林檎の蕾

八木反芻

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よん『重度の微熱と甘え下手な絆創膏』

10 見えない壁

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 ドライヤーの音がする。
 暑苦しい暗闇の中で見えない部屋の音に耳を傾けていると、ひとつの足音がこっちへ近づいてくるのに気づき、サキは慌てて耳をふさいだ。
 掛け布団がめくられる。
 温度差に身を縮ませるサキは目を細めた。
 部屋の明るさに眩んだ目が慣れてくると、バスタオルを羽織ったハルが見下ろしていた。
 濡れたワイシャツから透けて見える体に戸惑ったサキは目をそむけた。パンツも濡れていて、裾を巻き上げている。
「すぐに着替えた方が……」
 ふとハルの手もとに目を向けたサキは顔を見上げた。
「剥がれちゃいましたか?」
「……ああ」
 そう答えると、サキはポシェットから絆創膏を取り出し、ハルの手をとって貼り付けた。
「これで大丈夫ですよ」


 サキはベッドの端に座り静かに本を読んでいる。絆創膏と似た絵柄の男の子が表紙に描かれている。
 バスルームのドアが開く。
 壁にもたれ少女の様子を眺めていたハルは、身支度を済ませた彼女へ目を向けた。
「忘れ物はありませんか?」
「はぁい」
 ハルは小松の背中に手を添え退室を促しドアノブに手をかけた。その右手に、
(あれ? 絆創膏……)
 クルリとドアに背を向けた小松はハルの首に腕を回した。
「バイバイのキスして?」
「しません」
 小松はつま先を立て、寄りかかるように唇を重ねた。仕方なく受け入れるハルだったが、一向に離れようとしない小松の肩を掴み押し返した。
「……こら」
 バスルームで死角になっている部屋の奥。ここからではベッドが見えない。ワークデスク上の大きな鏡を覗こうにもハルが邪魔で見えない。もちろん出入り口付近の姿見からも見えない。バスルームと向かいの壁からなら確実に見える。ただ、通せん坊するハルを少し奥へ押し込まないと。
 小松はイタズラに笑う。
「大好き!」
 首に体重をかけられ体勢を崩したハルは小松の腰を支え壁に手をついた。その音に顔を上げたサキは思わず見てしまう。
「はっ……」
 あたふたするサキの瞳に映る抱き合うふたりの姿。
 ハルの肩から顔を覗かせた小松は、気づかれないように部屋の奥を盗み見た。そこにはベッドの端に座る少女がいた。
(娘? でもふたりに子どもはいないはずだし……じゃあこの子は誰?)
 少女は本で顔を隠し、なにやら気まずそうにうつむいている。
 少女の顔が見たくなった小松は離れようとするハルにグッとしがみついた。
「おい、いい加減にしっ」
 小松は呆れるハルの言葉をふさぐ。
 攻撃的に舌を絡ませる小松に抵抗して顔を背けようとするも、頭の後ろに回された手で強引に引き寄せられてしまう。
 普段なら簡単に外せるはずだが風邪のせいか、ましてや体力がそがれた今のハルに振りほどく力は残っていなかった。
 無駄に大きなリップ音と派手でわざとらしい吐息を発する小松。
「やめろっ……」
 ハルは小松の胸元に手を当てグンと突き離した。
 壁に背中を打ち付けた小松は、乱れた呼吸と前髪の隙間から、上目遣いでなまめかしい笑みを浮かべる。
 息を切らして口元を拭うハルの手の甲に付着した唾液には、ピンク色の口紅と鮮やかな血が混じっていた。
「次はたっぷり楽しませてくださいね?」
 ジトリとした目を軽快に跳ね返す小松はもう一度ベッドを見たが、そこに少女の姿はなかった。
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