林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』

7 愛は複数形

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 社内にあるいつもの喫煙室で、田儀と足立はいつものように携帯電話でゲームをしている。現在人気アニメとのコラボイベントが開催されているため、今日は対戦ではなく協力プレイ。ウィークリーミッションのクリアを目指すふたりは、只今攻略難易度高めのクエストに挑戦中。
「この前のバランス調整で、ちょい使えるようになりましたよね、雑魚ロリちゃん。まー俺は使いませんけどっ」
「“ロリ”じゃなくて“ロサ”っす」
「……雑魚はいいんすか?」
「よかねーよ。使えるようになったんなら使ってあげて」
「言ってもアタッカーとしてはやっぱ弱いんすよねー」
「フレンズちゃんのパーティに入れてくれよ」
「いやレベッカね。フレンズってなんすか、いつも言ってますけど……」
「レベッカっつったらフレンズだろ」
「ヤバイ! ちょっ……助けてください!」
「しょうがねーやつだな。ようし待ってろよ~……あっ」
「かかりちょおー! なにやってんすかあ!」
「目がしんどいんだよ、一旦休憩さして……」
 田儀は携帯電話を置いて、目頭を押さえる。
「老眼っすか?」
「認めたくない」
 新しいタバコに火をつけ、一回吹かしたあと、牛乳多めのカフェオレが入った小さめのペットボトルに手を伸ばした。
「そういえば、係長の待ち受けってなんすか?」
「ん? 息子」
 田儀は携帯電話のバックライトを点灯させ、その画面を見せるように傾けた。
「じゃーん、可愛いだろ?」
 一人ゲームを続ける足立がチラっと覗く。子供が二人映っているのが見えた。
「焦った~」
「なにが」
「いや、係長がムスコっていうから、チンコかと思いましたよ」
「バカかお前は。んなもん待ち受けにするやつなんていねーよ」
「そうすか?」
「この世のどこにそんな奴がいるんだ」
「え~?」
「万一なくしたりでもしたら大変なことになるぞ。見つかっても名乗り出られん」
「そこは逆の発想です。待ち受けをヤバイもんにしときゃあ、意識は常にケータイに向いてるんで、逆になくさなくなるんですよ」
「ケータイに支配されちまってるじゃねーか」
「ケータイにというよりチン」
「お疲れ様です」
 ハルが入ってきて会話が遮断された二人は、軽く挨拶を返した。
 ゲームをやめた足立は、椅子に座るハルを不思議そうに見つめる。
「波瀬さん久しぶりじゃないっすか?」
「ん?」
「タバコです」
「……そうですね」
「俺見てたんですけど、この前の忘年会でも吸ってなかったんで、禁煙されたのかと思ってました」
「なに? どっか悪いのか?」
「いえ、単純に忘れていました」
「忘れるか?」
「波瀬さんは係長ほど依存してないんすよ」
「誰がニコチン野郎だバカヤロウ」
「俺そこまで言ってないっすけど、そうは思ってます」
「あ?」
「あ、波瀬さんのケータイの待ち受けってなんです? 想像つかないんすよねー」
「つくだろ、デフォルトだろ」
 ハルは携帯電話を取り出して、その画面を二人に見せた。
「地球ですか。あれ? これって初期の壁紙っすか?」
「はい」
「ほらな、初期設定男」
「怪人みたいっすね」
 足立は軽く笑い、ハルは携帯電話をポケットにしまいながら煙を吐いた。
「それよりお前、俺のかみさんのSNS見るんじゃねぇ」
「いいじゃないっすか、ほぼ毎日見てますよ。乳でかいっすね~!」
「お前は毎日どこを見てるんだよ」
「奈々子さん、童顔でめちゃくちゃかわいいし乳でかいし、超タイプっすわ。係長ちょっと、手、出してもらえます? 手のひら」
 田儀が手のひらを上に向けて差し出すと、足立はその手のひらに自分の手のひらを重ね合わせた。
「この手で揉んでるんすね~」
 田儀は素早く手を引いて、重ねられていた足立の手をバチンと叩いた。
「いてぇ~っ! ひどいよぉ~……」
「ひどいのはお前だ」
 痺れる手で携帯電話をいじる足立は、田儀の妻がやっているSNSの一つ、フラッシュを開き、投稿された写真を確認する。
「やっぱこの顔にこの体でしかも人妻ってめちゃくちゃエロいんすよね~……」
「お前なぁ、人の女をそんな目で見るな」
「手が出せないんすから、せめて妄想ぐらいさしてくださいよ~。それくらいの権利はください。あ、俺のお気に入り写真見ます? ……これ、めちゃくちゃ可愛くないっすか?」
 足立は自慢気に画面を向け、そこに映る女性の配偶者に見せる。その写真は我が子が撮ったものだと、田儀はすぐにわかった。確かに表情は柔らかく、優しい雰囲気が伝わる良い写真だが、気になるのは、とても自然体というか、無防備な格好をしているところ。
「……お前これ、保存したのか?」
「はい、スクショらせていただきました」
「マジでお前……お前ほんっと……それは良くないぞ」
 この写真を不特定多数の人間が閲覧できるネットに載せる方にも問題はあるが、当人は自覚していない。
(コウキに撮られたのが嬉しくて載せたんだろうな……)
 少々天然なところがあるから、あとで注意しておこうと田儀は思った。
「他にも保存してねーだろうな? ちゃんと消せよ?」
「嫌です。てかマジで一戦交えたいっすわ。いっすか?」
「『いっすか?』じゃねんだよ、ダメだよ。人としてずっとダメだよお前は」
「冗談ですよお、これは目の保養っす。俺、上原さん一筋なんで」
「信用できんぞ」
「あ、一個謎なんすけど、なんで奈々子さんのアカウントの名前“BANANA”なんすか?」
「バナナ?」
「ほら」
 足立はまたフラッシュを開き、田儀に画面を見せる。
「……しっかりフォローしやがって」
「当たり前じゃないっすか。奈々子さんもフォロー返してくれてますし、相思相愛っすね」
「アホか」
「ユーザー名の“pieces_7”は、奈々子で7個って想像つくんすけど、BANANAはわかんないんすよね~」
「あだ名だ。かみさんの旧姓が“大場”だったんだ。続けて読むと“大場奈々子”になるだろ?」
「おおばななこ……オォ、バナナ~! ってことっすか。なんか、からかわれそうな名前っすね。特に係長なんて一番に反応しそうな……」
「昔は嫌だったけど、今は気に入ってるんだと」
「へぇ~。年取ると思い出って変わるもんなんすね。あ、奈々子さんのソリローも見てますよ」
「ソリローもやってんの? それは知らなかった」
「係長のことも呟いてますよ」
「マジか」
「でも良いところしか呟かないんでクソつまんないんすよね」
「お前はなにを期待しているんだ」
「上原さんもやってるっぽいんすけど、教えてくれなかったんすよ。係長知ってます?」
「知らん。知らんし、知っててもお前にだけは絶対教えん」
「まあ、上原さんとはこれから深い仲になる予定なんで、そのうち手に入れます。因みに波瀬さんの奥さんはどんな感じですか?」
 携帯電話の通知を確認していたハルは、足立へ顔を向ける。
「……すみません。もう一度お願いします」
「こいつの奥さんは美人だよ」
 話を聞いていなかったハルの代わりに田儀が答えた。
「奈々子さんとはタイプが違う感じの美人ですか?」
「可愛いより綺麗が似合うな」
「美男美女ップルなんですね。へぇ、見てみたいっす。写真とかないんすか?」
「ありません。妻は写真が苦手なので」
「ん? 確か、昔、モデルやってたんだよな」
「え! マジっすか!? 名前は?」
 目を輝かせる足立は、構えた携帯電話で検索しようとする。
「教えません」
「そんなぁ!」
「ははは、予防線張ったな」
「田儀さんもお口チャックでお願いします」
「あいよ」
「えーでも元モデルなのになんで写真苦手なんすか?」
「なぜでしょうね」
「察するに、写真撮られまくってレンズ恐怖症になったとかだろ」
「そんな恐怖症あるんすか?」
「知らん。テキトーに言った」
「にしても、お二人ともこんな美人とどこで出会うんすか~?」
「俺は取引先の専務の紹介」
「お見合い? 係長が?」
「なんか文句あるか?」
「いえ、ないっす。波瀬さんは?」
「……私は、大学生の頃にアルバイトをしていたカフェで知り合いました」
「いわゆるナンパですか? 波瀬さんもナンパとかするんすね! 俺のイメージだと、波瀬さんは幼なじみと付き合って、そのまま結婚、みたいな感じだと思ってました。へぇ~そうなんすね。意外だなぁ……」
「そうですか?」
「まーでも波瀬さんなら、どんな女性でも一発ですよねー。俺なんて、積極的に話しかけたり盛り上げたりめちゃくちゃ頑張っても一切見向きもされませんもん。そこそこイケてるのに」
「要するに性格だろう? あまりがっつかない方がいいぞ。女の子からしたら怖いだろ、そういう男は」
「アピールしないとしないで興味ないと思われるじゃないっすか」
「節度というもんがあるだろ。お前は下心見え見えなんだよ。もっと紳士に振る舞え」
「係長に紳士要素感じたことないっすけどね。それでも結婚できるんすから、うらやましいっすわ~」
「まずそういう口の悪いところを直しなさい」
「へーい」
 軽い返事をして、足立はくわえたタバコに火を点ける。
「はあ~、上原さんのこと考えてたら会いたくなっちゃいましたよ~。今夜あたり電話しちゃおっかな」
「電話?」
「連絡先ゲットしたんで!」
「いつの間に……」
「忘年会のあとっす! 4日後ぐらいだったっすかね。あの~、大通りのちょっと脇入った飲み屋街あるじゃないですか、そこでばったり会ったんですよ。そのとき一緒に飲んで、帰りに連絡先交換したんす」
「あいつがよく了承したな」
「それが、上原さんからなんすよ」
「は?」
「上原さんに『交換しよう』って言われたんです。これって脈ありっすよね?」
「ねーわ」
「でもこの前飲んだとき、気ぃある感じに見えましたよ?」
「気ぃあるってなんだよ」
「……それはまあ……ね、色々とですよ」
「お前、手ぇ出してねぇだろうな」
「そこは大人の男として、大人の対応とらせていただきましたっ」
 足立は田儀に向かってビシッと敬礼する。田儀はそれを薄目で見て、灰を落としたタバコをくわえる。
「サルめ……」
「ハハッ、飲んだ後ちゃんと駅まで送ってバイバイしましたよ」
「……当たり前だ」
「ほんとは、絶対イケると思ってホテル前まで頑張って誘導したんすけど、直前でぶん投げられました。上原さんめちゃくちゃ強いっすね!」
 足立はヘラヘラと笑いながら言った。
「あいつ合気道習ってたから、普通の男は返り討ちにされる」
「なるほどー! でもああいうの嫌いじゃないです」
「変わってんな」
「なにがっすか?」
 田儀は面倒くさそうに目をつむる。
「……お前はあいつのどこが好きなんだ?」
「うーん、やっぱ顔っすかね」
「正直な奴だねぇ」
「あはは。もちろん雰囲気も好きですよ。上原さんって女性っぽくないじゃないですか、いい意味で。そういう子って他人に弱いとこ見せたくないと思うんですよ。だから俺が支えてあげたいんです。こんなこと言ったらおこがましいですけど。いつかそういう姿を俺だけに見せてくれたら嬉しいじゃないですか」
 そう言ってニコニコしながら携帯電話をいじる足立。
 田儀は、のどかと足立と3人で飲んだ時のことを思い出していた。
 のどかから告白を受けた日。彼女の涙を見たのはあの日が初めてだった。
(弱いところか……)
 涙を浮かべながら、内に秘めていた数年分の思いの丈を伝えてくれたのに、なにも言えなかった。なんて言ってあげたらよかったのか、今でもわからない。
(今さら言われてもな……。正直、聞きたくなかった)
 田儀は短くなったタバコをつまむ。
「あいつの好きなタイプ、教えてやろうか」
「え? ……タイプとか関係ないっすけど、一応聞いときましょう」
 田儀は足立の目を見据えて言う。
「完璧な人だ」
「……波瀬さんみたいな人ってことっすか?」
「あいつの言う完璧ってのは、品行方正、容姿端麗のことじゃねぇ」
「なに言ってるか全然わかんないっす」
「前にも言ったと思うが、あいつは夢想家なんだよ」
「理想が高いんでしたっけ?」
「ああ。厄介なのは、あいつが思う理想的な人間がこの世に存在しないことだ」
 田儀は灰皿にタバコをグリグリと押し付け、火を消した。

『完璧な人。ほしいときにほしいものをくれる人。イライラさせない人。顔も性格も、全てがあたしが想像する理想的な人じゃないとダメ。妥協するくらいなら一生一人でいい』

 いつか言っていたのどかの言葉が、田儀の頭をよぎる。
「ん?」
「なんすか?」
「……なんでもない」
 足立は田儀へ向けた目を、興味なさそうに携帯電話へ戻す。

『最後くらいは、ずっと好きだった人に抱かれてみたかった』

(あいつの理想の人間って……)

 ふと顎を触ると、生えてきたヒゲが気になった。田儀はカフェオレを手にし、キャップを開けて、閉める。
「そういやぁ、忘年会のあとに行った店でお前、途中で抜けて二人組の女の子と楽しそうに話してたな」
「えっ! ちがっちがう、ちがうんすよ、あれはちがうんです、えっ、上原さんに誤解招くようなこと言ってないですよね!?」
「言う前に気づいてたぞ?」
「うわ~! 上原さんにあとで真実を伝えないと……。ナンパしてたわけじゃないっすからね?」
「ナンパだろ? お得意の」
「だからほんとに違うんです! その二人の女性が、サクマイのライブTシャツ着てたんすよ!? テンション上がって話かけちゃうじゃないっすかぁ」
「サクマイ?」
「さくらもちまいこっす!」
「桜餅舞妓?」
「あっ、聴きます? 波瀬さん、ちょっと音出してもいっすか?」
「構いませんよ」
 足立は携帯電話の音量を上げ、音楽を再生する。
 うねるようなシンセサイザーの電子音から始まるイントロが流れる。数秒後にドラムとベースが加わり、音に厚みをもたらす。そこに、中心となるメロディをギターが軽快に奏でる。だいぶ長いイントロを経たあと、優しい声色の男性が歌い始めた。といっても、その歌詞は意味のわからない言葉や単語を並べただけ。非常に難解で、何度もリピートしたくなるような、中毒性のあるエキセントリックな曲だ。
「舞妓っつうから女性グループかと思った」
「舞妓さんの舞妓じゃなくて、まいが米でこが粉なんです。こめこで、まいこって読むんすよ」
「ふぅん。面白い曲だなぁ」
「そうっすよね! 一発目に聴かせる曲としては間違えたんですけど、係長ならわかってくれると思いました。係長、アウトクラクション好きっすよね?」
「おお」
「テクノでロック調な、そういう系統の音楽好きなら、サクマイもハマると思うんすよね。まだまだマイナーなんすけど、良い曲いっぱいあるんで、係長にオススメしときます。今度一緒にライブ行きません? これがまたライブだと全然違うんすよ」
「わかる。やっぱ生はいいもんよ。全ての音を全身でビシビシ感じられるからな」
「そーなんすよ! 演出もサイコーですし! 実はあの日、サクマイのライブあって、俺ほんとはそっち行きたかったんすけど……」
「だったら無理に出なくてもよかったんだぞ?」
「いやいや、上原さん来るって聞いてたんで、忘年会優先させてもらいました」
「お前が呼んでくれって言ったんだろ」
「それはもう感謝してます。あ、上原さん誘おっかな、係長じゃなくて。上原さんって音楽好きっすか? どんな音楽聴いてるか知ってます? 好きなアーティストとか」
「確かポメロはよく聴いていたはずだ」
「へぇ! 上原さんもポメロ聴くんすね……! ポメロは歌詞が良いっすよね。爽やかで、どこか切ない歌詞が美しいんですよね」
「ポメロの良さがお前にもわかるか」
「そりゃわかりますよ! 俺高校生の頃めちゃくちゃ聴いてましたもん」
「ほんとかよ。ポメロ聴いてたらこんな風には育たんだろ」
「そっすか? ちゃんと立派に育ちましたけどねぇ……」
 足立はタバコの火を消して、ゆず味の水が入ったペットボトルをパッと抱えて立ち上がる。
「俺、そろそろ戻ります。早く終わらせて上原さんをデートに誘わなきゃいけないんで!」
 浮かれながら去り行く背中を、横目に見ていた田儀は呼び止める。
「足立」
「はい?」
 田儀は腰を上げ、振り向く足立に近づく。
「もしあいつが男だったら、お前、付き合いたいと思ってたか?」
「なんすかそれ、思うわけないじゃないですか」
 可笑しそうに答える足立とは反対に、真面目な顔つきの田儀は、声のトーンを落として言う。
「上原のどかを、一人の人間として愛せないなら諦めろ」
 足立は一瞬目をそらして、薄ら笑いを浮かべながら、見下ろす田儀を睨み付けた。
「なんで係長にそんなこと言われなきゃいけないんすか? 関係ないじゃないですか」
「関係あるんだよ」
「ただの客とスタッフでしょ? それとも本当に愛人なんすか?」
「俺はのどかのことを大切に思っている。だから、お前みたいな生半可な奴に、のどかを任せるわけにはいかない」
「アハハ、親じゃないんすから……」
「親以上だ」
 田儀の声に、ハルが首を動かす。大きな体に遮られて足立の表情が見えない。
「親以上の関係だ」
 ハルはゆっくりと手元の携帯電話に視線を戻した。
「別にいいっすよ、お二人がどんな関係でも。係長の気持ちなんて関係ないっすからね。上原のどかを落とせりゃいいんすから」
「お前なぁ……!」
 足立は手のひらを田儀に向けて止めた。
「まあまあ、見ていてください係長。絶対必ずセックスまで持ち込んでやりますよ。そしたら祝福してくださいね。では、失礼しまーす」
 足立が出ていくと、田儀はため息をついた。
「まったく……」
 もし足立が無理矢理襲いかかろうとしても、のどかは物理的に強いから心配はないだろうと、田儀は考えていたが、初めて見た涙がずっと頭から離れない。
 のどかの寝室のテーブルの上に散乱していた薬、睡眠薬。

『そういう子って他人に弱いとこ見せたくないと思うんですよ』

 あの日のどかがしきりに言っていた『最後』が、近いうちに、いつか本当に来るような気がした。
(あいつが思ってるよりのどかは強い。俺が思ってるより、あいつは弱いのかもしれない……)
 それを知ったとしても、自分にはどうすることもできないから、深く関わらないように避けてきた。いつも楽しいことだけを拾って、苦しい表情は見て見ぬふりをした。

『だから俺が支えてあげたいんです』

 なにかの間違いで、気を許すようなことがあったら……。
(良いことじゃないか。それで幸せになるなら……そうだろ?)
 椅子に座り直した田儀は、また新しいタバコを一本取り出した。が、口にくわえず持ったままぼーっとする。タバコを吸ってもこのイライラは消えてくれない。
 田儀は机をトントントンと少しだけ強く叩いて、眉間を押しながらうつむいた。

『いつかそういう姿を俺だけに見せてくれたら嬉しいじゃないですか』

 足立が悪い奴ではないことは知っている。だが、どうしても足立には渡したくなかった。足立だけじゃない。誰のものにもなってほしくないと思ってしまう。
「俺はどうしたらいいんだ……」
 机に突っ伏し頭を抱える田儀は、固めた髪をグシャグシャにかき回す。ムクリと上半身を起こし、目の前の壁を見つめたまま言った。
「波瀬。一回キスさして」
「……それだと足立くんと変わりませんよ?」
「いんだよ。俺もあいつと同じだ」
 ハルは田儀の下へ椅子を近づけ、乱れた頭を撫でながらそっと唇を重ねた。
「田儀さん」
「ん……?」
「田儀さんは家族のことだけを考えればいいんです」
 頭を悩ませる田儀のために言った言葉だったが、その言葉のせいで、田儀の脳裏に浮かんだ顔と声が、止めたい思考をもっと複雑にした。
 グルグルグルグル、頭の中が騒がしい。
 それらをかき消すように、濡れゆく唇を何度も強く重ねて、邪魔する隙間をこの肌の温もりで埋めようとした。
「波瀬。好きだ。俺はお前が好きだ」
 ハルの頬を両手で挟み、瞳を見つめて、また唇を押し当てる。
 手っ取り早く満たしてくれる手頃な愛で、頭をいっぱいにする。
 田儀は途中でタバコに火をつけた。
 軽く吸って、舌を入れる。
 じっくりと、深いところまで、煙と吐息が交じり合う。
 田儀が憂いを帯びた声で囁く。
「今日、抱いていいか……?」
「はい」
 田儀はハルを抱き寄せる。
「手加減できないかもしれない……」
「お気になさらず、田儀さんの思うがままにしてください」
 抱きしめる腕にギュッと力を込めた。
「どんなことがあってもお前だけは離さない」
 ハルが抱き返すと田儀は手をゆるめ、「お前は悪い奴だな」と、軽く笑った。
 体を離し、二人は見つめ合う。
「俺を悩ませる天才だ……」
 微笑む田儀はハルの頭を撫で、スルリと顎に触れた。そして、その指を唇へ持っていく。
(できることなら俺がそばにいたかった)
 6年前、自ら変化を求めた結果、幻想を抱き続けることになってしまった。
 だからといって、今を否定するわけじゃないし、後悔しているわけでもない。ただ、一度くらい、一度でも許されるなら、全身で愛したい。
(……なんてな)
 これからも誤魔化しながら、変えられない日々を過ごしていくだろう。
 灰皿に置いたタバコを、田儀は口をつけずにそのまま消した。
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