林檎の蕾

八木反芻

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よん『重度の微熱と甘え下手な絆創膏』

11 熱の前触れ

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 サキはあくびした。
「もう寝なさい」
 流れる涙を拭くように目を擦るサキを、ソファに腰かけ、うっすらと眺めていたハルは言った。
「ハルさんは?」
「ここで寝る」
 そう言って腕を組み目をつむるハルを、サキは起こす。
「せっかく良くなってきたのに、また悪くなったらどうするんですか」
「これ以上悪くはならない」
「ぶり返すかもしれないですよ、ベッドに寝てください」
「俺はいいから、あんたが使え」
「ダメですって!」
 いらぬ心配をするサキにゆっくりと目を開けたハルは「頼むから、寝かせてくれ……」と、疲れた口調で呟き背を向けた。
 治りかけの風邪とはいえ、今日はやけにくたびれた様子をみせるハルが、サキは気がかりだった。
(わたしのことなんてどうでもいいのに)
 他で寝ていても毎回いつの間にかベッドへ移動されてしまうサキ。今日こそは、今日だけでも、絶対朝までベッドで眠らせたい。
(だったら……)
 サキはそっぽ向いて眠るハルへ近づき、部屋の明かりを背に見下ろした。
「一緒に使えばいいじゃないですか。友だちなんですから……別に、問題ないですよね?」
 今日だけは絶対に譲れないと、強気に出てみる。
 ハルは横目でサキを見上げた。
 影をまとうサキの、怒りともとれるその複雑で難解な眼差しの本質を見抜こうと、ハルは鋭く見つめ返した。
 その視線に押し返されそうになったサキは、眉をひそめ我慢する。
「……ああ、確かにそうだな」
「そうです! そうです……」
 のっそりと腰を上げたハルは、途端に不安げな表情へと変わる少女を横切り、ベッドへ向かった。
「……移っても文句いうなよ」
「今さらですよ。それに、バカは風邪を引かないって言いますし!」
「自信満々に言うことではないと思うが……」
「実際、わたし最近全然風邪引かないんですよね! やっぱりバカだからかな……」
「それ、鈍感って意味だよ」
 先にベッドへ入ったハルは体を起こし、ベッドの脇でまごつくサキを手招きするが、サキはやんわりと断ろうとしていた。
「あっ、あとで、寝ます……」
「だったらあんたが寝るまで俺も寝ない」
 おそらく、ハルは言葉の通りサキがベッドに入って眠るまで寝ないだろう。
 困ったサキは袖で口元を隠した。
「どうする。寝るのか、寝ないのか」
 体をくねらせ悩むサキは、心ならずも従うことにした。
 ハルの隣へ腰を下ろし、布団をめくる。
「失礼します……」
 ふたりで寝るには狭苦しいセミダブルベッド。背の順でいつも前の方に並ばされるサキと、平均より少し高い背丈のハル。ふたりの体格差ならなんとか、なんとか収まるサイズ。
 部屋の明かりを消そうとするハルに「真っ暗だと眠れない」と、サキはベッドサイドのライトを調節した。本当は真っ暗の方が顔が見えなくてよかったのだが、やっぱり怖いから。
 薄暗い部屋の中で、ふたりはベッドに横たわる。
 サキは仰向けに寝るハルに背を向けて、そっとまぶたを閉じた。

「おやすみなさい」と挨拶を交わしてからどれくらいの時間が経っただろう。
 眠気は一体どこへ行ってしまったのやら。ベッドに寝てもらうために『問題ない』と言ったサキだったが、完全に目が冴えてしまっている。
 ダイレクトに伝わる振動を気にして、寝返りを打つのもままならない。サキは、胸の鼓動まで伝わってしまわないか気になって、まだまだ眠れそうにない。
 猫のように背中を丸めるサキは静かに体をひねった。
 死んでいるのかと思うほどなんの寝音もしないハル。未だ仰向けに眠るその横顔をこっそり眺めていると、窮屈そうに寝返りを打ち、こっちへ顔を向けた。
(わっ! 生きてた!)
 向かい合う彼の寝顔。近いと思いつつ眠っているのをいいことに、サキはここぞとばかりにその顔をまじまじと見つめた。
 サキはハルを、人間とは別の生命体、宇宙人または、人間と見分けがつかないほど繊細かつ高性能な人工知能を搭載したロボットなのではないか、と、わりと本気で思っていた。
(綺麗だなぁ……)
 寝顔も崩れない美人な顔立ちに嫉妬しつつ、なんだか愛おし……優しい気持ちになっていく。
 そのまま見つめ続けていると、上昇しっぱなしだった心拍数も穏やかになって、得たいの知れない安心感に包まれていった。
(このまま眠れるかも……)
 波に身を任せまぶたを閉じたサキだったが、女の人と抱き合うハルの後ろ姿がふとまぶたの裏に浮かび、その映像を消すように目を開けた。
 なんだかよくわからない胸のざわつきが、またサキに襲いかかる。
 一度ふさいだ耳をふたりの行為に傾けてしまったのが悪かった。
『あんたには刺激が強い』という言葉が身にしみて、今もなおサキを苦しませる。
 好奇心とは時として罪だ。興味とそれに伴う高揚感、そして、自滅。大きなダメージを負うことはわかっていても、知りたかった。
 ハルの口元へ向かってしまう視線をどうにかしようとまた目をつむるも、数時間前の出来事が脳裏をかすめる。
 だからもう一度耳をふさぎ、今度は知らないフリをした。だけど、
『彼女は都合のいい友だちだ』
 眠ろうと必死になるほど、深く考えてしまう自分を振りほどく。
(わたしは……)
 うっすらとまぶたを開くサキは小さくため息をついた。
(なんでもないただの友だち……)
 目の前のこの人にとって、なんでもなくない友だちと思ってもらうにはどうしたらいいのか。
(……ちがう)
 それ以上のことなど求めていない。ただ、ただ普通に、
(仲良くなりたいだけなのに……)
 目頭が熱くなる理由を考えていると、ハルはパッと目を開けた。それに驚いたサキは慌てて目をつむる。すると、一筋の生温かい、理解し得ない感情が頬を伝った。
(気づかれた、かな……?)
「……眠れないのか?」
 起きていることがバレてしまった。このあやふやな感情まで悟られてはいないか、サキは怖くて返事ができず布団に潜った。
「そんな端にいたら落ちるぞ。もっとこっちへこい」
 布団の中で伸ばした手がどこかに触れると、サキの体がビクリと跳ねた。手を這わせ、見えない体の部位を確認するハルは腕を掴んだ。引き寄せようとするもその体は動かない。
 強ばるサキの様子に、ハルは手を引っ込め背を向けた。
「……もし俺のせいなら、やはり出よう」
 その言葉に顔を覗かせると、布団をめくって起き上がる姿が目に入った。サキは、出ていこうとベッドに腰かけるハルの服を慌てて掴み引き止める。
「違います……! だから、行かないでください……」
 言葉に深い意味はない。ただ、ベッドに寝てもらいたいから、ただそれだけの理由で彼の服を掴んだのだと、サキは言い聞かせた。
「このままあんたの気持ちに応えてやってもいいが……」
 再びベッドの中へ体を滑り込ませたハルは、見つめるサキの頬を撫でた。まるでさっき流れた感情に気づいているようにその痕を追う。
「気持ちって……?」
「怖いんだろう? 暗闇が。安心できるようにそばへ寄ろう」
 体をすり寄せるハルはサキの目元に人差し指を添え、目の縁から溢れて止まらない涙を拭った。
(ああ……また泣いていたんだ、わたし……)
 すぐに泣いてしまう自分のもろい心が大嫌いだった。その悔しさに顔をしかめるサキの背に、ハルは腕を回しその体をフワリと大きく包んだ。
 高ぶる心をなだめるような手つきは、サキにとっては逆効果。
(そんなことされたら、もっと……ん……んん?)
 背を這う手のひらの動きに違和感を抱く。
「ハルさん……?」
 その思惑に気づいたサキはお尻に伸びる手を力強く払いのけた。
「ハルさん!」
 呼ばれたハルは、胸元で渋い表情を浮かべる少女に眠たい目を向けた。
「そんなことをしても無駄です。わたしにはもう通用しませんから。嫌われようとしても、気持ちは変わりませんから。なので、もう二度としないでください」
「……それは残念」
 体から離れたハルはおもむろに背を向ける。その陰で胸に手を当て、高鳴る心臓を押し込めるサキ。
(おさまれ……!)
 これからもっと友だちになるために、友だちで居続けるために、きっとこの感情は悟られてはいけない。
 向けられたその背中を、睡魔に襲われるまで睨み続けたのは、謎めいたこの気持ちを隠したい少女の精一杯の強がりだった。



『重度の微熱と甘え下手な絆創膏』おわり。
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