林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ゆれる秋』

5 サイン会で再会

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 トイレから戻ったハルは、サキが頼んだコーヒーについてきたコーヒーフレッシュをヒョイと取った。
 手のひらの上で転がるフレッシュ。左右持ち替えたり握ったりするハルの手付きを、何気なく見ていたサキは驚く。
「消えた……!?」
 持っていたはずのフレッシュがなくなってしまった。
 ハルは開いた手をクルクルと回し、なにも持っていないことを見せると、その辺の空気をパッと掴み、不思議そうに見ているサキの目の前へスッと出した。
 ハルは手を開く。
「うわっ!」
 一度消えたフレッシュがまた手のひらの上に乗っている。
「すごい……」
「では、簡単なゲームをしよう。俺の手をよく見ていて」
 ハルはフレッシュを交互に数回持ち替え、素早く握って隠すと、その両拳をサキの前に差し出した。
「どっちに入っていると思う?」
「うーん……右?」
 首をかしげるサキは右の拳を指差し、ハルはその手を開いて見せた。
「正解」
 サキは転がったフレッシュを見て、素直に選んでよかったと安堵する。
「今度は、俺の右手を押さえるように上から手で覆って、一番好きなものを思い浮かべてごらん」
 ハルはもう一度フレッシュを握り、サキは一気に汗ばんだ両手をズボンでぬぐって、ハルの拳に添えた。
「……好きなもの?」
「そう、好きなもの」
 真っ直ぐと向けられる視線に、サキは思わずギュッと目をつむる。添えた両手に力を込めた。秋だというのに熱い。突然暖房が強まったのだろうか。サキは手元が気になり、集中できずにいた。
 数秒後、「オーケー」というハルの一言に、サキはソッと手を退ける。
 ハルが手を開くとサキの体がピョンと跳ねた。その中にはフレッシュ、ではなく、ミィナのフィギュアストラップがあった。
「えっ、え? なんで……!?」
 突然のことに、頭が混乱するサキ。
「どうやったんですか!?」
「簡単な魔法だよ」
 サキは何度も「すごい!」と言いながら、小さく腰を浮かせて飛び跳ねる。
「あげる」
 ハルはストラップを摘まんでサキへ差し出す。
 正直念じたものとは違ったが、嬉しいことに変わりはない。
「へへ、ありがとうございます!」
 テーブルの上にバランスよく立たせたミィナを眺めながら、コーヒーを手前に引き、スティックシュガーの頭をちぎってサラサラと入れた。ティースプーンでかき混ぜるサキは、ハルの様子を上目で伺う。なんとなく言いにくい。
「……あのー、そろそろクリーム返してくれませんか?」
「ん? 返したはずだが……」
「もらってないですよ?」
「フードの中」
 サキは頭の後ろへ手を伸ばし、フードの中を漁る。
「……あ! なんかある! ……ん?」
 取ってみると、今度はシアンのフィギュアが出てきた。
「なんでー!? いつの間に!」
「魔法使いだから……」と、話を流すようにティーカップに口をつけるハル。チラリと目を向けると、サキはこちらを睨んでいた。
「それくらいの嘘、わたしにもわかります」
「……練習した」
 睨み付けていたサキは、たまらず笑みをこぼす。
 シアンをミィナの隣に並べる。
「ところでクリームは……?」
「形の違うものがもう一つなかったか?」
 もう一度フードの中を確認するサキの手が、小さな容器を掴まえた。
「貸してごらん」
 サキは取り出したフレッシュをハルへ渡す。ハルがフレッシュを持った手を合わせて開くと、2つに増えた。練習したとはいえ、あまりの早業にサキはぽかんとする。
「あんたは2つ必要だろう?」
「ホントに魔法……?」
 目を輝かせてフレッシュを受け取るサキを見て、鈍感でよかったとハルは思った。
「ほら、はやく飲まないと冷めてしまうぞ」
 慌ててフレッシュの蓋を開けた彼女のこの笑顔はまた今度に、と、鞄に忍ばせていた残りのフィギュアは後にとっておくことにする。
 ふと時計を気にするハルに、サキは甘くしたコーヒーを少し飲んでから聞いた。
「そういえば、ハルさんの行きたいところって?」
「いい頃合いだ。案内する」



 連れてこられたのはショッピングモール。ハルがスタンド看板を指差し、それを目にしたサキは硬直する。
「サササイ、サイッ、サ……サインかいー!? 知らない知らない聞いてない!」
 館内の大型書店で行われる、ミナトホノカのミィナシリーズ最新刊『時と鏡の魔術師』発売記念サイン会。その案内看板にバグるサキを、会場まで連れていくのは思った以上に体力が必要だと、ハルは学んだ。
「本当にいるんだ……」
 白い布に覆われた長机の横に立って、集まったファンに小さく手を振り微笑んでいるミナトホノカの姿を、遠くからジッと見つめるサキは、ハルの服を強く握りしめる。引きちぎられそうだ。
 ハルは、参加券と絵本の新刊をサキへ渡そうとしたが、低い声で断られた。
「代わりに並んでください」
「なぜだ」
「だって……恥ずかしいじゃないですか!」
 顔を覗くと、サキは少し怒った表情をしている。
「でも直接会いたいだろう?」
「そう、ですけど……。でもいきなり連れてきたのはハルさんですよ? こんな、すぐに心の準備できるわけないじゃないですか! こういうことは、前もって連絡するべきですよぉ~……!」
「……申し訳ない」
 サプライズのつもりだったのだが、裏目に出てしまったようだ。
「もっとオシャレすればよかったあ……」と、ハルに背を向けたサキは壁にゴンと頭をぶつけ大きくため息をつくと、そのまま壁伝いにズルズルと落ちてゆきうずくまった。
「……わかった、俺が行く」
 壁に頭をつけたまま横目でチラッと見ると、ハルは一人、子連れの女性が多く並ぶ列へと向かっていった。少し申し訳ない気持ちでハルを眺めるサキに、男性が声をかける。
「もしもしお嬢さん」
 見るとそれは見覚えのある顔で、サキは目を丸くして微笑んだ。
「あの時の……!」
「やっぱり。また会えると思っていましたよ」
 優しい声色のその人は、ホテルのコインランドリーで出会った、丸い眼鏡をかけた白髪交じりの男性だった。
 サキは立ち上がり、二人は軽い握手を交わす。
「ホノカ先生には、もう会いました?」
「はい、会ってきましたよ。お嬢さんはサインもらいましたか?」
 サキは激しく首を横に振る。
「無理です……! わたしは遠くから眺めるだけでいいんです……」
「どうして?」
「……認知されたくないんです……。もちろん、自意識過剰なのはわかってます。近づきたい気持ちもあるんですけど、それよりも、ホノカ先生の世界にわたしという存在を存在させたくないといいますか……。ホノカ先生と同じ空気を吸えることはすっごく嬉しいんですけど、できるだけ遠くで見ていたいんです……」
 そう呟くサキに、優しく微笑む。
「多からず僕は、あなたと出会えてよかったと思っていますよ。こんなに熱いハートを持っているファンと出会えて……。ミナトホノカもきっと……いいえ、絶対に、あなたのようなファンがいることを誇らしく思います」
「そう、でしょうか……」
「この後、もし時間があったら、一緒にお食事でもいかがでしょう」
「……え?」
「ああ! ごめんなさい! なんだか、ナンパみたいになっちゃいましたね……」
 慌てて否定するも、サキは苦笑い。
「すみません。同じファン同士、お嬢さんのお話をもっと聞かせてもらいたかったんです。あなたの言葉はとても素直で、愛に溢れていて……それに、僕の励みにもなるので……」
「励み?」
「サキ」
 戻ってきたハルは男性に一目向けると軽く会釈して、サキに絵本を差し出した。受け取ったサキは絵本を開き、書かれたサインをウルウルと眺め、抱き締める。
「先生が、ここに……ここにホノカ先生が、ここにいる……いるぅ……感じるぅぅぅ……!」
「実物が向こうにいるが」
 ハルの声は聞こえていないのか、無視しているのか。サキは恍惚とした表情でサインをそっとなぞり、「先生が触れたんですよね……」と、開いた絵本を顔へ近づけると思いきり嗅いだ。
「はあ~……これがホノカ先生のにおい……いいにおいだぁ~ひょあ~……!」
 絵本にヤバいクスリでも塗りたくられているのかと、本気で疑うほど彼女の様子がおかしい。
「……大丈夫か?」
「本物はどうでした? いいにおいしてました?」
「におい……においはよくわからなかった」
「可愛かったですよね!」
「……まあ、そうだな」
 外見の良し悪しもわからなかったが、ハルは浮かれるサキの調子に合わせた。
 サインとともに描かれたミィナのイラストをマジマジと見つめるサキは、ふと違和感を抱く。
(なんか、タッチが違うような……?)
「サキさん」
 名前を呼ばれて顔を上げる。
「実は、あなたのおかげで、無事アニメ化の話が進みまして、食事はそのお礼に、とも思ったのですが、あなたとはまたどこかで会えそうな気がするので、そのときにでもまた、お誘いさせていただきます」
 二人に優しい笑顔を向けて会釈をする男性は、意味のわからない言葉を残し、なぜかバックヤードへと消えた。
「あっ! ハルさん、先生と握手しました?」
「ああ」
「どっちですか? 右ですか? 左ですか? 両方ですか?」
 険しい顔つきで迫るサキに、謎の危機を察知したハルは自ずと一歩引いた。
「……右」
「握ってもいいですかっ?」
「構わないが……?」
 右手を少し浮かせると、サキは素早くその手を掴んだ。お辞儀をするようにゆっくりと頭を下げると、強く握る手に額を引っ付け、喉を詰まらせながら言う。
「はぁっ……かんせつあくしゅ~……!」
 喰われるかと思った。
「あ、ハルさんだった……」
 我に返ったサキは手を離す。
「もう一生手洗わない!」
 高揚するサキの気持ちがわからないハルは、温まった右手をソッと握ってみた。手のひらには締め付けられていた感覚が残っている。それを頼りに手を開くと、少し寒さを感じて、また握った。
「ハルさん」
 視線を手のひらからサキへ移す。
「最初は文句とか言っちゃってごめんなさい。本当は、本当はすごく嬉しかったです。でも、恥ずかしくて勇気が出なくて……。それなのに、こんなわたしのわがまま聞いてくれて。ハルさん、今日もありがとうございました」
 両手で大事そうに絵本を抱き締めるサキは、深く頭を下げる。
「どういたしまして……」
 空っぽな頭で、自然と口から出た言葉。
 顔を上げたサキは照れ笑いする。
 彼女が見つめる男は今、どんな顔をしているだろうか。
 こんな単純なことで、気になる手のひらの寒さは簡単に消えてしまった。代わりに、彼女の屈託のない笑顔が、無理矢理閉じ込めた記憶をまたえぐろうとする。唐突に吐き気がした。今すぐその温かい手を掴みたい。そしてそのまま胸の奥に突っ込ませるから、この不快な鼓動を打つ、ゼンマイ仕掛けの無意味な心臓を握りつぶして、この不快さをちょうどいいと思ってしまうしつけられた頭を蹴り跳ばしてほしい。
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