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15章:王弟の落日

8話:救済(ナルサッハ)

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 気がつくと、私はあの地獄に舞い戻っていた。暗く、朝も夜もない闇。冷たくどこかかび臭い石造りの部屋に手錠をつけられ、壁に拘束されている。

『嫌だ……いや! 誰か、助けて!!』

 死んだ事は理解している。けれど死んでまでこの地獄に繋がれるなんて思っていなかった。
 必死にもがき、苦しんでガチャガチャと音を立てるナルサッハの元に、毎夜ソレはやってくる。そしてあの地獄の再現を行うのだ。

 助けてと、飽き足らずに口にしながら思うのは裏切った主君の最後の顔。泣いてくれていた。こんなに酷い事をしたのに、私の為に泣いていた。

 あぁ、貴方を裏切り、多くの不幸を生み、多くの人を殺した私にはこの地獄がお似合いだという事か。ここで魂が擦り切れるまで叫び、もがき、あの男に犯されて、消えて行けということか。

 諦めろ、相応のことをしたのだ。思っても、叫ぶ事を止められない。泣く事を止められない。助けを求めてもがいて、胸の中にあるたった一人を呼んでいる。聞こえるはずはないのに、誰にも見える事はないのに、止められないのだ。


 怖かった。あいつがいつ来るのか、この闇の中では分からない。今が夜なのか、分からない。怯えながら、肉体を持たない意識は疲労から眠る事もできない。夢も見ない。
 あの時はまだ救いがあったのか。夢という逃げ道、そこでだけアルブレヒトに抱かれ、甘え、幸せな気持ちを思いだした。人として狂えない事を恨んだけれど、夢すら見られない今を思えばなんて贅沢だったんだ。なのに、逆恨みして……あの人を傷つけた。

 どこで狂ったんだ。あの地獄を、乗り切れなかった弱さなのか。醜さを体現したような体を見る度、己の穢れを見て苦しんだ。『所詮は奴隷』という言葉を否定できなかったことなのか。
 違う。あの人を信じ続けられなかった、ただ一点なんだ。

『我が君……助け…………お願い、もう止めて……』

 何度も弱り切った声で、私は懇願し続けている。


 閉ざされた闇の世界に、突如音が響いた。いつもはしないカツカツカツという急ぐ足音が近づいてくる。そしてこの暗闇の世界に、人工的なランプの明かりが差し込んだ。

『あ……』

 戸口に立ったその姿に、思わず声が漏れた。必死な様子のアルブレヒトがそこにはいたのだ。手にはランタンを持ち、剣を差して。白が似合う人に色は少ないのに、生きている人の色彩の鮮やかさを感じた。
 それでも思う。死んだ人間が助けを求めてなんになるんだ。見えないのに、聞こえないのに、どうやって存在を知らせるんだと。

 けれどアルブレヒトの薄紫の瞳がこちらを見つめる。そして走り寄るように近づいて、グッと抱き寄せたのだ。

「ナル! ようやく、見つけた」
『どう、して……?』

 私が見えるの? 声が聞こえるの? 触れられるの?

 肉体を失った体に、この人の体温を感じる。触れている感触が分かる。それはとても不思議で、こみ上げる嬉しさがあった。

「お前は魂も強いから、私が強く願えばなんとか触れられる。ようやく、私も自分の力をものにできたので」

 苦笑したアルブレヒトが、傷ついた左側を労るように撫でる。途端に走るのは、胸に刺さる痛みだった。

『ざまぁない、でしょ? 貴方を陥れた私は、所詮ここがお似合いなのです』
「そんな事はない、ナル」
『綺麗事です! ではどうして、私はここにいるのです! この地獄が終わらないのですか!!』

 感情が溢れる。繕う肉を失ったせいか、感情が剥き出しになって止まらない。こんな子供のように声を荒げたり、心のままに言葉を紡いだり。ずっと、抑えてきたはずなのに。

 アルブレヒトはより強く抱きしめてくる。その体が、震えている。

 伝わってくるものは昔よりずっと弱い。それでもこの人の心に、暗さや憎しみがないのを感じる。こんなにしたのに、まだ許されている。

『許さなくていいのに、どうして……。苦しんだでしょ? 許せなかったでしょ? 憎んだでしょ? なのにどうして、貴方はこんなにも優しくあれるのですか』
「私とて、昔のような無償の優しさなど捨てましたよ。けれど、お前の事を憎んだ事はなかった。お前の事を思うといつも、助けに行けなかった不甲斐ない自分を思い苦しかった」

 労りの手が、体を撫でる。そこから、楽になっていく。心地よくて、温かくてたまらない。木漏れ日みたいな光に包まれる。
 この温かさが欲しかった。この優しさが欲しかった。得られないと思い込んで、嫉妬した。この人の優しさを受け取るベリアンス達が憎くなった。この人を、私だけのものにしたかった。
 相応しく無いくせに独占欲ばかりが肥大したのだろう。転落したのに、それでも上にある貴方に手を伸ばしていた。欲しかった。貴方の特別に、私はなりたかった。

 なれないと、思い込んだ……

「ナル、私はあの五年間を恨んでいません。むしろ、お前の苦しみを知るようでたまらなかった。こんなに苦しい時間を過ごしたのかと思うと、助けられなかった事を苦しく思いました」
『……何も、知らないくせに。私がここでどんな事をされたのか、貴方は知らない! 貴方は聞きもしなかった!』

 また感情が波打つ。そのまま口にする。そこで思う、知って欲しかったのかと。気を使って周囲は私に問わなかった。気の毒な人間にした。腫れ物に触るような視線が、私を余計に惨めにした。

『床に這いつくばって畜生のように食事をして、排泄まで人前で桶の中! 嫌悪と怯えに萎えきった体に、あの男は無理矢理クスリを注射して高ぶらせて犯したんです! 感じたくなかったのに体は勝手に高ぶって、心を裏切り続けた! そのうちにどんなにクスリを打たれても、私の体は吐精する事ができなくなった! 女になったかと、あの男は嘲ったのです! こんな!! こんな、おかしくなりそうな地獄なのに私は……貴方の希望を追い続けた……』
「ナル……ごめん、ごめんなさい。助けられなくて、ごめ……」
『喉が裂けそうな程に叫んだのに。求めたのに……。貴方は狂わせてくれなかった。私を慈しむ事を止めてくれなかった。光り続けて……狂わせてくれなかった……っ」
「すまない、ナルサッハ!」

 ギュッと抱きしめる体は震えている。声が、震えている。

 こんな風に、責めるつもりなんてなかったのに。口にするつもりはなかったのに。
 それでも、楽になったのかもしれない。心の中の重みがふと、軽くなった気がした。

「すまない、ナル。私はもっと早く、お前から聞けばよかった。手をこまねくのではなく、もっと強引に聞き出して、抱きしめて、拒まれても手を離さなければよかった」
『我が君……』
「お前がどれだけ私を拒み、罵っても甘んじて受けていれば、何かが変わっていたかもしれない。お前を気遣うフリをして、私はお前の痛みを受け入れる強さがなかったんだ。唯一の友だったのに、弱い自分を克服できなかったんだ。すまない、ナルサッハ。弱い私を、許してくれ」

 伝わる心が、震えて泣いている。人らしくなったアルブレヒトの剥き出しになった心が伝わる。哀れみなんてない、後悔と悲しみ。優しさとは違う、弱い自分への苛立ちと、強くなった今。

『……私も、弱い。貴方に醜いと思われたくなかった。醜い私が貴方の側にいることが、苦しかった。化け物と白い目で見られる事に、耐えきれなかった。こんな私が貴方の側に居続ける事に、貴方に恋い焦がれている事に、私が耐えきれなかった。知って、欲しかった。墜ちて欲しかった。そうすれば、側にいられると……勝手に思い、信じて会話する事を断ち切ったのです』

 怖かったのかもしれない、この人からの蔑みが。そんな事はないと思いながらも、信じ切れなかった。周囲のあからさまな奇異の目が、蔑みが、己の変わり果てた姿が目を濁らせたのかもしれない。
 こんな自分を誰も愛さない。そう、思い込んでいたんだ。

 直接聞けばよかった。会話を拒絶するのではなくて、問えばよかったんだ。そうしたら、もっと何かが変わったのかもしれない。

『貴方が愛しかった。貴方の友でも、臣でもなく、唯一になりたかった。穢されきって、見た目も変わり果ててしまったのに、それでも貴方に恋い焦がれていたのです』

 激情に、卑屈さが混じっていた。受け入れられないなら壊そうと思った。愛されたいけれどもうそこに登れないと思ったから、落とす事しか考えられなかった。

 死んでようやく、自分を知るだなんて。なんて馬鹿らしい。遅すぎた感情が涙になる。魂だけなのに、泣いているのだと自分で感じられる。

 その時、ガサリと闇が揺れて暗がりが歪んだ。ビクリと震えそちらを見た私は、ランランと光る二つの目を見てすくみ上がった。
 あいつが来たんだ。あいつが!

「ナル?」
『い……や……。いや、嫌だ! 嫌だ来るな!! もう、もう止めて! もう犯さないで! もう止めて!!』
「ナル!」

 ズルルルル、と、引きずるような音がする。全身焼け爛れ、原型を留めない男はそれでも両眼だけは光らせて迫ってくる。闇から姿を現すそれが、濁った声を発する。

『お前は私のものだ、ナルサッハぁ』
『違う! 私はお前のものじゃない! 違う……違う!!』

 ガチャガチャと手錠を鳴らして逃げようとする。怖い、もう嫌だ。助けて、助けて!!

 その時強い力で頭を抱き寄せられる。そしてランタンの明かりが、闇から現れた男へと向けられた。

「よくも……私の大切な者を傷つけた」

 初めて見る、アルブレヒトの燃えるような瞳。こんなに強い目を見たことがない。憎しみを滲ませる目を見たことがない。
 鋭い両眼が男を見据え、男は炎に怯む。それでも黒い固まりはこちらを見て、ニヤリと笑うのだ。

『お前は醜い。お前は奴隷だナルサッハ。お前は私のものだ』

 違う、私は奴隷じゃない。私はお前のものじゃない。私は……

『私はこの方のものだ! お前のものなんかじゃない!!』

 否定の言葉を力一杯に吐き出した。その時、アルブレヒトがランプを男に投げつける。業火が男を包み込み、断末魔の声があがった。
 アルブレヒトの抜いた剣が男の体を両断する。悲鳴を上げた男が両目をぎょろぎょろさせながら、それでも手を伸ばしてくる。

『ナルサッハぁぁ』
「地獄の下層へと堕ちるがいい。そこで、彼にした事を悔い続けろ」

 アルブレヒトがパチンと指を鳴らすと、地の底から真っ黒い手がゆらゆらと現れて男を拘束し、引きずり込んでいく。もがく手が底なしの沼に沈み込むのを、呆然と私は見ていた。

「ナル」

 柔らかな声がして、剣を収めた人が引き寄せてくる。もう、枷はなかった。抱きしめてくれる人の背に、手を置くことができる。温かな体と心に触れられて、嬉しさから涙がこぼれた。

 左の頬に大切に触れたアルブレヒトが近づいて、唇が重なる。愛しそうに触れられるそこから、最後まで残っていた悲しさが消えていく。温かなものが満たして、力を感じた。

『んぅ……ふっ……んぅぅ』

 背が震えるような感覚が、ずっと怖かった。慰み者だった体は快楽を恐れた。簡単に心を裏切る事を知っている。望まないのに快楽を感じる体を、何度憎らしく思ったかしれない。
 けれど今、こんなに温かく嬉しい。もっと、感じていたい。与えられる感覚が、震えながら愛しさに変わっていく。本当に、心から誰かを望み、望まれて繋がる事はこんなに幸せなのか。

 離れていく体が惜しい。震えながら、ぼんやりとアルブレヒトを見ている。差し出された手を、躊躇い無く握った。
 その時、触れた指先から仄かな明かりが舞い上がり、金色の風が吹き抜けていく。勢いに目を瞑り、開いた時、失った左目に光が戻っていた。

『あ……っ』

 赤黒く、皺が寄っていた皮膚が綺麗に戻っている。触れた左側の顔にも、硬く皺が寄って沈み込んだりしていない。綺麗に、戻っている。

「行きましょう、ナルサッハ」

 微笑んだ人の手を握って、自らの足で地下を出るとそこは、綺麗な星空が輝いていた。

『綺麗ですね』
「えぇ」

 しばし無言のまま、空を見上げていた。
 その時不意に、意識が深く沈むような感覚があり倒れそうになった。それは当然のように訪れる、別れの予感だったのだろう。

「ナル」

 寂しそうな目がこちらを見る。
 けれど、ナルサッハは自らの意志でこの感覚を振り切った。するとまた、自分の中に確かな感覚が戻ってくる。
 まだ逝くわけにはいかないのだ。まだ、落とし前をつけていない。

「良かったのですか?」

 不安そうな顔がこちらを見ている。だから、綺麗になった左の手でアルブレヒトに触れた。

『今少し、留まります。まだ、やり残した事がございますので』
「やり残した事?」

 疑問そうな人が首を傾げるのに、私は微笑み膝をついた。

『我が君、アルブレヒト様。貴方の臣として、最後に勤めさせていただきます。時が来るまでしばしお別れですが、どうかお気になさらずに。時がきましたら必ず、再びお目に架かる事をお約束いたします』

 迷いも何もない晴れやかな気持ちで私は立ち上がる。私にはまだ、しなければならない事がある。己の起こしてしまったことのケジメを付けなければならないのだから。
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