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ご『“友だち”の有効活用/ゆれる秋』
10 待ち人、来ず
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吸い込まれそうなほど高い空は、淡い青色をしている。それを物ともしない飛行機は、一筋の雲を生み出しながら、物思いにふける頭上を優雅に飛んでいった。
野原で寝転ぶサキは上体を起こす。
公園をかけるカラリとした秋風は、黙っていると少し肌寒い。
「少し歩きましょうか……」
立ち上がろうとすると、草むらからなにかが飛び出してきた。
「ギャア!」
サキは悲鳴をあげてハルに抱きついた。何事かと、体に乗っかるサキを抱えながら起き上がると、サキのふくらはぎ辺りに茶色の虫がくっついているのが見えた。
「コオロギィ!」
「……ヒナバッタだよ」
「なんでもいいから取ってぇ!」
ハルが手を伸ばすと、バッタはピョンと跳ねて、また茂みに消えた。
「いなくなった」
「ほんと……?」
体を起こすサキの涙目に映るハルは、どことなくばつが悪そうな顔をしている。
「すみません、重いですよね」
「重くはないが……」
サキはすぐに離れようとしたが、足元でまたなにかが跳ねた気がして、ハルにしがみついた。
その勢いは押し倒されそうになるほどで、体の上で取り乱す姿を黙って見ていたが、落ち着く様子がまったく見られず、ハルはサキの背中とお尻に腕を回し、しっかりと体を支え「あまり動くな……」と呟いて立ち上がった。
子供のように抱っこされた気恥ずかしさよりも、虫が怖くてハルにすがりつく。
泣きじゃくるサキを舗装された歩道に下ろす。一段と虫に敏感になってしまったサキは、落ちてくる葉っぱにまでワアワアと声を上げた。
「虫は怖いものではない」
「だって、予想外の動きするじゃないですか……」
「人も同じだ。あんたみたいに」
「違います! 全然違います!」
サキが嫌がる虫から逃れるため、ふたりは住宅街を歩く。頭上を黒い影がピューン、ピューンと、飛び回っている。
「ツバメって春のイメージですけど、秋にも飛んでるんですね」
ツバメが行き来するガレージの中を覗くと、隅っこに巣があるのが見えた。巣の中には親と同じくらい大きくなったヒナが、口を大きく開けて待っている。
「冬に備えて餌を蓄えてるのかな」
「これから暖かい国へ移動するんだ」
「渡り鳥なんですか!」
カゲロウをくわえた親鳥が戻ってきた。
「ムシ……」
「昆虫が主食だから」
空になった巣が目立つ。ここのツバメは周りより巣立ちが遅いようだ。
「こんなところに……?」
住宅街に突然現れた小さな神社。名前は、文字が崩れていて読めなかった。
「せっかくなのでお参りしていきましょう!」
一礼して鳥居をくぐり、屈折した境内を進むと、真っ先に視界に飛び込んできたのは、見事な紅葉だった。
本殿を隠すほどの大木が両端に一本ずつ、鏡に映したかのように左右対象に生えていて、その葉はどれも真っ赤に色づき、風で舞う落ち葉さえも全て真っ赤に染まっている。脇の砂利道の上にも、茶色く枯れた葉が一枚も見当たらないのが不思議だった。
参拝を済ませ、サキが見つけたおみくじを、ふたりは引いた。
おみくじを広げるハルの視線が真っ先に向かったのは、待ち人の欄。
自分のおみくじに愕然としたサキは、ハルの結果が気になってソッと覗く。
「……ハルさんすごい! 大吉!」
「だが、待ち人は来ないらしい」
「誰かを待ってるんですか?」
神妙な面持ちでおみくじを見つめるばかりで、返答がない。
「大丈夫です。その人は必ず来ますよ、なんてったって“春”ですから!」
『……ハル……春になったら、必ず帰って来られるように……』
ハルはおみくじを横に細く折る。
サキが結びつけている紐の隣に並び、真似しておみくじを結びつける。
「あれ? 持って帰らないんですか?」
「ああ」
おみくじを結ぶハルの手元を見ていたサキは、ふと本殿近くの狛犬に目を向けた。
子供がいる。
狛犬の横に、真っ赤な着物を着た小学1年生くらいの小さな女の子が立っている。髪は花のかんざしで束ねられ、ちょこんとした唇は、この境内を舞う葉のように鮮やかな紅色に染められ、ふっくらとしたほっぺがなんとも愛らしい。その横顔はどこか儚げで、自分よりもうんと大人っぽく、妖艶に見えた。
よく見るとその女の子の指先に、赤いトンボが止まっている。
見つめるサキに気づいた女の子は、微笑みながらこっちに向かって指を差す。指先のトンボはいつの間にかいなくなっていて、不思議に思っていると、一匹のトンボがいきなり目の前に現れ、突撃してきた。とっさに目をつぶったサキ。
こわごわ目を開けると、
「ヒィイイ!」
突然の悲鳴に隣を見れば、サキの胸元にトンボがくっついていた。
「ハルさんん~……!」
トンボを刺激しないようにと小声のサキ。
「ミヤマアカネだ、珍しいな……」
「なんでもいいから取ってぇ……!」
動けないサキは、少しでも遠ざかろうと顎を上にあげるも、トンボの動きが気になってチラチラ確認する。
「こっち見てる……! 早く……! 目が合ってるからぁ~……!」
ハルはトンボをジッと見つめ、観察している様子で聞いてくれない。
「ねぇ早く取ってってばぁ……!」
催促するサキを無視して、ハルはポケットから携帯電話を取り出し、なにやら構える。
「助けてよぉ……!」
携帯電話をしまったハルは、人差し指と中指でトンボの羽を掴み、引き剥がす。引っ掛かった脚がもげそうでサキは見ているのが怖かった。自切させることなく取れたトンボを、ソッと逃がしてあげると、ハルは思い切り腕を叩かれた。
「なんで早く取ってくれないの!?」
「……写真は撮ったから、今送るよ」
「いらない!」
今日はやけに虫に好かれる。
散々な目にあったと、サキはその場にしゃがみ込んだ。
「どこかで休憩しようか」
サキは頬杖をつきながら、先に届いたアイスミルクティーの氷をストローでつつく。コボコボと沈ませたりかき回したりして遊んでいると、
「ねえ、あの人かっこよくない?」
「ホント超かっこいい……!」
ふと耳に入ってきた会話。
チラリと見ると、斜め後ろの席の二人組の女性が、時折こちらを見ながらヒソヒソと話をしていて、サキは目を移す。
彼女たちの話題の人は椅子に寄りかかり、外の様子をぼんやりとした目で眺めている。難がある性格を知ってからは、容姿のことなどすっかり忘れていたが、改めて見ると綺麗な横顔。
なぜか得意気になるサキはニヤけた。
(お姉さんたちの会話にまざりたい)
その顔を隠すように、サキはストローをくわえ、少しばかり薄いミルクティーを口にする。
「さっき……神社でおみくじを引いたとき、待ち人は必ず来ると言っていただろう?」
サキは顔を上げる。
「俺が待っている人は来ない」
「……え?」
「絶対に来ない人なんだ……」
思い当たる節がある。
サキが感じていたハルの哀愁はきっと、その『絶対に来ない人』を、会える望みもないのにずっと待っているからなんだと、気づいた。
その瞬間、このままどこか遠くへ行ってしまうような、明日がくればもう二度と会うことができないような、そんな気がして、心がざわついて、引き留めたくて、
「……ハルさ」
「お待たせしましたー」
遮られた言葉。
テーブルに置かれたレモンケーキに視線が移る。
「食べないのか?」
「……いただきます」
なにか言葉をかけたかったのに、なんて言ったらいいのかわからなくて、
(わたしはなにを言いたかったの?)
口走りそうになった言葉を、レモンケーキと一緒に飲み込んだ。
鼻から抜けるレモンの爽快な香りが心を煽る。
窓の外を眺める彼は今、なにを考えているのか。知りたい。
喉に引っかかるこれは、おそらくレモンケーキ。なのにミルクティーを流し込んでも、その異物感は消えてくれない。
しかたなく、レモンケーキの上に乗った小さなミントを食べた。
独特な苦味と清涼感に歪むこの口は、『どこにも行かないで』と言いたいのだと思うけど、そんな自分勝手なことは言えない。
だから、なにか一つ、大切なものを失ってもいいから、どうか、どうかこのまま、ただそっと小さく近くにいさせてください。どんなカタチでもいいから、存在をしっかりと感じられる距離で、あなたを五感で味わいたい。
ミントの刺激じゃ満たせないから。
(わがままかな……)
「どうした。美味しくないのか?」
我に返ったサキは慌てて首を横に振った。
「それならよかった」と、また窓の外へ視線を移す。知らない顔で。
「ここにいてください……」
「え?」
振り向いたハルは、意味がわからず聞き返す。
「どこにも行かないでください」
上手く飲み込めたはずなのに、思わず飛び出してしまった言葉。でももうごまかすことはしない。サキはジッとハルの目を見つめ返した。
「……どこにも行かないよ」
その言葉が嘘だったとしても、こらえていた涙がポロポロと溢れ出してしまう。
「どうしたんだ?」
「……ハルさんが、このままいなくなっちゃうんじゃないかって……会えるのは今日が最後なんじゃないかって……こわくて……さみしくて……」
ハルは涙を拭う震える手を掴み、擦れて赤くなった目を見据えた。
「まるで今日、俺が死ぬような口ぶりだな」
「……はい」
「勝手に殺すな」
「うぅ……ずみまぜん……」
彼女の涙はとても厄介だが、なぜだか安心する。
ハルは掴んだ手を離し「鼻をかめ」と、ポケットティッシュを渡した。
できればあのままずっと握っていてほしかったと思いながら、サキは受け取ったティッシュで鼻をかんだ。
もしも、あのおみくじのように、全てを白紙に戻せるなら、彼に涙を見せずに済んだのに。
巣の中でエサをもらっていたあのツバメは、これからヨタヨタと巣を離れ、支えられながら狩りを教わり、そして頼りない自分自身の飛行技術で大空へと飛び立つ。いずれはひとりぼっちになることも厭わずに。
帰り道。電線の上に小さなツバメが数匹並んで止まっている。近くの家のガレージの奥にある空になった巣が、寂しく目に映った。
『どこにも行かないよ』
違う。
行けないんだ。
自分の中にいるツバメと向き合う勇気がないから、未だに巣の中で、動けず、ウジウジと膝を抱えている。情けないほどに……。
視線を戻すと、電線に止まっていた小さなツバメが飛んだ。吸い込まれそうなほど高く、清々しい水色に染められた空を、あの飛行機と同様に物ともせず、まるで、ここは自分の庭と思わせるほど自由自在に飛んでいる。
観察していると、高く飛んだツバメが戻ってくる。自分の巣がある家の上空を、ヒュルーンヒュルーンと飛び回る。その様子は、サヨナラを告げるようだった。そして意を決したツバメは南をめざし、ただ見上げるだけの男を残して旅立った。
喉が渇いて入ったコンビニ。レジ横の焼き鳥が気になった。
羽が濡れたこのツバメはまだ、巣から飛び立てそうにない。
野原で寝転ぶサキは上体を起こす。
公園をかけるカラリとした秋風は、黙っていると少し肌寒い。
「少し歩きましょうか……」
立ち上がろうとすると、草むらからなにかが飛び出してきた。
「ギャア!」
サキは悲鳴をあげてハルに抱きついた。何事かと、体に乗っかるサキを抱えながら起き上がると、サキのふくらはぎ辺りに茶色の虫がくっついているのが見えた。
「コオロギィ!」
「……ヒナバッタだよ」
「なんでもいいから取ってぇ!」
ハルが手を伸ばすと、バッタはピョンと跳ねて、また茂みに消えた。
「いなくなった」
「ほんと……?」
体を起こすサキの涙目に映るハルは、どことなくばつが悪そうな顔をしている。
「すみません、重いですよね」
「重くはないが……」
サキはすぐに離れようとしたが、足元でまたなにかが跳ねた気がして、ハルにしがみついた。
その勢いは押し倒されそうになるほどで、体の上で取り乱す姿を黙って見ていたが、落ち着く様子がまったく見られず、ハルはサキの背中とお尻に腕を回し、しっかりと体を支え「あまり動くな……」と呟いて立ち上がった。
子供のように抱っこされた気恥ずかしさよりも、虫が怖くてハルにすがりつく。
泣きじゃくるサキを舗装された歩道に下ろす。一段と虫に敏感になってしまったサキは、落ちてくる葉っぱにまでワアワアと声を上げた。
「虫は怖いものではない」
「だって、予想外の動きするじゃないですか……」
「人も同じだ。あんたみたいに」
「違います! 全然違います!」
サキが嫌がる虫から逃れるため、ふたりは住宅街を歩く。頭上を黒い影がピューン、ピューンと、飛び回っている。
「ツバメって春のイメージですけど、秋にも飛んでるんですね」
ツバメが行き来するガレージの中を覗くと、隅っこに巣があるのが見えた。巣の中には親と同じくらい大きくなったヒナが、口を大きく開けて待っている。
「冬に備えて餌を蓄えてるのかな」
「これから暖かい国へ移動するんだ」
「渡り鳥なんですか!」
カゲロウをくわえた親鳥が戻ってきた。
「ムシ……」
「昆虫が主食だから」
空になった巣が目立つ。ここのツバメは周りより巣立ちが遅いようだ。
「こんなところに……?」
住宅街に突然現れた小さな神社。名前は、文字が崩れていて読めなかった。
「せっかくなのでお参りしていきましょう!」
一礼して鳥居をくぐり、屈折した境内を進むと、真っ先に視界に飛び込んできたのは、見事な紅葉だった。
本殿を隠すほどの大木が両端に一本ずつ、鏡に映したかのように左右対象に生えていて、その葉はどれも真っ赤に色づき、風で舞う落ち葉さえも全て真っ赤に染まっている。脇の砂利道の上にも、茶色く枯れた葉が一枚も見当たらないのが不思議だった。
参拝を済ませ、サキが見つけたおみくじを、ふたりは引いた。
おみくじを広げるハルの視線が真っ先に向かったのは、待ち人の欄。
自分のおみくじに愕然としたサキは、ハルの結果が気になってソッと覗く。
「……ハルさんすごい! 大吉!」
「だが、待ち人は来ないらしい」
「誰かを待ってるんですか?」
神妙な面持ちでおみくじを見つめるばかりで、返答がない。
「大丈夫です。その人は必ず来ますよ、なんてったって“春”ですから!」
『……ハル……春になったら、必ず帰って来られるように……』
ハルはおみくじを横に細く折る。
サキが結びつけている紐の隣に並び、真似しておみくじを結びつける。
「あれ? 持って帰らないんですか?」
「ああ」
おみくじを結ぶハルの手元を見ていたサキは、ふと本殿近くの狛犬に目を向けた。
子供がいる。
狛犬の横に、真っ赤な着物を着た小学1年生くらいの小さな女の子が立っている。髪は花のかんざしで束ねられ、ちょこんとした唇は、この境内を舞う葉のように鮮やかな紅色に染められ、ふっくらとしたほっぺがなんとも愛らしい。その横顔はどこか儚げで、自分よりもうんと大人っぽく、妖艶に見えた。
よく見るとその女の子の指先に、赤いトンボが止まっている。
見つめるサキに気づいた女の子は、微笑みながらこっちに向かって指を差す。指先のトンボはいつの間にかいなくなっていて、不思議に思っていると、一匹のトンボがいきなり目の前に現れ、突撃してきた。とっさに目をつぶったサキ。
こわごわ目を開けると、
「ヒィイイ!」
突然の悲鳴に隣を見れば、サキの胸元にトンボがくっついていた。
「ハルさんん~……!」
トンボを刺激しないようにと小声のサキ。
「ミヤマアカネだ、珍しいな……」
「なんでもいいから取ってぇ……!」
動けないサキは、少しでも遠ざかろうと顎を上にあげるも、トンボの動きが気になってチラチラ確認する。
「こっち見てる……! 早く……! 目が合ってるからぁ~……!」
ハルはトンボをジッと見つめ、観察している様子で聞いてくれない。
「ねぇ早く取ってってばぁ……!」
催促するサキを無視して、ハルはポケットから携帯電話を取り出し、なにやら構える。
「助けてよぉ……!」
携帯電話をしまったハルは、人差し指と中指でトンボの羽を掴み、引き剥がす。引っ掛かった脚がもげそうでサキは見ているのが怖かった。自切させることなく取れたトンボを、ソッと逃がしてあげると、ハルは思い切り腕を叩かれた。
「なんで早く取ってくれないの!?」
「……写真は撮ったから、今送るよ」
「いらない!」
今日はやけに虫に好かれる。
散々な目にあったと、サキはその場にしゃがみ込んだ。
「どこかで休憩しようか」
サキは頬杖をつきながら、先に届いたアイスミルクティーの氷をストローでつつく。コボコボと沈ませたりかき回したりして遊んでいると、
「ねえ、あの人かっこよくない?」
「ホント超かっこいい……!」
ふと耳に入ってきた会話。
チラリと見ると、斜め後ろの席の二人組の女性が、時折こちらを見ながらヒソヒソと話をしていて、サキは目を移す。
彼女たちの話題の人は椅子に寄りかかり、外の様子をぼんやりとした目で眺めている。難がある性格を知ってからは、容姿のことなどすっかり忘れていたが、改めて見ると綺麗な横顔。
なぜか得意気になるサキはニヤけた。
(お姉さんたちの会話にまざりたい)
その顔を隠すように、サキはストローをくわえ、少しばかり薄いミルクティーを口にする。
「さっき……神社でおみくじを引いたとき、待ち人は必ず来ると言っていただろう?」
サキは顔を上げる。
「俺が待っている人は来ない」
「……え?」
「絶対に来ない人なんだ……」
思い当たる節がある。
サキが感じていたハルの哀愁はきっと、その『絶対に来ない人』を、会える望みもないのにずっと待っているからなんだと、気づいた。
その瞬間、このままどこか遠くへ行ってしまうような、明日がくればもう二度と会うことができないような、そんな気がして、心がざわついて、引き留めたくて、
「……ハルさ」
「お待たせしましたー」
遮られた言葉。
テーブルに置かれたレモンケーキに視線が移る。
「食べないのか?」
「……いただきます」
なにか言葉をかけたかったのに、なんて言ったらいいのかわからなくて、
(わたしはなにを言いたかったの?)
口走りそうになった言葉を、レモンケーキと一緒に飲み込んだ。
鼻から抜けるレモンの爽快な香りが心を煽る。
窓の外を眺める彼は今、なにを考えているのか。知りたい。
喉に引っかかるこれは、おそらくレモンケーキ。なのにミルクティーを流し込んでも、その異物感は消えてくれない。
しかたなく、レモンケーキの上に乗った小さなミントを食べた。
独特な苦味と清涼感に歪むこの口は、『どこにも行かないで』と言いたいのだと思うけど、そんな自分勝手なことは言えない。
だから、なにか一つ、大切なものを失ってもいいから、どうか、どうかこのまま、ただそっと小さく近くにいさせてください。どんなカタチでもいいから、存在をしっかりと感じられる距離で、あなたを五感で味わいたい。
ミントの刺激じゃ満たせないから。
(わがままかな……)
「どうした。美味しくないのか?」
我に返ったサキは慌てて首を横に振った。
「それならよかった」と、また窓の外へ視線を移す。知らない顔で。
「ここにいてください……」
「え?」
振り向いたハルは、意味がわからず聞き返す。
「どこにも行かないでください」
上手く飲み込めたはずなのに、思わず飛び出してしまった言葉。でももうごまかすことはしない。サキはジッとハルの目を見つめ返した。
「……どこにも行かないよ」
その言葉が嘘だったとしても、こらえていた涙がポロポロと溢れ出してしまう。
「どうしたんだ?」
「……ハルさんが、このままいなくなっちゃうんじゃないかって……会えるのは今日が最後なんじゃないかって……こわくて……さみしくて……」
ハルは涙を拭う震える手を掴み、擦れて赤くなった目を見据えた。
「まるで今日、俺が死ぬような口ぶりだな」
「……はい」
「勝手に殺すな」
「うぅ……ずみまぜん……」
彼女の涙はとても厄介だが、なぜだか安心する。
ハルは掴んだ手を離し「鼻をかめ」と、ポケットティッシュを渡した。
できればあのままずっと握っていてほしかったと思いながら、サキは受け取ったティッシュで鼻をかんだ。
もしも、あのおみくじのように、全てを白紙に戻せるなら、彼に涙を見せずに済んだのに。
巣の中でエサをもらっていたあのツバメは、これからヨタヨタと巣を離れ、支えられながら狩りを教わり、そして頼りない自分自身の飛行技術で大空へと飛び立つ。いずれはひとりぼっちになることも厭わずに。
帰り道。電線の上に小さなツバメが数匹並んで止まっている。近くの家のガレージの奥にある空になった巣が、寂しく目に映った。
『どこにも行かないよ』
違う。
行けないんだ。
自分の中にいるツバメと向き合う勇気がないから、未だに巣の中で、動けず、ウジウジと膝を抱えている。情けないほどに……。
視線を戻すと、電線に止まっていた小さなツバメが飛んだ。吸い込まれそうなほど高く、清々しい水色に染められた空を、あの飛行機と同様に物ともせず、まるで、ここは自分の庭と思わせるほど自由自在に飛んでいる。
観察していると、高く飛んだツバメが戻ってくる。自分の巣がある家の上空を、ヒュルーンヒュルーンと飛び回る。その様子は、サヨナラを告げるようだった。そして意を決したツバメは南をめざし、ただ見上げるだけの男を残して旅立った。
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