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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』
2 星屑と小麦の月
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アルデバランは太陽より大きい。
ふたりは山道を外れた小道にいた。疲れた足でけもの道のような細い道を歩く。
「少し休憩しようか」
サキは「ふぅ」と息を吐く。リュックから飲み物を取り出し、水分補給しようと何気なく見上げた空。木々の隙間からわずかに見える青空が輝いていた。
あの後、バイクは山へ入り、舗装されていない林道を走った。サキは尻に伝わる衝撃に耐えながら、ハルに身を任せていると、ようやく開けた場所へとたどり着いた。周りは木で生い茂っているのに、この空間だけくり貫かれたように、空を遮るものはなにもない。近くに川があるのか、水の流れる音が微かに聞こえてくる。
『ここが本日のキャンプ地です』
ワンタッチテントだったので設営は楽だった。飛ばされないよう、鍛造ペグを打つときはサキも手伝った。斜めに打つのが意外と難しく手間取ったが、コツを教えてもらいながらなんとかできた。
(ハルさんがしたいことってキャンプだったんだ)
「足下気をつけて」
少し大きめの段差に、サキは足がすくむ。
左は急な斜面になっていて、踏み外したら滑落しそう。
躊躇するサキに、ハルは手を伸ばす。
サキはその手をしっかりと掴んで、飛び降りた。
「わっ」
勢い余ってハルにしがみつく。
「すみません……」
すぐに離れようとしたが、疲れのせいか、ハルの体に寄りかかりたくなった。ハルも、体を預けるサキを無理に離そうとはしなかったから、少しだけこのままでいた。
「もう少しだから、頑張ろう」
足を進めるたび水の音が強くなっていく。
崖の下を覗くと川が流れていた。
数ヶ月前なら、ここから落ちても平気だと思っていただろう。でもそれは今でも変わらない。違うのは恐怖心。怖くてたまらない。
足を踏み外して崖から転げ落ちて、体を痛めて起き上がれなくなって、何日経っても人が一人いなくなったことには誰も気づかない。
それでいいのに、今は足を滑らせることさえ怖くて、安心に触れたくて、目の前の大きな手のひらを頼りに歩きたい、そう思ってしまう。
(時間がないのに……)
薄情な世界でサキは精一杯呼吸する。
ときおり振り返ってくれるハルの背中を必死に追った。
(わたしなにしてるんだろう……)
太ももがパンパンで足が上がらない。
疲れを感じる体に、今生きていることを実感させられる。
(このままじゃ……)
疲労困憊で考える余裕なんてないはずなのに、涙が出そう。
「サキ」
目元を流れる汗を拭ったサキは、ハルに呼ばれて顔を上げた。
立ち止まるハルの下へ、気力だけで足を動かす。
そしてハルが見つめる視線の先を追った。
「たき……?」
落差は小さいが幅広く、緑色の苔に覆われた岩肌を、勢いよく滑走する流水がしぶきを上げながら落ちる姿は神秘的。その音は、豪快でありながらも優しく、疲れたふたりに癒しを与えた。
「お疲れさま」
サキは座るのにちょうど良さそうな高さの岩を見つけて、濡れることも厭わずに腰かけた。
その様子を見ていたハルは、ぐったりと頭を垂れるサキの隣に座った。
「ハルさんは疲れてないんですか?」
「……それなりに」
「それなりにって……」
「あんたよりは体力あるから」
「鍛えようかな……」
──ほら、また未来の話。──
「あ、アメ食べます?」
「はい」
ハルはスッと手を出す。
「ちょっと待ってください……!」
急いでリュックを膝の上に下ろし、中からカンカンのキャンディを取り出した。その間も、ハルは手を出したまま待っていた。
「今日の運勢は……」
缶を振って中身を出す。
ハルの手のひらに転がり落ちたキャンディは、オレンジ色をしていた。
「吉です」
「吉?」
自分の手にもキャンディを1個出す。
白色が出て、サキは渋い顔。それを見たハルが言う。
「それは凶か」
「……大凶です」
本当は大吉なのだが、その理由を聞かれたら困る。
サキは白いキャンディを口へ放り込んだ。捨てずに食べるようにしてきたが、この独特な匂いと刺激は今でも慣れない。
「もらおうか」
「えっ、もう食べちゃってますし……」
ハルはまたキャンディを待つように、サキに向かって手のひらを出した。
「へ?」
「もらう」
「……えっ!」
「ん?」
「いやぁ……」
「手に出していいから」
「う~……気にしないタイプですか?」
「なに?」
「手がベタベタになっちゃいますよ」
「それなら……」
ハルはポケットから4つ折りのハンカチを出す。
「この上に出したらいい」
「それじゃあハンカチが汚れちゃうじゃないですか」
「構わない」
「わたしがかまうんですぅー!」
「かまう……?」
サキが本当に気にしているのは、手やハンカチが汚れることではない。
「もう!」
怒れるサキは白いキャンディをバリボリと噛み砕いてやった。
「……元気だな」
「うるさい!」
そっぽを向くサキ。
ハルは首もとに巻いたタオルで汗を拭った。
岩のデコボコを縫って落ちる水は白い糸のよう。
何本もの白い糸が、重なってはまた分かれ、太くなったり細くなったり、繰り返し、また重なり、細くなる。
幾つにも分かれた道を、いつだって迷わずに進む。
そして最後は一つになる。
想像し得ないほど、とても大きなものに。
サキは、立て続けに三回、くしゃみした。
焚き火に道中拾った枝をくべる。
辺りはすっかり暗くなったが、ふたりが囲む焚き火が鮮やかに照らす。
夕食を済ませたふたりは、折りたたみのイスに背を預けてブレイクタイム。
サキは焚き火に手をかざす。寒さに負けてテントに入るのはもったいない気がした。
焚き火のパチパチ弾ける音に耳を傾けながら見上げた夜空。星たちの光を遮るものはなにもない。「存分に輝け」と、風に揺れる木々が会話する。
メラメラと燃える火に照らされる少女が、ふと小さく笑った。
「どうした?」
「なんだか、知らない星にいるみたいだなぁって思って」
宇宙を飛行していた船で、エンジントラブル発生。余儀なく不時着した星で、ふたりはサバイバルキャンプ中、といったところだろうか。
ハルは焚き火に放り込んでいた球体のアルミホイルを引っ張り出す。
中身は道の駅で買ったリンゴ。焼きリンゴだ。
ハルは、甘い香りをまとった湯気の熱さを感じながら、丁寧にアルミホイルを開ける。
「リンゴの中の星か……」
さまるまでお預けをくらうサキは、リンゴの塩梅を確認するハルを見た。
「前に、『リンゴは宇宙』と言っていただろう? リンゴが宇宙なら、人間はなにになるのか……」
「……種、かなぁ」
リンゴの種に、微量ながらも毒性があることを、彼女は知らないでそう答えたのだろう。
「そろそろ食べてもいいですか?」
「気をつけて行ってらっしゃい」
シリウス、プロキオン、ベテルギウス。
それぞれの点を、少女は指でなぞり、線を結ぶ。
「冬の大三角形」
少女は得意気に言った。
眠い目がその線をたどっていると、今度は「あれはなんだろう」と、オレンジ色に輝く星を指差した。
かじかむ指先で、少女に、その星と、教えてもらった『あをいめだまの小いぬ』、そして、新たに3つの星を加えて、ひとつひとつを確かめながら結んで、冬のダイヤモンドを教えた。
東の空に浮かぶ、オレンジ色のまん丸キャンディ。
尾を引く光が視界を横切る。
「あ! 今見まし……た……?」
ハルの方へ振り向いたサキ。
(寝てる?)
視線を空へ戻すと、また光が流れた。
それは流星だった。
オレンジ色のキャンディ付近から、次々と流れ、地球へ降り注がれる。
「ハルさん、流れ星ですよ」
声をかけても起きそうにない。このまま寝かせておこうかとも思ったが、やっぱり一緒に見たい。サキはイスから立ち上がり、うつむくハルへ近づいた。
「ハルさん起きてください。流れ星、消えちゃいますよ」
それでもハルは目をつむったまま。
まつげがとても綺麗だった。
「……ハルさん」
サキの目が動く。
視線の先に、閉ざした唇。
「起きてください……」
あの時のこと思い出して胸が疼きはじめる。
「起き……て……?」
手のひら、指先、唇、吐息でなぞれられた箇所。思い出せば、昨日のことのように熱くなってしまう。
「……ハセさん……」
苦しかったはずの夜。
彼と過ごすたびに募る後悔に、首を振って下手な嘘をつく。
(もう少しだけ、このまま……)
起きないで
まだ
起きないで
夢くらい見させて
せめて夢の中だけでいいから
繋がりたい
今
繋がりたい
その姿を見させて
嘘も本当もあなたの全部だから
どんなカタチでもいい
心と
あなたと繋がりたい
(素直になりたい)
この時間が少しでも長く続くように、
暗い空を切り裂く一瞬の星と、
許されない夢が途切れないように、
わたしはこの手を結ぶ。
(お星さま、わたしを許して)
垂れた長い髪の毛が、まぶたを閉じたふたりを隠す。
『サキ……』
「サキ。上、見てごらん」
目を開けたサキは空を見上げた。
夜空にふっと星が流れる。
流れた星が消えかかると、また新しい星が流れる。星たちは途切れそうになりながら線を繋いでいく。
「ハルさんがしたいことって、キャンプじゃなくて、天体観測ですか?」
「あんたが前に、星が見たいと言っていたから」
(また、わたし……?)
サキは心臓がグゥと締め付けられた。
「……ハルさんは、やりたいこと、ないんですか?」
「ない。もうない」
焚き火で温め直している夜食のクロワッサンが焦げそう。そのにおいにハルとサキは網の上のクロワッサンを見た。
「願い事は?」
「へ?」
「流れ星が消える前に、願い事を3回言えたらその願いが叶うって、聞いたことないか?」
ハルは皿に乗せたクロワッサンをサキへ渡す。
「……信じてるんですか?」
「叶えばいいとは思う」
「ということは、願い事、あるんですね」
ハルは小さな口から甘く香ばしい皮がこぼれる様を見た。
「星には願いません。わたしの願い事はハルさんが叶えてくれるから。今日みたいに。なので星には頼みません」
「荷が重いな」
ハルは目頭を押さえた。
感じることのない舌で最後まで舐めた、あのキャンディの味を思い出した。
小麦粉が入った袋を開けたとき、不本意で粉が舞うような煩わしさ。
空に浮かぶ見えないはずの青白い光の先端が振れ、皮膚を刺激する。
頓服薬を探る手。
量が多い。視界が白い。
宙に漂う粉にむせた。
ここはただいま火気厳禁。
「星といっても、塵なんだけどな」
太陽系の果てからはるばるやってきたとても小さな塵が、地球の大気に突入し、大気中の分子などと衝突して、光を放つ現象。流れ星。
その最後の光を、燃え尽きるまでの瞬間を、今、悠々と眺めている。
「……わたし、本当はさっきも星、見たんです。流れ星を……!」
「そうか。仮眠をとっていたから、気がつかなかった」
「夢、ですかね……」
「いや、時間的にも、流れ星が見られてもおかしくはないだろう」
サキはハルの顔をソッと覗く。その瞳に映る黒い三日月は、今日の姿をしていなかった。
(苦い……)
やっぱりこのクロワッサンは焼きすぎだ。
サキはガチガチに焦げた裏側をハルに見せ、「真っ黒ワッサン」と言った。
ハルはクロワッサンの焦げた様をジッと見たあと、サキへ視線を移し「2点」と返した。
「10点満点ですか?」
「100点満点中2点」
「なえ~……?」
サキは不満そうに真っ黒ワッサンをたいらげた。
「2点なんて言うなら、ハルさんもダジャレ、言ってみてくださいよ」
「……さあ、そろそろ寝よう。今日はテントで熟睡できそうだ」
「はぐらかさないでくださいよー」
「一応ダジャレのつもりだったんだが……」
「え?」
「……10は英語でten。だから、テントで熟睡。“テン”トで“じゅう”くすい……」
「ああ! あー……はい! 了解です!」
「了解されても……。俺のダジャレは10点満点中何点?」
「ん~1点!」
「1点……100点満点だと、10点か」
「100点満点だと……1点!」
「どうして」
「なんかよくわからなかったので1点ですね」
「そう」
素っ気なく返事したハルは、腕時計で時刻を確認する。
「遅い時間だ。寝ようか」
「あっ、もう少し、見ててもいいですか? こんな機会、滅多にないので」
「わかった」
夜空を彩る星たちを、クッキリハッキリと見たのは初めてだった。
本来空は、手を伸ばしても届かないくらい高いのに、今まで見てきた空は、手が届くビルに飲み込まれていく姿だけ。
その先に、謎多き宇宙の神秘が広がっていたなんて。
たくさんの人が暮らす明かりで潰された自然の輝きの、本物の姿が、こんなにも美しいものだとは、知らなかった。
それを眠い目で、ただボーッと眺めるだけの、贅沢なひととき。
邪魔をするものはなにもない。強いて言えば時間だけ。
これは非日常。夢に等しい現実。
「あの、わたしって、さっき、寝てました……?」
「寝ていたよ」
「いつから?」
勢いで聞いてしまったが、やっぱり聞かなきゃよかったと後悔して、「やっぱりいいです」と、口を開くハルが答えを出す前に言った。
知りたいこと、知りたくないこと。
気持ちはいつも裏返し。
嘘の言葉に本当の声を散りばめて話す。
嘘ばかり。
全部嘘でいい。
嘘。
本当は起きていてほしかった。
気づいてほしかった。
わたしが本当にしたいこと。
消費期限まであと11ヶ月。
靄がかった世界。あまりの寒さに目が覚めた。
サキがホットココアを飲んでいる間に、ハルはテントをたたみ、荷物をバイクへ積む。
最後に眠たそうな少女を乗せて、最寄りのバス停までバイクを走らせる。
「あんたはバスで帰れ」
「ひとりで帰るの……?」
「バイクを返したら一緒に帰ろう。スピカで待っていてくれ」
バスはまだ見えないが、時刻表は「もうすぐ来るよ」と告げた。おそらくバスは、カーブのちょっと先にいる。
ひらめいたハルが言う。
「バス停でステイ」
「なんですか?」
「ダジャレ、再チャレンジ」
「……9点」
「100点満点?」
「10点満点です」
「残りの1は?」
「なんとなく鼻につくので1点減点しました」
遠くに見えていたバスが到着する。
乗り込むサキを見送って、ハルはバイクに股がった。
遠ざかるバスを眺め、遠回りをして帰ると決めた。
「これがサキのお父さん」
サキは温かいローズマリーティーを口にする。
「当時はなんとも思ってなかったけど、この頃からかわいい顔してやがる」
サキと一鶴は、テーブルに置いた1枚の集合写真を眺めている。それに写っている小学生の頃のハルを、一鶴はツンツンと指さす。
小学生故にとても幼い顔だが、面影はある。目鼻立ちがしっかりしていて、将来美人確定の顔。
「やっぱりモテモテだったんですか?」
「う~ん、この頃は全く。中学でも浮いた話は聞いたことなかったかなぁ。高校生の時は結構告白されてたよ」
「いいな~」と呟くと一鶴が笑った。
「でもねぇ、彼女はいなかったと思う。俺が知らなかっただけかもしれないけどね。あんだけモテるのに、あまりにも誰とも付き合わないから、男が好きなんじゃないかって噂立ってたよ。そうそう、男子にも告白されたことあったらしい」
今じゃ(信じられない……!)が、過去を知っている人が言っているのだから、事実に違いない。
「だからさぁ、当時から浮いた話全く聞いたことなかったから、正直びっくりしてる。結婚もそうだし、子供がいたってことも」
サキはティーカップに目を落とす。
「……幼なじみっていいですね」
「そうだねぇ……でもね、Kくんと仲良くなったのは高校からなんだ。俺ね、高校生の時、天文部に好きな人がいて、その人とお近づきになりたくて天文部に入ろうと思ったんだけど、一人だと妙に恥ずかしくて、誰か一緒に入ってくれる人を探したんだ。その頃入学したてでまだ友達いなくて、同じ中学出身で仲良かった奴探したんだけどいなくて。で、たまたまKくんと廊下ですれ違った時に『あ、Kくんもこの学校いたんだ』って思って、勇気だして話しかけたんだ『一緒に天文部入らない?』って。いきなりだったのに、Kくん『入る』って言ってくれて。それから一緒にいる時間が増えて、色々話すようになった、って感じかな。だから、今はたいして仲良くない人でも、将来はその人と親しい関係になってるかもしれないよ」
若干の苦味を感じるローズマリーティー。ミントのような清涼感と刺激的な香りが、睡眠不足の頭をスッとさせる。シナモンとハチミツが入っていて、飲みやすくはなっているが、やはりハーブティーは苦手かもしれない。
「……好きな人とはどうなったんですか?」
「どうにもなってないよ~。その人1年上の先輩でさ、結局言い出せないまま先輩は卒業。2年も告白のチャンスあったんだけどね、言えなかった……。でも、先輩とは付き合えなかったけど、天文部に入ったおかげで一生の夢が見つかったから万々歳!」
「夢、ですか?」
「そう」
「あ、もしかしてこの写真って……」
壁に貼られた惑星の写真に目を向ける。
「うん。俺が撮ったやつ」
「その夢、もう叶ってるんじゃないんですか?」
「まだまだよ。俺は宇宙に行って、俺たちがまだ知らない星の写真が撮りたいんだ」
──チリリンチリン──
ドアベルが鳴り、顔を上げた一鶴は、店に訪れたハルを見た。
「おかえりー、結構遅かったね」
「悪い、待たせた」
「はは、久々のバイク、気持ちよかっただろ。まあ、ゆっくり休んでって」
二人の下へ向かうと、テーブルの上に置かれた1枚の写真に気づいた。2L判の写真。記憶にある顔が並んでいる。いつ撮られたものかは忘れた。
サキの隣に腰を下ろすハルの瞳は、自ずとあの子の姿を探していた。
見つける前にふと我に返ったハルは、写真からすぐに目をそらした。
「表のボード、また裏返ったままだったぞ」
「あちゃ~これはお茶~」
サキとハルは一瞬顔を見合せ、ティーカップを掲げて苦笑いする一鶴に向かって「100点」と言った。
「なに? なにが?」
二人の唐突な採点に困惑する一鶴。
「手本のようなダジャレだった」とハルが言うと、サキは「うん」とうなずく。
「なによ? なにぃ? こわいな~……」
一鶴が置いたティーカップの中身が揺れる。隣を覗くと、二人は同じ色の飲み物を飲んでいた。
「なに飲んでるんだ?」
「ローズマリーティー」
「珍しいな」
「だろ。決まってブルームーンの日にこの店に来て、クロワッサンとローズマリーティーを頼むマリーさんの話をしたら、サキが『飲んでみたい』って言ってさ。で、今二人で飲んでんの。お茶会よ。Kくんも飲む?」
「いただく」
「はーい」
一鶴は席を立ち、ハルが口を開く。
「俺が来るまで、どんな話をしていた?」
「……内緒です」
会話はそれだけ。一鶴が戻ってくるまでの5分間、ふたりは無言のままだった。
「Kくんさ、高校の頃ファンクラブあったの知ってた?」
「ファンクラブ? 誰の?」
「Kくんのだよ」
「……なにをするクラブなんだ」
「知らね。そうだそうだ、Kくん来たら見せようと思ってた写真があって……」
一鶴はエプロンのポケットから2L判の写真1枚を出して、先に置いてあった写真の隣に並べた。
先に見た写真と同じ場所、同じ構図で撮られた集合写真。周りの風景はほとんど変わっていないから、人物だけが年を取ったみたいだ。
「この宿泊学習の集合写真真似して、同窓会のあと、みんなでそこ行って撮った写真。俺結構忘れててさ、顔と名前一致しなくて困った~。Kくん、覚えてる奴いる?」
改めて見させられる写真。
淹れたてのローズマリーティーの湯気が鼻を触って唇をしっとりと濡らした。
「この人」
ハルは昔の写真を指さす。
一鶴とサキが落とされた指の先を見る。
そこに写っていた人物は、
「俺じゃん。逆に忘れないで俺のこと」
「……忘れないよ」
最後にハルはもう一度写真に目を落とした。
ふたりがスピカを出発するとき、一鶴はフィルムカメラで記念写真を撮った。
「現像したら送るから待ってて。それじゃあ気をつけて!」
一鶴に別れを告げて、ふたりは歩き出す。
写真を撮る前、サキはドアノブにかけられてある“CLOSED”と書かれたボードをひっくり返していた。
帰りのバスの中。
サキは携帯電話を眺めていた。その画面に映っているのは、昔の集合写真に写っていた幼い頃のハル。ハルがスピカを訪れる数分前、サキは一鶴にバレないようにこっそり撮っていた。
(幼馴染み、かぁ……)
もし同じ時代、同じ場所に生まれていたら、同じ学校で同じクラスだったら、友だちになれていたかな。
どんな話ができたかな。
同じ物を食べて、同じ景色を見て、どんな風に過ごしていたかな。
酔いの予感がして携帯電話を閉じたサキは、バスに揺られながら、まぶたの裏に別の世界線を描いた。
飲み干したローズマリーの香りがいつまでも残っている気がした。
ハルの視線はバスの大きなフロントガラスに真っ直ぐと向けられているが、いくら見つめても、この目は流れる景色を捉えてはくれない。
小学5年生の時に行われた宿泊学習で撮った集合写真に、確かに写っていた、幻にしようとしていた女の子の姿が、脳裏に焼きついて離れない。
『西森小春って覚えてる?』
小学5年生になってすぐの頃に転校してきて、小学6年生の卒業式前に転校していった女の子。
『あの子亡くなったんだって』
彼女は死んだ。
『中学卒業してすぐ事故に遭ったそうだよ』
中学を卒業して、高校に入学する前の、何者でもない時期に、乗る予定ではなかったバスに乗って、事故に遭った。
『バスの事故だって』
事故のことは彼女の両親から直接聞かされた。だから、一鶴の話には嘘が混ざっているとわかった。
事故に巻き込まれたことは、紛れもない事実。
そして、彼女が死んだこともまた事実。
だが、交通事故が死因ではない。
死因は他殺。
『覚えてる?』
他人の言葉が、書き換えようとしていた忘れてはいけない記憶を、はっきりと思い出させた。
(あの時からずっと、覚えている)
バスがガタンと大きく揺れて、隣で眠っているサキがハルの肩へもたれかかる。
(西森小春は俺が殺した)
ふたりは山道を外れた小道にいた。疲れた足でけもの道のような細い道を歩く。
「少し休憩しようか」
サキは「ふぅ」と息を吐く。リュックから飲み物を取り出し、水分補給しようと何気なく見上げた空。木々の隙間からわずかに見える青空が輝いていた。
あの後、バイクは山へ入り、舗装されていない林道を走った。サキは尻に伝わる衝撃に耐えながら、ハルに身を任せていると、ようやく開けた場所へとたどり着いた。周りは木で生い茂っているのに、この空間だけくり貫かれたように、空を遮るものはなにもない。近くに川があるのか、水の流れる音が微かに聞こえてくる。
『ここが本日のキャンプ地です』
ワンタッチテントだったので設営は楽だった。飛ばされないよう、鍛造ペグを打つときはサキも手伝った。斜めに打つのが意外と難しく手間取ったが、コツを教えてもらいながらなんとかできた。
(ハルさんがしたいことってキャンプだったんだ)
「足下気をつけて」
少し大きめの段差に、サキは足がすくむ。
左は急な斜面になっていて、踏み外したら滑落しそう。
躊躇するサキに、ハルは手を伸ばす。
サキはその手をしっかりと掴んで、飛び降りた。
「わっ」
勢い余ってハルにしがみつく。
「すみません……」
すぐに離れようとしたが、疲れのせいか、ハルの体に寄りかかりたくなった。ハルも、体を預けるサキを無理に離そうとはしなかったから、少しだけこのままでいた。
「もう少しだから、頑張ろう」
足を進めるたび水の音が強くなっていく。
崖の下を覗くと川が流れていた。
数ヶ月前なら、ここから落ちても平気だと思っていただろう。でもそれは今でも変わらない。違うのは恐怖心。怖くてたまらない。
足を踏み外して崖から転げ落ちて、体を痛めて起き上がれなくなって、何日経っても人が一人いなくなったことには誰も気づかない。
それでいいのに、今は足を滑らせることさえ怖くて、安心に触れたくて、目の前の大きな手のひらを頼りに歩きたい、そう思ってしまう。
(時間がないのに……)
薄情な世界でサキは精一杯呼吸する。
ときおり振り返ってくれるハルの背中を必死に追った。
(わたしなにしてるんだろう……)
太ももがパンパンで足が上がらない。
疲れを感じる体に、今生きていることを実感させられる。
(このままじゃ……)
疲労困憊で考える余裕なんてないはずなのに、涙が出そう。
「サキ」
目元を流れる汗を拭ったサキは、ハルに呼ばれて顔を上げた。
立ち止まるハルの下へ、気力だけで足を動かす。
そしてハルが見つめる視線の先を追った。
「たき……?」
落差は小さいが幅広く、緑色の苔に覆われた岩肌を、勢いよく滑走する流水がしぶきを上げながら落ちる姿は神秘的。その音は、豪快でありながらも優しく、疲れたふたりに癒しを与えた。
「お疲れさま」
サキは座るのにちょうど良さそうな高さの岩を見つけて、濡れることも厭わずに腰かけた。
その様子を見ていたハルは、ぐったりと頭を垂れるサキの隣に座った。
「ハルさんは疲れてないんですか?」
「……それなりに」
「それなりにって……」
「あんたよりは体力あるから」
「鍛えようかな……」
──ほら、また未来の話。──
「あ、アメ食べます?」
「はい」
ハルはスッと手を出す。
「ちょっと待ってください……!」
急いでリュックを膝の上に下ろし、中からカンカンのキャンディを取り出した。その間も、ハルは手を出したまま待っていた。
「今日の運勢は……」
缶を振って中身を出す。
ハルの手のひらに転がり落ちたキャンディは、オレンジ色をしていた。
「吉です」
「吉?」
自分の手にもキャンディを1個出す。
白色が出て、サキは渋い顔。それを見たハルが言う。
「それは凶か」
「……大凶です」
本当は大吉なのだが、その理由を聞かれたら困る。
サキは白いキャンディを口へ放り込んだ。捨てずに食べるようにしてきたが、この独特な匂いと刺激は今でも慣れない。
「もらおうか」
「えっ、もう食べちゃってますし……」
ハルはまたキャンディを待つように、サキに向かって手のひらを出した。
「へ?」
「もらう」
「……えっ!」
「ん?」
「いやぁ……」
「手に出していいから」
「う~……気にしないタイプですか?」
「なに?」
「手がベタベタになっちゃいますよ」
「それなら……」
ハルはポケットから4つ折りのハンカチを出す。
「この上に出したらいい」
「それじゃあハンカチが汚れちゃうじゃないですか」
「構わない」
「わたしがかまうんですぅー!」
「かまう……?」
サキが本当に気にしているのは、手やハンカチが汚れることではない。
「もう!」
怒れるサキは白いキャンディをバリボリと噛み砕いてやった。
「……元気だな」
「うるさい!」
そっぽを向くサキ。
ハルは首もとに巻いたタオルで汗を拭った。
岩のデコボコを縫って落ちる水は白い糸のよう。
何本もの白い糸が、重なってはまた分かれ、太くなったり細くなったり、繰り返し、また重なり、細くなる。
幾つにも分かれた道を、いつだって迷わずに進む。
そして最後は一つになる。
想像し得ないほど、とても大きなものに。
サキは、立て続けに三回、くしゃみした。
焚き火に道中拾った枝をくべる。
辺りはすっかり暗くなったが、ふたりが囲む焚き火が鮮やかに照らす。
夕食を済ませたふたりは、折りたたみのイスに背を預けてブレイクタイム。
サキは焚き火に手をかざす。寒さに負けてテントに入るのはもったいない気がした。
焚き火のパチパチ弾ける音に耳を傾けながら見上げた夜空。星たちの光を遮るものはなにもない。「存分に輝け」と、風に揺れる木々が会話する。
メラメラと燃える火に照らされる少女が、ふと小さく笑った。
「どうした?」
「なんだか、知らない星にいるみたいだなぁって思って」
宇宙を飛行していた船で、エンジントラブル発生。余儀なく不時着した星で、ふたりはサバイバルキャンプ中、といったところだろうか。
ハルは焚き火に放り込んでいた球体のアルミホイルを引っ張り出す。
中身は道の駅で買ったリンゴ。焼きリンゴだ。
ハルは、甘い香りをまとった湯気の熱さを感じながら、丁寧にアルミホイルを開ける。
「リンゴの中の星か……」
さまるまでお預けをくらうサキは、リンゴの塩梅を確認するハルを見た。
「前に、『リンゴは宇宙』と言っていただろう? リンゴが宇宙なら、人間はなにになるのか……」
「……種、かなぁ」
リンゴの種に、微量ながらも毒性があることを、彼女は知らないでそう答えたのだろう。
「そろそろ食べてもいいですか?」
「気をつけて行ってらっしゃい」
シリウス、プロキオン、ベテルギウス。
それぞれの点を、少女は指でなぞり、線を結ぶ。
「冬の大三角形」
少女は得意気に言った。
眠い目がその線をたどっていると、今度は「あれはなんだろう」と、オレンジ色に輝く星を指差した。
かじかむ指先で、少女に、その星と、教えてもらった『あをいめだまの小いぬ』、そして、新たに3つの星を加えて、ひとつひとつを確かめながら結んで、冬のダイヤモンドを教えた。
東の空に浮かぶ、オレンジ色のまん丸キャンディ。
尾を引く光が視界を横切る。
「あ! 今見まし……た……?」
ハルの方へ振り向いたサキ。
(寝てる?)
視線を空へ戻すと、また光が流れた。
それは流星だった。
オレンジ色のキャンディ付近から、次々と流れ、地球へ降り注がれる。
「ハルさん、流れ星ですよ」
声をかけても起きそうにない。このまま寝かせておこうかとも思ったが、やっぱり一緒に見たい。サキはイスから立ち上がり、うつむくハルへ近づいた。
「ハルさん起きてください。流れ星、消えちゃいますよ」
それでもハルは目をつむったまま。
まつげがとても綺麗だった。
「……ハルさん」
サキの目が動く。
視線の先に、閉ざした唇。
「起きてください……」
あの時のこと思い出して胸が疼きはじめる。
「起き……て……?」
手のひら、指先、唇、吐息でなぞれられた箇所。思い出せば、昨日のことのように熱くなってしまう。
「……ハセさん……」
苦しかったはずの夜。
彼と過ごすたびに募る後悔に、首を振って下手な嘘をつく。
(もう少しだけ、このまま……)
起きないで
まだ
起きないで
夢くらい見させて
せめて夢の中だけでいいから
繋がりたい
今
繋がりたい
その姿を見させて
嘘も本当もあなたの全部だから
どんなカタチでもいい
心と
あなたと繋がりたい
(素直になりたい)
この時間が少しでも長く続くように、
暗い空を切り裂く一瞬の星と、
許されない夢が途切れないように、
わたしはこの手を結ぶ。
(お星さま、わたしを許して)
垂れた長い髪の毛が、まぶたを閉じたふたりを隠す。
『サキ……』
「サキ。上、見てごらん」
目を開けたサキは空を見上げた。
夜空にふっと星が流れる。
流れた星が消えかかると、また新しい星が流れる。星たちは途切れそうになりながら線を繋いでいく。
「ハルさんがしたいことって、キャンプじゃなくて、天体観測ですか?」
「あんたが前に、星が見たいと言っていたから」
(また、わたし……?)
サキは心臓がグゥと締め付けられた。
「……ハルさんは、やりたいこと、ないんですか?」
「ない。もうない」
焚き火で温め直している夜食のクロワッサンが焦げそう。そのにおいにハルとサキは網の上のクロワッサンを見た。
「願い事は?」
「へ?」
「流れ星が消える前に、願い事を3回言えたらその願いが叶うって、聞いたことないか?」
ハルは皿に乗せたクロワッサンをサキへ渡す。
「……信じてるんですか?」
「叶えばいいとは思う」
「ということは、願い事、あるんですね」
ハルは小さな口から甘く香ばしい皮がこぼれる様を見た。
「星には願いません。わたしの願い事はハルさんが叶えてくれるから。今日みたいに。なので星には頼みません」
「荷が重いな」
ハルは目頭を押さえた。
感じることのない舌で最後まで舐めた、あのキャンディの味を思い出した。
小麦粉が入った袋を開けたとき、不本意で粉が舞うような煩わしさ。
空に浮かぶ見えないはずの青白い光の先端が振れ、皮膚を刺激する。
頓服薬を探る手。
量が多い。視界が白い。
宙に漂う粉にむせた。
ここはただいま火気厳禁。
「星といっても、塵なんだけどな」
太陽系の果てからはるばるやってきたとても小さな塵が、地球の大気に突入し、大気中の分子などと衝突して、光を放つ現象。流れ星。
その最後の光を、燃え尽きるまでの瞬間を、今、悠々と眺めている。
「……わたし、本当はさっきも星、見たんです。流れ星を……!」
「そうか。仮眠をとっていたから、気がつかなかった」
「夢、ですかね……」
「いや、時間的にも、流れ星が見られてもおかしくはないだろう」
サキはハルの顔をソッと覗く。その瞳に映る黒い三日月は、今日の姿をしていなかった。
(苦い……)
やっぱりこのクロワッサンは焼きすぎだ。
サキはガチガチに焦げた裏側をハルに見せ、「真っ黒ワッサン」と言った。
ハルはクロワッサンの焦げた様をジッと見たあと、サキへ視線を移し「2点」と返した。
「10点満点ですか?」
「100点満点中2点」
「なえ~……?」
サキは不満そうに真っ黒ワッサンをたいらげた。
「2点なんて言うなら、ハルさんもダジャレ、言ってみてくださいよ」
「……さあ、そろそろ寝よう。今日はテントで熟睡できそうだ」
「はぐらかさないでくださいよー」
「一応ダジャレのつもりだったんだが……」
「え?」
「……10は英語でten。だから、テントで熟睡。“テン”トで“じゅう”くすい……」
「ああ! あー……はい! 了解です!」
「了解されても……。俺のダジャレは10点満点中何点?」
「ん~1点!」
「1点……100点満点だと、10点か」
「100点満点だと……1点!」
「どうして」
「なんかよくわからなかったので1点ですね」
「そう」
素っ気なく返事したハルは、腕時計で時刻を確認する。
「遅い時間だ。寝ようか」
「あっ、もう少し、見ててもいいですか? こんな機会、滅多にないので」
「わかった」
夜空を彩る星たちを、クッキリハッキリと見たのは初めてだった。
本来空は、手を伸ばしても届かないくらい高いのに、今まで見てきた空は、手が届くビルに飲み込まれていく姿だけ。
その先に、謎多き宇宙の神秘が広がっていたなんて。
たくさんの人が暮らす明かりで潰された自然の輝きの、本物の姿が、こんなにも美しいものだとは、知らなかった。
それを眠い目で、ただボーッと眺めるだけの、贅沢なひととき。
邪魔をするものはなにもない。強いて言えば時間だけ。
これは非日常。夢に等しい現実。
「あの、わたしって、さっき、寝てました……?」
「寝ていたよ」
「いつから?」
勢いで聞いてしまったが、やっぱり聞かなきゃよかったと後悔して、「やっぱりいいです」と、口を開くハルが答えを出す前に言った。
知りたいこと、知りたくないこと。
気持ちはいつも裏返し。
嘘の言葉に本当の声を散りばめて話す。
嘘ばかり。
全部嘘でいい。
嘘。
本当は起きていてほしかった。
気づいてほしかった。
わたしが本当にしたいこと。
消費期限まであと11ヶ月。
靄がかった世界。あまりの寒さに目が覚めた。
サキがホットココアを飲んでいる間に、ハルはテントをたたみ、荷物をバイクへ積む。
最後に眠たそうな少女を乗せて、最寄りのバス停までバイクを走らせる。
「あんたはバスで帰れ」
「ひとりで帰るの……?」
「バイクを返したら一緒に帰ろう。スピカで待っていてくれ」
バスはまだ見えないが、時刻表は「もうすぐ来るよ」と告げた。おそらくバスは、カーブのちょっと先にいる。
ひらめいたハルが言う。
「バス停でステイ」
「なんですか?」
「ダジャレ、再チャレンジ」
「……9点」
「100点満点?」
「10点満点です」
「残りの1は?」
「なんとなく鼻につくので1点減点しました」
遠くに見えていたバスが到着する。
乗り込むサキを見送って、ハルはバイクに股がった。
遠ざかるバスを眺め、遠回りをして帰ると決めた。
「これがサキのお父さん」
サキは温かいローズマリーティーを口にする。
「当時はなんとも思ってなかったけど、この頃からかわいい顔してやがる」
サキと一鶴は、テーブルに置いた1枚の集合写真を眺めている。それに写っている小学生の頃のハルを、一鶴はツンツンと指さす。
小学生故にとても幼い顔だが、面影はある。目鼻立ちがしっかりしていて、将来美人確定の顔。
「やっぱりモテモテだったんですか?」
「う~ん、この頃は全く。中学でも浮いた話は聞いたことなかったかなぁ。高校生の時は結構告白されてたよ」
「いいな~」と呟くと一鶴が笑った。
「でもねぇ、彼女はいなかったと思う。俺が知らなかっただけかもしれないけどね。あんだけモテるのに、あまりにも誰とも付き合わないから、男が好きなんじゃないかって噂立ってたよ。そうそう、男子にも告白されたことあったらしい」
今じゃ(信じられない……!)が、過去を知っている人が言っているのだから、事実に違いない。
「だからさぁ、当時から浮いた話全く聞いたことなかったから、正直びっくりしてる。結婚もそうだし、子供がいたってことも」
サキはティーカップに目を落とす。
「……幼なじみっていいですね」
「そうだねぇ……でもね、Kくんと仲良くなったのは高校からなんだ。俺ね、高校生の時、天文部に好きな人がいて、その人とお近づきになりたくて天文部に入ろうと思ったんだけど、一人だと妙に恥ずかしくて、誰か一緒に入ってくれる人を探したんだ。その頃入学したてでまだ友達いなくて、同じ中学出身で仲良かった奴探したんだけどいなくて。で、たまたまKくんと廊下ですれ違った時に『あ、Kくんもこの学校いたんだ』って思って、勇気だして話しかけたんだ『一緒に天文部入らない?』って。いきなりだったのに、Kくん『入る』って言ってくれて。それから一緒にいる時間が増えて、色々話すようになった、って感じかな。だから、今はたいして仲良くない人でも、将来はその人と親しい関係になってるかもしれないよ」
若干の苦味を感じるローズマリーティー。ミントのような清涼感と刺激的な香りが、睡眠不足の頭をスッとさせる。シナモンとハチミツが入っていて、飲みやすくはなっているが、やはりハーブティーは苦手かもしれない。
「……好きな人とはどうなったんですか?」
「どうにもなってないよ~。その人1年上の先輩でさ、結局言い出せないまま先輩は卒業。2年も告白のチャンスあったんだけどね、言えなかった……。でも、先輩とは付き合えなかったけど、天文部に入ったおかげで一生の夢が見つかったから万々歳!」
「夢、ですか?」
「そう」
「あ、もしかしてこの写真って……」
壁に貼られた惑星の写真に目を向ける。
「うん。俺が撮ったやつ」
「その夢、もう叶ってるんじゃないんですか?」
「まだまだよ。俺は宇宙に行って、俺たちがまだ知らない星の写真が撮りたいんだ」
──チリリンチリン──
ドアベルが鳴り、顔を上げた一鶴は、店に訪れたハルを見た。
「おかえりー、結構遅かったね」
「悪い、待たせた」
「はは、久々のバイク、気持ちよかっただろ。まあ、ゆっくり休んでって」
二人の下へ向かうと、テーブルの上に置かれた1枚の写真に気づいた。2L判の写真。記憶にある顔が並んでいる。いつ撮られたものかは忘れた。
サキの隣に腰を下ろすハルの瞳は、自ずとあの子の姿を探していた。
見つける前にふと我に返ったハルは、写真からすぐに目をそらした。
「表のボード、また裏返ったままだったぞ」
「あちゃ~これはお茶~」
サキとハルは一瞬顔を見合せ、ティーカップを掲げて苦笑いする一鶴に向かって「100点」と言った。
「なに? なにが?」
二人の唐突な採点に困惑する一鶴。
「手本のようなダジャレだった」とハルが言うと、サキは「うん」とうなずく。
「なによ? なにぃ? こわいな~……」
一鶴が置いたティーカップの中身が揺れる。隣を覗くと、二人は同じ色の飲み物を飲んでいた。
「なに飲んでるんだ?」
「ローズマリーティー」
「珍しいな」
「だろ。決まってブルームーンの日にこの店に来て、クロワッサンとローズマリーティーを頼むマリーさんの話をしたら、サキが『飲んでみたい』って言ってさ。で、今二人で飲んでんの。お茶会よ。Kくんも飲む?」
「いただく」
「はーい」
一鶴は席を立ち、ハルが口を開く。
「俺が来るまで、どんな話をしていた?」
「……内緒です」
会話はそれだけ。一鶴が戻ってくるまでの5分間、ふたりは無言のままだった。
「Kくんさ、高校の頃ファンクラブあったの知ってた?」
「ファンクラブ? 誰の?」
「Kくんのだよ」
「……なにをするクラブなんだ」
「知らね。そうだそうだ、Kくん来たら見せようと思ってた写真があって……」
一鶴はエプロンのポケットから2L判の写真1枚を出して、先に置いてあった写真の隣に並べた。
先に見た写真と同じ場所、同じ構図で撮られた集合写真。周りの風景はほとんど変わっていないから、人物だけが年を取ったみたいだ。
「この宿泊学習の集合写真真似して、同窓会のあと、みんなでそこ行って撮った写真。俺結構忘れててさ、顔と名前一致しなくて困った~。Kくん、覚えてる奴いる?」
改めて見させられる写真。
淹れたてのローズマリーティーの湯気が鼻を触って唇をしっとりと濡らした。
「この人」
ハルは昔の写真を指さす。
一鶴とサキが落とされた指の先を見る。
そこに写っていた人物は、
「俺じゃん。逆に忘れないで俺のこと」
「……忘れないよ」
最後にハルはもう一度写真に目を落とした。
ふたりがスピカを出発するとき、一鶴はフィルムカメラで記念写真を撮った。
「現像したら送るから待ってて。それじゃあ気をつけて!」
一鶴に別れを告げて、ふたりは歩き出す。
写真を撮る前、サキはドアノブにかけられてある“CLOSED”と書かれたボードをひっくり返していた。
帰りのバスの中。
サキは携帯電話を眺めていた。その画面に映っているのは、昔の集合写真に写っていた幼い頃のハル。ハルがスピカを訪れる数分前、サキは一鶴にバレないようにこっそり撮っていた。
(幼馴染み、かぁ……)
もし同じ時代、同じ場所に生まれていたら、同じ学校で同じクラスだったら、友だちになれていたかな。
どんな話ができたかな。
同じ物を食べて、同じ景色を見て、どんな風に過ごしていたかな。
酔いの予感がして携帯電話を閉じたサキは、バスに揺られながら、まぶたの裏に別の世界線を描いた。
飲み干したローズマリーの香りがいつまでも残っている気がした。
ハルの視線はバスの大きなフロントガラスに真っ直ぐと向けられているが、いくら見つめても、この目は流れる景色を捉えてはくれない。
小学5年生の時に行われた宿泊学習で撮った集合写真に、確かに写っていた、幻にしようとしていた女の子の姿が、脳裏に焼きついて離れない。
『西森小春って覚えてる?』
小学5年生になってすぐの頃に転校してきて、小学6年生の卒業式前に転校していった女の子。
『あの子亡くなったんだって』
彼女は死んだ。
『中学卒業してすぐ事故に遭ったそうだよ』
中学を卒業して、高校に入学する前の、何者でもない時期に、乗る予定ではなかったバスに乗って、事故に遭った。
『バスの事故だって』
事故のことは彼女の両親から直接聞かされた。だから、一鶴の話には嘘が混ざっているとわかった。
事故に巻き込まれたことは、紛れもない事実。
そして、彼女が死んだこともまた事実。
だが、交通事故が死因ではない。
死因は他殺。
『覚えてる?』
他人の言葉が、書き換えようとしていた忘れてはいけない記憶を、はっきりと思い出させた。
(あの時からずっと、覚えている)
バスがガタンと大きく揺れて、隣で眠っているサキがハルの肩へもたれかかる。
(西森小春は俺が殺した)
応援ありがとうございます!
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