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15章:王弟の落日

9話:セシリアからの手紙(アルブレヒト)

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 大分遅くなってしまったけれど、今度こそナルサッハを救ってやれただろうか。別れ際の彼の顔は穏やかで、昔に戻ったような気がした。
 だがここで救われたのはアルブレヒトもだったに違いない。ずっと引っかかっていた彼との事が整理できた事。そして、自分の心とも向き合い、伝える事が出来た気がした。
 人の感情を強く感じた事は宝だ。これまでユーミルの時代にも、こんなに特別な相手はいなかった。いや、広く平等な慈悲から抜けられなかっただけなのかもしれない。個人に向けるこんなに強い執着なんて持ち得なかった。
 でも今は素直に感じられる。彼は特別だった。今も特別だ。遺体を手放せず側に置いた事も、救った今もどこか寂しいのも特別故だ。例え救ったとしても、彼は既に死んでいる。長く側にあれるわけではない。でも、いて欲しいと願ってしまう。自分勝手だが、これが今の感情だ。
 恋情だったのだろうか。胸にぽっかりと開いた悲しさと寂しさへの答えは、まだ出てはいなかった。

 何にしても一つ気持ちが進んだ事は確かだ。その効果か、帝国側との話し合いはしっかりと進むようになった。

「良かった、兄の気持ちが少しでも前を向いたようじゃ」
「心配をかけましたね、シウス」

 真面目な国の話とはいえ、向き合うシウスとは穏やかな空気が流れる。トントンと書類を揃えたシウスが席に着くと、空気は一変するのだが。

「さて、戦後処理になるがの。キルヒアイスの処刑については、カール陛下も見届けるとの返事が返ってきた。場所は国境ラジェーナ砦前で良いか」
「そのように定め、臨時の処刑場を作っています。ここからの護送には私も同行します」
「ファウストもつける。今更あの男を奪還する奴もないと思うが、自殺などされては困る」
「エリオット殿が護送中、最悪鎮静剤を打つと言っていました。同意してあります」

 キルヒアイスの性格では自死は考えられないが、それでも念には念を入れておかなければならないだろう。あの男は多くの民を殺したばかりではなく、自らの妻を殺し、子も殺そうとしたのだから。

「概ねそれでこちらは同意できる。戦後賠償についても、そちらの提示に概ね同意という感じじゃ」

 帝国とのやり取りが纏められた書類を手に取りながらシウスは頷く。これには本当に感謝の言葉しか見当たらない。
 キルヒアイスの個人資産は抑えた。他国から奪い取った財貨や、気に入らない商人を潰して得た資産、ご機嫌取りに献上された品々などかなりため込んでいた。
 だがそれも戦後復興と賠償としてほぼ出してしまう事になる。取り急ぎは荒れたラン・カレイユの国土を復興させる事だろうか。
 それもあり、最初のカールとの話し合いで土地の引き渡しは出来ても金銭の賠償は難しい事を伝えて、書面にしておいた。そして彼はその約束を違えなかったのだ。「払えるだけでいい」という言葉が労いの手紙と共に贈られた時にはほっとしたものだ。

「帝国側のラン・カレイユの土地、三分の一。処刑後のラジェーナ砦の解体と、その跡地を帝国側でもらい受ける。これで、後はそちらの言い値で賠償は良いとの事じゃ。幸い戦いは帝国領内にはほぼ持ち込まれなんだしな」
「すみません、シウス」
「なに、気に病むな。むしろこれからは国交のなかったジェームダルと正式な契約を結べるとあって、商人がお祭り騒ぎじゃ。染料に良質の宝石、スパイスなども帝国にはない高価な物がある。兄、しっかり税の話をせねばむしり取られるぞ」
「ふふっ、そうですね。でもそれはこちらも同じ事。帝国の学問や文化、芸術、ワインや織物も魅力です。農地開拓の技術や治水に関しても学ばねばならない事は多いでしょうから」
「一時的な財貨ではなく、長く続く経済を。これこそ、価値のあるもの故な」

 ニヤリと笑うシウスに対し、アルブレヒトも同じように笑った。

「さて、こちらも概ねは予定通り。問題は、人じゃ」

 重苦しい顔をしたシウスがドッカリと背もたれに背を預けて腕を組む。思い悩むような様子に、アルブレヒトも僅かに俯いた。

 一部の人は、心にあまりに大きな傷を負った。そして、戦争が終わったからこそ不安げにしている者もいる。

 ベリアンスは気力を取りもどしたようだ。ダンが上手く事をおさめてくれた。あの二人は友情という絆がある。だからこそ、ダンならば今のベリアンスを立ち上がらせてくれるのではないかと思っていた。

 だがレーティスは、未だに心を沈ませている。

 チェルルはハムレットの側にいたいというが、帝国領内でのテロ活動という過去は消えない。帝国からの強制退去。これを覆すにはどうしたらいいか、考えあぐねている。戦争が終わり、それでもあの二人の絆は切れないどころかより増している。離れても、幸せであってもらいたい。

「兄、ベリアンスに関しては帝国で引き受けようか?」
「え?」

 しばし考えていたシウスから突然の申し出があった。それに目を丸くしたアルブレヒトに、シウスは尚も続けた。

「それぞれの軍の者を交換する事は考えておった。ジェームダル側としては『人質』という事にはなるが、そのような扱いはしないと約束する。この土地には思うところが多すぎるであろ? それならしばし、帝国で預かろうか?」
「そんな所まで迷惑をかけられませんよ」
「なに、どちらにしても誰かがと思っていた事ぞ。ベリアンスならば地位的にも申し分ない。そのかわり、こちら側の『監視』として、オーギュストを残したい」

 この申し出には、流石に甘え過ぎているようでいたたまれない。
 確かにベリアンスにとってジェームダルは様々な事がありすぎた場所だ。知り合いも多く、しがらみも多い。帝国が引き受けて新天地でしばらくの間暮らすのも悪くはないとは思う。
 だがそれと交換でオーギュストが来るのは、甘えている。レーティスを立ち上がらせるのに彼は必要な人物だが、それでもオーギュストの意志があるだろう。

「オーギュストは、なんと?」
「残って、レーティスの側にいたいそうだ。少なくとも今、彼を手放す事はできないと申し出があった。奴も昔はテロリスト、現在は強制労働として罪を償っている最中ではあるが、あの人格は信じておる。帝国への謀反などは考えられぬ故、籍を帝国騎士団に置いておれば目を離してもよいと考えている」

 思いがけない申し出は有り難い。だが、甘えてよいものだろうか。
 考えていると、シウスは苦笑して頷いた。

「大切な者を失う喪失感や絶望は、苦しい故な。一人では到底上がってはこられぬ。信じられる、身を預けられる誰かが必要じゃ」
「……そう、ですね」

 ナルサッハを失ったあの喪失感がふと戻って来て、アルブレヒトも苦笑して頷く。そして、オーギュストとベリアンスの件はそれぞれ本人の意志を確かめ、尊重する事で合意がされたのだった。


▼レーティス

 あの日から、どのくらいの時間がたったのか。もう、感覚が分からない。
 全てにおいて無気力で、食欲もわかない。眼裏に、落ちていくセシリアの姿ばかりが繰り返し映し出されて狂いそうになる。
 いや、狂ったのかもしれない。不意にフラッシュバックして、叫んで泣いて……その度にオーギュストが抱きしめる。腕を拘束する様に強く後ろから抱きしめられて、手で目を覆われる。

「大丈夫だレーティス。側にいるから、平気だ」

 静かに低い声が流れ込む。その声を闇の中で聞くと不思議と落ちつけた。


 彼は甲斐甲斐しくレーティスの世話をしている。目が覚める時には側にいて、眠る時も側にいて。食事も彼の手からだけは食べる気になった。受け付けないけれど、心配させたくなくて詰め込んだ。

 苦しそうな顔をしないで欲しい。こんなに世話をしなくてもいい。第一、この人にそんな義務はないはずだ。こんな面倒臭い奴をどうして、側に置いているんだ。

「お人好し……」

 ぽつりと呟く言葉は側にいる彼に聞こえているだろう。それを分かっているから、自己嫌悪に陥る。
 本当に言いたいのはもっと違う事だ。「有り難う」と言いたいはずなのに、口に出るのはマイナスの言葉。「放っておいて」「楽にして」「もう嫌だ」と、心がギスギスしたまま口に出てしまう。

「お人好しか。そうかもしれないな」
「否定しないのですね。こんな……面倒臭いでしょ」

 俯いて、呟いた言葉に後悔する。もしも「面倒だ」と返ってきたらどうするんだ。そんな事を言われたら、今は耐えられない。

 ギシリとベッドが軋む。次には頭を引き寄せられて、大きな胸に額を押し当てた。

「性分だ」

 性分……。それで、片付けられるのか。

 どんな言葉を欲していたのだろう。拒絶の言葉ではないものの、レーティスの心はひび割れたままだった。


 少しして、アルブレヒトがレーティスの元を訪れた。この人にも、申し訳がない。もっとしっかりしなければいけないのだろうに、大変な時なのに、立ち上がる気力も沸いてこないだなんて。

「レーティス、今少しだけいいですか?」
「はい……」

 叱責だろうか。だが、表情からそれは違うと読み取れる。手を握る温かな体温が、身に染みていく。

「痩せましたね。やつれたと言いましょうか」
「……申し訳ありません」
「いいのです、当然です。大切な人を亡くしたばかりですから」

 大切な人。それは、間違いがない。救ってあげたかったし、側にいてあげたかった。でも結局何も出来なかった。ベリアンスを、レーティスを解放するために、彼女は自らの命を捨てたのだ。

 アルブレヒトが苦笑して、存在を示すように手を握る。ここにいると主張されて、力のない視線で彼を見た。

「レーティス、オーギュストとは上手くやっていけそうですか?」
「え?」

 思わぬ名に、疑問が浮かぶ。どうして今、彼の名がでてくるのか。
 だがその答えはすぐに放り込まれた。

「オーギュストが、貴方の側にいることを望んでいます。貴方にも、それを確認したいのですが」
「側に、とは? だって、彼は……」
「私の後ろに帝国が付いた形ではありますが、我が国は敗戦国でもある。勝った国の監視下に置かれる事はごく自然な流れ。彼は監視人の一人としてこの国に残り、貴方の側にいることを願っています」

 そんな義理、彼にあるはずもない。義務もない。なのに、どうしてそんなに側にいようとしてくれる。こんな面倒臭い奴の側に、どうして。
 痛む胸を握った。「性分」という言葉が突き刺さっているようだ。

「いりません、そんな……」
「ですがレーティス、今の貴方には誰かが必要です。貴方はその相手を彼だと、何処かで思っているのではありませんか?」
「いりません! 私は! ……私など、どうなってもいいではありませんか。こんな面倒な奴、さっさと何処かで野垂れ死ねば良かったのです。助けなんていらなかった。なのに……どうして皆私に生きろと言うのです」

 手を握り絞めて、絞り出した言葉と一緒に涙もこぼれていく。家族のように、妹のように、恋人のように大切にしていたはずだった。望まぬ男の子を身籠もったと聞いてもまだ、裏切られたとか、憎いとか思わなかった。ただ、憐れんだ。
 一度は守れなかったから、次こそは守りたい。時間がかかっても、また笑って欲しい。そう思っていた相手はもうこの世のどこにもいないのだ。

「死なせてしまった。私達の為に……私が殺して……」
「それは違います、レーティス。彼女は全てを受け入れていました。貴方を案じていました。沢山の苦しみはあっても最後は、穏やかな気持ちで旅立っていったのです。貴方が幸せになる事を願って」
「ではどうして死んでしまったのですか! 彼女が死んで、私が喜ぶとでも……」

 言うべきじゃないし、相手が違う。けれど棘だらけの心は言葉と感情を抑えられない。困らせてしまうのに、吐き出そうとしている。

「……申し訳ありません、アルブレヒト様。今は、放っておいてください」
「レーティス」
「お願いします」

 これ以上はダメだ。これ以上訴えたら、多忙なこの人に迷惑をかける。この方は国の事、他の事、個人の事と多忙だ。そんな人にこれ以上なにかを訴えるわけにはいかない。

 どうしたらいいんだ。このやり場のない思いをどうしたら吐き出せる。胸に開いた穴はどうしたら塞がる。苦しい思いからどうやって抜け出せばいいんだ。

 アルブレヒトが立ち上がり、最後に「考えておいて下さいね」と言い残して出て行く。一人にして欲しいのに、一人は怖い。今のままではきっと、レーティスは自分の存在を否定することしかできないから。


 記憶が曖昧で、目が覚めた時には窓から月明かりが差し込んでいた。体が重たくて、頭も重たい。それに、左腕に違和感がある。
 そっと左腕を持ち上げて、そこに巻かれた包帯を見て、驚きに声が出なかった。でも、次には乾いた笑いばかりが押し寄せてきた。

「はっ……あはははっ。そうか、もう……」

 私の心は、ダメなんだ。もう、苦しくてたまらないんだ。どうする事もできないんだ。

 見れば側にグラスがない。水差しもない。危ないから片付けられたに違いない。

 その時、ガチャリと音がしてドアが開き、オーギュストが顔を出した。

「起きていたのか」

 安堵したような笑みを浮かべた人が側に来て、横になったままのレーティスの頭を撫でる。
 この人はどんな気持ちで側にいるのだろう。この状況で、何を思ったのだろう。
 見れば手に、包帯を巻いている。こんなの今朝はなかったはずだ。
 思ったら怖くなって、ガバリと起き上がりその手に触れた。

「これ!」
「果物を切ろうとして、少し切っただけだ」
「そんなはずないでしょ! 器用な貴方がそんなミス……」

 表情は変わらないが、ほんの少し眉根が寄る。それが、如実に事実を語っている。
 バカな事をしたのを、止めようとしたのか。それで、誰かが傷ついた。

「もう、止めてください……」
「レーティス」
「どうしてそこまでするのです! 貴方にそんな義理はないでしょ! どうして自分が傷ついてまで、私みたいなのを助けようとするのです! 貴方に何のメリットがあるのです! 私は!! 私は、死にたいと……」

 拒むように手をばたつかせて拒んだ。なのにその手はつかみ取られ、逆に強く抱き寄せられる。頭の後ろに手を置かれ、胸に納まったまま感じる心音に興奮しきった体が落ち着こうとしている。

「頼む、そんな事を言うな」
「どうしてぇ」
「俺の勝手だ。俺が、お前を死なせたくない。苦しむお前を見て、それでも手放せないのは俺なんだ。頼むレーティス、頑張ってくれ」

 どうして、そこまで言うのだろう。どうして望んでくれる。

「性分、ですか?」

 問いかけた。ピクリと震えたオーギュストの頭が、ゆっくりと否定を表した。

「すまない、この期に及んで隠そうとするなんて」
「隠す?」
「今のお前にこんな気持ちを伝えて、戸惑わせるのが……すまない、これも言い訳だ。俺はお前に蔑まれるのが嫌だったんだ。弱みにつけこむようで、躊躇ったんだ」

 ドキドキと、ほんの少し温度を持った鼓動が聞こえる。見つめた先で、精悍な眉根が苦しげに寄っている。

「お前の事を、愛している。側に居続けて、見つめて、お前に約束された相手がいると知っても……そこに返さなければならないのだと分かっていても、止められなかった。信じて身を寄せるお前を、裏切り続けていた」

 驚いた。けれど、思い返せば不思議には思わなかった。触れる手のくすぐったくも先を感じる余韻や、引き寄せられる腕の強さ。見つめる瞳は柔らかくて、どんなに面倒でも側に居続けてくれた。
 だから、困ったのかもしれない。セシリアがいるのに、婚約者がいるのに、疼く様な体の熱を感じるのはオーギュストにだった。

「すまない。軽蔑するだろ?」

 問われて、首を横に振る。そっと、触れてみた。そして素直に、身を寄せた。

「レーティス」
「貴方に欲情を感じた私も、セシリアを裏切っていた」
「え?」
「婚約者がいて、大切にしてあげたいのに肉欲を感じるのは貴方で……なんて現金なんだと。側にいないからって、彼女を裏切って……死なせてしまった。助けられなかった事と、もっと何か出来たんじゃないかと思う事と、結末が苦しくて……なのに貴方にだけ、当たり散らして」

 甘えだった。この人なら受け入れてくれる。見放されない。そんな安心感と甘えた気持ちを持っていたんだ。受け止められる事を前提としていたんだ。

 オーギュストは少し驚いて、それでも穏やかにしている。少しだけ嬉しそうだ。

「俺に、欲情してくれていたのか?」
「え?」
「彼女にではなくて?」
「セシリアにはそんな! 大切にしてあげたいけれど、男女の仲なんて想像ができなくて……その時点で愛情が、違ったのかもしれません。貴方と、彼女の間にある気持ちはまったくの別物だったのかもしれません」

 心の中が整理されていく。大切なものは大切なままだけれど、苦しさはそのままだけれど、息が詰まるような苦しさはもうなくなっている。

「なんて、酷い男でしょうね。婚約までして、女性として見ていないなんて……」
「共に過ごす時間が、そのうち変えていっただろう。彼女とずっと婚約者という意識で共にいれば徐々に関係は変わったと思う」
「貴方はどちらの味方をするのですか。これ以上私を混乱させないでください」
「……すまない。でも、切り捨てるような事はしてほしくなくて。大切だった事に間違いはないんだ。無理に見切りを付けたりはしなくていい」

 「お人好し」と、やはり恨み言のように呟く。けれどもう、そこに苦しさは少ない。分かってくれている、そう信じている。

 落ち着いたら、久しぶりにお腹が鳴った。恥ずかしさに目を丸くするとくくくっと笑う声がする。睨み付けると彼は立ち上がり、「食事を持ってくる」と頭を一撫でして出てく。

 まだ先の事なんて分からない。けれど少しだけ、生きたいとは思った。こんな自分を、セシリアは許してくれるだろうか。弔いはしていくけれど、個人として生きてもいいだろうか。


 翌日、ベリアンスがセシリアの手紙を持ってきた時、開けるのが怖かった。恨み言が書いてあったら、受け止められるか分からなかった。
 けれど側にオーギュストがいてくれたから、深呼吸をして開ける事ができた。

『レーティス様

 この手紙が貴方に渡ったのなら、私はきっと直接貴方に何かを伝える術を失ったのでしょう。
 けれど、どうかご自分を責めないでください。貴方が私を大切にしてくださった事を、私は幸せに思っています。私があの男の所に行くと知って『逃げよう』と言ってくれた事、とても嬉しかったです。
 この結果は、私が頑固だった事、融通が利かなかった事が原因です。私も、貴方や他の皆の為に戦おうとしたのです。バカですよね、本当に。

 私のお腹には、あの男の子がいます。とても苦しみました。殺してと叫んで、死のうとしていました。けれど少しずつ、悩むようになりました。私の勝手で、殺していいのだろうかと。私がどれだけ死のうとしても生きたいと願う子を、どうしていくのがいいのだろうかと。
 男の事は嫌いです。他の妃達も同じように言います。それでも、子の事は愛しているのです。
 私も、愛する事ができるのでしょうか。この子を抱えて、いつか笑える日がくるのでしょうか。それは、分かりません。けれどもう、私にこの子は殺せません。

 不誠実な女でごめんなさい。貴方を裏切る結果になって、ごめんなさい。
 これが運命だったのでしょう。お兄様みたいな貴方に甘えていられた時代を宝物に、私は一人で頑張ってみます。
 だからレーティス様は、ご自分の幸せを探してみてください。私に縛られず、自由に生きてください。私はきっと大丈夫。一人ではありません。母は強いのです!

 さようなら、私の二人目のお兄様。貴方の幸せを心から祈ります。

セシリアより』


 読み終えて、涙が出た。苦しんで、それでも悩んで、彼女は自分の道を決めていたのか。
 隣のオーギュストがギュッと肩を抱き寄せる。その肩口に額を押し当て、レーティスは感情のまま泣いた。
 けれどこの涙は、もう心に重くたまったりはしない。傷口を流すように、溜まった重みを押し流すようだった。

「レーティス、俺は帝国に行こうと思う」
「帝国へ?」

 ひとしきり泣いたレーティスに、ベリアンスは重く言って頷いた。鼻っ柱を赤くして、目元を拭って向き直ると、彼は何かを強く決意したようだった。

「むこうの宰相から、打診があった。俺も一人で、自分に何ができるのかを探ってみる。そしてもう一度、騎士としての誇りを取りもどして帰ってくる。それが、セシリアの願いだから」
「そう、ですか……」
「お前に、セシリアの墓を任せてもいいだろうか。俺が戻るまで」

 ギュッと胸元を握って、レーティスは考えていた。不安はあるが、放っておく事もできない。どれだけ新しい人ができても、心が穏やかになっても、彼女が消える事はないと思う。してやれる事をしたい。

「分かりました」
「すまないな」
「大丈夫です」
「……お前も、自分を責めるな。俺もだが、それをセシリアは望んでいなかった。生きて、天命を全うしよう。その時に彼女にちゃんと、笑っていられるようにしよう。それが、残された俺達に彼女が望む事なんじゃないかと思うんだ」

 ベリアンスの言葉が染みていく。同じようにセシリアを大切にしていた、ある意味での家族。同じ悲しみを背負った人の言葉は、それが正しいように思える。
 何より手紙に書いてあったじゃないか。『幸せになってほしい』と。

 心から、彼女の事が消える事はない。思い出せば時に苦しいかもしれない。でも、死んだ彼女が苦しむ姿を望むとも思えない。涙を流しても、誰かに微笑んで語って、寄り添っていられる方が彼女も喜ぶだろう。
 その相手はきっともういる。隣で心配そうにしているオーギュストを見上げて、レーティスは薄く笑った。

 いつかこの人にも聞いてみよう。自分に似ているという前の主の話を。そうして互いの大切を共有しながら、拭い合ったりしながら、過ごしていけたらいいのだろう。

 立ち止まった時間を少しずつでも動かそうと、レーティスもまた立ち上がる事ができる気がした。
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