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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』
6 午前1時のパ・ド・ドゥ(Adagio)
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「んわっ、まぶし……電気点けないで」
「点けなきゃ見えないだろっ……」
「感覚でわかるってのぉ」
「おい消すなよ! どこだスイッチ……」
「いったぁ! なに?」
「いいからお前はさっさと脱げ」
「指いたぁーい」
「いちいちうるせぇなぁ」
「いたぁーい!」
「わかったって! 脱がせてやるからじっとしてろ……」
「いたぁっ! こっちに押し込まないでよ! ただでさえおっきいんだから……」
「見えねんだよ!」
「だからって乱暴すぎるでしょ」
「お前が動くからだろ」
「動いてないし」
「あーほら汚れる!」
「気にしない気にしない、あとで拭けばいいし……」
「おいおいおい待て行くな!」
「もーなにぃ? いい加減疲れたってぇ。てかおしっこしたい、漏れる」
「だからはやく脱げって言ってるだろ」
「ああもう! 見えない! 電気点けて!」
「お前なぁ……いでぇ! おい今わざと踏んだな!?」
「ヘッヘッヘ」
真っ暗な玄関先でゴタゴタするふたりは、靴を脱ぐのも一苦労。結局電気は点けず、一度土足で上がってしまった上がり框にのどかを座らせ、田儀が靴を脱がせた。
千鳥足になるのどかの肩を抱えて、寝室へ向かおうとする田儀。
「お風呂連れてって、シャワー浴びるの」
「お前死ぬ気か?」
「いいじゃん。このまま寝るの気持ち悪いしぃ~ねぇ~?」
「あぶねぇからやめろって」
「だったらオジサンが見てて?」
「正気じゃないよな」
「一緒に入ればいいでしょ? 溺れないように、あたしのこと見張っててよ」
「はあ?」
「ほらぁ」
のどかは頭を抱える田儀の手を引いて連れていく。田儀はそのふらつく足取りが気になっていた。そして思った通り、玄関近くの洗面所へ入ろうと曲がったとき、のどかの足がもつれて転びそうになり、田儀はとっさにのどかの背中に腕を回して体を支えた。
「あぶねっ……」
のどかは焦り顔の田儀を見つめる。アルコールとは明らかに違う脈拍の増加を感じた。
「……ナイス反射神経! 衰えてないねぇ」
「うちのチビスケどもで鍛えられてるからな」
「もー、子ども扱いしないでよねー」
「お前も年寄り扱いするな」
今も背中に当たっている力強い腕にドキドキしている。
のどかは田儀から体を離し、そのまま気にもせず服を脱ぎ始めると、田儀は慌てて背を向けた。
「お前っ、いきなり脱ぐなって……」
「さっきまで脱げ脱げって言ってたのに~?」
「それは靴の話だろ。お前、入る気か?」
「だからあたしを見ててよ」
のどかは下着を外しながら、ちょっと伸びた襟足を触る田儀の手を見ていた。
「俺はここにいるから、様子がおかしかったらそっちに行く。湯船に浸かるなよ、シャワーだけで済ませるんだぞ。あと、上がる前にノックしろよ」
胸の高鳴りが面白いほど簡単に静まっていくと、うつむいたのどかはうっすらと笑った。
「……ねぇ、実況してあげようか。その方がわかりやすいでしょ?」
顔を上げたのどかは、腕組みをする田儀の後ろ姿を、目を細めてじっと見つめる。
「いいから黙って入れ……」
その背広はダークトーンのブラウンカラーで、着ている本人とは真逆に、落ち着き払っている。
「気持ち悪い」
のどかのつぶやきに、田儀の首が少し動く。
「……具合悪いか?」
今すぐその背中にドロップキックをお見舞いしてやりたい。
「テメェの態度が気持ち悪いっつってんだよ」
「どいつもこいつも……」
「あたしを女として見ないから好きだったのに。今さらそんな態度とんな。こっち見ろ」
なにも言えない田儀が黙って振り向くと、仁王立ちするのどかは裸で、いつも結んでいる髪はほどかれていて、胸が毛先で隠れるほど長いことを知った。
「オジサン座って」
のどかは優しい口調で言う。
いうとおりにすると、のどかは田儀の肩に片足をひっかけた。
「舐めて」
蔑んだ黒い瞳が落とされる。
正座したまま一切動かない田儀。その瞳から視線を外すことができず、のどかの顔をただただ見上げるばかり。
田儀は視界の端に映る情報を入れないようにしていたが、のどかの手が腹を這って下へ向かうのが見えた。
「ほら、舐めてよ」
睨みつける眼差しに喉の渇きを感じて、生唾を飲み込む。
見下ろすのどかは、田儀の喉仏が動いたのを見た。
のどかは唇を薄く開き、数秒後、「なーんてね。冗談だよ」と言って、肩にかけていた足を軽やかに外した。
「さっきからずっと変に意識してるからからかってあげただけ。本気にされてもあたしが困るし。不倫なんかしたくないっつーの」
クルリと背を向けたのどかの長い髪が左右に揺れる。
ノックする音が聞こえて、浴室のドアが開く。
チラリと目を向けた田儀と目が合って、のどかはバスタオルをサッととり、手早く濡れた体に巻き付けた。
「ふぅ、サッパリサッパリ! オジサンも入れば?」
「俺は帰る」
「シャワーくらいいいじゃん。酔い覚ましにどうぞ?」
田儀は従うことにした。
なにかを期待しているわけではないが、いつもより念入りに洗った。
洗面所を出ると、廊下のヒヤッとする空気に身が縮こまった。濡れた髪を軽く拭いたタオルを首にかけ、ジャケットを片手にリビングへ向かうと、ドアの曇りガラスからテレビの光がチカチカと漏れていた。
垂れた前髪をかきあげ、ドアを開ける。室内はやはり真っ暗。 田儀はスイッチを押す。降り注がれた強烈な光に、のどかは顔を歪めて目をつぶる。
「電気点けろ。テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見るんだぞ」
「わかっててやってんのー」
のどかはソファを背もたれにして、床に座り、冷たいものを飲みながら映画を観ていた。
「また観てるのか、お前この映画好きな」
「うん。なんか無性に観たくなるのよ。ナポリタンのとこ好きなんだよね。あとラーメン屋で普通に座ってるとこ」
「そこかい」
「見てみて! 水野! やば~い! いつ見てもかっこいい~!」
のどかはテレビに映る一人の男を指差す。怒号が飛び交う物騒なシーンで、黒いソファに座るその男は、テーブルに黄色いカッターナイフを叩きつけた。
「あーかっこいいねぇ」
「ちょっと、ちゃんと思ってる?」
「思ってます」
このあとも物騒なシーンが続く。全編を通して暴力的な映画だ。
のどかはリモコンをとって、中盤まで一気に早送りする。
「観ねーの?」
「何回も観てるから。……ほら、ラーメン屋のシーン。ここ普通のオジサンっぽくて可愛くない? この後のシーンもいいよね」
「耳に菜箸突っ込まれるやつ?」
「その後ですぅ。警察官の前でタバコ捨てるとこ。悪ガキっぽくて可愛くない?」
「お前の言う可愛いがわからん」
「あー、水野が吐いたタバコの煙ならもう顔面に浴びたい!」
「アホ」
田儀は笑いながらのどかの隣に腰を下ろす。本当はシャワー浴びたらすぐに帰ろうと思っていた。
ソファの上に置いたジャケットの内ポケットから、タバコとジッポーを出してテーブルに置く。
「……吸ってい?」
「ダメ」
「ちょっとだけ」と言って、箱からすでに頭を覗かせているタバコを1本とった。それを阻止するために、のどかはテーブルに置いたままのジッポーを素早く奪う。
「だからダメだって。部屋臭くなる」
「嫌いか?」
「イヤに決まってんじゃん」
田儀はソファの座面に肘をついて、上体をのどかへ向け、くわえたタバコの先っぽを上下に動かす。
「ん、点けて」
「……キャバ嬢じゃないんですけどー?」
「わかってるよ」
それでも全く見向きもしない。のどかの背後に腕を回し、テレビを見つめる顔の前で、手をひらひらと振って視界を邪魔した。
のどかはあからさまにため息をついて、田儀を横目で睨み付ける。
「ちょうだい?」
いつもオールバックスタイルの田儀の前髪が落ちている。乾きはじめた前髪は、眉毛にかかるくらいの長さで、いつも見えているおでこが隠れていて、だいぶ幼く見えた。
「おじさんに優しくしてよ……」
ボンヤリとした目つきで見つめている田儀。ここで湿っぽい低音ボイスを出すのはズルい。
(ムカつく……)
のどかはしかたなくジッポーの蓋を開き、田儀がくわえるタバコの先端に持っていく。ホイールを親指で回して火を点けた。
「……もういい?」
「待て」
ジッポーを持つ手を軽く掴む。
田儀は口に含んだ煙を、のどかの顔に吹きかけた。
「うわっ、サイテー……!」
顔を背けて軽く咳するのどかを見て、田儀は「フッ」と笑って体を戻す。
腕をグーで一発殴られたが、かまわず吸う。
田儀は、のどかの目の前に置かれている氷の入ったグラスの下が、結露でひどく濡れているのが気になった。ティッシュを3枚取って、濡れたグラスの底とテーブルにできた水たまりを吸わせる。
「なに飲んでるんだ?」
「ん? オン・ザ・ロック。飲む?」
持ち上げたグラス。そのまま飲みかけを一口味見する。
「……ただの氷水じゃねーか」
「さすがにもうお酒は飲まない。おじさんにも作ってあげる」
「お、ここはセルフじゃねんだ」
「うるせ」
のどかはキッチンへ向かい、形の違うグラスを用意した。グラスに大きい氷を3つ入れ、「あ、炭酸水あるけどどうする? そっちの方がいいっしょ」と聞いた。田儀が返事をするときにはもう炭酸水を半分ほど入れていた。
「水でいいっつったんだが……」
「いいじゃん。ありがたく飲めや」
田儀は「ありがたく頂戴します」とグラスを掲げ、ゴクリと飲んだ。なみなみと注がれているわりには量が足りない。
「……この氷でかいなぁ」
「これね、夏に大量に作って余った氷。腐ると思って今必死に使ってんの。てか氷って腐る?」
「氷は腐らないだろ。あんまり体冷やすなよ?」
「もうね内側がすっごいあちぃんだもん。ちょっと触ってみ?」
のどかは袖を捲って腕を突き出したが、田儀の手は開いた襟元へ伸び、首に触れた。
「……たしかに熱いな」
鎖骨を通って胸骨の方へ流れる冷たい手のひらは、徐々にのどかの体温に順応していく。
「俺の手が冷えすぎてるのか……?」
下へ向かおうとする手を、留めたボタンが遮った。
のどかは「あ、そうだ」と言って立ち上がり、リビングを出て隣の部屋へ行く。ドアは開けっ放しで、覗くと寝室だった。
「オジサンの形見、ちゃんと持ってるよ」
暗い部屋から戻ってきたのどかは、クリスマスプレゼントで強引にもらった、淡い紫色のサングラスを見せた。
「おー。持ってないで使えよ」
のどかはサングラスをかけて見せる。
「どう?」
田儀は立ち上がり「似合わないなぁ」と笑って、のどかの耳元に手を伸ばしてサングラスを外した。
「じゃあ返す」
「拗ねるなよ。お前も俺に似合わないって言ってただろ?」
と、サングラスをかける田儀。
「……似合ってるよ、逆に。似合いすぎてみんな引くからやめなって意味です」
田儀はサングラスを外して、のどかへ差し出す。
「俺はお前に持っていてほしい」
「あんだけごねてたのに」
受けとるのどかの手元を見下ろす。少し視線をずらすと、はだけた胸元から控えめな谷間が見えた。
ふいに顔を見上げるのどか。
「なに?」
「……寝るときパジャマなんだな」
「文句あんの?」
「いや……」
「ウッザ。あっ!」
のどかは田儀を押しのけ、急いでソファに座り、前のめりでテレビを見つめた。
「オジサンのせいで水野のラブシーン見逃すところだった! 危ない危ない!」
「何回も観てんだろ?」
「何回観ても良いものは良いの」
のどかは膝に肘を乗せ、両手で頬杖をついて、刺青の入った背中を眺める。
「いいな~そこ代わってほし~い」
「でもこのあと殺されるぞ?」
「死んでもいいから代わってほし~い」
「なに言ってんだ」
底が水浸しになったグラスを持ち上げる。水滴が太ももに垂れてスラックスを濡らしたが、田儀は気にせず、気が抜けてほぼ水になった炭酸水を飲み干した。
隣にはソファに座るのどかの足がある。
何気なく足元に目を移すと、ネイルをしていることに気づいた。ラメが入った薄いピンクとゴールドの二色が、左右非対称になるよう綺麗に塗られている。
その右足の小指の外側が、擦り剥けて赤くなっていた。
「靴擦れしてたのか」
「……え? あー、そうそう。ずっと履いてたスニーカーなんだけどねー。ってかどこ見てんの」
「見せるために塗ったんじゃないのか? どれ、絆創膏貼ってやる」
「いいよ別に、絆創膏ないし。つか今クライマックスなんだから話しかけないで」
殺し殺されまた殺し、映画はエンディングを迎える。スタッフロールが流れはじめたが止める気配がない。
「終わったぞ?」
声をかけてものどかの反応がなく、振り向くと、背もたれに寄りかかり頭を垂れて目をつむっていた。
田儀は顔を覗き込む。
「おーい、寝てるのか? ……やれやれ、しょうがねぇ奴だな」
のどかの背中と膝の裏に腕を差し込み、力を入れて持ち上げようとしたとき、「よっ」という声とともに、尻から気の抜ける音が出た。
「おっと」
「……プッ、クスクス……アハハハハ!」
のどかは腕の中で大笑いする。
「起きてたのか。これは失礼しました」
「クヒヒヒッ! あはは、だめだお腹痛いぃヒヒヒ!」
「笑いすぎだろ。本当にお前、酔うと笑いの沸点低くなるよなぁ……」
のどかは田儀の首に腕を回し、ギュッと抱きつく。
「ね、ダンスしよ、ダンスダンス!」
「いいから寝ろ」
「ダンスしよー?」
「いっ……暴れるなっ……」
このまま寝室へ連れていこうと思っていた田儀だったが、駄々をこねるのどかの要望に応えて、抱きかかえたままその場でゆったりと大きく体を揺らし、クルリクルリとゆっくり回った。
「あーやばい……酔った……」
目をつぶるのどかは両手で顔を覆う。
足元に気をつけながら寝室まで運び、のどかの体をベッドに預けるも、首の後ろに回した腕はそのままで、離れようとしない。
「朝まで一緒にいて……?」
間近で見つめてくるトロンとした目。
のどかはゆっくりまばたきする。
急ぐ鼓動。時刻は1時すぎ。
焦点が合わないのがせめてもの救い。
肌寒い寝室。温められていく布団が、冷える体を誘う。
寝かせたらすぐに帰るつもりだった。
田儀はのどかとともにベッドへ体を滑り込ませる。
「なんで背中向けるの? こっち向いてよ」
「別にいいだろ」
「間違い起こしちゃうから?」
「起こさねーよ……」
「じゃあいいじゃん」
「はいはい」
「『はい』は一回!」
「……はい」
田儀は体をひるがえし、ベッドの中で改めて向かい合うと、のどかはおかしそうに笑った。
「ねぇ、手、貸して?」
田儀が上になっている左腕を動かし、布団から少し出すと、のどかはその大きな手を握った。
「手ぇ繋いで寝たいのか? ちっちゃい子じゃねんだぞ?」
のどかは答えずに田儀の手を引いて、自分の脇を越えて背後へ持っていく。
「なんだ、ハグしてほしいのか?」
掴まれた手は背中に触れ、背骨にそって下りていく。
「なにがしたいんだ……」
腰の辺りまで滑らせた手は、ゴムの内側へ入っていこうとする。
「ちょっと待てっ」
田儀は腕に力を入れて止めた。
「お尻触っていいよ?」
「遠慮する」
「なんで? いつも触ってくるじゃん。今日だけ特別に許すんだから思う存分触りなよ」
「眠いんだろ? いいから寝ろって……」
「えー? 今日だけだよー? 今日逃したらもう一生触れないよー? 最初で最後だよー?」
「最後?」
「次触ろうとしたらその腕切り落としてやるから」
「なんで今日はいいんだよ」
「最後だから」
のどかは手を離し、背を向ける。
「はいどうぞ、お好きなように触ってください?」
のどかの後ろ姿をしばらく見つめた。
部屋の暗さに目は慣れたが、ベッドの中はさらに暗くてわからない。
田儀は手の甲をゆっくりと近づけ、位置を探るように、控えめにちょんちょんと小さく触れた。
「あ~気持ち悪い! その触り方やめてよ、今朝のこと思い出すでしょ」
「悪い……ってなんで俺が謝らなきゃなんねんだ」
「もっとガッといって!」
「わーったよ……!」
うるさいほど元気に跳ねる心臓をアルコールのせいにして、目の前の体に手を伸ばし思いきって触った。
脇腹に指がかかる。
腰のラインを頼りにお尻へ移動させる。
(意外と小さい……)
手のひらに収まる程度の大きさだと初めて知った。
引き締まった小さなお尻は、ちゃんと柔らかさも残っていて、手のひらに感じるほどよい反発力がいじらしい。
田儀はのどかの頭に顔を近づけ、髪の匂いを吸った。若干の湿り気を感じるが、お風呂上がりの香りが心地よい。
「あしは……」
「え?」
「足も触っていいか」
「……いいけど」
田儀は体を屈めて布団にもぐり、のどかの背中に顔を当てて、太ももを両手で大きく掴んだ。
肌触りのいい布が邪魔で、田儀は断りもなくパジャマをずらしたが、のどかはなにも言わない。
太ももはしっとりとした質感へ変わり、汗で滲んだ肌が手のひらに吸い付く。
(柔らけ……)
太ももとお尻の境目に指をあてがう。
本当はもう一枚の布も邪魔だった。
思わずパンツの隙間に指を挟み、ゴムを軽く引っ張ってパチンと弾いた。
(噛みたい)
のどかは背中越しに息の荒さを感じた。
太ももを撫でる手が、お尻との境目にそって内側へ向かおうとする。
(噛みてぇ……っ)
目をつむっていた田儀は自分を落ち着かせるように深く息を吐いて、布団から頭を出し、のどかの長い髪を前へ寄せた。
汗ばんだ首筋を見つめる田儀。
口を少し開いては固く閉じて、生唾を飲み込む。
田儀はもぞもぞと体を動かし、腰のくびれとベッドの間にできたわずかな空間に右腕を滑り込ませ、腹部に手を回した。
密着する体。
布団の中は熱くて、居心地が悪い。
田儀は一度止めた手を、背骨づたいにパンツの中へ滑り込ませた。
(俺はどこまで……)
直に触れると太ももより濡れているのがわかった。手のひらにぴったりと吸い付き、離そうとすると肌が軽く持ち上がる。指を広げて大きく包み込むと、自然と指先に力が入った。
(どこまで触れていいんだ)
はじめから肌に触れるつもりは全くなく、すぐにやめようと思っていた。今もやめようと思っている。それなのに、気持ちと裏腹な行動をとってしまう体に、頭はひどく困惑する。
(いつもみたいに睨んでくれたらどれだけ助かるか)
異様に垂れる汗は、布団の中にこもった熱のせいではない。
(抵抗されても、今は逆効果かもしれねぇな……)
汗ばむ手のひらは浮き出た骨盤を掴み、くぼみを通って、下腹部へと滑っていく。
指先が硬い毛に触れると、うるさい心臓の鼓動がさらに速まった気がした。
(おんなのこ……)
手が微かに震え始め、パンツの中から手を引き抜く。
感触を確かめるように、触れていた指先を擦り合わせた。
(さわってる……?)
閉じられた太ももの間に手をねじ込み、強引に片足を持ち上げ、股の間に片膝を差し込む。
(俺が……)
膝をもっと深く入れて足を絡めたいが、ずれたパジャマがそれを阻む。
腹部に回していた手を腰へ移し深く抱えて、力強く自分の体へ押し付けるように抱き寄せた。
(おんなのこ)
慣れない肌の感覚が残っている手のひらを、またパンツの中へ侵入させる。さっきより隙間ができて、奥の方まで手が入る。
(触ってる)
浅く乱れる呼吸音、熱を帯びた吐息が漏れる。
(女の子)
のどかは突然上体をバッとひねり振り向いた。
「えっ」
田儀は驚いて身を引き、焦点が合うと、のどかは真顔でこっちを見ていた。
「飽きた。寝る」
「……あっ……はい」
戻って来られなくなる前に、田儀は絡めた体を引き抜いて、布団をめくり起き上がる。ベッドから出ると、遮断されていた冷気に、汗で濡れた体を荒く撫でられた。
のどかはまた背を向ける。
「オナニーならトイレでやってね」
「……居間片付けに行くんだよ」
「ふぅん。明日でいいのに。じゃ、おやすみ」
「……おやすみ」
ふたりは背中越しに挨拶を交わす。
置きっぱなしのグラス。残っていた中の氷は解けて、ぬるい水になっていた。
感触が消えない左手。
もう一度シャワーを借りて、のどかが眠っている寝室のドアを開けた。
(……って、なに律儀に戻ろうとしてんだ俺は。ソファで寝りゃあいいだろ)
ドアを閉めようとしたとき、リビングの明かりで照らされた、小さなテーブルの上のグラスが目に入った。
(こんなとこに置いてあったか?)
グラスに半分入っている水。
倒れたら危ないと、田儀は片付けようとして寝室に足を踏み入れる。近づくと、グラスの横に銀色の縦長のシートがいくつか乱雑に置かれているのに気づいた。
それは錠剤が入ったシートで、継続的に服用しているのか、ポケットがかなり破られている。
目を凝らして見れば、どれも馴染みのないカタカナ語の名前ばかり。その包装シートの一つに、入眠剤と書かれているものを見つけた。
(睡眠薬?)
田儀は思わず振り向いた。視線の先にいるのどかは背を向けている。
ただ眠っているだけだと思っても、ざわつき始めた心は疑念を抱く。
「のどか……?」
小さく声をかけるが、返事がないのは当たり前。
田儀はのどかの肩に触れ、仰向けになるように体を倒した。
「おい」
揺すっても反応はなく、何度声をかけても未だ微動だにしない。
止まない胸騒ぎに、焦る指先。
「のどか」
『ただ最後は、最後くらいは、ずっと好きだった人に抱かれてみたかった。それだけ』
『今日逃したらもう一生触れないよー? 最初で最後だよー?』
『最後だから』
田儀の頭を過る、のどかの『最後』という言葉が煽る。
「最後って、お前……なんだよ。起きろよ、はやく」
二度と目を覚まさないような気がして、眠っている姿をただ黙って見ているのが怖かった。
「また話そう、なんでもいいから話そう。いつもみてぇに下らない話して、笑って……なぁ」
どんなに話かけても、深い眠りに落ちた彼女の耳には届かず、いつまでも静かに眠るだけ。
田儀はベッドに手をつき、身を乗り出して眠り姫に覆いかぶさる。
考えすぎが本当に考えすぎならそれでいい。
「のどか……」
今は後悔も罪悪感もない。
今すぐ起きて「なにしてんだよ」って叩いて、睨み付けてほしい。
(頼むから……目を開けてくれ……)
その一心で、田儀はのどかの唇に触れた。
膨らんだ掛け布団から腕がヌルリと伸びて、なにかを探すようにベッドの周りをパシンパシンと叩く。
力のない手は目覚まし時計を掴み、そのままベッドの中へ引きずり込んだ。
(こりゃダメだ、薬飲も……)
ベッドから顔を出したのどか。
テーブルに置いておいた飲みかけの水がないことに気づく。
「あれ……?」
のどかはため息を吐いた。
ベッド脇のラックから市販の頭痛薬を取り、ベッドから這い出ると、ヨタヨタとした足取りで、水を求めてリビングへ向かった。
(まぶし……)
うなだれるのどかは、目元を押さえながらドアを開けた。
「おう、おはようさん」
その声に、顔を上げたのどかのどんよりした目が大きく開く。
「は!?」
見ればキッチンに田儀が立っている。
「なんでいんの!?」
「なに言ってんだ。お前が泊めたんだろぉ?」
「あたしが!?」
「覚えてないのか?」
「つかなに普通に料理してんの? てかあたしのエプロン使わないでよ! いったぁ……」
のどかはズキンズキンと脈打つような痛みに襲われ、一度ソファに座った。
「お前、意外と体小さいんだなぁ」
「それセクハラな……」
「態度はいっちょまえにでけぇくせに……」
「なんか言った?」
「そんなことより、ごはんできたぞー。さ、一緒に食べよう」
「……食欲ないんだけど」
勝手に食卓に並ぶ朝ごはん。炊き立ての白いご飯に湯気立つ味噌汁。玉子焼きにミニトマトと緑の野菜。なにもかも久しぶりだった。
「どうした? あったかいうち食え」
「だから食欲……」
「二日酔いはうんちすると治るらしいぞ。いただきます」
のどかは田儀を睨みつけるも、田儀は気にせず一人で食べ始める。
並べられた料理は二人分。食器は一人分しかないから、どれもバラバラ。
のどかは仕方なく箸を持ち、ワカメとネギが浮いた味噌汁を口へ運び、ほんの少しだけ飲んだ。
「あっつ……うまい……」
「だろ? ただ賞味期限だいぶ切れてたから腹壊すかもなぁ」
向けられた得意気な笑顔にムカついた。
「ふーん、料理できるんだ」
「独身生活長かったからなぁ。元独身貴族なめるなよ? お前は専ら出前かコンビニ弁当だろ? 魚焼こうかと思ったんだが、冷蔵庫になんもねぇの。エプロンも使ってなさそうだったもんなぁ」
「ふふん、あたしだって料理できますぅ。喫茶店の看板娘なめんなよー?」
「へえ。そんならお前の手料理食ってみたい」
「えっ……」
「なんだよ。やっぱできないんだろ」
「できるし! ……わかった。今度食べさせてあげるからまた来てよ」
「おお。約束は守れよ?」
のどかはもう一口味噌汁を飲む。他の料理に目を向けるも、どうも食べる気になれない。でも味噌汁だけは飲もうと思った。
「はあ……五臓六腑に染み渡るぅ~」
「オヤジみたいなこと言うなぁ」
「あは~またオヤジにオヤジみたいって言われた~もうお嫁に行けない……」
「行ける行ける、たかしくんがいる」
「たかしくんねぇ……」
のどかは箸を置いて、胃の辺りを擦った。
「ああ、一つ忠告しとく。お前酒癖悪いんだから、結婚したら飲み過ぎるなよ」
「どこが?」
「昨日の晩のこと覚えてねんだろ?」
「あ、そうだ。なんでいんの?」
「いやいやいや、だから。お前が俺を引き止めたんだろ?」
「はあ? そんなことするわけないじゃん気持ち悪い」
「ひどいな、一晩ベッドをともにした相手に……」
「ヒィヤアアアア!」
「安心しろ。心配するようなことはなにもやっちゃいないよ」
「……ぇえ」
「なんだその目は。俺を疑うな、既婚者だぞ? 例えその気があったとしても、絶対にそういうことはしない」
「その気あったの……?」
「例えばの話だよ。ないない」
「バーカふざけんな。レディと添い寝しといてその気がないとは何事だ」
「誰がレディだよ」
「ここにいんだろここにぃ」
「んー? 見当たらないなあ。口の悪い不良少年はいるんだが」
「は? 優良少女だし」
「少女ではねぇ」
「うるせぇなぁ……心はいつまでも少女なの!」
のどかは立ち上がり、田儀が見上げる。
「どこ行くんだ?」
「……トイレ!」
「お、うんち?」
「黙れ!」
のどかはお腹を擦りながら出ていく。
一人になった田儀はテーブルの上の減らない食事を眺めた。頑張って口にしていた味噌汁もだいぶ残っている。
「ただの二日酔いならいいが……」
時刻は正午を回ろうとしていた。
長いこと閉じ込められていたトイレから脱出したのどかは、玄関先で靴を履く田儀と会う。
「帰るわ。飯は一応冷蔵庫入れといたんで、あとは好きにしてくれ」
「うん」
顔色はいくらか良くなったように見えるが、のどかはどこか浮かない表情で田儀を見ている。
「どうした?」
「……そのまま帰るの?」
「なにが?」
「ヒゲとか……」
「だってねぇじゃん。しょうがねぇよ」
シェーバーもなければ、髪をセットするジェルもない。前髪が下りたマッシュヘアに、伸びた髭が合わさると陰気でむさくるしく見える。
田儀は前髪をかきあげたり、くしゃくしゃと雑に撫でてどうにかしようとした。
「奈々子ちゃんになんて説明するの?」
「あ? まあ普通に……」
「なに?」
「……普通に、友人が死ぬほど酒に酔ってたから付き添ったって言うよ」
「納得するの?」
「する」
「奈々子ちゃん、オジサンのこと大好きじゃん。怪しく思ったり、問い詰めてこないの?」
「んー……何度も経験あるから」
田儀の前髪は激しくいじったせいで乱れている。のどかはその前髪に手を添えて、払うように軽く横へ流した。
「なんか、可愛いね」
「可愛い? なにがよ?」
「オジサン」
「俺? やっぱりお前の可愛いはわからん」
田儀はポケットに手を突っ込み、なかなか出ていこうとしない。
「……帰んないの?」
「ああ、そうだな。じゃあ……行くわ」
「うん」
田儀はなんとなく名残惜しさを感じて、玄関のドアをゆっくりと押した。
「あ、待って。忘れ物」
のどかの呼びかけに、田儀は振り向く。
「ん?」
駆け足で近づくのどかは、裸足のまま玄関のたたきを踏み、その勢いで田儀のワイシャツの胸ぐらを掴んでグンと引っ張る。
「どっ」
田儀の体勢が崩れ、玄関のドアから手を離した。
危うく転びそうになった田儀は、一歩踏み出しなんとかこらえる。
「びっくしたー……」
背後のドアがガチャンと閉まり、心臓はバクバクと音を立てる。
目の前の視線に気づいた田儀は、目を見開き口をつぐむ。
胸ぐらを掴むのどかとの顔の近さに、体がこわばり、身動きが取れなくなった。
「1回しちゃえば、2回も3回も同じでしょ?」
田儀の瞳が揺れる。
「ねぇ、なんで緊張してるの? 昨日も思ったけど、オジサンってこういうの苦手?」
「……お前っ、起きてたのか……!」
驚いてのけ反ろうとする田儀だが、のどかに掴まれた手でグッと引き寄せられ、その拍子におでこがぶつかった。
「なぁにが『なにもやってない』だバカヤロウ」
「いやっあれは~……事故、というか……」
「事故にしちゃ長かったけど?」
胸ぐらから手を離し、素早く腕を掴んで後ろへ引くと、田儀はつんのめって上がり框に手をついた。
「ちょっ……二日酔いじゃねーのかよ……」
「ゼッ不調です」
のどかは振り向く田儀の手を掴み、手首を外側にグリッとねじる。
「いっでぇっ!」
肘が内側へ曲がり体が傾く田儀を、そのまま後ろへグッと押し倒した。
痛がる姿を見下ろしながら、のどかは膝立ちで田儀の体をまたぐ。
「今あたしがキスしても文句言えないよね?」
「えっ」
のどかは田儀の顔を押さえて、前のめりになる。
汗を滲ませる田儀はのどかの体を押し返そうと思ったが触れられず、降参するように両手を挙げた。
のどかの顔が近づき、田儀は意を決するように目をつむる。
そんな田儀を見て、のどかは鼻先を合わせ、唇を開いた。
「そんなに硬くならないで、もうなにもしないから」
まぶたをうっすら開けると、ボヤけた顔が目の前にあった。
「全部昨日で終わったの」
こんなに近いと表情がわからない。
「長い時間付き合わせてごめんね。ありがとう」
そう言って、のどかはゆったりと体を起こす。
ようやく見えた表情は、綺麗な笑った顔だった。
「いい加減さっさと帰ってくんない?」
黙って座っている田儀の腕を引っ張った。
玄関のドアノブに手をかけた田儀が振り向く。
「約束、忘れるなよ?」
「……あーはいはい、ご飯ね。了解」
「絶対だぞ?」
「わかったからはよ帰れや」
のどかは田儀の足を蹴って、部屋から追い出した。
水を入れたグラス片手に寝室へ戻り、テーブルの上に散乱している薬に目を向ける。
のどかは握っている2錠の薬を飲み、ベッドの下にしまっていた縄を引っ張り出した。
(そう簡単にはいかないんだなー)
手のひらの上でだれる縄を見て鼻で笑い、それを床に捨てて、ぐったりとベッドに横たわる。
「サイアク……」
カーテンのちょっとした隙間から差し込む光がうざい。
のどかは掛け布団を引っ張って隠れた。
(あーもう! わかったって……わかったから……!)
脈打つ頭痛。
目の奥が突き刺すように痛い。
(お願いだから……)
眠ろうとベッドに入っても、いつまで経っても眠ることができず、頭を抱えたまま夜を過ごし、解決できないまま朝を迎える。毎日毎日その繰り返し。
(もうやめて……)
のどかは額を軽く叩いて、痛みを散らそうとする。
(これでもあたしを否定するなら、いっそ気を失いたいよ。それくらい許してくれないかな、神様)
深く呼吸すると吐きそうで、我慢するため浅く短く呼吸する。
「毎日どこかしら具合悪くないと生きてちゃダメなのかね」
「点けなきゃ見えないだろっ……」
「感覚でわかるってのぉ」
「おい消すなよ! どこだスイッチ……」
「いったぁ! なに?」
「いいからお前はさっさと脱げ」
「指いたぁーい」
「いちいちうるせぇなぁ」
「いたぁーい!」
「わかったって! 脱がせてやるからじっとしてろ……」
「いたぁっ! こっちに押し込まないでよ! ただでさえおっきいんだから……」
「見えねんだよ!」
「だからって乱暴すぎるでしょ」
「お前が動くからだろ」
「動いてないし」
「あーほら汚れる!」
「気にしない気にしない、あとで拭けばいいし……」
「おいおいおい待て行くな!」
「もーなにぃ? いい加減疲れたってぇ。てかおしっこしたい、漏れる」
「だからはやく脱げって言ってるだろ」
「ああもう! 見えない! 電気点けて!」
「お前なぁ……いでぇ! おい今わざと踏んだな!?」
「ヘッヘッヘ」
真っ暗な玄関先でゴタゴタするふたりは、靴を脱ぐのも一苦労。結局電気は点けず、一度土足で上がってしまった上がり框にのどかを座らせ、田儀が靴を脱がせた。
千鳥足になるのどかの肩を抱えて、寝室へ向かおうとする田儀。
「お風呂連れてって、シャワー浴びるの」
「お前死ぬ気か?」
「いいじゃん。このまま寝るの気持ち悪いしぃ~ねぇ~?」
「あぶねぇからやめろって」
「だったらオジサンが見てて?」
「正気じゃないよな」
「一緒に入ればいいでしょ? 溺れないように、あたしのこと見張っててよ」
「はあ?」
「ほらぁ」
のどかは頭を抱える田儀の手を引いて連れていく。田儀はそのふらつく足取りが気になっていた。そして思った通り、玄関近くの洗面所へ入ろうと曲がったとき、のどかの足がもつれて転びそうになり、田儀はとっさにのどかの背中に腕を回して体を支えた。
「あぶねっ……」
のどかは焦り顔の田儀を見つめる。アルコールとは明らかに違う脈拍の増加を感じた。
「……ナイス反射神経! 衰えてないねぇ」
「うちのチビスケどもで鍛えられてるからな」
「もー、子ども扱いしないでよねー」
「お前も年寄り扱いするな」
今も背中に当たっている力強い腕にドキドキしている。
のどかは田儀から体を離し、そのまま気にもせず服を脱ぎ始めると、田儀は慌てて背を向けた。
「お前っ、いきなり脱ぐなって……」
「さっきまで脱げ脱げって言ってたのに~?」
「それは靴の話だろ。お前、入る気か?」
「だからあたしを見ててよ」
のどかは下着を外しながら、ちょっと伸びた襟足を触る田儀の手を見ていた。
「俺はここにいるから、様子がおかしかったらそっちに行く。湯船に浸かるなよ、シャワーだけで済ませるんだぞ。あと、上がる前にノックしろよ」
胸の高鳴りが面白いほど簡単に静まっていくと、うつむいたのどかはうっすらと笑った。
「……ねぇ、実況してあげようか。その方がわかりやすいでしょ?」
顔を上げたのどかは、腕組みをする田儀の後ろ姿を、目を細めてじっと見つめる。
「いいから黙って入れ……」
その背広はダークトーンのブラウンカラーで、着ている本人とは真逆に、落ち着き払っている。
「気持ち悪い」
のどかのつぶやきに、田儀の首が少し動く。
「……具合悪いか?」
今すぐその背中にドロップキックをお見舞いしてやりたい。
「テメェの態度が気持ち悪いっつってんだよ」
「どいつもこいつも……」
「あたしを女として見ないから好きだったのに。今さらそんな態度とんな。こっち見ろ」
なにも言えない田儀が黙って振り向くと、仁王立ちするのどかは裸で、いつも結んでいる髪はほどかれていて、胸が毛先で隠れるほど長いことを知った。
「オジサン座って」
のどかは優しい口調で言う。
いうとおりにすると、のどかは田儀の肩に片足をひっかけた。
「舐めて」
蔑んだ黒い瞳が落とされる。
正座したまま一切動かない田儀。その瞳から視線を外すことができず、のどかの顔をただただ見上げるばかり。
田儀は視界の端に映る情報を入れないようにしていたが、のどかの手が腹を這って下へ向かうのが見えた。
「ほら、舐めてよ」
睨みつける眼差しに喉の渇きを感じて、生唾を飲み込む。
見下ろすのどかは、田儀の喉仏が動いたのを見た。
のどかは唇を薄く開き、数秒後、「なーんてね。冗談だよ」と言って、肩にかけていた足を軽やかに外した。
「さっきからずっと変に意識してるからからかってあげただけ。本気にされてもあたしが困るし。不倫なんかしたくないっつーの」
クルリと背を向けたのどかの長い髪が左右に揺れる。
ノックする音が聞こえて、浴室のドアが開く。
チラリと目を向けた田儀と目が合って、のどかはバスタオルをサッととり、手早く濡れた体に巻き付けた。
「ふぅ、サッパリサッパリ! オジサンも入れば?」
「俺は帰る」
「シャワーくらいいいじゃん。酔い覚ましにどうぞ?」
田儀は従うことにした。
なにかを期待しているわけではないが、いつもより念入りに洗った。
洗面所を出ると、廊下のヒヤッとする空気に身が縮こまった。濡れた髪を軽く拭いたタオルを首にかけ、ジャケットを片手にリビングへ向かうと、ドアの曇りガラスからテレビの光がチカチカと漏れていた。
垂れた前髪をかきあげ、ドアを開ける。室内はやはり真っ暗。 田儀はスイッチを押す。降り注がれた強烈な光に、のどかは顔を歪めて目をつぶる。
「電気点けろ。テレビを見るときは部屋を明るくして離れて見るんだぞ」
「わかっててやってんのー」
のどかはソファを背もたれにして、床に座り、冷たいものを飲みながら映画を観ていた。
「また観てるのか、お前この映画好きな」
「うん。なんか無性に観たくなるのよ。ナポリタンのとこ好きなんだよね。あとラーメン屋で普通に座ってるとこ」
「そこかい」
「見てみて! 水野! やば~い! いつ見てもかっこいい~!」
のどかはテレビに映る一人の男を指差す。怒号が飛び交う物騒なシーンで、黒いソファに座るその男は、テーブルに黄色いカッターナイフを叩きつけた。
「あーかっこいいねぇ」
「ちょっと、ちゃんと思ってる?」
「思ってます」
このあとも物騒なシーンが続く。全編を通して暴力的な映画だ。
のどかはリモコンをとって、中盤まで一気に早送りする。
「観ねーの?」
「何回も観てるから。……ほら、ラーメン屋のシーン。ここ普通のオジサンっぽくて可愛くない? この後のシーンもいいよね」
「耳に菜箸突っ込まれるやつ?」
「その後ですぅ。警察官の前でタバコ捨てるとこ。悪ガキっぽくて可愛くない?」
「お前の言う可愛いがわからん」
「あー、水野が吐いたタバコの煙ならもう顔面に浴びたい!」
「アホ」
田儀は笑いながらのどかの隣に腰を下ろす。本当はシャワー浴びたらすぐに帰ろうと思っていた。
ソファの上に置いたジャケットの内ポケットから、タバコとジッポーを出してテーブルに置く。
「……吸ってい?」
「ダメ」
「ちょっとだけ」と言って、箱からすでに頭を覗かせているタバコを1本とった。それを阻止するために、のどかはテーブルに置いたままのジッポーを素早く奪う。
「だからダメだって。部屋臭くなる」
「嫌いか?」
「イヤに決まってんじゃん」
田儀はソファの座面に肘をついて、上体をのどかへ向け、くわえたタバコの先っぽを上下に動かす。
「ん、点けて」
「……キャバ嬢じゃないんですけどー?」
「わかってるよ」
それでも全く見向きもしない。のどかの背後に腕を回し、テレビを見つめる顔の前で、手をひらひらと振って視界を邪魔した。
のどかはあからさまにため息をついて、田儀を横目で睨み付ける。
「ちょうだい?」
いつもオールバックスタイルの田儀の前髪が落ちている。乾きはじめた前髪は、眉毛にかかるくらいの長さで、いつも見えているおでこが隠れていて、だいぶ幼く見えた。
「おじさんに優しくしてよ……」
ボンヤリとした目つきで見つめている田儀。ここで湿っぽい低音ボイスを出すのはズルい。
(ムカつく……)
のどかはしかたなくジッポーの蓋を開き、田儀がくわえるタバコの先端に持っていく。ホイールを親指で回して火を点けた。
「……もういい?」
「待て」
ジッポーを持つ手を軽く掴む。
田儀は口に含んだ煙を、のどかの顔に吹きかけた。
「うわっ、サイテー……!」
顔を背けて軽く咳するのどかを見て、田儀は「フッ」と笑って体を戻す。
腕をグーで一発殴られたが、かまわず吸う。
田儀は、のどかの目の前に置かれている氷の入ったグラスの下が、結露でひどく濡れているのが気になった。ティッシュを3枚取って、濡れたグラスの底とテーブルにできた水たまりを吸わせる。
「なに飲んでるんだ?」
「ん? オン・ザ・ロック。飲む?」
持ち上げたグラス。そのまま飲みかけを一口味見する。
「……ただの氷水じゃねーか」
「さすがにもうお酒は飲まない。おじさんにも作ってあげる」
「お、ここはセルフじゃねんだ」
「うるせ」
のどかはキッチンへ向かい、形の違うグラスを用意した。グラスに大きい氷を3つ入れ、「あ、炭酸水あるけどどうする? そっちの方がいいっしょ」と聞いた。田儀が返事をするときにはもう炭酸水を半分ほど入れていた。
「水でいいっつったんだが……」
「いいじゃん。ありがたく飲めや」
田儀は「ありがたく頂戴します」とグラスを掲げ、ゴクリと飲んだ。なみなみと注がれているわりには量が足りない。
「……この氷でかいなぁ」
「これね、夏に大量に作って余った氷。腐ると思って今必死に使ってんの。てか氷って腐る?」
「氷は腐らないだろ。あんまり体冷やすなよ?」
「もうね内側がすっごいあちぃんだもん。ちょっと触ってみ?」
のどかは袖を捲って腕を突き出したが、田儀の手は開いた襟元へ伸び、首に触れた。
「……たしかに熱いな」
鎖骨を通って胸骨の方へ流れる冷たい手のひらは、徐々にのどかの体温に順応していく。
「俺の手が冷えすぎてるのか……?」
下へ向かおうとする手を、留めたボタンが遮った。
のどかは「あ、そうだ」と言って立ち上がり、リビングを出て隣の部屋へ行く。ドアは開けっ放しで、覗くと寝室だった。
「オジサンの形見、ちゃんと持ってるよ」
暗い部屋から戻ってきたのどかは、クリスマスプレゼントで強引にもらった、淡い紫色のサングラスを見せた。
「おー。持ってないで使えよ」
のどかはサングラスをかけて見せる。
「どう?」
田儀は立ち上がり「似合わないなぁ」と笑って、のどかの耳元に手を伸ばしてサングラスを外した。
「じゃあ返す」
「拗ねるなよ。お前も俺に似合わないって言ってただろ?」
と、サングラスをかける田儀。
「……似合ってるよ、逆に。似合いすぎてみんな引くからやめなって意味です」
田儀はサングラスを外して、のどかへ差し出す。
「俺はお前に持っていてほしい」
「あんだけごねてたのに」
受けとるのどかの手元を見下ろす。少し視線をずらすと、はだけた胸元から控えめな谷間が見えた。
ふいに顔を見上げるのどか。
「なに?」
「……寝るときパジャマなんだな」
「文句あんの?」
「いや……」
「ウッザ。あっ!」
のどかは田儀を押しのけ、急いでソファに座り、前のめりでテレビを見つめた。
「オジサンのせいで水野のラブシーン見逃すところだった! 危ない危ない!」
「何回も観てんだろ?」
「何回観ても良いものは良いの」
のどかは膝に肘を乗せ、両手で頬杖をついて、刺青の入った背中を眺める。
「いいな~そこ代わってほし~い」
「でもこのあと殺されるぞ?」
「死んでもいいから代わってほし~い」
「なに言ってんだ」
底が水浸しになったグラスを持ち上げる。水滴が太ももに垂れてスラックスを濡らしたが、田儀は気にせず、気が抜けてほぼ水になった炭酸水を飲み干した。
隣にはソファに座るのどかの足がある。
何気なく足元に目を移すと、ネイルをしていることに気づいた。ラメが入った薄いピンクとゴールドの二色が、左右非対称になるよう綺麗に塗られている。
その右足の小指の外側が、擦り剥けて赤くなっていた。
「靴擦れしてたのか」
「……え? あー、そうそう。ずっと履いてたスニーカーなんだけどねー。ってかどこ見てんの」
「見せるために塗ったんじゃないのか? どれ、絆創膏貼ってやる」
「いいよ別に、絆創膏ないし。つか今クライマックスなんだから話しかけないで」
殺し殺されまた殺し、映画はエンディングを迎える。スタッフロールが流れはじめたが止める気配がない。
「終わったぞ?」
声をかけてものどかの反応がなく、振り向くと、背もたれに寄りかかり頭を垂れて目をつむっていた。
田儀は顔を覗き込む。
「おーい、寝てるのか? ……やれやれ、しょうがねぇ奴だな」
のどかの背中と膝の裏に腕を差し込み、力を入れて持ち上げようとしたとき、「よっ」という声とともに、尻から気の抜ける音が出た。
「おっと」
「……プッ、クスクス……アハハハハ!」
のどかは腕の中で大笑いする。
「起きてたのか。これは失礼しました」
「クヒヒヒッ! あはは、だめだお腹痛いぃヒヒヒ!」
「笑いすぎだろ。本当にお前、酔うと笑いの沸点低くなるよなぁ……」
のどかは田儀の首に腕を回し、ギュッと抱きつく。
「ね、ダンスしよ、ダンスダンス!」
「いいから寝ろ」
「ダンスしよー?」
「いっ……暴れるなっ……」
このまま寝室へ連れていこうと思っていた田儀だったが、駄々をこねるのどかの要望に応えて、抱きかかえたままその場でゆったりと大きく体を揺らし、クルリクルリとゆっくり回った。
「あーやばい……酔った……」
目をつぶるのどかは両手で顔を覆う。
足元に気をつけながら寝室まで運び、のどかの体をベッドに預けるも、首の後ろに回した腕はそのままで、離れようとしない。
「朝まで一緒にいて……?」
間近で見つめてくるトロンとした目。
のどかはゆっくりまばたきする。
急ぐ鼓動。時刻は1時すぎ。
焦点が合わないのがせめてもの救い。
肌寒い寝室。温められていく布団が、冷える体を誘う。
寝かせたらすぐに帰るつもりだった。
田儀はのどかとともにベッドへ体を滑り込ませる。
「なんで背中向けるの? こっち向いてよ」
「別にいいだろ」
「間違い起こしちゃうから?」
「起こさねーよ……」
「じゃあいいじゃん」
「はいはい」
「『はい』は一回!」
「……はい」
田儀は体をひるがえし、ベッドの中で改めて向かい合うと、のどかはおかしそうに笑った。
「ねぇ、手、貸して?」
田儀が上になっている左腕を動かし、布団から少し出すと、のどかはその大きな手を握った。
「手ぇ繋いで寝たいのか? ちっちゃい子じゃねんだぞ?」
のどかは答えずに田儀の手を引いて、自分の脇を越えて背後へ持っていく。
「なんだ、ハグしてほしいのか?」
掴まれた手は背中に触れ、背骨にそって下りていく。
「なにがしたいんだ……」
腰の辺りまで滑らせた手は、ゴムの内側へ入っていこうとする。
「ちょっと待てっ」
田儀は腕に力を入れて止めた。
「お尻触っていいよ?」
「遠慮する」
「なんで? いつも触ってくるじゃん。今日だけ特別に許すんだから思う存分触りなよ」
「眠いんだろ? いいから寝ろって……」
「えー? 今日だけだよー? 今日逃したらもう一生触れないよー? 最初で最後だよー?」
「最後?」
「次触ろうとしたらその腕切り落としてやるから」
「なんで今日はいいんだよ」
「最後だから」
のどかは手を離し、背を向ける。
「はいどうぞ、お好きなように触ってください?」
のどかの後ろ姿をしばらく見つめた。
部屋の暗さに目は慣れたが、ベッドの中はさらに暗くてわからない。
田儀は手の甲をゆっくりと近づけ、位置を探るように、控えめにちょんちょんと小さく触れた。
「あ~気持ち悪い! その触り方やめてよ、今朝のこと思い出すでしょ」
「悪い……ってなんで俺が謝らなきゃなんねんだ」
「もっとガッといって!」
「わーったよ……!」
うるさいほど元気に跳ねる心臓をアルコールのせいにして、目の前の体に手を伸ばし思いきって触った。
脇腹に指がかかる。
腰のラインを頼りにお尻へ移動させる。
(意外と小さい……)
手のひらに収まる程度の大きさだと初めて知った。
引き締まった小さなお尻は、ちゃんと柔らかさも残っていて、手のひらに感じるほどよい反発力がいじらしい。
田儀はのどかの頭に顔を近づけ、髪の匂いを吸った。若干の湿り気を感じるが、お風呂上がりの香りが心地よい。
「あしは……」
「え?」
「足も触っていいか」
「……いいけど」
田儀は体を屈めて布団にもぐり、のどかの背中に顔を当てて、太ももを両手で大きく掴んだ。
肌触りのいい布が邪魔で、田儀は断りもなくパジャマをずらしたが、のどかはなにも言わない。
太ももはしっとりとした質感へ変わり、汗で滲んだ肌が手のひらに吸い付く。
(柔らけ……)
太ももとお尻の境目に指をあてがう。
本当はもう一枚の布も邪魔だった。
思わずパンツの隙間に指を挟み、ゴムを軽く引っ張ってパチンと弾いた。
(噛みたい)
のどかは背中越しに息の荒さを感じた。
太ももを撫でる手が、お尻との境目にそって内側へ向かおうとする。
(噛みてぇ……っ)
目をつむっていた田儀は自分を落ち着かせるように深く息を吐いて、布団から頭を出し、のどかの長い髪を前へ寄せた。
汗ばんだ首筋を見つめる田儀。
口を少し開いては固く閉じて、生唾を飲み込む。
田儀はもぞもぞと体を動かし、腰のくびれとベッドの間にできたわずかな空間に右腕を滑り込ませ、腹部に手を回した。
密着する体。
布団の中は熱くて、居心地が悪い。
田儀は一度止めた手を、背骨づたいにパンツの中へ滑り込ませた。
(俺はどこまで……)
直に触れると太ももより濡れているのがわかった。手のひらにぴったりと吸い付き、離そうとすると肌が軽く持ち上がる。指を広げて大きく包み込むと、自然と指先に力が入った。
(どこまで触れていいんだ)
はじめから肌に触れるつもりは全くなく、すぐにやめようと思っていた。今もやめようと思っている。それなのに、気持ちと裏腹な行動をとってしまう体に、頭はひどく困惑する。
(いつもみたいに睨んでくれたらどれだけ助かるか)
異様に垂れる汗は、布団の中にこもった熱のせいではない。
(抵抗されても、今は逆効果かもしれねぇな……)
汗ばむ手のひらは浮き出た骨盤を掴み、くぼみを通って、下腹部へと滑っていく。
指先が硬い毛に触れると、うるさい心臓の鼓動がさらに速まった気がした。
(おんなのこ……)
手が微かに震え始め、パンツの中から手を引き抜く。
感触を確かめるように、触れていた指先を擦り合わせた。
(さわってる……?)
閉じられた太ももの間に手をねじ込み、強引に片足を持ち上げ、股の間に片膝を差し込む。
(俺が……)
膝をもっと深く入れて足を絡めたいが、ずれたパジャマがそれを阻む。
腹部に回していた手を腰へ移し深く抱えて、力強く自分の体へ押し付けるように抱き寄せた。
(おんなのこ)
慣れない肌の感覚が残っている手のひらを、またパンツの中へ侵入させる。さっきより隙間ができて、奥の方まで手が入る。
(触ってる)
浅く乱れる呼吸音、熱を帯びた吐息が漏れる。
(女の子)
のどかは突然上体をバッとひねり振り向いた。
「えっ」
田儀は驚いて身を引き、焦点が合うと、のどかは真顔でこっちを見ていた。
「飽きた。寝る」
「……あっ……はい」
戻って来られなくなる前に、田儀は絡めた体を引き抜いて、布団をめくり起き上がる。ベッドから出ると、遮断されていた冷気に、汗で濡れた体を荒く撫でられた。
のどかはまた背を向ける。
「オナニーならトイレでやってね」
「……居間片付けに行くんだよ」
「ふぅん。明日でいいのに。じゃ、おやすみ」
「……おやすみ」
ふたりは背中越しに挨拶を交わす。
置きっぱなしのグラス。残っていた中の氷は解けて、ぬるい水になっていた。
感触が消えない左手。
もう一度シャワーを借りて、のどかが眠っている寝室のドアを開けた。
(……って、なに律儀に戻ろうとしてんだ俺は。ソファで寝りゃあいいだろ)
ドアを閉めようとしたとき、リビングの明かりで照らされた、小さなテーブルの上のグラスが目に入った。
(こんなとこに置いてあったか?)
グラスに半分入っている水。
倒れたら危ないと、田儀は片付けようとして寝室に足を踏み入れる。近づくと、グラスの横に銀色の縦長のシートがいくつか乱雑に置かれているのに気づいた。
それは錠剤が入ったシートで、継続的に服用しているのか、ポケットがかなり破られている。
目を凝らして見れば、どれも馴染みのないカタカナ語の名前ばかり。その包装シートの一つに、入眠剤と書かれているものを見つけた。
(睡眠薬?)
田儀は思わず振り向いた。視線の先にいるのどかは背を向けている。
ただ眠っているだけだと思っても、ざわつき始めた心は疑念を抱く。
「のどか……?」
小さく声をかけるが、返事がないのは当たり前。
田儀はのどかの肩に触れ、仰向けになるように体を倒した。
「おい」
揺すっても反応はなく、何度声をかけても未だ微動だにしない。
止まない胸騒ぎに、焦る指先。
「のどか」
『ただ最後は、最後くらいは、ずっと好きだった人に抱かれてみたかった。それだけ』
『今日逃したらもう一生触れないよー? 最初で最後だよー?』
『最後だから』
田儀の頭を過る、のどかの『最後』という言葉が煽る。
「最後って、お前……なんだよ。起きろよ、はやく」
二度と目を覚まさないような気がして、眠っている姿をただ黙って見ているのが怖かった。
「また話そう、なんでもいいから話そう。いつもみてぇに下らない話して、笑って……なぁ」
どんなに話かけても、深い眠りに落ちた彼女の耳には届かず、いつまでも静かに眠るだけ。
田儀はベッドに手をつき、身を乗り出して眠り姫に覆いかぶさる。
考えすぎが本当に考えすぎならそれでいい。
「のどか……」
今は後悔も罪悪感もない。
今すぐ起きて「なにしてんだよ」って叩いて、睨み付けてほしい。
(頼むから……目を開けてくれ……)
その一心で、田儀はのどかの唇に触れた。
膨らんだ掛け布団から腕がヌルリと伸びて、なにかを探すようにベッドの周りをパシンパシンと叩く。
力のない手は目覚まし時計を掴み、そのままベッドの中へ引きずり込んだ。
(こりゃダメだ、薬飲も……)
ベッドから顔を出したのどか。
テーブルに置いておいた飲みかけの水がないことに気づく。
「あれ……?」
のどかはため息を吐いた。
ベッド脇のラックから市販の頭痛薬を取り、ベッドから這い出ると、ヨタヨタとした足取りで、水を求めてリビングへ向かった。
(まぶし……)
うなだれるのどかは、目元を押さえながらドアを開けた。
「おう、おはようさん」
その声に、顔を上げたのどかのどんよりした目が大きく開く。
「は!?」
見ればキッチンに田儀が立っている。
「なんでいんの!?」
「なに言ってんだ。お前が泊めたんだろぉ?」
「あたしが!?」
「覚えてないのか?」
「つかなに普通に料理してんの? てかあたしのエプロン使わないでよ! いったぁ……」
のどかはズキンズキンと脈打つような痛みに襲われ、一度ソファに座った。
「お前、意外と体小さいんだなぁ」
「それセクハラな……」
「態度はいっちょまえにでけぇくせに……」
「なんか言った?」
「そんなことより、ごはんできたぞー。さ、一緒に食べよう」
「……食欲ないんだけど」
勝手に食卓に並ぶ朝ごはん。炊き立ての白いご飯に湯気立つ味噌汁。玉子焼きにミニトマトと緑の野菜。なにもかも久しぶりだった。
「どうした? あったかいうち食え」
「だから食欲……」
「二日酔いはうんちすると治るらしいぞ。いただきます」
のどかは田儀を睨みつけるも、田儀は気にせず一人で食べ始める。
並べられた料理は二人分。食器は一人分しかないから、どれもバラバラ。
のどかは仕方なく箸を持ち、ワカメとネギが浮いた味噌汁を口へ運び、ほんの少しだけ飲んだ。
「あっつ……うまい……」
「だろ? ただ賞味期限だいぶ切れてたから腹壊すかもなぁ」
向けられた得意気な笑顔にムカついた。
「ふーん、料理できるんだ」
「独身生活長かったからなぁ。元独身貴族なめるなよ? お前は専ら出前かコンビニ弁当だろ? 魚焼こうかと思ったんだが、冷蔵庫になんもねぇの。エプロンも使ってなさそうだったもんなぁ」
「ふふん、あたしだって料理できますぅ。喫茶店の看板娘なめんなよー?」
「へえ。そんならお前の手料理食ってみたい」
「えっ……」
「なんだよ。やっぱできないんだろ」
「できるし! ……わかった。今度食べさせてあげるからまた来てよ」
「おお。約束は守れよ?」
のどかはもう一口味噌汁を飲む。他の料理に目を向けるも、どうも食べる気になれない。でも味噌汁だけは飲もうと思った。
「はあ……五臓六腑に染み渡るぅ~」
「オヤジみたいなこと言うなぁ」
「あは~またオヤジにオヤジみたいって言われた~もうお嫁に行けない……」
「行ける行ける、たかしくんがいる」
「たかしくんねぇ……」
のどかは箸を置いて、胃の辺りを擦った。
「ああ、一つ忠告しとく。お前酒癖悪いんだから、結婚したら飲み過ぎるなよ」
「どこが?」
「昨日の晩のこと覚えてねんだろ?」
「あ、そうだ。なんでいんの?」
「いやいやいや、だから。お前が俺を引き止めたんだろ?」
「はあ? そんなことするわけないじゃん気持ち悪い」
「ひどいな、一晩ベッドをともにした相手に……」
「ヒィヤアアアア!」
「安心しろ。心配するようなことはなにもやっちゃいないよ」
「……ぇえ」
「なんだその目は。俺を疑うな、既婚者だぞ? 例えその気があったとしても、絶対にそういうことはしない」
「その気あったの……?」
「例えばの話だよ。ないない」
「バーカふざけんな。レディと添い寝しといてその気がないとは何事だ」
「誰がレディだよ」
「ここにいんだろここにぃ」
「んー? 見当たらないなあ。口の悪い不良少年はいるんだが」
「は? 優良少女だし」
「少女ではねぇ」
「うるせぇなぁ……心はいつまでも少女なの!」
のどかは立ち上がり、田儀が見上げる。
「どこ行くんだ?」
「……トイレ!」
「お、うんち?」
「黙れ!」
のどかはお腹を擦りながら出ていく。
一人になった田儀はテーブルの上の減らない食事を眺めた。頑張って口にしていた味噌汁もだいぶ残っている。
「ただの二日酔いならいいが……」
時刻は正午を回ろうとしていた。
長いこと閉じ込められていたトイレから脱出したのどかは、玄関先で靴を履く田儀と会う。
「帰るわ。飯は一応冷蔵庫入れといたんで、あとは好きにしてくれ」
「うん」
顔色はいくらか良くなったように見えるが、のどかはどこか浮かない表情で田儀を見ている。
「どうした?」
「……そのまま帰るの?」
「なにが?」
「ヒゲとか……」
「だってねぇじゃん。しょうがねぇよ」
シェーバーもなければ、髪をセットするジェルもない。前髪が下りたマッシュヘアに、伸びた髭が合わさると陰気でむさくるしく見える。
田儀は前髪をかきあげたり、くしゃくしゃと雑に撫でてどうにかしようとした。
「奈々子ちゃんになんて説明するの?」
「あ? まあ普通に……」
「なに?」
「……普通に、友人が死ぬほど酒に酔ってたから付き添ったって言うよ」
「納得するの?」
「する」
「奈々子ちゃん、オジサンのこと大好きじゃん。怪しく思ったり、問い詰めてこないの?」
「んー……何度も経験あるから」
田儀の前髪は激しくいじったせいで乱れている。のどかはその前髪に手を添えて、払うように軽く横へ流した。
「なんか、可愛いね」
「可愛い? なにがよ?」
「オジサン」
「俺? やっぱりお前の可愛いはわからん」
田儀はポケットに手を突っ込み、なかなか出ていこうとしない。
「……帰んないの?」
「ああ、そうだな。じゃあ……行くわ」
「うん」
田儀はなんとなく名残惜しさを感じて、玄関のドアをゆっくりと押した。
「あ、待って。忘れ物」
のどかの呼びかけに、田儀は振り向く。
「ん?」
駆け足で近づくのどかは、裸足のまま玄関のたたきを踏み、その勢いで田儀のワイシャツの胸ぐらを掴んでグンと引っ張る。
「どっ」
田儀の体勢が崩れ、玄関のドアから手を離した。
危うく転びそうになった田儀は、一歩踏み出しなんとかこらえる。
「びっくしたー……」
背後のドアがガチャンと閉まり、心臓はバクバクと音を立てる。
目の前の視線に気づいた田儀は、目を見開き口をつぐむ。
胸ぐらを掴むのどかとの顔の近さに、体がこわばり、身動きが取れなくなった。
「1回しちゃえば、2回も3回も同じでしょ?」
田儀の瞳が揺れる。
「ねぇ、なんで緊張してるの? 昨日も思ったけど、オジサンってこういうの苦手?」
「……お前っ、起きてたのか……!」
驚いてのけ反ろうとする田儀だが、のどかに掴まれた手でグッと引き寄せられ、その拍子におでこがぶつかった。
「なぁにが『なにもやってない』だバカヤロウ」
「いやっあれは~……事故、というか……」
「事故にしちゃ長かったけど?」
胸ぐらから手を離し、素早く腕を掴んで後ろへ引くと、田儀はつんのめって上がり框に手をついた。
「ちょっ……二日酔いじゃねーのかよ……」
「ゼッ不調です」
のどかは振り向く田儀の手を掴み、手首を外側にグリッとねじる。
「いっでぇっ!」
肘が内側へ曲がり体が傾く田儀を、そのまま後ろへグッと押し倒した。
痛がる姿を見下ろしながら、のどかは膝立ちで田儀の体をまたぐ。
「今あたしがキスしても文句言えないよね?」
「えっ」
のどかは田儀の顔を押さえて、前のめりになる。
汗を滲ませる田儀はのどかの体を押し返そうと思ったが触れられず、降参するように両手を挙げた。
のどかの顔が近づき、田儀は意を決するように目をつむる。
そんな田儀を見て、のどかは鼻先を合わせ、唇を開いた。
「そんなに硬くならないで、もうなにもしないから」
まぶたをうっすら開けると、ボヤけた顔が目の前にあった。
「全部昨日で終わったの」
こんなに近いと表情がわからない。
「長い時間付き合わせてごめんね。ありがとう」
そう言って、のどかはゆったりと体を起こす。
ようやく見えた表情は、綺麗な笑った顔だった。
「いい加減さっさと帰ってくんない?」
黙って座っている田儀の腕を引っ張った。
玄関のドアノブに手をかけた田儀が振り向く。
「約束、忘れるなよ?」
「……あーはいはい、ご飯ね。了解」
「絶対だぞ?」
「わかったからはよ帰れや」
のどかは田儀の足を蹴って、部屋から追い出した。
水を入れたグラス片手に寝室へ戻り、テーブルの上に散乱している薬に目を向ける。
のどかは握っている2錠の薬を飲み、ベッドの下にしまっていた縄を引っ張り出した。
(そう簡単にはいかないんだなー)
手のひらの上でだれる縄を見て鼻で笑い、それを床に捨てて、ぐったりとベッドに横たわる。
「サイアク……」
カーテンのちょっとした隙間から差し込む光がうざい。
のどかは掛け布団を引っ張って隠れた。
(あーもう! わかったって……わかったから……!)
脈打つ頭痛。
目の奥が突き刺すように痛い。
(お願いだから……)
眠ろうとベッドに入っても、いつまで経っても眠ることができず、頭を抱えたまま夜を過ごし、解決できないまま朝を迎える。毎日毎日その繰り返し。
(もうやめて……)
のどかは額を軽く叩いて、痛みを散らそうとする。
(これでもあたしを否定するなら、いっそ気を失いたいよ。それくらい許してくれないかな、神様)
深く呼吸すると吐きそうで、我慢するため浅く短く呼吸する。
「毎日どこかしら具合悪くないと生きてちゃダメなのかね」
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