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7章:邪神教連続誘拐殺人事件
1話:覚えのない再会
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辺りは闇で塗りつぶしたように暗い。それに床が硬くて、とても冷たい。
身動きも出来ないまま、ランバートは泣き叫んでいた。幼い声で「やめて!」と。
その目の前には闇に同化した人。ただ綺麗な緑色の左目と、閉じられた右目から流れる血の涙だけが鮮烈に頭の中にこびりついて離れなかった。
「!」
真夜中に飛び起きたランバートは、ぐっしょりと汗をかいていた。軽く頭痛がして、疲れている。この夢を見る日はいつも頭が重く体が疲れて、寝汗をかいている。
ファウストと一緒に温泉旅行に行った日から、時々こんな夢を見るようになった。あの時「自分の初めての相手は誰だろう?」という疑問を持った時からだ。
考えても、思い出そうとしても無理だった。実体のない幻を掴もうとしているような手応えの無さだ。
そしてそんな事を考える日は決まって、この夢を見ている気がする。
「はぁ……」
ベッドに入ってまだ一時間程度しか経っていない。軽く頭痛のする頭を僅かに振り、ベッドサイドの水を飲み込む。そうして再び布団に入るが、なかなか眠りは訪れない。
ほんの少し、怖い気がする。この夢はただの夢じゃない、そう思えるからこそ眠れない。目を閉じて、あの続きを見てしまったら? それが怖いと思ってしまうのだった。
十一月になり、街は次のイベントに向けて少しソワソワしている。収穫祭を終え、雪の頃を迎える王都は建国祭が来月に迫っている。
「さむ! そろそろ冬だな」
隣を歩くチェスターが冬用コートの前をたぐり寄せる。その隣りにはボリスがいて、呆れた顔をしていた。
「去年はもっと寒い思いしてたじゃん」
「確かにそうなんだけどさ。でもこの数日でもの凄く冷えてきたから」
「雪が降りそうだ。例年通りだ」
ランバートの隣りにいるゼロスが暗い空を見上げる。時刻は夕食時、空は既に夜の気配を纏っている。
久しぶりに食べに出ようと、安息日前日の終業後に出てきた。ランバート、チェスター、ボリス、ゼロスの四人だ。
「それにしても、あの体験から一年たつなんてな。なんだか早いような気がする」
「感覚的には早いよな。森を抜けてクシュナートに行って。ボリスは可愛い恋人ゲットして」
「チェスター、その喧嘩買おうか?」
「買わなくていい!」
ジロリと睨まれたチェスターが慌てて声を上げる。それをゼロスが笑って見ている。ボリスの本性を知ってからというもの、仲間内では「こいつを怒らせない」が暗黙のルールになりつつある。
「どうした、ランバート」
「え?」
「どこか、具合でも悪いのか?」
隣のゼロスが気遣わしい表情で問いかけてくる。そのくらい、ランバートは物静かだった。
特にどこが悪いというわけじゃない。風邪などではないし、痛い部分もない。
ただ、体が重く頭の芯も重いままだ。原因は、昨日の夢だろう。
「なんだか、夢見が悪くてさ」
「寝てないの? 大丈夫?」
「あぁ、うん」
「本当か? 外食、中止するか?」
ボリスやチェスターにも気遣わしい顔をされてしまう。それが嫌で、ランバートは笑った。
「いや、気分転換にいいよ。パッと飲んで、今日はぐっすり寝るんだ!」
「よっしゃ、それなら付き合うぞ!」
「チェスター、程々にしないとリカルド先生に告げ口するぞ」
「うげ! どうしてそういう事言うんだよボリスぅ」
酒の量が多いと、時々言われるらしい。確かにチェスターは酒が好きだが、飲み過ぎているという印象はない。どっちかと言えばその場の雰囲気でも酔える奴だ。
「辛いなら、エリオット先生に相談してみたらどうだ? ファウスト様にも心配されるだろ」
ゼロスの方は心配そうにしている。それに、ランバートは苦笑した。
「いや、それには及ばないよ。毎日じゃなくて、たまになんだ」
何より説明のしようがない。あの夢の内容を口にするのは、なんだか出来ない気がするのだ。
「ランバート?」
「え?」
ふと名を呼ばれて、そちらを見たランバートは途端に動けなくなった。
知らない人だった。薄い、金に近いくらいの茶の髪を長めのボブにした、眼鏡の青年。少し大きな、綺麗な緑色の目をしている。整った、少し幼さの残る顔立ちは美人だ。色が白くて、真っ白い服を着て……
ふと、実体のない何かが頭の中を埋め尽くした。湿っぽい空気に混じるカビと鉄の臭い、泣き叫ぶ幼い声が何重にも響いて吐き気と頭痛がする。心の中は掻きむしられるように拒絶していて怖くてたまらない。
嫌だ、逃げたい。嫌だ……いやだ!
「!」
突然、ブツンと切れたように意識が落ちる。強制的に落とされたような感じがして、グルンと世界が回った。声一つあげられない。
でも、どうして? 何故突然、こんな事が……自分に何が起こっているんだ?
分からないまま体の自由もきかず、そのままランバートの意識は遠く消えていった。
▼ゼロス
「ランバート!」
突然動かなくなり、倒れたランバートを支えたゼロスは焦りながらも周囲を見回した。
「ボリス!」
「ごめん、見失った!」
「俺、先に宿舎に戻ってエリオット先生に知らせてくる!」
何が起こったのか分からない。ただ確かなのは、ランバートを呼んだ人物がいた。そしてその直後、ランバートは倒れたのだ。
ランバートが倒れた事に慌てて支えた、その一瞬でその人物は姿を消した。ボリスまで見失ったとなれば、ただ者じゃない。
だが、何故こんな事に? その人物とランバートの距離は一メートル以上あって、間に人も普通に通行していた。その人物が今何かをしたなんてことは、あり得ない。
それにその人物から敵意など感じなかった。むしろ表情から親しみを感じた。懐かしい相手を見るような柔らかな視線と安堵が見られたのに。
完全に力の抜けているランバートを支え、ボリスも一緒になって運んでいく。そうして戻った宿舎もまた、一部騒然となるのだった。
事はすぐにファウストに知れて、血相を変えた彼の人が医務室へと駆け込んできた。そして、起こった事の全てを三人で話し終えた。
「では、本当に誰かが何かをしたとかではなく、突然で理由も分からないのか?」
「はい」
俄には信じられない、そういう表情のファウストに三人で頷いた。実際、ランバートには傷の一つもないのだ。
「エリオット」
不安そうな顔で治療をしていたエリオットを見るファウストに、エリオットは首を横に振った。
「三人の話を聞いて病気を疑いましたが、ただ眠っているだけなんです」
「本当にそれだけか?」
「光や触覚に対する反応はどれも正常ですし、呼吸や脈拍も正常です。眠っているとしか、言えません」
エリオットのこんなに困った顔はそう見る事がない。それだけ、ランバートの今回の反応は異常な事なんだろう。
「何が考えられる?」
「分かりません。ただ、その声をかけた相手というのが関わっている事は間違いないと思います」
ファウストは唸り、エリオットは困惑。それでもゼロスからは、やはり色々と腑に落ちない。
「ファウスト、今日のランバートの様子はどうでしたか?」
「朝から少し元気がなかった。眠れなかったと言っていたが、理由は話してくれなかったんだ。熱もないし、痛い所もない。寝不足で少し体が重いと言っていたから、早めに上がるように言ったくらいだ」
「夢見が悪かったって、言っていました」
チェスターの言葉にゼロスやボリスも頷く。これは確かにランバート自身が言っていた。
「どんな夢か聞いたか?」
「いえ、聞いていません。眠れないならエリオット先生に相談するように言った所でした」
「夢……」
だが、所詮は夢だ。夢が人を昏倒させるものか。ましてやあの時、ランバートは起きていたんだ。突然意識を失うなんて、もっと違う理由があるのだろう。
「ファウスト、最近ランバートの情緒が乱れるような事は?」
「いや、そういうことは……」
考えていたファウストがふと、何か思い当たったのか小さく「あ」と声を出す。そして、「確信はないが」と話し出した。
「俺の誕生日に旅行に行った際に、不自然な事があった。突然、泣き出した」
「何があったんですか?」
「いや、何もなかったはずなんだ。話をしていて。ランバート自身もどうして自分が泣いているのか分からない顔をしていた」
その様子は、今日のランバートに当てはまる。倒れた時も、ランバートは変わった様子はなかった。声をかけた相手に首を傾げてすらいたのだ。多分、知らない相手だったのだ。
「何の話をしていたんですか?」
「『自分の初めての相手は誰だったのか』ということを思い出そうとしていたみたいだ。ギルバートに会った後で、俺の事を知ったから」
「あぁ……」
少し言いづらそうなファウストに対し、エリオットは呆れた顔をしている。これに関しては聞いてはいけない雰囲気があるし、きっと明かさないだろう。
「そういえば、それ以降だ。あいつが時々疲れた顔をするようになったのは。仕事の事で苦労をかけているから、それが原因かと思っていたんだが」
「その会話と、今日会った人物が関わりがあるか分かりませんが……心理的な事があるのかもしれません。もしそうなら、こんな強い反応を示す事ですからおいそれとは。カウンセリングをしてみます」
「あぁ」
エリオットに頷いたファウストが立ち上がり、ランバートを抱き上げる。それでもランバートは起きる事がない。
「今日出会った人物を見つける事があれば、話を聞いてみようと思います」
「あぁ、すまないな。大事にはしないが」
「はい」
ゼロスも気になる。とてもちぐはぐな双方の反応、ランバートの様子。この間に何があるのか、今はまったく見えないのだから。
▼コーネリウス
仕事を終えて家に戻って来たコーネリウスを出迎えたのは、普段あまり家に居着かない二番目の娘だった。
「おや、アンジェリーナ? どうしました、珍しい事もありますね」
「お父様に用がなければ待ちませんわ。せっかく仕事が早く終わったのですもの、書庫にこもりたいですし」
「あら、連れない子だね。まぁ、気持ちは大いに分かりますよ。食事と仕事の時間以外は研究に費やしたいものですからね」
親子の会話としては少々妙な感じだが、この家族においてはこれが通常だ。家族関係が悪いわけでもなんでもない。ここの家は全員が個々の趣味や勉学、研究というものを大切にしているのだ。
知識の一族アイゼンシュタイン。歴代の当主は教会の教皇や宮廷の教育係、裁判所の最高判事などがほとんどだが、時に世界を放浪する歴史学者や遺跡学者というのもいる。
現当主のコーネリウスの職業は裁判所の最高判事であり、国の法を研究している。他にも趣味として芸術をこよなく愛しているし、歴代の芸術家の研究もしている。
だが次の当主である長男は教皇だろう。現在は最年少枢機卿をしている。
そして目の前の娘、アンジェリーナは裁判所の判事をしている。女性判事は珍しいが、実力は男性判事と変わりない。その為、同僚達と対等に渡り合っている。
性格はストイックで感情の起伏は少なく、何事も淡々としている。
父譲りの綺麗な銀の長髪に、人形のような端正な顔立ち。派手なボディーラインではないが、女性らしい体はしている。
が、いかんせん表情が少ない。この子の表情筋はいったいいつ退化してしまったのかと、表情の多い父コーネリウスは心配している。
「それで、私に用事とはなんですか?」
「家族の事なのでここでは控えますわ。食事が終わったら談話室にいらしてください」
「それなら談話室で待っていればよかったのに」
「ここで捕まえておかないと、お父様は籠もってしまいますでしょ? それでは困りますので」
流石我が娘、よく分かっている。
コーネリウスは苦笑して、食事の前に話を聞くことにした。その方が色々と後の時間に都合がつくからだった。
談話室もほぼ書架だ。家族団らんという時間が、家族集まっての読書の時間である事が多いからだが、そうでなければ途端に議論の場になって午前様になる。それくらい、家族全員の主張が強い。
暖炉前のソファーに腰を下ろしたコーネリウスの前に、アンジェリーナが座った。
「そう言えば、カトリオーナさんは今日はご在宅ではないのですか?」
ふと気になったコーネリウスが問う。カトリオーナは彼の妻なのだが、そう言えば数日顔を見ていない事に今気がついた。
「お母様でしたら一週間ほど前から不在ですわよ。冬になる前に発掘途中の遺跡の整理をしたいと言っていましたし、その近くで研究レポートも書くと言っていましたわ」
「おや、そうでしたか。帰ったらたまに食事をしようと伝えてもらえますか?」
「お会いになればそうしますわ」
重ねて言うが、家族関係は良好なのである。当然夫婦関係も悪くなく、この年でも休みが合えばデートもするし、キスもする。ただ、それぞれが個性的なのだ。
「それで、家族の話とはなんでしょうか?」
顔の見えない妻の事ではない。長男は教会にいるから帰ってくる事が稀。そうなれば、思い当たる事がないのだが。
そんなコーネリウスの前に、アンジェリーナは手紙を出す。差出人は、一番上の娘だった。
「お姉様、王都に戻ってきたそうよ。そのうち顔を出すと書いてありましたわ」
「おや、何故? もしかして、オーウェンくんと喧嘩でもしたのかい?」
一番上の娘フランチェスカは嫁いで、娘が一人いる。今は伴侶の仕事の関係で王都を離れて生活しているのだが、どうやら帰ってくるらしい。
だが、その事自体が多少の懸念でもある。それというのは彼女の伴侶の職業にあるのだ。
「どうやら、オーウェン義兄様が王都勤務になったようですわ」
「彼が王都勤務? それは見過ごせませんね」
嫌な事が起こらなければいいが、その前兆があるからこそ彼がここに呼ばれたのだろう。愛しい娘と孫が側にいるのは嬉しいが、国を思えば憂いもある。
「ランスロット、何も言ってませんでしたね。同じ職場なのだから、教えてくれても良さそうなものなのに」
「言える訳がありませんわよ。ランスロットお兄様は秘密も多い立場ですし、オーウェン義兄様の仕事は特殊で秘密ですもの」
それもそうなのだが、冷たい息子達だ。
何にしても、気苦労が多くなりそうだ。彼が出るなら教会は今頃慌ただしいだろう。国まで巻き込むような事がなければいいのだが。
「悪魔殺しのオーウェン。我が婿殿ながら、仰々しい二つ名だね」
これから起こりうる様々を思って、コーネリウスは一つ溜息をつくのだった。
身動きも出来ないまま、ランバートは泣き叫んでいた。幼い声で「やめて!」と。
その目の前には闇に同化した人。ただ綺麗な緑色の左目と、閉じられた右目から流れる血の涙だけが鮮烈に頭の中にこびりついて離れなかった。
「!」
真夜中に飛び起きたランバートは、ぐっしょりと汗をかいていた。軽く頭痛がして、疲れている。この夢を見る日はいつも頭が重く体が疲れて、寝汗をかいている。
ファウストと一緒に温泉旅行に行った日から、時々こんな夢を見るようになった。あの時「自分の初めての相手は誰だろう?」という疑問を持った時からだ。
考えても、思い出そうとしても無理だった。実体のない幻を掴もうとしているような手応えの無さだ。
そしてそんな事を考える日は決まって、この夢を見ている気がする。
「はぁ……」
ベッドに入ってまだ一時間程度しか経っていない。軽く頭痛のする頭を僅かに振り、ベッドサイドの水を飲み込む。そうして再び布団に入るが、なかなか眠りは訪れない。
ほんの少し、怖い気がする。この夢はただの夢じゃない、そう思えるからこそ眠れない。目を閉じて、あの続きを見てしまったら? それが怖いと思ってしまうのだった。
十一月になり、街は次のイベントに向けて少しソワソワしている。収穫祭を終え、雪の頃を迎える王都は建国祭が来月に迫っている。
「さむ! そろそろ冬だな」
隣を歩くチェスターが冬用コートの前をたぐり寄せる。その隣りにはボリスがいて、呆れた顔をしていた。
「去年はもっと寒い思いしてたじゃん」
「確かにそうなんだけどさ。でもこの数日でもの凄く冷えてきたから」
「雪が降りそうだ。例年通りだ」
ランバートの隣りにいるゼロスが暗い空を見上げる。時刻は夕食時、空は既に夜の気配を纏っている。
久しぶりに食べに出ようと、安息日前日の終業後に出てきた。ランバート、チェスター、ボリス、ゼロスの四人だ。
「それにしても、あの体験から一年たつなんてな。なんだか早いような気がする」
「感覚的には早いよな。森を抜けてクシュナートに行って。ボリスは可愛い恋人ゲットして」
「チェスター、その喧嘩買おうか?」
「買わなくていい!」
ジロリと睨まれたチェスターが慌てて声を上げる。それをゼロスが笑って見ている。ボリスの本性を知ってからというもの、仲間内では「こいつを怒らせない」が暗黙のルールになりつつある。
「どうした、ランバート」
「え?」
「どこか、具合でも悪いのか?」
隣のゼロスが気遣わしい表情で問いかけてくる。そのくらい、ランバートは物静かだった。
特にどこが悪いというわけじゃない。風邪などではないし、痛い部分もない。
ただ、体が重く頭の芯も重いままだ。原因は、昨日の夢だろう。
「なんだか、夢見が悪くてさ」
「寝てないの? 大丈夫?」
「あぁ、うん」
「本当か? 外食、中止するか?」
ボリスやチェスターにも気遣わしい顔をされてしまう。それが嫌で、ランバートは笑った。
「いや、気分転換にいいよ。パッと飲んで、今日はぐっすり寝るんだ!」
「よっしゃ、それなら付き合うぞ!」
「チェスター、程々にしないとリカルド先生に告げ口するぞ」
「うげ! どうしてそういう事言うんだよボリスぅ」
酒の量が多いと、時々言われるらしい。確かにチェスターは酒が好きだが、飲み過ぎているという印象はない。どっちかと言えばその場の雰囲気でも酔える奴だ。
「辛いなら、エリオット先生に相談してみたらどうだ? ファウスト様にも心配されるだろ」
ゼロスの方は心配そうにしている。それに、ランバートは苦笑した。
「いや、それには及ばないよ。毎日じゃなくて、たまになんだ」
何より説明のしようがない。あの夢の内容を口にするのは、なんだか出来ない気がするのだ。
「ランバート?」
「え?」
ふと名を呼ばれて、そちらを見たランバートは途端に動けなくなった。
知らない人だった。薄い、金に近いくらいの茶の髪を長めのボブにした、眼鏡の青年。少し大きな、綺麗な緑色の目をしている。整った、少し幼さの残る顔立ちは美人だ。色が白くて、真っ白い服を着て……
ふと、実体のない何かが頭の中を埋め尽くした。湿っぽい空気に混じるカビと鉄の臭い、泣き叫ぶ幼い声が何重にも響いて吐き気と頭痛がする。心の中は掻きむしられるように拒絶していて怖くてたまらない。
嫌だ、逃げたい。嫌だ……いやだ!
「!」
突然、ブツンと切れたように意識が落ちる。強制的に落とされたような感じがして、グルンと世界が回った。声一つあげられない。
でも、どうして? 何故突然、こんな事が……自分に何が起こっているんだ?
分からないまま体の自由もきかず、そのままランバートの意識は遠く消えていった。
▼ゼロス
「ランバート!」
突然動かなくなり、倒れたランバートを支えたゼロスは焦りながらも周囲を見回した。
「ボリス!」
「ごめん、見失った!」
「俺、先に宿舎に戻ってエリオット先生に知らせてくる!」
何が起こったのか分からない。ただ確かなのは、ランバートを呼んだ人物がいた。そしてその直後、ランバートは倒れたのだ。
ランバートが倒れた事に慌てて支えた、その一瞬でその人物は姿を消した。ボリスまで見失ったとなれば、ただ者じゃない。
だが、何故こんな事に? その人物とランバートの距離は一メートル以上あって、間に人も普通に通行していた。その人物が今何かをしたなんてことは、あり得ない。
それにその人物から敵意など感じなかった。むしろ表情から親しみを感じた。懐かしい相手を見るような柔らかな視線と安堵が見られたのに。
完全に力の抜けているランバートを支え、ボリスも一緒になって運んでいく。そうして戻った宿舎もまた、一部騒然となるのだった。
事はすぐにファウストに知れて、血相を変えた彼の人が医務室へと駆け込んできた。そして、起こった事の全てを三人で話し終えた。
「では、本当に誰かが何かをしたとかではなく、突然で理由も分からないのか?」
「はい」
俄には信じられない、そういう表情のファウストに三人で頷いた。実際、ランバートには傷の一つもないのだ。
「エリオット」
不安そうな顔で治療をしていたエリオットを見るファウストに、エリオットは首を横に振った。
「三人の話を聞いて病気を疑いましたが、ただ眠っているだけなんです」
「本当にそれだけか?」
「光や触覚に対する反応はどれも正常ですし、呼吸や脈拍も正常です。眠っているとしか、言えません」
エリオットのこんなに困った顔はそう見る事がない。それだけ、ランバートの今回の反応は異常な事なんだろう。
「何が考えられる?」
「分かりません。ただ、その声をかけた相手というのが関わっている事は間違いないと思います」
ファウストは唸り、エリオットは困惑。それでもゼロスからは、やはり色々と腑に落ちない。
「ファウスト、今日のランバートの様子はどうでしたか?」
「朝から少し元気がなかった。眠れなかったと言っていたが、理由は話してくれなかったんだ。熱もないし、痛い所もない。寝不足で少し体が重いと言っていたから、早めに上がるように言ったくらいだ」
「夢見が悪かったって、言っていました」
チェスターの言葉にゼロスやボリスも頷く。これは確かにランバート自身が言っていた。
「どんな夢か聞いたか?」
「いえ、聞いていません。眠れないならエリオット先生に相談するように言った所でした」
「夢……」
だが、所詮は夢だ。夢が人を昏倒させるものか。ましてやあの時、ランバートは起きていたんだ。突然意識を失うなんて、もっと違う理由があるのだろう。
「ファウスト、最近ランバートの情緒が乱れるような事は?」
「いや、そういうことは……」
考えていたファウストがふと、何か思い当たったのか小さく「あ」と声を出す。そして、「確信はないが」と話し出した。
「俺の誕生日に旅行に行った際に、不自然な事があった。突然、泣き出した」
「何があったんですか?」
「いや、何もなかったはずなんだ。話をしていて。ランバート自身もどうして自分が泣いているのか分からない顔をしていた」
その様子は、今日のランバートに当てはまる。倒れた時も、ランバートは変わった様子はなかった。声をかけた相手に首を傾げてすらいたのだ。多分、知らない相手だったのだ。
「何の話をしていたんですか?」
「『自分の初めての相手は誰だったのか』ということを思い出そうとしていたみたいだ。ギルバートに会った後で、俺の事を知ったから」
「あぁ……」
少し言いづらそうなファウストに対し、エリオットは呆れた顔をしている。これに関しては聞いてはいけない雰囲気があるし、きっと明かさないだろう。
「そういえば、それ以降だ。あいつが時々疲れた顔をするようになったのは。仕事の事で苦労をかけているから、それが原因かと思っていたんだが」
「その会話と、今日会った人物が関わりがあるか分かりませんが……心理的な事があるのかもしれません。もしそうなら、こんな強い反応を示す事ですからおいそれとは。カウンセリングをしてみます」
「あぁ」
エリオットに頷いたファウストが立ち上がり、ランバートを抱き上げる。それでもランバートは起きる事がない。
「今日出会った人物を見つける事があれば、話を聞いてみようと思います」
「あぁ、すまないな。大事にはしないが」
「はい」
ゼロスも気になる。とてもちぐはぐな双方の反応、ランバートの様子。この間に何があるのか、今はまったく見えないのだから。
▼コーネリウス
仕事を終えて家に戻って来たコーネリウスを出迎えたのは、普段あまり家に居着かない二番目の娘だった。
「おや、アンジェリーナ? どうしました、珍しい事もありますね」
「お父様に用がなければ待ちませんわ。せっかく仕事が早く終わったのですもの、書庫にこもりたいですし」
「あら、連れない子だね。まぁ、気持ちは大いに分かりますよ。食事と仕事の時間以外は研究に費やしたいものですからね」
親子の会話としては少々妙な感じだが、この家族においてはこれが通常だ。家族関係が悪いわけでもなんでもない。ここの家は全員が個々の趣味や勉学、研究というものを大切にしているのだ。
知識の一族アイゼンシュタイン。歴代の当主は教会の教皇や宮廷の教育係、裁判所の最高判事などがほとんどだが、時に世界を放浪する歴史学者や遺跡学者というのもいる。
現当主のコーネリウスの職業は裁判所の最高判事であり、国の法を研究している。他にも趣味として芸術をこよなく愛しているし、歴代の芸術家の研究もしている。
だが次の当主である長男は教皇だろう。現在は最年少枢機卿をしている。
そして目の前の娘、アンジェリーナは裁判所の判事をしている。女性判事は珍しいが、実力は男性判事と変わりない。その為、同僚達と対等に渡り合っている。
性格はストイックで感情の起伏は少なく、何事も淡々としている。
父譲りの綺麗な銀の長髪に、人形のような端正な顔立ち。派手なボディーラインではないが、女性らしい体はしている。
が、いかんせん表情が少ない。この子の表情筋はいったいいつ退化してしまったのかと、表情の多い父コーネリウスは心配している。
「それで、私に用事とはなんですか?」
「家族の事なのでここでは控えますわ。食事が終わったら談話室にいらしてください」
「それなら談話室で待っていればよかったのに」
「ここで捕まえておかないと、お父様は籠もってしまいますでしょ? それでは困りますので」
流石我が娘、よく分かっている。
コーネリウスは苦笑して、食事の前に話を聞くことにした。その方が色々と後の時間に都合がつくからだった。
談話室もほぼ書架だ。家族団らんという時間が、家族集まっての読書の時間である事が多いからだが、そうでなければ途端に議論の場になって午前様になる。それくらい、家族全員の主張が強い。
暖炉前のソファーに腰を下ろしたコーネリウスの前に、アンジェリーナが座った。
「そう言えば、カトリオーナさんは今日はご在宅ではないのですか?」
ふと気になったコーネリウスが問う。カトリオーナは彼の妻なのだが、そう言えば数日顔を見ていない事に今気がついた。
「お母様でしたら一週間ほど前から不在ですわよ。冬になる前に発掘途中の遺跡の整理をしたいと言っていましたし、その近くで研究レポートも書くと言っていましたわ」
「おや、そうでしたか。帰ったらたまに食事をしようと伝えてもらえますか?」
「お会いになればそうしますわ」
重ねて言うが、家族関係は良好なのである。当然夫婦関係も悪くなく、この年でも休みが合えばデートもするし、キスもする。ただ、それぞれが個性的なのだ。
「それで、家族の話とはなんでしょうか?」
顔の見えない妻の事ではない。長男は教会にいるから帰ってくる事が稀。そうなれば、思い当たる事がないのだが。
そんなコーネリウスの前に、アンジェリーナは手紙を出す。差出人は、一番上の娘だった。
「お姉様、王都に戻ってきたそうよ。そのうち顔を出すと書いてありましたわ」
「おや、何故? もしかして、オーウェンくんと喧嘩でもしたのかい?」
一番上の娘フランチェスカは嫁いで、娘が一人いる。今は伴侶の仕事の関係で王都を離れて生活しているのだが、どうやら帰ってくるらしい。
だが、その事自体が多少の懸念でもある。それというのは彼女の伴侶の職業にあるのだ。
「どうやら、オーウェン義兄様が王都勤務になったようですわ」
「彼が王都勤務? それは見過ごせませんね」
嫌な事が起こらなければいいが、その前兆があるからこそ彼がここに呼ばれたのだろう。愛しい娘と孫が側にいるのは嬉しいが、国を思えば憂いもある。
「ランスロット、何も言ってませんでしたね。同じ職場なのだから、教えてくれても良さそうなものなのに」
「言える訳がありませんわよ。ランスロットお兄様は秘密も多い立場ですし、オーウェン義兄様の仕事は特殊で秘密ですもの」
それもそうなのだが、冷たい息子達だ。
何にしても、気苦労が多くなりそうだ。彼が出るなら教会は今頃慌ただしいだろう。国まで巻き込むような事がなければいいのだが。
「悪魔殺しのオーウェン。我が婿殿ながら、仰々しい二つ名だね」
これから起こりうる様々を思って、コーネリウスは一つ溜息をつくのだった。
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プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募しているお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【完結】悪役令息の伴侶(予定)に転生しました
* ゆるゆ
BL
攻略対象しか見えてない悪役令息の伴侶(予定)なんか、こっちからお断りだ! って思ったのに……! 前世の記憶がよみがえり、反省しました。
BLゲームの世界で、推しに逢うために頑張りはじめた、名前も顔も身長もないモブの快進撃が始まる──! といいな!(笑)
本編完結、恋愛ルート、トマといっしょに里帰り編、完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
きーちゃんと皆の動画をつくりました!
もしよかったら、お話と一緒に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。
インスタ @yuruyu0 絵もあがります
Youtube @BL小説動画
プロフのwebサイトから両方に飛べるので、もしよかったら!
本編以降のお話、恋愛ルートも、おまけのお話の更新も、アルファポリスさまだけですー!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
【本編完結】最強魔導騎士は、騎士団長に頭を撫でて欲しい【番外編あり】
ゆらり
BL
帝国の侵略から国境を守る、レゲムアーク皇国第一魔導騎士団の駐屯地に派遣された、新人の魔導騎士ネウクレア。
着任当日に勃発した砲撃防衛戦で、彼は敵の砲撃部隊を単独で壊滅に追いやった。
凄まじい能力を持つ彼を部下として迎え入れた騎士団長セディウスは、研究機関育ちであるネウクレアの独特な言動に戸惑いながらも、全身鎧の下に隠された……どこか歪ではあるが、純粋無垢であどけない姿に触れたことで、彼に対して強い庇護欲を抱いてしまう。
撫でて、抱きしめて、甘やかしたい。
帝国との全面戦争が迫るなか、ネウクレアへの深い想いと、皇国の守護者たる騎士としての責務の間で、セディウスは葛藤する。
独身なのに父性強めな騎士団長×不憫な生い立ちで情緒薄めな甘えたがり魔導騎士+仲が良すぎる副官コンビ。
甘いだけじゃない、骨太文体でお送りする軍記物BL小説です。番外は日常エピソード中心。ややダーク・ファンタジー寄り。
※ぼかしなし、本当の意味で全年齢向け。
★お気に入りやいいね、エールをありがとうございます! お気に召しましたらぜひポチリとお願いします。凄く励みになります!
異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!
めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈
社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。
もらった能力は“全言語理解”と“回復力”!
……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈
キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん!
出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。
最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈
攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉
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※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!
異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします
み馬下諒
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 造語、出産描写あり。前置き長め。第21話に登場人物紹介を載せました。
★お試し読みは第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★
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