何故なら、イリスとシュゼットは友人ではなかったから。
いくら褒めても、その言葉を信じてもらえない。
それほど胸に刺さらない会話の関係を、人は『友人』とは呼ばないのだ。
「私達は親友ではなかったわ、シュゼット。たぶん、きっとはじめから」
イリスは引き出しを開け、箱を奥にしまう。
もう、この知人からの手紙を、とり出しやすい場所に保管する必要はない。
もう一度だけくりかえした。
「さようならシュゼット。どうぞ、お幸せに」
可哀想で幸せな、私の親友だった人――――
今後の彼女の教育は、すべてラ・コルデール家が用意した家庭教師が責任を持つし、シュゼット自身もラ・コルデール公子の婚約者として様々な場への出席を求められるようになったため、イリス達のように女学院に通う余裕と必要性がなくなったのだ。
シュゼットが、女学院に退学届を提出に来た日。
イリスとルーシーとカロリーヌは、涙をにじませて友人の門出を見送った。
裕福とはいえ、しょせん平民にすぎないイリス達だ。名門公爵家の夫人となるシュゼットとは今後、同じ舞踏会や夜会に出席すらないだろう。
実質的に、今日が四人で集まれる最後の日だった。
「聞いたわ。ラ・コルデール家での音楽会は大成功だったのですってね、おめでとう」
「シュゼットの独唱が大好評だったって、学院にまで噂が届いているのよ。やっぱりあなたはすばらしい歌姫だったのよ、シュゼット」
「大げさだわ。でも、本当にレオナード様には感謝しているの。とても熱心に、私に音楽会で歌うことを勧めてくださって…………みなさまにあんなに褒められるなんて思わなかったわ」
友人からの称賛に、シュゼットは頬を染めてはにかむ。
シュゼットは見違えるように変わっていた。
センスの良い上等な装いはお茶会の時と変わらないが、とにかく表情が明るく、話す口調もかろやかだ。ころころとよく笑う姿は、公子に愛され、公爵家での生活が幸せに満ちたものであることを、なにより雄弁に語っている。供の侍女達も、未来の女主人をほほ笑ましそうに優しげなまなざしで見守っていた。
親友のその様に、イリスは(もう心配は要らないわ)と安堵したのだが。
「レオナード様には、とても感謝しているの。あんな風に、私を引き立ててくださる方は初めて。今は、王宮の音楽会で私が歌えないか、いろいろ手を尽くしてくだっているの。あそこまで私のために奔走してくださる方に、生まれて初めて出会ったわ。私、あの方が誇りに思ってくださるような、立派な貴婦人になりたいの」
うっとりと夢見るまなざしで語るシュゼットの言葉に、イリスの胸に違和感が生じる。
だが、それをしっかりと捕まえる前に、新たな声が割り込んできて意識がそれた。
「退学手続きは済んだのか? シュゼット。迎えに来たぞ」
「まあ…………!」
イリス達は一様に驚きの表情を浮かべ、視線が釘付けになる。
「レオ様!」
はずむ声でシュゼットは青年に寄った。
現れたのは長身の、鋼の黒髪に黄金の瞳をした、どこか野生の獣めいた、それでいて高貴な育ちもうかがえる『洗練された獣』とでも表現すべき美青年。レオナード・ド・ラ・コルデール公子。
生まれて初めて間近に見る高貴な青年の登場に、イリス達は言葉を失って見入る。
三人を、シュゼットは喜々として愛する婚約者に紹介した。
「レオ様、紹介します。私の大事な友人、イリスとカロリーヌとルーシーです」
「はじめまして、イリス嬢、カロリーヌ嬢、ルーシー嬢。シュゼットから何度か、名前はうかがっている」
公子は一人ではなく、二人の従者を連れており、その従者ですら貴族の子息、つまりイリス達より身分が上だった。
「なんて、おそれおおい…………」
それ以外、イリス達が口に出せる言葉は見つからない。
公子は本当にシュゼットを迎えに来ただけのようで、それがかえって、彼のシュゼットに対する愛情や気遣いの深さを感じさせた。
公子から「帰ろう、シュゼット。父上がお待ちだ」とうながされ、シュゼットは友人一人ひとりと名残を惜しむ。
僭越かと思ったが、イリスはラ・コルデール公子に頭をさげて頼んだ。
「シュゼットをお願いします、公子様。彼女は優秀なのに自分に自信がなくて、引っ込み思案で…………でも公子様のおかげで自信がついたようで、とても明るくなって、安心しました。これからも彼女をお願いします」
「もちろん」と、公子は力強くうなずいた。
「シュゼットは泣いていた。ずっと自分には味方がいなかった、家族もかつての婚約者も、みな妹ばかりを愛し、称賛して、自分は一人放置され、途方もなく寂しい日々だった、と…………実家にありながら一人きりだったシュゼットを、私は長らく見つけてやれなかった。だが、これからは一生、私がシュゼットを守る。誰にも傷つけさせはしない――――」
(ん?)とイリスの脳裏に、ふたたび違和感がよぎる。
「シュゼットは『ずっと自分は一人だった』と言っていたが、あなたのように、心から彼女を案じてくれる友人もいたのだな。感謝する、イリス・フォーレ嬢」
公子はイリスに、シュゼットへの愛情に満ちた優しくも熱い、魅力的な笑顔を見せると、「行こう」とシュゼットを誘う。
「ラ・コルデール領に行っても、あなたのことは忘れないわ、イリス。手紙を書くから、絶対に返事を送ってね」
そう言い残して、シュゼットは公子の手に導かれて女学院を出て行った。
あとにはイリス達三人と、イリスの胸の違和感がぽつんと残される。
その後、シュゼットは王都の大聖堂で結婚式を挙げた。
式は名門公爵家にふさわしく、王族も出席した、それはそれは豪華なもので、今後数十年にわたって王都に語り継がれるであろう、華麗な式だった。
イリス達も招待状はもらったものの、身分が違いすぎて花嫁と話す機会はついぞ得られず、実妹のコレットにいたっては病気を理由に欠席していた。どうやら「出席させて、また暴れでもしたら」と周囲から不安視されたらしい。
シュゼットをあれほど冷遇していたロワイエ夫妻は上等の晴れ着に身を包み、終始とろけんばかりにご満悦だった。
式後、新婚夫婦はすぐにラ・コルデール公爵領に引っ越した。
王都に届いた新妻からの手紙によれば、新婚生活は甘々なようだ。
シュゼット・ド・ラ・コルデール夫人は夫に溺愛され、義理の両親にも可愛がられ、大きな館の大勢の使用人達は一致団結して若奥様を守り、領民達にも慕われているらしい。
そして娘の玉の輿により、飛躍的な出世が見込まれていたはずのロワイエ家は、というと。
「お姉さまが公子様に見初められたのは、絶対に間違いよ!! わたしこそが、本物の運命の妻だわ!!」
そう信じて疑わなかったコレットが、公子とどうにか面会しようと試みて『公子の親友』を名乗る怪しげな男に引っかかり、未婚の身でありながら、怪しげな舞踏会だの夜会だのに出入りしていたことが露見。ゴーチェ子爵令息とは破談になり、貴族の血統を求める平民の金持ち男に、後妻として嫁いだ…………と風の便りに聞いた。
シュゼットの父、ロワイエ男爵も、ラ・コルデール公子の後ろ盾を得た父(シュゼットの祖父)に当主の座を奪い返され「根性を叩き直されている」そうだ。
カロリーヌは親の決めた許嫁と結婚し、ルーシーも結婚式が迫っている。
そしてイリスは、というと。
「縁談…………私に?」
王都のラ・コルデール公爵家の応接間。
久々に王都を訪れ、すっかり『名家の若奥様』が板についたシュゼットが、目を丸くした親友に説明する。
「そう。覚えているかしら? レオ様の従者の一人で、レオ様が王立女学院に私を迎えに来た時、イリスとも顔を合わせているのだけれど…………」
覚えていない。あの時は公子の高貴さや華麗さにばかり注目していた。
「テオ・セルヴィン卿。セルヴィン男爵の三男で、レオ様の信頼も厚い、幼い頃からの親友なの。以前、女学院で会った時から、あなたのことが気になっていたのですって」
イリスはぽかんする。
寝耳に水。まさかの展開である。
「私も、テオ様は良い方だと思うわ。イリスさえその気になってくれれば、レオ様からフォーレ氏に縁談を持ち込みたいと思うのだけれど…………どうかしら?」
首をかしげたシュゼットは相変わらず垂れがちの眉尻と目尻をしていて、おっとりとおとなしげな印象を与える。
(いい話だわ)
イリスは思った。
彼女の家は、裕福なだけの平民。
本当なら男爵家との縁談だって、持ち込まれるような家柄ではない。
これは、親友が玉の輿に乗ったおかげで飛び込んできた幸運…………のはずだが。
「少し…………時間をいただいていいかしら?」
イリスは、そう答えていた。
「もちろんよ。お家に帰って、お父様とよくご相談なさって」
シュゼットは親友の戸惑いに気づく風もなく、夢見るまなざしで未来を語る。
「テオ様は優秀で気遣いもできるし、きっとイリスを大事にしてくれるわ。イリスがテオ様と結婚してラ・コルデール領に来れば、また毎日会えるようになるし、楽しみだわ」
悪気のまったくない表情でシュゼットはティーカップに口をつけるが、何故かイリスは素直にうなずけず、あいまいに笑って壮麗な公爵家を出た。
(どうしよう…………)
散歩に来た王都の公園で。日傘をさしてイリスは悩んでいた。
先日のシュゼットの話は、まだ父に伝えていない。
伝えれば、父は大喜びで話を進めるとわかっているからだ。
(どうして悩むの? 破格の良縁のはずなのに…………)
木陰よりなお表情を暗くして、イリスは園内をそぞろ歩く。
「まあ、イリス?」
懐かしい声が彼女を呼び止める。
カロリーヌだ。
若奥様風の友人数名と連れ立って公園に来たようだが、独りでこちらにむかってくる。
「久しぶりね。シュゼットから聞いたわ、男爵令息に見初められたのですって?」
「情報が早いわね。そう、ラ・コルデール公子の従者の方ですって」
「セルヴァン男爵といえば、身分は低いけれど国王陛下の覚えもめでたく、資産も潤沢と聞いているわ。三男も公子のお気に入りだというし。玉の輿じゃない、決めてしまったら?」
やや計算高いところのあるカロリーヌは、片目をつぶってイリスを誘う。
が、イリスは苦く笑うばかりで、うなずけない。
「迷っているの? なにが問題?」
「なんというか。…………結婚したら、ラ・コルデール領に移ることになるな、と思って」
「王都を離れたくないの? あなた、一人娘だったわね。ご両親が心配? 相手は三男なのだから、婿養子に入ってもらえばいいじゃない」
「それは無理よ。公子様の信頼厚い従者様だもの。平民の実業家の跡取りになるより、いずれ有力な公爵となられる公子様の側近の座のほうが、魅力的なはずだわ。それに…………」
「それに?」
「その方と結婚したら、たぶん私はラ・コルデール領で毎日シュゼットと会って、お茶をして、シュゼットに良縁を用意してもらった恩を感じて、公子様からは顔を合わせるたびに『シュゼットをよろしく』と頼まれると思うわ。そう考えたら…………」
イリスは口をつぐんだ。
「――――ごめんなさい。なにを言っているのかしら。今のは、忘れて」
イリスはカロリーヌから視線をそらした。
自分でもなにを言っているのか、わからない。
今、自身が語った未来予想図の、どこに不満があるのだろう。
夫と友人に恵まれた幸せな結婚生活。他人は、そう言うはずだ。
だが友人は違った。
「いいんじゃない?」
「え?」
「なんとなく、わかるわ。先日シュゼットとお茶をした時に、私も実感したの。もう、あの娘とは会いたくないわ」
友人の言葉にイリスは虚を突かれる。
パラソルの作る影の中、カロリーヌは淡々と語った。
「覚えている? 私達は女学院にいた頃、シュゼットを心配していた。彼女が両親に軽んじられ、妹になにもかも横取りされるたび、憤っていたわ。真剣にね。そして彼女の成績を評価して、彼女がすばらしい歌姫だってことを、私達は認めていたわ。でもシュゼットにとっては、どうでも良かったのよ。私達の評価なんて」
ふ、とカロリーヌの口もとから笑みが落ちる。
「私達がどれほどシュゼットを褒めても、シュゼットは『友人ゆえのお世辞』と思い込んで、信じなかった。私達の本気の称賛も評価も、シュゼットには届かなかったのよ。シュゼットが自信を持てなくて、妹に奪われるままになっていたのは、そのせい。もし私達の言葉が届いていれば、シュゼットは堂々と妹に反論して、なにも渡すことなかったでしょうよ」
「…………」
「でも、シュゼットは変わった。明るく、自分に自信を持つようになった。ラ・コルデール公子に愛されてからね。私達にはできなかったことを、公子様はやってのけた。そう言えば聞こえはいいけれど…………とどのつまり、シュゼットは私達の言葉ではなく、公子様の言葉を信じたのよ。言い換えれば、私達の言葉にそこまでの重みはなかった、ということ――――」
イリスは頭を殴られた気がした。
カロリーヌの言葉の一つ一つがイリスの内部に落ちて重なり、胸を突き刺していく。
とても深く深く、ぐっさりと、貫くように。
「私の言葉を信じず、価値も感じない相手と、話す必要がある? 私は、今後はシュゼット・ド・ラ・コルデールとは知人として、身分と立場をわきまえた付き合いをするつもりよ。私一人が離れても、心配はいらないわ。あの娘には溺愛してくれる夫も、可愛がってくれる義理の家族や使用人達もいる。愛情には不自由しないはずよ」
そう言うと、カロリーヌは友人達のもとに戻っていった。
大店の娘である彼女には、いろいろやることが山積みなのだろう。
昔の知人一人だけに、かまってはいられないのだ。
「…………」
イリスは足元の小石を一つ、爪先で蹴る。
来た道を戻り、公園を出て馬車に乗り、帰路につく。
結婚を機に、女の付き合いは変わる。
イリスは世の女性のいうその言葉を、つくづくかみしめる。
その晩、イリスは親友に手紙をしたためた。
内容は勧められた縁談のこと。
お断りの手紙だ。
後日、シュゼット・ド・ラ・コルデール夫人から、惜しむ手紙が届く。
『イリスがテオ様と結婚すれば、また毎日お話できると思っていたわ。しかたないけれど、残念だわ』
そういう内容だった。
イリスはひっそり笑うと、その手紙をシュゼットからの手紙だけを収めた箱にしまう。
もう二度と見ないだろうな、という確信と共に。
イリスの脳裏に、以前ラ・コルデール公子から聞いた言葉がよみがえる。
『シュゼットは泣いていた。ずっと自分には味方がいなかった、家族もかつての婚約者も、みな妹ばかりを愛し、称賛して、自分は一人放置され、途方もなく寂しい日々だった、と………』
(そんな風に思っていたのね)
イリスもルーシーもカロリーヌも、シュゼットを褒めていた。
彼女の成績を認め、歌声を称賛し、彼女の妹の横暴や両親の冷遇に憤っていた。
でも、そのどれもがシュゼットには届かなかった。
イリス達がシュゼットに贈った称賛の言葉、励ましの言葉、慰めの言葉、そのすべてが、シュゼットにとっては価値も重さも持たぬ、音の集合体だったのだ。
「さようなら、シュゼット。もう二度と、お会いすることはないでしょう」
何故なら、イリスとシュゼットは友人ではなかったから。
いくら褒めても、その言葉を信じてもらえない。
それほど胸に刺さらない会話の関係を、人は『友人』とは呼ばないのだ。
「私達は親友ではなかったわ、シュゼット。たぶん、きっとはじめから」
イリスは引き出しを開け、箱を奥にしまう。
もう、この知人からの手紙を、とり出しやすい場所に保管する必要はない。
もう一度だけくりかえした。
「さようならシュゼット。どうぞ、お幸せに」
可哀想で幸せな、私の親友だった人――――
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operahouseさん、感想ありがとうございます!
現実問題、戦う相手が家族なのは大変ですが、それでもたとえば、せっかく学院に通っているのだから身分の高い有力な家柄の友人を作って、その人に妹や親のことを相談したり後ろ楯になってもらう手もあったんですよね。
そういうことをせず、誰かが状況を変えてくれるのをひたすら待つだけなのがシュゼットなのだと思います。
お話はそこまで長くはないのに考えさせられる物語でした。
シュゼットにとっては周りにいた友人達は、自身にとって大事な友達とは思っていなかったという……
読ませて頂いて有難うございました。
hiyoさん、感想ありがとうございます!
「友達ではない」とまでは思っていないけど「友達」はいろんな種類がありますよね……。
とりあえずシュゼットにとっては恋人>>友達だったのだろうな、と思います。
話が良い意味で重くて、考えさせられました。そうですよね。始めから友達じゃなかった…。偶然何気なく見かけて読んだお話でしたけど、読むことができて良かったです。ありがとうございました。
秋桜さん、感想ありがとうございます!
シュゼットも悪気はなかったはずですが、あまりに何を言っても効果がないと、イリス側も「この人に自分の言葉は響かない」⇒「そんなに私はこの人にとって軽い存在なのか」と思えてしまい、それが「友達ではなかった」という結論につながったのだと思います。
「青春の終わり」みたいな寂しさや切なさを目指したのに、予想より重くなってしまいましたが、読んでくださってありがとうございました。