林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/なれる夏』

1 単純不純社交辞令

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『リンゴって宇宙なんですよ』

 どういうことかと問えば、少女は笑った。

『その宇宙の中にはたくさんの星が存在しています。見つけてください。ハルさんへの宿題です』



 軽快なリズムを奏でるピアノの音が、控えめなボリュームで流れているレストラン。落ち着いた雰囲気に皆がディナーを楽しむ中、男は運ばれてきたデザートに手をつけず凝視している。
 添えられたバニラアイスがのったりと溶け出し、糖蜜で薄くコーティングされた焼きリンゴの底からジワリジワリと侵食する。
「……どうしました?」
 その言葉にそっと顔を上げると、正面に座る若い男性は不安げな顔でこちらの様子をうかがっていた。
「もしかして、リンゴ、お嫌いでした?」
「……いいえ」
 相も変わらず退屈そうな男の表情に、男性はうつむき額をかくと、照れ笑いを浮かべた。
「不慣れなもので、すみません……」
「お気になさらず」
 男は甘く焦げたリンゴへ再び視線を落とすと、フォークで押さえながら立てたナイフをクッと差し込み、柔らかくパリンと割った。
 唇に残る蜜を舐めとる仕草に、咀嚼する姿をジイッと盗み見ていた男性は、不思議な高揚感にゴクリと生唾を飲み込んだ。

・・・

「あれぇ? 小松ちゃん居残りー?」
 小松と呼ばれたツインテールの若い女性は、声をかけてきた男性へクルリと体を向けた。
「そうなんですぅ。全然終わらなくって」
「俺、手伝おうか? 二人でやった方が早いっしょ! ね?」
 陽気な笑顔で近づく男性は、小松が作業するデスクに手をつき控えめな声で言う。
「……終わったらさ、一緒にご飯でも、どう……?」
「ありがとうございます。でもごめんなさい! 私、今回の仕事は自分の力だけでやり遂げたいので。いつまでも頼ってばかりでは成長できませんから。せっかくのお誘いですけど、また今度お願いしますねっ」
 語尾にハートマークが付きそうな甘ったるい声で受け流し、慣れた上目遣いに、優しい笑みをかます。
「そういうことなら、邪魔しちゃ悪いよな~。でも無理はしないでね、お疲れ様!」
 男性がオフィスから出ていくのを見届けた小松は、両手を上げ「う~んんっ」と大きく背伸びをした。
「ふぅ」
 一息つき、パソコンの電源を切る。
 椅子をクルリと回し、オフィスに残るもうひとりの男性に目を向けた。
 パソコンに向かうその男性の背中をしばし見つめると、ニッと口角を上げ立ち上がった。
 ようやく訪れた二人きりの空間。
 小松は男性の背後へ近づきそのまま抱きついた。
「はーせさんっ! 早く行こ?」
「……仕事は?」
「とぉっくに終わってますぅ」
 小松はデスクに腰掛け、ハルの頬を両手で包むと、パソコンに向ける顔をクイとひねり自分へ向けさせた。
「波瀬さんを待ってたんですから……」
 頬に添えた手のひらを首もとへ滑らせ、キッチリと締められたネクタイに手をかける。小松は前屈みになり顔を近づけたが、ハルは顔の前に手をかざし制した。
「給料泥棒」
「サービスですぅ! もしそうなら波瀬さんもですよー?」
 小松はハルの手を掴み、はだけたブラウスの胸元からその中へと誘った。
「泥棒同士仲良くしましょ?」
 小松が再度唇を寄せると、ハルはそれに応じた。
 背に手を回すハルの膝の上に座り体を密着させる。小松は緩めたネクタイの間に手を伸ばし窮屈そうな首元のボタンを外した。
「波瀬さんって全然汗かかないですよね」
「そうかな」
 二人が不真面目な仕事を処理していると、突然オフィスのドアが開いた。
「いや~はは、忘れ物しちゃった! あれ? 小松ちゃんは?」
 とっさに身を屈めハルの陰に隠れた小松は、ハルの足を押し退けデスクの下へと潜り込んだ。ハルは、脚の間でイタズラな笑みを浮かべる小松に向けた視線をパソコンへ戻し、緩んだネクタイを締める。
「休憩すると言って、さきほど出て行かれましたよ」
「そうなんだーそれは残念だな……」
 見上げる小松は、然らぬ顔するハルの膝を指でツンツンとつつく。
「ここに置いたと思ったんだけど……」
 全く反応をみせないハルに頬を膨らませた小松は、今度は両手で強めにつついてみた。が、やはり見向きもしてくれない。
 小松は(遊んでよ)と、ハルの脛に一発パンチを食らわせる。
「どこやったかなー……」
 ハルは気だるそうに背もたれに寄りかかり、足元を見下ろす。目が合うと小松は嬉しそうにはにかんで脚にギュッとしがみついた。膝に顎を乗せて上目で見つめる小松の、柔かな感触が脚に伝わる。
 引き出しの中を探る音が耳に入る中、ハルは小松の頬を左手の甲でスルリと撫でた。
(おいでおいで!)と楽しそうに手招きする小松に、少し椅子を引いたハルは前屈みになって近づき……。
「おっ、あったあった。へへ、これなくしちゃかみさんに怒られちゃうからな」
 顔を上げたハルは、丸まった背中を軽く反らして背筋をグッと伸ばした。
「波瀬も頑張りすぎるなよ~? じゃ、おつかれ!」
 平静と挨拶を交わし、見計らって支度をはじめるハルを見て、小松はデスクから這い出た。
「終わった?」
 ハルは一言返事を返して、デスク下の収納ラックに置いた鞄を椅子の上へ置き直し、書類をまとめたファイルホルダーをしまった。
 鞄をサッと抱え、小松を残してオフィスを出る。
 廊下を歩く。急ぐ足音が近づく。
「置いてかないでよう」
 駆け寄る小松はエレベーターを待つハルの腕に引っ付いた。
「これからどこ行きます? 海の見えるレストラン? それとも、夕涼みをかねてビアガーデンにします? でもエッチな格好のお姉さんたちいるからなぁ~。あ! この前行ったお店、新作料理が出来たそうですよ! 期間限定らしいです。また行きたいな~」
「小松さん」
「はぁい?」
「私の選択肢は一つです」
「それって……!」
 なにかを期待する小松は目を輝かせてハルの横顔を見つめた。到着のカウントダウンを始める階床表示灯を眺めながらハルは言う。
「黙って家に帰る」
「えーつまんなぁい! もっと遊ぼうよぉ~」
 絡めた腕を前後に揺らす小松の手を払いのける。
「お静かに。あなたは子どもじゃないでしょう?」
 到着したエレベーターに乗り込むハルの背中を睨み付けた小松は唇をとがらせ「今日記念日なんだよ……?」と小さくぼやいた。
 ハルは1階のボタンを押し、エレベーター前で立ったままの小松にチラリと目を向けた。
「乗らないのかい?」
「……私に、乗ってほしいの?」
「うん」
「もっとお願いして?」
 鞄の持ち手と一緒にまとめて持っていたショルダーベルトを肩にかけ、空いた手を差し伸べた。
「私のそばに来なさい」
 小松はニッと口角を上げ首を傾ける。
「どうしましょう~」
「……約束、忘れていないよ。おいで」
「フフフッ」と照れ隠しするようにうつむいて笑った小松は、ハルの手を握りピョンと飛び跳ねて乗り込んだ。
 開くボタンにかけていた手を外し、全階押す。あとの動作はエレベーターに任せ、ハルは小松の体をグッと引き寄せた。
「見られてるよぅ……」
「今更なにを言っているのかな?」
 言うわりには人目を気にする小松を気遣い奥へ連れて、小松の体が監視カメラの真下に来るよう壁に押し当て、自らの体で覆い隠す。
 ガランとしたエレベーターで、二人は窮屈そうに身を寄せ合った。



 人気のない公園の公衆トイレで吐いた。
 食べた物が消化しきれていない状態で体内から排出され、黄色い液になるまで便器と向き合った。
 それでも胃の不快感は治らない。
 あまり綺麗とは言えない寂れた洗面台で口をゆすぎ、生ぬるい水を顔に当てた。その間も頭上の電球はチカチカと不規則な点滅を繰り返し、念入りに手を洗う男を追い出そうとしている。
 手を軽く払い、パンツのポケットからハンカチをつまみ出し顔を拭う。
 その姿を映す正面の鏡には、水垢や謎の汚れ、縁には黒いカビが。
 ふと見上げたハルは、目の前の男の顔を眺めソッとため息を吐くと、トイレを後にした。
 頼りない街灯の下に自動販売機。水を欲したハルは、自販機横のベンチの上で盛っている若い野良猫野良犬、もしくはネズミと同種の生き物に臆することなく近づいた。
 とにかく水が飲みたい。
 彼らの視線を受けながらミネラルウォーターを購入し、向かいのベンチにゆっくりと腰かける。
 飲み干す勢いで飲んでいると、こちらをジロリと見ていた男が立ち上がり、隣に座っていた女の肩を抱きながら近づいてくる。
 ペットボトルの水は半分まで減り、一度休憩しようと首を垂らしうつむいていたハルは、見知らぬ男に声をかけられ、気だるく顔を上げた。
「やん、やっぱイケメ~ン」
「なぁ。こいつの相手してやってくれよ」
 薄着で派手な出で立ちの男と女に、虚ろな眼差しを向ける。
「こいつとセックスしてよ」
 ヘラヘラと笑うこの若者たちは酔っているのか、吐き出される僅かな酒のにおいと芳香剤のような独特な異臭が、ハルの胃をギュッと刺激する。
「結構です……」
「なに? オジサン照れてるの? かわいい~」
「こいついい体してんだぜ?」と、男は女の服をまくり上げ、背後から腕を回すとうっすらと割れた女の腹筋をなぞった。
「どう?」
 恥じらいもなく「ンフフッ」と楽しそうに笑い、男の腕の中で踊る様に体をくねらせ挑発する女からハルは視線をそらした。
 その様子に男はベンチの背もたれに手をつき、ハルへ顔を近づける。
「オレァこいつが他の野郎に抱かれてるところが見たいんだ」
「そういうことは私ではなく、他の方に頼んでください……」
 面倒事には巻き込まれたくないと立ち上がろうとしたが、肩を掴まれベンチに押し戻された。
「ここに俺らとオッサンしかいねぇじゃん?」
「……お断りします」
「えー? なにー? 超断られるんだけどぉムカつくぅ」
「まあまあ。だったらさぁ、これで……」
 男は携帯電話を取り出す。
「俺らのこと撮ってくんない?」
「はい……?」
 意味がわからず聞き返すハルの胸ぐらを男は掴み、グンッと引き寄せた。
「俺らのセックス撮れっつってんだよ」
 男の態度が一変したが、この場から早く立ち去りたいハルは拒否し続ける。
「ごちゃごちゃ言ってねーでさっさとやれよ」
 男はベンチを蹴った。
 さっき胃液になるまで吐いたばかりなのにまた、吐き気がする。

 自動販売機の裏の茂みが動く。放ったらかしにされた草木は三人の姿を上手に隠した。
 ハルは渡された携帯電話を二人にかざす。画面には昔の心霊番組で見たような暗くて雑な映像が映し出されている。
「ちゃんと撮ってるかぁ?」
 男の指示通りにカメラを回すが、街灯の弱さに、画面越しに眺めるハルには、二人の間でなにが行われているのかよくわからない。
「オッサンこっち」
 面倒なことは無論ごめんだ。これ以上のややこしいことが起こらないように、とにかく穏便に事を済ませようと男の言うことを聞く。
「もっと近づけって、もっとだよ」
 ハルは歩み寄り、女の前に迫る。
「……こいつの顔見てやって」
 携帯電話は向けたまま、画面から女へ視線を移す。
「いいツラだろ……?」
 悦楽な表情で微笑む女は、ハルの体に寄りかかるように肩に両手を添えた。
「しゃがんで……」
 女に従うとキスされた。
 嫌な予感はしていたがもう抵抗はしない。堪えれば直に終わると、乾いた喉を潤すように口内に残るわずかな水分をゆっくりと飲み込んだ。
「オジサン……いい匂いするね……」
 意味深な笑みを浮かべる女がハルの首に腕を回すと、触れる唇はじっとりとした濃厚な感触へ変わる。女の要求を悟ったハルはうつろな眼差しを向けながら唇を薄く開いた。
「ノってきたぁ……?」
 背後の男が動く度、わずかに開く口元から女の声が漏れる。
 視界が遮られ撮影がおろそかになるハルの手元。それを注意する男の命令に従おうとハルは携帯電話を掲げたが、
「いいよ撮らなくて……」
 女は携帯電話を持つハルの手に手のひらを重ねレンズを塞いだ。
「貸せ」
 一瞬嫌な顔をした女が仕方なしに後ろへ差し出すと、男は奪うように素早く取った。
「暗ぇなぁ……んだよ、これじゃナニやってっかわっかんねぇじゃん」
 腰元を撮す男の苛立つ様子をチラリと伺うと、肩に置かれた女の手が落ちていく。
「オジサン結婚してるんでしょ? こんな時間に公園にいるなんて……今までなにしてたの?」
 囁くような甘い猫なで声を使い、スラックスのファスナーを指で上下になぞる。
「ザンギョウ?」
 上目で見つめる女は目を細めいやらしく笑った。
「ねぇ、慰めたげよっか」
 スライダーに手を掛けゆっくり下ろす。
「サービスしてあげる……」
 頭がぐらつき、ハルは目を閉じた。それでも、夢の中にいる様なふわふわとした感覚は続く。初めてのことではなかったが、最近多くなった気がする。
 女は開けたファスナーの間に手を入れ、その奥へ滑り込ませる。
 迫り上がる違和感にハルは顔をしかめ、息苦しさに喉元を触る。 
 女はハルの顔を見上げ、反応を確認しながらパンツの隙間に入れた手を動かす。
「お前の手じゃ満足しねぇってよ」
「うっさいなあ」
 喉が詰まるような圧迫感がまた襲いかかってきた。
「早く銜えてやれよ」
 ヌルリとした感触と酒の熱が伝わる。
 ハルは口に手を当てた。
 急激な不快感に、堪えていたハルの意識が飛んだ。

「うわっ」

 ほんの一瞬。

「きったねえ」「最悪!」

 気づいたら吐いていた。

 さっき飲んだ水が伸びた雑草へたくさん降り注がれ、わずかな街灯の明かりで煌めいている。
 カップルは逃げるように立ち去り、ひとり取り残されたハルは、ぬるい夜風に揺れる草をぼんやりと見下ろしながら一つ咳をした。
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