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18章:お嬢様の恋愛事情
4話:狂気と正常の狭間で(ウルバス)
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約束の日、子猫の入った籠とミルクのあげ方などの飼育のコツ、何かあったときの動物病院の連絡先などを書いた紙を持って、ウルバスはシュトライザー別宅を訪ねた。
ノッカーを慣らすと何度か見たことのある老執事が出迎えてくれて、少し驚いた顔をした。
「ウルバス様! どうなさいましたか?」
「あの、アリアさんから子猫の話は伺っていますか?」
「えぇ! 何でも懐いてくれたみたいで」
「実は予定よりも早く獣医が診てくれまして。環境に慣れるにも早いほうがいいということで、俺が連れてきたのですが」
「そうでしたか!」
「あの……アリアさん、いらっしゃいますか?」
結局昨日一日では心の整理ができなかった。それでもこれは任務だと思ってきたのだ。いざ彼女と顔を合わせて、どんな顔をしたらいいのだろうか。会話なんて出来るのだろうか? 彼女の本心を聞き出す事なんて、できるのだろうか……
第一、自分はどうしたいんだ。彼女の事を大切に思っている事は確かだが、恋人になりたいなんて絶対に思っちゃいけない。
母の夢はきっと警告だ。父の、そして祖父の血を引く自分が何を夢を見ているんだと。大切にしたい人を壊しかねないんだ、この呪いは。
表情が自然と強ばっているように思った。そんなウルバスを見た老執事は少し驚いて、ウルバスを応接室へと通してくれた。
猫は預けて、お茶を出してくれて。そうしてしばらく待っているとノックがあって顔を向ける。心臓が痛いくらいに縮こまっている感じがした。喉がカラカラになっている感じがした。
だがドアが開いて姿を見せた相手は予想していた人ではなくて、思わずビシッと立ち上がって姿勢を正してしまった。
「アーサー様!」
「楽にしていい、ウルバス」
鷹揚な様子で片手をあげて座るよう促してくれたアーサーが対面に座る。ウルバスはおずおずと腰を下ろすと、違う意味で喉が渇いた。
「そんなに緊張するな。前はもっと自然だっただろ」
「ですが」
「アリアが世話になっている。君と付き合うようになって、あの子は明るく前向きになったよ」
とても穏やかに伝えられる事に、ウルバスの胸はどこか痛む。手紙を、喜んでくれていたのだろうか。あの笑顔は、本物だったのか。
「アリアは君と触れあうと元気をもらえるそうだ。君と一緒に出かけたいから治療や体力作りを頑張れると、前に笑って言っていた」
「あの……」
「だが、ここにきてからは日々、頑張りすぎている。夜も遅くまで本を読んでいるようだ。顔色が悪かったりはしないが……一昨日以後、空元気に思える」
アーサーが静かにお茶を飲んで、ウルバスを見る。その目はさすが四大公爵家の当主。鋭くて、視線一つで金縛りにあったように動けなくなりそうだった。
「何があったんだ? 私どころかずっと側にいるメイドにも話をしないそうだ。ただ笑って『大丈夫』というばかりだ」
「あの…………もう、会わない事になりました」
素直にそう伝えると、アーサーはとても驚いた顔をした。そして腕を組み、深く考え込む顔をした。
「理由はなんだ?」
「家を継ぐ相手を探さなければいけないと。俺には、騎士を続けて欲しいと」
「あいつも……頑固と思い込みの強さは家系か。私といい、ファウストといい」
「ルカさんは?」
「あの子だけがもの凄く柔軟だ。おそらくマクファーレンの血だな」
苦笑したアーサーがお茶を勧めてくれて、一口飲み込む。緊張とばつの悪さからお茶の味があまりしない。けれど喉は潤った。
「実は、昨日あの子から見合いをセッティングして欲しいと言われたんだ」
「え?」
不意の言葉にウルバスの心臓は掴まれたように痛み、その後はひたすら五月蠅くなった。頭の中が混乱している。
お見合い? どうして突然そんなこと。本当に結婚相手を探すつもりなのか?
――俺ガイルノニ?
暗い、ドロッとした感情が顔を覗かせる感覚にウルバスはゾクリと震え押し込んだ。最近、これに飲まれそうな時がある。アリアの事を考えると不意に顔を見せて、凄い勢いでウルバスを揺さぶるのだ。
「あの子は私の選んだ相手ならそれに従うと言っている。だがあまりに急な事だし、保留としている」
「保留、に?」
「あの子に好いた相手がないなら、それもいいかと思う。だが見ていると、そうではないようなのでな」
アーサーの観察するような視線。これにも緊張する。やましいからだろうか。
「好いた相手と幸せになってもらいたい。今なら素直に、そう思う事ができる。ファウストにも、アリアにも。その妨げに私がなってはならない。前の事で、それを思い出した」
とても穏やかで柔らかな雰囲気。ランバートといる時のファウストを思い出す表情は馴染みがある。
だがお茶を飲み込んだアーサーが向けた目は、厳しいものに戻っていた。
「ウルバス、正直なところを問う。お前は、アリアの事をどう思っている」
一気に確信を貫かれた。そんな衝撃に言葉がない。
だが長年かけて作られた柔和という仮面が、こんな時の自分を助けてくれる。諦めたような笑みを浮かべ、ウルバスは驚いた顔のアーサーを見た。
「俺では、彼女を幸せにはできません。家の噂はご存じではありませんか?」
「……知っている」
「では」
「だが噂でしかない。君の祖先、祖父、父の事が君にも当てはまるとは思っていない」
真っ直ぐに向けられる信頼の目が痛い。多分その血は受け継いでいる。だから母が警告した。違う自分が顔を見せる。押し込めているものが急激に顔を出そうとしている。
返答に詰まっていたウルバス。
だがその時、外から女性の悲鳴が聞こえウルバスとアーサーは腰を浮かせた。
「今の声は」
「裏からだ。アリアがいるはずだ」
「!」
家の構造も分からないのに走り出したウルバスの後ろを、アーサーもついてくる。流石に追いつく事は無理だが後ろから場所を教えてくれたおかげですんなりと屋敷の裏へと出る事ができた。
屋敷の裏は小さな庭になっていて、冬用の剪定を終えた薔薇などが植わっている。その先には塀と、小さな裏門があった。
メイド長のバーサはその裏門の近くで倒れ、腰を押さえ額からも血を流していた。
「バーサ! 何があった!」
「旦那、様……お嬢様が馬車に引き込まれて、そのまま……」
「な!」
ドクン! と、心臓が鳴る。咄嗟に裏門から外に出ると、地面にはまだ新しい車輪の跡が残っていた。
「何があったんだ」
「お嬢様が水やりをしていると、馬車が止まって。中から男の人が出てきて、同乗者が酔って具合が悪くなった、水を一杯もらえないかと。お嬢様が水を差しだした手を引っ張りこんで、そのまま」
と言うことは、最初からアリアを狙った? 何の目的で? いや、今ならどんな目的だって考えられる。金目当てからよく分からない嫉妬の類までありえる。それほど、彼女は今この王都を賑わせている。
どうしよう……どうしよう? そんなの決まりきっている!
「アーサー様、馬を借ります!」
バーサを助け起こし、血を流す額にハンカチを当てているアーサーに一声かけて、ウルバスは裏に繋いである馬に跨がった。鞍を乗せていない裸馬だが、繋いでいた時の手綱はある。それを握り、車輪の跡を追いかけていく。
だが、どこまでこれが続いているか分からない。途中で整備された道を通られたら分からなくなってしまう。
頭の中が真っ白になっていく。心臓の音が大きくうるさくなるにつれて何かのスイッチが入ったように黒い部分が支配を強めていく。
彼女は自分のものだ、誰にも渡さない。泣かせる者は後悔させてやる。傷つける者は殺してやる! 手を出した報いは何人たりとも受けてもらう!!
ギリリッと奥歯を噛みしめ、綱を握る手に爪の跡がくっきりと残る。留められない怒りが燃え上がるような感覚に、ウルバスは笑みを浮かべた。
▼アリア
突然馬車に引き込まれた後、アリアはよく分からないうちに気を失っていたみたいだった。自分の事なのに曖昧なのは、本当に引き込まれて、何かの匂いを嗅いだ後ゆっくりと重怠くなって、立つ事も出来ず眠ってしまったからだった。
これという拘束はなく、見回すと小さな部屋の中。ただ、あまり使っていない感じはある。暗くて埃っぽくて、家具には白い布が掛けられている。
「――すんだよ!」
「?」
ふとドアの向こう側から声が聞こえて、アリアは近づいてノブを掴んだ。が、当然のように開かない。ただ全体的に壁などは薄いのか、耳を澄ませば声を拾うことはできた。
「どうするって、こうなったんだよ!」
「玉の輿計画なんてふざけやがって! あれは酒の席でのノリじゃなかったのかよ!」
まだ若い男の声……最低でも二人はいる。その二人が言い争いをしているようだ。
「確かにシュトライザー家のお姫様、綺麗だって言ったし、玉の輿だとも言ったよ? けれど、じゃあ拉致して既成事実とか絶対に犯罪だし!」
「そういうトーマスだって乗り気だったじゃないか!」
「アントニーが本気にしたのが悪いだろ! しかも酒のんだ勢いのまま本当にやるとかさ!」
何やら、凄い事で言い争っている。そしてこの二人、実は覚えがあった。
社交界デビューして間もない頃、アリアに積極的に話しかけてくれた二人だ。年齢はアリアよりも二つ下くらいだったはず。そんなに悪い人には思えなかったのだが。
「とにかく謝ろう! 今ならまだ重い罪にはならないよ!」
「バカかトーマス! シュトライザーったら騎士団の団長の妹じゃねーのかよ! 俺達どっちにしたって殺される!」
「そんな事ないって!」
トーマスという……確かとても幼顔でふわっとした雰囲気の青年は、既に酔いも冷めているのか必死に諫めている。
けれどもう一人、少しキツそうな顔をした青年アントニーの方は頭に血が上っている。
どうなるのだろうか。不安がこみ上げると同時に震えてくる。
それでもグッと歯を食いしばって頑張れるのは、強くなりたい……ならなければいけないんだと思う気持ちだ。
あの日……父と兄達が自分のせいで拉致された日からずっと思っていた。強くならなければ大切なものを護れない。強くなければ叫ぶ事もできないまま、ただ泣くだけになるんだと思い知った。
あんな思いはもうしたくない。ただ護られて待つだけの存在ではいたくない。強くなって……自分の事は自分で出来るように頑張って、兄達にも心配をかけないようにして、生きていくんだ。
これが、アリアが当主になろうと思った最も根っこにある思いだった。
「やっぱ既成事実でも作ればいいんだ! 気の弱そうなあの女が事実を公表する事なんて出来やしない……俺はやる! どけ!」
「ダメだって! ちょ……うわぁぁ!」
ガシャン! という音の後、倒れる音がして……乱暴にドアを開ける音と近づいてくる足音。
アリアはドアから急いで離れて、近くにあった小さな椅子を手にした。
ドアの鍵が開いて勢いよく部屋に入ってきた青年を、やっぱり覚えている。濃い茶色の髪に釣り気味の青い瞳の青年が、とても怖い顔で近づいてくる。
「あ……近づかないで!」
震えながら椅子を持ち上げようとしたアリアだが、その前にアントニーが腕を掴んで椅子を明後日の方向に投げてしまう。そして乱暴に床に押し倒されてしまった。
「なぁ……俺さ、楽をして生きたいんだ」
「……え?」
どこか焦点の合わない目がアリアを見下ろしている。それはゾッとするものだ。
「俺、末っ子だからそのうち追い出されるんだよ。嫌だろ、汗水垂らして仕事するとか。アンタと結婚したら、楽させてくれるんだろ?」
……本来こうした感情は隠すものではないのか? 恥とか、見栄とか、あるんじゃないのか?
どこからか匂いがする。甘いような……でも好きになれない匂い。それはこの男の体からしているのだと、近づいて気づいた。
頭の芯がまた痺れてきそうだ。気をしっかり持っていなければまた気を失ってしまいそうだ。
だがアントニーはそんなアリアの目を見て声を上げて笑った。
「アンタだって馬車の中で言っただろ? 好きな人がいても、その人を思えば言えない。何もあげられないのに全てを奪ってしまう。厄介者なんだって」
「私、そんなこと……」
「言ったんだよ、馬車の中でな。このオイルは人を素直にしてくれるんだぜ」
アントニーが出したのは、透明な小瓶だった。確かにオイルっぽいのだが、名前も何も書いていない。
「アンタは言ったんだ! あの人でないなら誰でもいいってな! それなら俺をもらってくれよ!」
「い……嫌……嫌! 離して!!」
馬乗りになっている男をどうにかする事なんてアリアには出来ない。それでも必死に抵抗した。手の届く範囲の男の体を思い切り殴り、足をばたつかせて。
アントニーの顔が歪になり、手に力が込められるのが分かった。
殴られる! そう思って強く目を瞑り体を強ばらせたアリアは……しばらくして体の上から重みが消え、パリーン! という音と甘い匂いが鼻先を掠める。アリアが恐る恐る目を開けると、頭から血を流したトーマスが花瓶を持って立っていた。
側には同じように頭から血を流したアントニーが倒れている。
「はぁ……はぁ……大丈、夫?」
「あ……」
助けて、くれた? でも、なんだかおかしい……この現場は、異常だ。
アリアは怖くなり、差し伸べてくれる手を取れない。それに、トーマスは悲しそうな顔をした。
「ごめん……ごめんね? ごめ……」
匂いが部屋に充満していく。トーマスは花瓶を放り投げてフラフラとどこかに行こうとする。それが窓際で……アリアは窓を開けたのを見て青い顔で走った。
心臓がドキドキして、息が切れて苦しい。けれど直感で、このままトーマスを放っておいたらここから飛ぶんじゃないかと思ったのだ。
窓の外は青空ばかりで緑が見えない。少なくとも一階の景色ではない。そこから飛んだら……絶対に阻止しなければ。
「早まらないで!」
窓枠に片足を乗せるトーマスの腰にしがみついて、アリアは必死に彼を止めて窓を閉めた。その下で、トーマスは小さく丸くなって震えていた。
「どうせ僕はクズなんだ。何もできない……だから皆僕をバカにするんだ」
「そんな事ありませんわ! 今も私を助けてくれたじゃない。貴方は勇気ある人です!」
「でももとはと言えば僕たちが貴方を攫ったから!」
「それは……」
そこは言わないでほしかったのだが。
何にしても少しでも前向きな事を言い続けなければ、この人は死んでしまう。そう思ったアリアは必死に説得した。
正直頭の中が少しクラクラしている。夢心地にいるような気もしてくる。
そうして思い浮かぶのはウルバスの顔ばかりだ。寝顔が可愛かった。一緒にいるのが楽しかった。初めて馬に乗った時の背の温もり、手の大きさ。気遣いの言葉と、柔らかな笑顔。
この人が好きだ。この人の側にいられたらどれだけ幸せなのだろう。
けれど、同時に思ってしまう。もしも健康的な体だったら、何も諦めなくて済んだのに。一緒に馬に乗って遠出も出来る。何の不安も負い目も無く自分の気持ちを口にできるのに。
恨み言が延々と出てきてしまう。今まで蓋をしてきた気持ちがあふれ出すような不安がこみ上げてくる。
軽い頭痛を感じて床に座り込むアリアの背後から、違う影が差す。それは突然アリアの背後からアリアを抱きすくめ、服の胸元から手を入れてまさぐるように動き出した。
「嫌!」
「いいだろ、こっからどうせひん剥くんだ」
意識を取り戻したアントニーが強い力でアリアを押さえ込む。嫌なのに力じゃ敵わなくて、抵抗もできない。体が丈夫だったら、こんな惨めな思いもしなかったのか?
浮かぶのはウルバスの顔ばかりで、アリアの目に沢山の涙が浮かんだ。
「ウルバス……さん……。嫌! ウルバスさん!!」
留める事の出来ない感情が溢れたみたいに、アリアは声の限りに叫んだ。ここにいないと分かっている人の名を、とにかく叫び続けるしかなかった。
ビリッという音で服が裂けて片胸と肩が冷たくなる。下着姿を人前に晒す事に、アリアは羞恥で絶望していた。
その時、乱暴な音でドアが開いた。蹲って震えていたトーマスも、今まさにアリアを襲おうとしているアントニーも、混乱と絶望で涙しかでないアリアも、全員がそちらを向いた。
「ウルバス……さん?」
まさか、そんな都合のいいことが起こる訳がない。第一ここまでどうやってきたんだ。彼は今頃仕事をしているはずだ。
だが、間違いなくウルバスなのだ。短い鳶色の髪に、長身……けれど雰囲気がまったく違う。いつもは優しい柔らかな表情が、今にも人を殺してしまいそうな狂気を孕んでいるようだった。
――怖い。
ウルバスに対して今まで一度も抱いたことのない感情がせり上がって、アリアは震えてへたり込んだまま後ろに下がった。
「……俺のものに手を出したのは、お前か?」
「!」
地を這うような声に、アントニーは震えて逃げようとした。だが、現役の……しかも師団長が相手だ。赤子の手を捻るよりも簡単な事だった。
踵を返した時点でアントニーはあっさりとウルバスに捕まり、そのままバキリと音がする。悲鳴と、肘から下がぶらりと力なく落ちる。明らかに折れていた。
叫ぶアントニーの胸倉を掴み直したウルバスは彼の顔を数度拳で殴る。それだけで砕けた歯が床に血と一緒に散らばった。
「よくもその汚い手で彼女に触れたな。その手、二度と使えないようにしようか?」
ドサリと床に落とされたアントニーの無事な腕を、ウルバスが踵で踏みつける。ミシミシという音が踏みつけられる度にして、そのうちに指先が青紫になっていくのが分かる。折れたんだと疑うには十分な事だった。
「あ……やめ……やめて……」
怖くて声がいまいち出ない。騎士団の人間が振るう暴力は素手だって凶器と同じだとアーサーが言っていた。特に団長や師団長クラスでは素手で相手を殺す事も可能かもしれないと。
ウルバスが、人を殺す? 今、目の前で?
嫌だ!
気づけばアリアは飛び出して、ウルバスの足にしがみついていた。そして声の限りに叫んでいた。
「いやぁ! ウルバスさん止めて! 殺さないで!!」
大切な人が犯罪者になってしまう。自分のせいでまた、大切な人が壊れてしまう。
アリアにとってアントニーがどうこうなるのはもう、自業自得だと言えた。けれどウルバスが誰かを殺す場面なんて……しかもこんな一方的な暴力を振るう姿なんて、見たくないのだ。
ウルバスの動きがピタリと止まって、アリアはふと安心した。止まってくれた。言葉が届いた。そう、安堵したのだ。
だがそれは、違っていた。
「……どうして、こいつを庇う?」
「え?」
驚いて見上げたウルバスの凍るような瞳に、アリアは何か誤解があることを知って戦慄した。だがそれは、遅すぎた。
肩を押され乱暴に押し倒されたアリアの上に陣取ったウルバスは、感情のこもらない目をしている。それはアントニーの目にもどこか似ている。そして部屋はあの小瓶の匂いで満たされている。
あのオイルが人の心を暴くなら、これがウルバスの本心ということ?
「そんなに、こいつがいい? 俺の事は袖にして、他の男であれば誰だってよかった?」
「ちが……違います! 私は!」
「そんなに俺のものにはなりたくないのか!」
「っ!」
苛立ったように床を殴るウルバスの、その狂気は怖い。アリアの目から涙が落ちて、止まらなくなっていた。
「私は……貴方が好きです」
言わないと思っていた気持ちが、落ちる。溢れて、止まらなくなる。
「好きだからこそ、私みたいな女ではダメだって……。騎士団を辞めてまで側にいてほしいなんて言えません。私は貴方になにもあげられない! 貴方と夜を過ごす事もできません! そんな私がどうして、好きだなんて言えるんですか!!」
ウルバスは驚いた顔をして、ふとその瞳に理性が戻ってきた気がした。
「本当は、お別れなんて言いたくありません。でも……私じゃ貴方の隣にいられないんです」
泣きたくてたまらなくて、沢山泣いたら苦しかった。いつの間にか上手く息が吸えていない感じがして、胸もなんだか苦しくなって……
「アリアちゃん?」
「っ!」
キュゥと絞られうように痛むような感じがして、アリアは胸元を握って目を瞑った。発作だと分かったけれど、家にいたから薬は持ち歩いていなかった。
「アリアちゃん!」
ふわりと体が浮き上がって、凄い勢いで外へと連れ出される。綺麗な空気が僅かに入ってきて、少しだけ息が吸えた。
「どこに、ここからじゃ宿舎は遠い。っくそ!」
言いながら道を走るウルバスはとても早い。力強い腕に抱かれて、アリアはほんの少し安心していた。
もうこのまま、全部夢で終わってしまえたらいいのに。
ノッカーを慣らすと何度か見たことのある老執事が出迎えてくれて、少し驚いた顔をした。
「ウルバス様! どうなさいましたか?」
「あの、アリアさんから子猫の話は伺っていますか?」
「えぇ! 何でも懐いてくれたみたいで」
「実は予定よりも早く獣医が診てくれまして。環境に慣れるにも早いほうがいいということで、俺が連れてきたのですが」
「そうでしたか!」
「あの……アリアさん、いらっしゃいますか?」
結局昨日一日では心の整理ができなかった。それでもこれは任務だと思ってきたのだ。いざ彼女と顔を合わせて、どんな顔をしたらいいのだろうか。会話なんて出来るのだろうか? 彼女の本心を聞き出す事なんて、できるのだろうか……
第一、自分はどうしたいんだ。彼女の事を大切に思っている事は確かだが、恋人になりたいなんて絶対に思っちゃいけない。
母の夢はきっと警告だ。父の、そして祖父の血を引く自分が何を夢を見ているんだと。大切にしたい人を壊しかねないんだ、この呪いは。
表情が自然と強ばっているように思った。そんなウルバスを見た老執事は少し驚いて、ウルバスを応接室へと通してくれた。
猫は預けて、お茶を出してくれて。そうしてしばらく待っているとノックがあって顔を向ける。心臓が痛いくらいに縮こまっている感じがした。喉がカラカラになっている感じがした。
だがドアが開いて姿を見せた相手は予想していた人ではなくて、思わずビシッと立ち上がって姿勢を正してしまった。
「アーサー様!」
「楽にしていい、ウルバス」
鷹揚な様子で片手をあげて座るよう促してくれたアーサーが対面に座る。ウルバスはおずおずと腰を下ろすと、違う意味で喉が渇いた。
「そんなに緊張するな。前はもっと自然だっただろ」
「ですが」
「アリアが世話になっている。君と付き合うようになって、あの子は明るく前向きになったよ」
とても穏やかに伝えられる事に、ウルバスの胸はどこか痛む。手紙を、喜んでくれていたのだろうか。あの笑顔は、本物だったのか。
「アリアは君と触れあうと元気をもらえるそうだ。君と一緒に出かけたいから治療や体力作りを頑張れると、前に笑って言っていた」
「あの……」
「だが、ここにきてからは日々、頑張りすぎている。夜も遅くまで本を読んでいるようだ。顔色が悪かったりはしないが……一昨日以後、空元気に思える」
アーサーが静かにお茶を飲んで、ウルバスを見る。その目はさすが四大公爵家の当主。鋭くて、視線一つで金縛りにあったように動けなくなりそうだった。
「何があったんだ? 私どころかずっと側にいるメイドにも話をしないそうだ。ただ笑って『大丈夫』というばかりだ」
「あの…………もう、会わない事になりました」
素直にそう伝えると、アーサーはとても驚いた顔をした。そして腕を組み、深く考え込む顔をした。
「理由はなんだ?」
「家を継ぐ相手を探さなければいけないと。俺には、騎士を続けて欲しいと」
「あいつも……頑固と思い込みの強さは家系か。私といい、ファウストといい」
「ルカさんは?」
「あの子だけがもの凄く柔軟だ。おそらくマクファーレンの血だな」
苦笑したアーサーがお茶を勧めてくれて、一口飲み込む。緊張とばつの悪さからお茶の味があまりしない。けれど喉は潤った。
「実は、昨日あの子から見合いをセッティングして欲しいと言われたんだ」
「え?」
不意の言葉にウルバスの心臓は掴まれたように痛み、その後はひたすら五月蠅くなった。頭の中が混乱している。
お見合い? どうして突然そんなこと。本当に結婚相手を探すつもりなのか?
――俺ガイルノニ?
暗い、ドロッとした感情が顔を覗かせる感覚にウルバスはゾクリと震え押し込んだ。最近、これに飲まれそうな時がある。アリアの事を考えると不意に顔を見せて、凄い勢いでウルバスを揺さぶるのだ。
「あの子は私の選んだ相手ならそれに従うと言っている。だがあまりに急な事だし、保留としている」
「保留、に?」
「あの子に好いた相手がないなら、それもいいかと思う。だが見ていると、そうではないようなのでな」
アーサーの観察するような視線。これにも緊張する。やましいからだろうか。
「好いた相手と幸せになってもらいたい。今なら素直に、そう思う事ができる。ファウストにも、アリアにも。その妨げに私がなってはならない。前の事で、それを思い出した」
とても穏やかで柔らかな雰囲気。ランバートといる時のファウストを思い出す表情は馴染みがある。
だがお茶を飲み込んだアーサーが向けた目は、厳しいものに戻っていた。
「ウルバス、正直なところを問う。お前は、アリアの事をどう思っている」
一気に確信を貫かれた。そんな衝撃に言葉がない。
だが長年かけて作られた柔和という仮面が、こんな時の自分を助けてくれる。諦めたような笑みを浮かべ、ウルバスは驚いた顔のアーサーを見た。
「俺では、彼女を幸せにはできません。家の噂はご存じではありませんか?」
「……知っている」
「では」
「だが噂でしかない。君の祖先、祖父、父の事が君にも当てはまるとは思っていない」
真っ直ぐに向けられる信頼の目が痛い。多分その血は受け継いでいる。だから母が警告した。違う自分が顔を見せる。押し込めているものが急激に顔を出そうとしている。
返答に詰まっていたウルバス。
だがその時、外から女性の悲鳴が聞こえウルバスとアーサーは腰を浮かせた。
「今の声は」
「裏からだ。アリアがいるはずだ」
「!」
家の構造も分からないのに走り出したウルバスの後ろを、アーサーもついてくる。流石に追いつく事は無理だが後ろから場所を教えてくれたおかげですんなりと屋敷の裏へと出る事ができた。
屋敷の裏は小さな庭になっていて、冬用の剪定を終えた薔薇などが植わっている。その先には塀と、小さな裏門があった。
メイド長のバーサはその裏門の近くで倒れ、腰を押さえ額からも血を流していた。
「バーサ! 何があった!」
「旦那、様……お嬢様が馬車に引き込まれて、そのまま……」
「な!」
ドクン! と、心臓が鳴る。咄嗟に裏門から外に出ると、地面にはまだ新しい車輪の跡が残っていた。
「何があったんだ」
「お嬢様が水やりをしていると、馬車が止まって。中から男の人が出てきて、同乗者が酔って具合が悪くなった、水を一杯もらえないかと。お嬢様が水を差しだした手を引っ張りこんで、そのまま」
と言うことは、最初からアリアを狙った? 何の目的で? いや、今ならどんな目的だって考えられる。金目当てからよく分からない嫉妬の類までありえる。それほど、彼女は今この王都を賑わせている。
どうしよう……どうしよう? そんなの決まりきっている!
「アーサー様、馬を借ります!」
バーサを助け起こし、血を流す額にハンカチを当てているアーサーに一声かけて、ウルバスは裏に繋いである馬に跨がった。鞍を乗せていない裸馬だが、繋いでいた時の手綱はある。それを握り、車輪の跡を追いかけていく。
だが、どこまでこれが続いているか分からない。途中で整備された道を通られたら分からなくなってしまう。
頭の中が真っ白になっていく。心臓の音が大きくうるさくなるにつれて何かのスイッチが入ったように黒い部分が支配を強めていく。
彼女は自分のものだ、誰にも渡さない。泣かせる者は後悔させてやる。傷つける者は殺してやる! 手を出した報いは何人たりとも受けてもらう!!
ギリリッと奥歯を噛みしめ、綱を握る手に爪の跡がくっきりと残る。留められない怒りが燃え上がるような感覚に、ウルバスは笑みを浮かべた。
▼アリア
突然馬車に引き込まれた後、アリアはよく分からないうちに気を失っていたみたいだった。自分の事なのに曖昧なのは、本当に引き込まれて、何かの匂いを嗅いだ後ゆっくりと重怠くなって、立つ事も出来ず眠ってしまったからだった。
これという拘束はなく、見回すと小さな部屋の中。ただ、あまり使っていない感じはある。暗くて埃っぽくて、家具には白い布が掛けられている。
「――すんだよ!」
「?」
ふとドアの向こう側から声が聞こえて、アリアは近づいてノブを掴んだ。が、当然のように開かない。ただ全体的に壁などは薄いのか、耳を澄ませば声を拾うことはできた。
「どうするって、こうなったんだよ!」
「玉の輿計画なんてふざけやがって! あれは酒の席でのノリじゃなかったのかよ!」
まだ若い男の声……最低でも二人はいる。その二人が言い争いをしているようだ。
「確かにシュトライザー家のお姫様、綺麗だって言ったし、玉の輿だとも言ったよ? けれど、じゃあ拉致して既成事実とか絶対に犯罪だし!」
「そういうトーマスだって乗り気だったじゃないか!」
「アントニーが本気にしたのが悪いだろ! しかも酒のんだ勢いのまま本当にやるとかさ!」
何やら、凄い事で言い争っている。そしてこの二人、実は覚えがあった。
社交界デビューして間もない頃、アリアに積極的に話しかけてくれた二人だ。年齢はアリアよりも二つ下くらいだったはず。そんなに悪い人には思えなかったのだが。
「とにかく謝ろう! 今ならまだ重い罪にはならないよ!」
「バカかトーマス! シュトライザーったら騎士団の団長の妹じゃねーのかよ! 俺達どっちにしたって殺される!」
「そんな事ないって!」
トーマスという……確かとても幼顔でふわっとした雰囲気の青年は、既に酔いも冷めているのか必死に諫めている。
けれどもう一人、少しキツそうな顔をした青年アントニーの方は頭に血が上っている。
どうなるのだろうか。不安がこみ上げると同時に震えてくる。
それでもグッと歯を食いしばって頑張れるのは、強くなりたい……ならなければいけないんだと思う気持ちだ。
あの日……父と兄達が自分のせいで拉致された日からずっと思っていた。強くならなければ大切なものを護れない。強くなければ叫ぶ事もできないまま、ただ泣くだけになるんだと思い知った。
あんな思いはもうしたくない。ただ護られて待つだけの存在ではいたくない。強くなって……自分の事は自分で出来るように頑張って、兄達にも心配をかけないようにして、生きていくんだ。
これが、アリアが当主になろうと思った最も根っこにある思いだった。
「やっぱ既成事実でも作ればいいんだ! 気の弱そうなあの女が事実を公表する事なんて出来やしない……俺はやる! どけ!」
「ダメだって! ちょ……うわぁぁ!」
ガシャン! という音の後、倒れる音がして……乱暴にドアを開ける音と近づいてくる足音。
アリアはドアから急いで離れて、近くにあった小さな椅子を手にした。
ドアの鍵が開いて勢いよく部屋に入ってきた青年を、やっぱり覚えている。濃い茶色の髪に釣り気味の青い瞳の青年が、とても怖い顔で近づいてくる。
「あ……近づかないで!」
震えながら椅子を持ち上げようとしたアリアだが、その前にアントニーが腕を掴んで椅子を明後日の方向に投げてしまう。そして乱暴に床に押し倒されてしまった。
「なぁ……俺さ、楽をして生きたいんだ」
「……え?」
どこか焦点の合わない目がアリアを見下ろしている。それはゾッとするものだ。
「俺、末っ子だからそのうち追い出されるんだよ。嫌だろ、汗水垂らして仕事するとか。アンタと結婚したら、楽させてくれるんだろ?」
……本来こうした感情は隠すものではないのか? 恥とか、見栄とか、あるんじゃないのか?
どこからか匂いがする。甘いような……でも好きになれない匂い。それはこの男の体からしているのだと、近づいて気づいた。
頭の芯がまた痺れてきそうだ。気をしっかり持っていなければまた気を失ってしまいそうだ。
だがアントニーはそんなアリアの目を見て声を上げて笑った。
「アンタだって馬車の中で言っただろ? 好きな人がいても、その人を思えば言えない。何もあげられないのに全てを奪ってしまう。厄介者なんだって」
「私、そんなこと……」
「言ったんだよ、馬車の中でな。このオイルは人を素直にしてくれるんだぜ」
アントニーが出したのは、透明な小瓶だった。確かにオイルっぽいのだが、名前も何も書いていない。
「アンタは言ったんだ! あの人でないなら誰でもいいってな! それなら俺をもらってくれよ!」
「い……嫌……嫌! 離して!!」
馬乗りになっている男をどうにかする事なんてアリアには出来ない。それでも必死に抵抗した。手の届く範囲の男の体を思い切り殴り、足をばたつかせて。
アントニーの顔が歪になり、手に力が込められるのが分かった。
殴られる! そう思って強く目を瞑り体を強ばらせたアリアは……しばらくして体の上から重みが消え、パリーン! という音と甘い匂いが鼻先を掠める。アリアが恐る恐る目を開けると、頭から血を流したトーマスが花瓶を持って立っていた。
側には同じように頭から血を流したアントニーが倒れている。
「はぁ……はぁ……大丈、夫?」
「あ……」
助けて、くれた? でも、なんだかおかしい……この現場は、異常だ。
アリアは怖くなり、差し伸べてくれる手を取れない。それに、トーマスは悲しそうな顔をした。
「ごめん……ごめんね? ごめ……」
匂いが部屋に充満していく。トーマスは花瓶を放り投げてフラフラとどこかに行こうとする。それが窓際で……アリアは窓を開けたのを見て青い顔で走った。
心臓がドキドキして、息が切れて苦しい。けれど直感で、このままトーマスを放っておいたらここから飛ぶんじゃないかと思ったのだ。
窓の外は青空ばかりで緑が見えない。少なくとも一階の景色ではない。そこから飛んだら……絶対に阻止しなければ。
「早まらないで!」
窓枠に片足を乗せるトーマスの腰にしがみついて、アリアは必死に彼を止めて窓を閉めた。その下で、トーマスは小さく丸くなって震えていた。
「どうせ僕はクズなんだ。何もできない……だから皆僕をバカにするんだ」
「そんな事ありませんわ! 今も私を助けてくれたじゃない。貴方は勇気ある人です!」
「でももとはと言えば僕たちが貴方を攫ったから!」
「それは……」
そこは言わないでほしかったのだが。
何にしても少しでも前向きな事を言い続けなければ、この人は死んでしまう。そう思ったアリアは必死に説得した。
正直頭の中が少しクラクラしている。夢心地にいるような気もしてくる。
そうして思い浮かぶのはウルバスの顔ばかりだ。寝顔が可愛かった。一緒にいるのが楽しかった。初めて馬に乗った時の背の温もり、手の大きさ。気遣いの言葉と、柔らかな笑顔。
この人が好きだ。この人の側にいられたらどれだけ幸せなのだろう。
けれど、同時に思ってしまう。もしも健康的な体だったら、何も諦めなくて済んだのに。一緒に馬に乗って遠出も出来る。何の不安も負い目も無く自分の気持ちを口にできるのに。
恨み言が延々と出てきてしまう。今まで蓋をしてきた気持ちがあふれ出すような不安がこみ上げてくる。
軽い頭痛を感じて床に座り込むアリアの背後から、違う影が差す。それは突然アリアの背後からアリアを抱きすくめ、服の胸元から手を入れてまさぐるように動き出した。
「嫌!」
「いいだろ、こっからどうせひん剥くんだ」
意識を取り戻したアントニーが強い力でアリアを押さえ込む。嫌なのに力じゃ敵わなくて、抵抗もできない。体が丈夫だったら、こんな惨めな思いもしなかったのか?
浮かぶのはウルバスの顔ばかりで、アリアの目に沢山の涙が浮かんだ。
「ウルバス……さん……。嫌! ウルバスさん!!」
留める事の出来ない感情が溢れたみたいに、アリアは声の限りに叫んだ。ここにいないと分かっている人の名を、とにかく叫び続けるしかなかった。
ビリッという音で服が裂けて片胸と肩が冷たくなる。下着姿を人前に晒す事に、アリアは羞恥で絶望していた。
その時、乱暴な音でドアが開いた。蹲って震えていたトーマスも、今まさにアリアを襲おうとしているアントニーも、混乱と絶望で涙しかでないアリアも、全員がそちらを向いた。
「ウルバス……さん?」
まさか、そんな都合のいいことが起こる訳がない。第一ここまでどうやってきたんだ。彼は今頃仕事をしているはずだ。
だが、間違いなくウルバスなのだ。短い鳶色の髪に、長身……けれど雰囲気がまったく違う。いつもは優しい柔らかな表情が、今にも人を殺してしまいそうな狂気を孕んでいるようだった。
――怖い。
ウルバスに対して今まで一度も抱いたことのない感情がせり上がって、アリアは震えてへたり込んだまま後ろに下がった。
「……俺のものに手を出したのは、お前か?」
「!」
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叫ぶアントニーの胸倉を掴み直したウルバスは彼の顔を数度拳で殴る。それだけで砕けた歯が床に血と一緒に散らばった。
「よくもその汚い手で彼女に触れたな。その手、二度と使えないようにしようか?」
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「あ……やめ……やめて……」
怖くて声がいまいち出ない。騎士団の人間が振るう暴力は素手だって凶器と同じだとアーサーが言っていた。特に団長や師団長クラスでは素手で相手を殺す事も可能かもしれないと。
ウルバスが、人を殺す? 今、目の前で?
嫌だ!
気づけばアリアは飛び出して、ウルバスの足にしがみついていた。そして声の限りに叫んでいた。
「いやぁ! ウルバスさん止めて! 殺さないで!!」
大切な人が犯罪者になってしまう。自分のせいでまた、大切な人が壊れてしまう。
アリアにとってアントニーがどうこうなるのはもう、自業自得だと言えた。けれどウルバスが誰かを殺す場面なんて……しかもこんな一方的な暴力を振るう姿なんて、見たくないのだ。
ウルバスの動きがピタリと止まって、アリアはふと安心した。止まってくれた。言葉が届いた。そう、安堵したのだ。
だがそれは、違っていた。
「……どうして、こいつを庇う?」
「え?」
驚いて見上げたウルバスの凍るような瞳に、アリアは何か誤解があることを知って戦慄した。だがそれは、遅すぎた。
肩を押され乱暴に押し倒されたアリアの上に陣取ったウルバスは、感情のこもらない目をしている。それはアントニーの目にもどこか似ている。そして部屋はあの小瓶の匂いで満たされている。
あのオイルが人の心を暴くなら、これがウルバスの本心ということ?
「そんなに、こいつがいい? 俺の事は袖にして、他の男であれば誰だってよかった?」
「ちが……違います! 私は!」
「そんなに俺のものにはなりたくないのか!」
「っ!」
苛立ったように床を殴るウルバスの、その狂気は怖い。アリアの目から涙が落ちて、止まらなくなっていた。
「私は……貴方が好きです」
言わないと思っていた気持ちが、落ちる。溢れて、止まらなくなる。
「好きだからこそ、私みたいな女ではダメだって……。騎士団を辞めてまで側にいてほしいなんて言えません。私は貴方になにもあげられない! 貴方と夜を過ごす事もできません! そんな私がどうして、好きだなんて言えるんですか!!」
ウルバスは驚いた顔をして、ふとその瞳に理性が戻ってきた気がした。
「本当は、お別れなんて言いたくありません。でも……私じゃ貴方の隣にいられないんです」
泣きたくてたまらなくて、沢山泣いたら苦しかった。いつの間にか上手く息が吸えていない感じがして、胸もなんだか苦しくなって……
「アリアちゃん?」
「っ!」
キュゥと絞られうように痛むような感じがして、アリアは胸元を握って目を瞑った。発作だと分かったけれど、家にいたから薬は持ち歩いていなかった。
「アリアちゃん!」
ふわりと体が浮き上がって、凄い勢いで外へと連れ出される。綺麗な空気が僅かに入ってきて、少しだけ息が吸えた。
「どこに、ここからじゃ宿舎は遠い。っくそ!」
言いながら道を走るウルバスはとても早い。力強い腕に抱かれて、アリアはほんの少し安心していた。
もうこのまま、全部夢で終わってしまえたらいいのに。
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