林檎の蕾

八木反芻

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よん『重度の微熱と甘え下手な絆創膏』

9 かさぶた

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 ハルが、美味しそうにリンゴのゼリーを頬張るサキを覇気のない目で眺めていると、アブラゼミの鳴き声に似たインターホンが鳴った。
「お客さんですか?」
 顔をあげるサキの言葉にドアへ視線を移すと、また鳴った。

 ──ジー、ジー、ジージジジ……──

「いいや、予定はない」
 時刻は20時すぎ。出迎えを何度も急かす音に腰を上げたハルはドアへ近づきスコープを覗く。 
 その向こう側に立つ人物は、フリル袖で胸元がザックリと空いたブラウスに、膝丈のふんわりスカートを合わせ、明るめのベージュブラウンカラーの髪をゆるく2つに束ねて結んだ20代前半の女性。
 その姿を確認したハルは仕方なくドアを開けた。
「お見舞いに来ちゃいましたぁ!」
「小松さん、どうしてここが……?」
「係長に聞いたんですよ。お見舞いに行きたいって言ったら教えてくれました」
 ハルはまぶたを閉じ、目頭を押さえた。
「はぁい、お見舞いといえばフルーツですよね! 色々買ってきましたよ~?」
 掲げるカゴの中にはいろんな種類の果物が入っている。
「申し訳ないが、帰っていただけませんか」
「えー? せっかくリンゴでウサちゃん作ってあげようと思ってたのにぃ~。ナイフだってほらぁ!」
 フルーツバスケットをハルの胸に押し付け強引に持たせると、手提げバッグから折りたたみの果物ナイフを取り出し広げて見せた。
「危ないな……」
 ナイフの側面に映る小松は微笑む。
「いいでしょ?」
「……お断りします」
「あー、もしかして他の女性連れ込んでるんでしょお! もー嫉妬しちゃいますよぉ~」
 部屋を覗こうとする小松の頭を押さえて制する。
「そんなわけないでしょう、風邪なのですよ」
「ふぅん? 元気そうに見えますけどー?」
「……幾分体調は良くなりましたが」
「だったらちょっとだけ! ね? 波瀬さんに会えなくて寂しかったんだもん……少しでもいいからそばにいたいの……」
 と、甘ったるい声ですり寄る小松を体から押し剥がす。
「私を想うなら帰ってもらえませんか」
「いけず」
 小松は背伸びをして軽くキスすると、ふたりは見つめあった。
「……入れて?」
 ため息をつくハルは小松を部屋の中へ入れたが、奥へは行かせない。先にバスルームへ向かうよう言った。目的が見舞いでないことは端からわかっていたから。
 受け取ったフルーツバスケットをテーブルへ置きに部屋の奥へ戻ると、ベッドの脇に身を隠すように体を縮まらせるサキがいた。
「なにをしている?」
「……一応、隠れた方がいいかなと思いまして……」
「なぜだ」
「他の、女性がどうのって、聞こえたので……」
「その言葉の意味がわからないか? 俺たちはただの友だち、だろう?」
(ただの……)その言葉に、なんだか胸がチクンとした。
「安心しろ、ここへは連れてこない」
 フルーツバスケットとナイフをテーブルへ置き、未だに体を丸めるサキの下へ近づくと、ハルは掛け布団をめくり「入れ」と指示した。頭にはてなマークを浮かべるサキだがわからずもそれに従う。
「俺が戻るまで耳を塞いでおけ」
「え?」
「あんたには刺激が強い」
「……どういうことですか?」
「話を聞いていたのなら、わかっているはずだ」
「……教えてください」
 寝そべるサキの目線に合わせ、ハルはしゃがむ。
「俺たちがなんでもないただの友だちという関係なら……」
 不安げに見つめるサキの鼓動が速まる。その言葉の続きをおそらく知っているから。
「彼女は都合のいい友だちだ」
「それって……」
「お遊び、とでも言えばわかるか?」
 その言葉に胸の奥がゾワゾワしたのは、良くないことだからだろうか。嫌悪感とは違う胸のざわめきと吐き気のようなものが喉を圧迫する。
 それ以上の言葉は聞きたくないはずなのに、後悔を承知でサキはおそるおそる尋ねてしまう。
「……今から、なにを……するんですか……?」
「知りたいか?」
「はい……」
「わかった。それなら、あんたを彼女に見立てて実際にやってみせよう」
 被さるようにサキの体を跨いでベッドに手をつくと、顔を伏せたサキは激しくかぶりを振った。
「よくわかっているじゃないか」
 すがるように枕の端を握るサキの手に、優しく手のひらを重ねたハルは身を屈め体を寄せた。
「今すぐ友だちをやめて、あの女ではなく、俺はあんたを選んだ方がいいか?」
 サキはまた大きくかぶりを振ると、掴むハルの手を振り払い、頭上の枕を引っ張った。
「素直になれ……」
 拒むように背中を丸めて枕を抱き締めるサキの耳元へ、口を近づけささやく。
「俺が好きなんだろう……?」
「……きらい……!」
「だったら友だちやめるか?」
「いやです……!」
 顔を隠す長い髪を横へ流し、ギュッと目をつむるサキの横顔を見つめた。
「楽になりたくはないか?」
 小刻みに震える体。肩に軽く触れると、枕を抱くサキの腕に力が入った。
「認めなさい……」
「もう聞きたくないっ……!」
 サキは赤くなった耳を両手で強く押さえ、それを隠すように枕へ顔をうずめた。
 耳をふさぐ姿を確認したハルはサキの体から退くと、掛け布団に手を伸ばし、少女の体が全て隠れるように頭まで覆い被せた。
 ベッドから離れたハルは、デスクの脇に置いた鞄からドリンク剤を取り出す。
 キャップに手をかけたが、やめた。
 ドリンク剤をデスクに置き、代わりにあのパーカー青年に渡された茶色の小袋を取って、室内の設定温度を下げてからバスルームへ向かった。
 鍵のかかっていないドアを開け、断ることもせず入室すると、小袋を傾け中のカプセルを手のひらへストンと落とした。
 ハルが便器内の水へ目を向けていると、シャワーを浴びていた小松は手を止め、シャワーカーテンから顔を覗かせた。
「待てなくなっちゃった?」
 便器のふたを閉めたハルは、カーテンを開ける小松へ視線を移し、近づいてバスタブに足を突っ込む。両手を広げる彼女を抱き、唇を強く重ねた。
 水はけが悪く、くるぶし辺りまで溜まったお湯が、ふたりの動きに合わせ波を立てる。
 身をひるがえし、ハルの体に寄りかかった小松は、微かに濡れたワイシャツのボタンを外しはじめる。
 膝を曲げて首もとに顔をうずめるハル。背中に腕を回すと、ツインテールの結び目に手を滑らせヘアゴムをほどいた。
 パンツの裾はお湯を吸い上げ、壁に預けた体がユルユルと落ちていく。ふたりはバスタブに座り込みそのまま触れ合う。
 ハルの胸に触れる小松は、肌に張り付く透けたワイシャツの中に手を滑り込ませ肩から外したが、ハルはこれ以上脱ぐ気はなかった。
 腕まで落ちたワイシャツの突っ張りを感じながら小松の口に手のひらをあてがう。
「声を抑えて……いいかい?」
 小松はコクンとうなずき、ハルは手を外す。
「私が押さえなくても我慢できる?」
「はぁい」
 小松はハルに抱きつき顔を見上げた。
「ねぇ、そろそろあっち行こ……?」
「ここで済ませる」
 小松を軽くあしらったハルは立ち上がりシャワーヘッドを持つと、一番高い位置にあるフックへかけ直し水圧をあげた。
 落下するお湯は勢い良くバスタブへ飛び込む。お湯が少ないため、直接底へぶつかりジョボジョボと大きな音を立てる。
「終わり次第帰ってもらいます」
「冷たいこと言わないでくださいよぉ。あ、このあと看病してあげますから」
「その心があるなら今すぐお引き取り願いたい」
「いじわる」
 ハルは備え付けのフェイスタオルを取り小松に渡した。
 小松の片足を持ち上げバスタブのフチに引っかける。立て膝をつくハルは、もう片方の足を自分の太ももの上へ乗せた。横たわる小松の腰に手を回しクイッと持ち上げ下腹部に顔をうずめて深く息をする。
 タオルでふさぎ声を抑える小松。それでも気になったハルは小松の手からタオルを奪うと、小さく折り畳み口元へ当てた。
「噛みなさい」
 開いた口へタオルを押し込み、小松の手を掴むとその上から手のひらをあてがわせ、さらに押さえさせる。
 その呼吸のしづらさが小松のスリルをあおり、腰が抜けるほどの悦びに恍惚とした表情を浮かべた。
 口を開き唾液の染みたタオルを外す小松は、声を押し殺しながらせがんだ。
「波瀬さんっ……はやくきて……」
「今日はしない」
 疲労を感じるハルは小松の腰を下ろした。
 バスタブのフチにかけた足を外した小松は上体を起こし、濡れた袖で口元を拭うハルのパンツへ手を伸ばす。
「よしなさい」
「ダメ、絶対する」
 開けられたチャックの隙間から中へ潜り込もうとする手を掴み止める。
「いけない子だ。私の言うことが聞けないのなら……」
 背後のチェーンを引っ張り、排水口にゴム栓をする。
「今後一切付き合わない」
 見据えるハルの瞳に、小松は弱々しい眼差しを向け、うつむいた。
「ずるいよ……」
 静かなバスルームに響くシャワーの音が少しずつ鈍くなっていく。
「どうして今日はそんなに冷たいの?」
「風邪だと言っているでしょう……」
 わずらわしさに目をつむるハルに小松はしがみついた。
「こんな中途半端な体にしたんですから、最後まで責任とってくださいよぉ」
 ハルはうっすらと目を開けた。作られた涙をウルウルと浮かべる小松の頬に手を添える。
「治ったら、君が泣き叫び心の底から私を拒絶するまでとことん付き合うと、約束する」
「今してほしいの!」
 訴える瞳を見つめるハルは、頬に当てた手のひらを尖らせる唇へ滑らせる。消えかかった濡れた淡いピンクの口紅を拭うように親指で輪郭をなぞると、小松は薄く開いた口から舌先を覗かせ、その指を舐めた。
 お湯に浸かった空いている手で小松の顎を掴み、上の前歯に唇に触れる親指を引っかけ口を押し開けたハルは、二本の指を喉の奥へ差し込んだ。
「私の言うことが聞けないのか?」
 入れた指で舌を挟んで引っ張り付け根を押す。小松はたまらずえずく。苦しそうに咳き込む口から指を引き抜くと、バスタブに溜まるお湯の中へ唾液がダラリと垂れ落ちた。
 荒々しく呼吸する小松の体を反転させ、両手を掴み後ろ手に組ませると、背中に覆い被さり彼女の動きを封じた。
「……波瀬さ……待っ、て……!」
 伸ばした手のひらを振り向こうとする後頭部に押し当てる。
「こんなとき、音楽でもあればいいのだが」
 押さえた頭をお湯の中へ強引に突っ込ませると、バスタブの底へ押し付けた。
 ハルは様子をうかがいながら、音を立ててもがく姿を静かに眺める。抵抗する力が弱まり圧する手を緩めると、小松は勢いよく頭を上げた。
 ぜぇはぁと息つく小松にハルは問う。
「約束するか?」
 息をすることで精一杯で声が出せずうなずいて答えるも、ハルはまたも小松の頭をお湯へ押し込んだ。
 今度はすぐに引き上げる。
「返事は?」
「……はっ……はぁ……」
「聞こえない」
 ハルは再度押し込む。背中にのしかかり小松の腕を密着させた体で押さえると、少しだけ力を緩め、水面から浮き出た耳もとに顔を近づける。
「約束、できますか?」
 小松の手首を掴んでいた手を口元へ持っていく。頭を抱えるように下からくぐらせ、固く閉じる唇に触れる。
 お湯の中で動く口から声にならない音と空気をゴボゴボと吐き出した。
 溜めた空気が全てなくなり我慢できなくなった小松はお湯を飲み込んでしまった。
 ハルはすぐに小松の体を抱え起こした。
「よろしい」
 激しく咳き込みながらお湯を吐く。もうろうとする小松はハルの体にもたれ掛かり、後ろから抱きかかえる腕に震える手を添え涙を流した。
「……私、波瀬さんの言うことならなんでも聞く……だから見捨てないで……?」
「わかった」
 安心した小松は目をつむり深呼吸した。
 存在を確認するようにハルの体にソッと触れる小松の手が止まる。絆創膏が貼られた手に視線を落とし振り向いた。
「……この手、どうしたの?」
「少し怪我を」
「そうじゃなくて、この絆創膏」
「ああ、もらいものだよ」
「誰から?」
 何度断っても『濡れると染みて痛いですよ』と、サキはハルの手をとり貼りつけた。
 その絆創膏を引っ掻く小松の指をごく自然に払いのけるハル。
「……お互い干渉しない約束では? あなたがそう言ったのですよ」
「でも今は違う……私だって心変わりするよ?」
「本心は変えられない」
「そんなことない……私、最近思うの……波瀬さんとなら結婚したいって……本気、だよ……?」
 ハルは腕の中で向き直る彼女の目を見つめ、自分の手のひらに視線を落とす。猫の女の子が描かれた絆創膏に指をかけると、ふと、あの子が微笑みながらこの絆創膏を貼る姿が過った。
「ねぇ、私のことだけ見て?」
 小松はハルが見つめるその手を隠すように両手で覆う。
「波瀬さんを一番愛してるのは私……」
 ハルは握りしめる小松の手を外し、潤ませる瞳を見据える。
「小松さんがやきもちをやく相手ではないよ」
 そう言ってあげると彼女は満足げに笑った。
 抱きつく背中の向こう側、真っ白な壁を凝視するハルはまぶたを閉じる。そして、絆創膏を剥いだその手で、目の前の体に触れた。
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