林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』

12 温かい夕食と大きな手

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「ただいまー! おかえりー!」
 靴を脱いだ子供たちは、さっきまで寝ていたのが嘘のような元気と素早さで、リビングへと散っていく。玄関に取り残されたサキと田儀は笑いながら靴を脱ぐ。
「おじゃまします」
「おう。存分に邪魔してくれや」
 田儀に招かれ、サキは緊張しながら足を進める。
「さあどうぞお入りくださいな」
 田儀が廊下の先にある扉を開けると、広く開放的なリビングが目に入った。その真ん中に配置されたソファに座っている女性が、二人に気づいて振り向いた。
「お帰りなさい! サキちゃん?」
「あ、はい、おじゃまします……!」
 サキがぎこちなく挨拶をすると、その女性はほんわかした笑顔を向けて、膨らんだお腹を撫でながら「よいしょ」と立ち上がった。
「初めまして、妻の奈々子です。今日は子供たちと一緒に遊んでくれてありがと~。自分のお家だと思って、ゆっくりしていってね」 
「あ、ありがとうございます……」
 大きなお腹より、胸の方に目がいってしまうサキは慌てて会釈する。その後ろで田儀は、リビングの右側にある畳コーナーへ顔を向けた。
「お前って奴は……」 
 その声にサキも見向くと、畳の上で寝転がって絵本を読むコウキと、正座しながらそれを覗き込むユウトがいた。田儀は呆れながら、寝そべる尻をペンッと軽く叩く。
「おいー約束はどうしたんだよー、演奏会すんだろー?」
「めんどくさい」
 田儀はため息をつき「仕方ないな……」と呟いて、動こうとしないコウキの脇腹をくすぐる。
「ギャハハ! やめろぉー!」
「サキちゃんに、かっこいいところ見せてやれよー」
「わかったっ! わかったーっ! やるー!」
 手を止めると、笑い疲れたコウキはムクリと起き上がり「どっち?」と、したり顔の田儀に聞いた。
「そりゃお前、両方だろ」
 そう答えると、コウキはあからさまに嫌な顔をして、田儀は仕方なくサキに問う。
「ピアノとバイオリンどっち聴きたい?」
「えと、バイオリンがいいです……!」
 サキが目を輝かせて言うと、コウキは早々と準備に取りかかる。
「なに弾けばいいの?」
「もうすぐクリスマスだから、クリスマスソングがいいと思うよ。『The First Noel』とかどう?」
 優しく答えた奈々子は、リビングの窓際に置かれたアップライトピアノの前の椅子に浅く腰かけ、鍵盤蓋を開ける。コウキはバイオリンを持って、奈々子の近くに立った。
「……あ、着替えようかな」
「いやいやいや、そのままでも十分様になってるぞ?」
「さまになってるって?」
「バッチリ決まっててかっこいいってことだよ」
 今から着替えさせるのも面倒に思った田儀は、コウキをおだてて阻止した。
「よし、弾くぜ!」
 コウキは畳の上で正座するサキに向かって深々と一礼した。サキは小さく拍手し、その隣であぐらを組んで見守る田儀は、そばにいるユウトを抱き上げて足の上に座らせた。
 観客が落ち着いたのを見てバイオリンを構えたコウキは、奈々子へチラリと顔を向けた。奈々子は頷き、伴奏を弾き始める。
 澄んだ夜空にキラキラと輝く星くずのようなピアノの音色。そこに、暖かみのあるバイオリンの音が重なった。
 コウキは全身を使って大きく優雅に弾きながら、ときおり奈々子へ目配せする。
 二人が奏でる、とても神秘的で美しい音楽が、部屋全体に響き渡る。
 それを羨ましく思うサキは、うっとりと二人を見つめていた。
 演奏が終わり、コウキはゆっくりと弓を下ろす。
 サキが「わぁ」と大きな拍手を送ると、気を良くしたコウキは続けて『Joy to the World』を、元気良く弾き出した。その様子に田儀は「フッ」と口元を緩め、微笑む奈々子は落ち着き払ってすぐさま伴奏をつける。


「よっこいしょい!」
「おわっ!」
 弾き終えたコウキが勢いよく田儀の膝に乗っかった。その拍子に股関節周りの筋肉が無理に伸ばされ、田儀は足の付け根を押さえた。
「くぅっ……!」
 痛がる様子を気にも留めずに、コウキは膝の上に乗っかったまま絵本の続きを読み始める。田儀は、正座したまま大人しくしているサキに目を向けて、コウキに話しかけた。
「なぁ、せっかくサキちゃんが来てくれたんだから、一緒に遊んだらどうだ?」
「ん~じゃあ、サキちゃんもパパの上に座れば?」
「へ!?」
「お。来るか?」
「いいいえ! わたしはいいです!」
「そんなに拒まれるとしょげるわぁ~」
「いや! そんなつもりじゃなくて……!」
「んー? 遠慮するなよ」
「遠慮するなよ~」
 絵本に視線を落としながら、コウキが真似をする。
「はは。さあおいで」
 田儀は笑いながら、空いている方の腿をポンポンと叩き、サキを呼び寄せる。
「えっと……」
 近寄ってみたものの、どうしていいかわからずあたふたするサキに、田儀は「ゆっくり座ってくれよ? 俺の股関節が使い物にならなくなっちまうからな」と言って、悪戯な笑みを浮かべた。
 ますます座りにくくなってしまったサキの戸惑う手を掴んだ田儀は、クイッと引っ張って「ひゃっ!」自分の腿にストンと座らせた。
 突然のことに、心臓がバクバクしている。座ったあともどうしていいかわからず、背筋をピンと伸ばしたまま硬直。
「重く、ないですか……?」
「んー? 全然。軽すぎて綿菓子みたいだ」
 田儀はサキの腹部に腕を回し、その体を支える。
「あ、おれおしっこしたかったんだ!」と、唐突に発したコウキは素早く絵本を閉じて勢いよく立ち上がる。そして、トイレへと走り出すその背中に田儀は「しっかり手ぇ洗えよー」と声をかけると、「パパよりちゃんと洗ってるから大丈夫ー!」と返ってきた。
 田儀はムスッとして「パパもちゃんと洗ってますぅー」と、拗ねたように言い返す。
 コウキがいなくなると、足の間で黙って座っていたユウトも立ち上がり、リビングのソファで料理レシピ本を真剣に読み込む奈々子の下へ、走って行ってしまった。
「あらぁ、みんないなくなっちゃったなぁ……。よし、サキちゃんで遊ぶかぁ」
(……“で”!?)
 腿の上に一人残されたサキは、思いがけない言葉に内心うろたえる。
 田儀は、尚も緊張する小さな背中に空いている手をそっと伸ばす。その手が見えないサキは、背中に当たった感触に驚き、体をびくつかせ「ふにゃぁっ……!」と小さく声を漏らした。
「ん? もしかしてサキちゃん、くすぐったがりか?」
「す、すみません……!」
 サキは頬を赤らめながら口を押さえた。
「謝らなくてもいいが……、俺の好奇心にちょいと火がついちまうなぁ」
「えっ……?」
 田儀は、困惑するサキの背中にもう一度手を伸ばして、軽くくすぐった。
「ひぁうあぁっ、いひひっ……んんぅっ……!」
 サキは喉を絞って、出てしまう笑い声を必死に我慢する。一方で、田儀は楽しそうに笑っている。
「もうやっ、やめてっくださっ……」
 背中を反らして逃げそうとする体を、腹部に当てられた強い腕が阻む。
「あはっ……くひひひっ、ぅんふっ……!」
 手のひらを脇腹へ移して指先でなぞると、今度は背中を丸めながら身を捩った。少し強めにくすぐると、サキは体勢を崩し、腿に乗せていた尻が内側へズルリと落ちる。
「おっと」
 後ろへ倒れるサキの肩に素早く腕を回し、田儀はとっさに体を支えた。
 あぐらを組む田儀の上で、お姫様抱っこのような横座りする体勢になったサキは、涙を浮かべた瞳で田儀を見上げたまま驚き固まった。
「……サキちゃん、結構ちっちゃいんだな」
 縮こまる体は、頼もしい腕の中にすっぽりと収まっている。
「しっかり飯食ってるか~?」と、上から覗き込むと、サキの顔はみるみるうちに真っ赤になっていく。
 熱くなるのを自分でも気づいたサキは、その恥ずかしさに涙を溢しながら、両手で顔を覆い隠した。
「あーごめんごめん、やりすぎちゃったな……」
 田儀がサキの頭をポンポンと軽く叩いて優しく撫でていると、コウキが走って戻ってきた。
「なにしてんの?」
「ん? 遊んでたんだよ」
 田儀の腕の中で、顔を覆いながら大人しく撫でられ続けるサキ。一度上がった熱はなかなか冷めてくれない。
「サキちゃん」
 レシピ本を読んでいた奈々子が、ひょこっと顔出す。
「もしよかったら、お夕飯食べていかない?」
 サキに考える隙も与えずコウキが「食べる!」と返事すると、「お前に聞いてない」と田儀が言った。
「……じゃあ、食べます!」
 指の隙間から覗いて答えると、嬉しそうに微笑む奈々子の顔が見えた。
「なに食べたいかな?」
「えーと……グラタン、食べたいです……!」
「グラタンかぁ、いいね! んー……お夕飯の時間は、何時頃がいいかなぁ……」
「遅くならんように、5時頃でいいんじゃないか?」
 頭を撫でる大きな手のひらが、覗き見る目元を覆い隠し、視界を遮った。
「わたしは何時でも……!」
「そんなわけにはいかんよ。親御さん、心配するだろ? 早めに食って帰った方がいい」
「うん、じゃあ早速支度してくるね」
「わたし手伝います!」
 サキは急いで体をひねり、起き上がる。
「サキちゃんはゆっくりしてていいんだよ?」
「ああそうだぞ? サキちゃんはお客さんなんだから座ってなさい」
 田儀はサキの腕を掴み、軽く引っ張ってまたあぐらの上にストンと座らせた。下腹部に両手を添えて「俺と遊ぼうなー」と、無邪気に微笑みながら体を揺らす。
「もういいです! もう! いいですっ!」
 また顔が熱くなるのを感じたサキは、慌てて田儀から離れて、奈々子のそばへ駆け寄る。
「お手伝いさせてください! 絶対に!」
「うん? ありがと~、とっても助かる」
「やべ、嫌われちったかなぁ……」と一人呟く田儀にコウキは抱きついた。
「しょうがないからパパと遊んであげるよ」


 ガチガチに力が入った手で包丁を持つサキは、不器用ながらもブロッコリーやパプリカやトマトを慎重に切っていく。
「そうそう、上手!」
 おぼつかない手つき。
 奈々子は小さなことでも褒めた。
「おうちでもママのお手伝いよくするの?」
「いえ、家では全然……」
「本当? じゃあ、本格的にお料理覚えたら、一気に上達するかもしれないね!」
 おだてるのがうまく、サキは調子に乗る。
「あとは、チーズを乗せて焼くだけ!」
 冷蔵庫を開けた奈々子の探る手が止まる。
「……はっ、チーズがない!」
「俺買ってくるよ。コウキ、一緒に行くか?」
「行かね」
「なんだよ冷てぇな~パパと一緒に行こうぜ~」
 田儀はコウキを持ち上げ、ぎゅっと抱きしめながら頬をスリスリさせる。
「ぐわー! やめろー! いやだー!」
 コウキは顔をそむけながら、田儀の顔をグイッと押し返す。
「いでで……そんなに嫌がらなくても……」
「パパのヒゲ痛いんだもん! ヒゲ嫌い!」
「ガーン」
「……わたし、行きましょうか?」
「お、サキちゃん来てくれるのか? 優しいなぁ」
「じゃあおれも行く!」
「お前って奴はよぉ……。しょうがねぇ、拉致してやる」
 田儀は嫌がるコウキをがっちりと抱きかかえて、そのままリビングを出て行った。
「……他に手伝うことはありますか?」
「ん~……あ! サラダのドレッシング! 新しいもの出さなきゃいけなかったんだ。そこに入ってるんだけど……」
 お腹を支える奈々子の代わりに、サキはヒョイとしゃがんでキッチンの下の戸棚を開ける。
 すぐにドレッシングを見つけて取ろうとしたとき、奥の方にある茶色い瓶に目がいった。その瓶のラベルには『霧島』と書かれていて、サキは思わずドキッとする。
 保管されている霧島には黒と白の二種類あり、ドレッシングを手に取ったサキは、闇と光の姿を想像しながら奈々子に渡した。
「あとは出来上がりを待つだけだから、ゆっくり休んでていいよ? サキちゃんのおかげで本当に大助かりしちゃった、ありがとうね」
 頬を赤くするサキは頭をかいて、大人しくソファに座り、心地よい生活音に耳を傾けながら、ただじっと静かに待った。


 玄関に繋がる廊下の方から、コウキの笑い声が聞こえてくる。
「ん、帰ってきた」と呟く奈々子は嬉そうに微笑む。
 リビングの扉が勢いよく開き「ただいまー!」と、元気よく登場するコウキに目を向けた奈々子は驚く。
「わあっ! ビショビショ! どうしたの?」
「雨。通り雨か知らんが、家着いて車降りたらいきなりドワーッ! と降ってきてこれよ」
 ずぶ濡れの田儀は、ずぶ濡れの買い物袋を奈々子へ預け、「風呂入ってくるわ」と、同じくずぶ濡れになって笑いまくるコウキを連れて風呂場へ直行した。
 その様子をぼんやりと眺めていたサキに「一緒にお絵かきしよー?」と、さっきまで眠っていたユウトが声をかけた。
 小さめのリビングテーブルの前に座って、ユウトが準備してくれた真っ白な画用紙を見つめるサキ。なにを描こうか悩むその隣で、ユウトはもうすでに何枚も描いている。得体の知れぬ動物の絵を。
「なに描こうかなぁ……」
 そう呟くと、ユウトは「みぃなかいてー?」と言った。
 ミィナの絵を描くのは得意だったサキは「うん!」と返事して、だいだいいろのクレヨンを手に取り、意気揚々と描き始めた。
 それから数十分後、二人で楽しくお絵描きしていると、遠くからドタドタと走る足音が聞こえてきた。その音はこちらに近づいてきて、何事かと振り向いたサキのぎょっと見開いた瞳に映る、素っ裸で仁王立ちするコウキの姿。
「サキちゃん見てみておれのちんち……」
 大急ぎで追いかけてきた田儀はその体に素早くバスタオルを巻きつけ、サキは一度向けてしまった顔を慌てて逸らした。
「バカタレ!」と田儀が小突く。
「いてぇ! なにすんだよぉ……!」
「『なにすんだよぉ』じゃないんだよなにしてんだお前は!」
 腕を引かれるコウキは頭を押さえながら、テーブルの上に広げられた画用紙に視線を移すと、田儀の手を振り払いまたサキの下へ駆け寄った。
「あっおい!」
「これサキちゃんが描いたの!?」
「はっ……!」
 サキは突っ伏すようにして画用紙を隠すも、コウキに一枚奪われた。
「見てこれサキちゃんが描いたんだよ」と、渋い顔で近寄る田儀に見せる。
「ちょっ、ちょっと……!」
 腕組みをした田儀は前屈みになって、画用紙に描かれた絵を眺めた。
「お~うまいなぁ! こりゃ絵描きさん目指した方がいいな。コウキ、サキちゃん将来大物になるぞ? 今のうちにサイン書いてもらおう」
 赤面するサキは目を逸らしながら、苦笑いを浮かべる。
「パパさんもコウくんも、そろそろお洋服を着てくださいね~」
 キッチンから顔を覗かせる奈々子に言われ、自分の体に目をやった田儀は「あー……これはこれは大変失礼いたしました」とサキに一礼して、コウキを担ぎ大急ぎでどこかへ連れていった。


 ダイニングテーブルの上に広げられた豪勢な夕食に、席に着いたサキはそっと前のめりになってスゥ~っと匂いをかぐ。グラタンのチーズがとろけた香ばしい匂いが真っ先に鼻の奥へと届く。
 人数分並んだ料理を見回すサキは心を弾ませた。
 献立のメインはもちろん、パプリカとブロッコリーが入ったこの色鮮やかなグラタン。付け合わせは、湯気が立つキャベツとウインナーのコンソメスープに、和風ドレッシングがかかったサラダと、食パンが二枚。あとはチーズと一緒に買い物袋に入っていた、頼んでいないおまけのイチゴが五つ、小皿に乗っている。
「あー! 赤いピーマン入ってるー黄色い奴もー」
 椅子の上で膝立ちするコウキがグラタンを覗き込んで不満げに言う。
 全てのパプリカをフォークで一生懸命ほじり出そうとする様子に、サキは「パプリカ嫌い?」と聞いた。
「ピーマンは食べられるけど、パプリカ苦手だもんね」
 真剣な顔でパプリカをつつき回すコウキの代わりに、奈々子がそう答える。
「……なんで入れるんだよー!」
「グラタンだったら食べられるかなぁと思って入れてみたんだけど……。コウくん、チャレンジしてみない?」
「ぜっっったいやだ!」
「なに揉めてんだ?」
 洗面所から戻ってきた田儀が聞く。オールバックだった前髪がさらりと下りていて、印象が変わって見えたサキは(闇の姿……)と心の中で呟き一人でニヤついた。
「ああ、パプリカか。まあ無理して食わなくてもいいだろ」
「ほら! パパがいいって!」
「でもせっかくサキちゃんがお料理手伝って、切ってくれたものだから……」
「それは食った方がいい。コウキ、食った方がいい」
「えー!?」
「いやぁ~これはうまそうだなぁ!」
「パパめぇっ……!」
 コウキに睨まれながら席に着く田儀は、仕切り直すように両手を合わせた。
「そんでは手を合わせていただきますしようか。いただきます」
 キョロキョロするサキも、みんなに合わせて「いただきます」と手を合わせた。
「ん~んまいなぁ!」
 熱々のグラタンを頬張る田儀が言う。
 サキもフーフーして食べ始める。
 プリプリのマカロニをブチリと噛むと、中に詰まった熱いホワイトソースが口の中に飛び散る。どろりとしたちょっと甘めの濃厚ホワイトソースが脳に幸せを運び、焦げたこうばしいチーズの香りが鼻を抜けて、食べ進めるほどサキの表情はどんどんほころんでいく。
 フーフーする時間も惜しいくらい、口に運ぶ手が止まらない。上顎をヤケドしたかもしれない。
 サキの顔色をうかがっていた奈々子はホッと微笑み、コウキに視線を移す。
「どう? 美味しい?」
「うん、うまい! 赤ピーマンだけうまくないけど」
「そんなに味しねぇけどなぁ……」
 パプリカだけをすくって口に含んだ田儀が呟く。
「嫌いなものないパパにはわかんないよーだ。でもおれ今日は赤ピーマン食べるよ」
「おー凄いなぁ!」
 田儀が頭を撫でてあげると、コウキは嫌がりながらその手を振り払った。
「なんだよー。今日はご機嫌斜めか?」
「だって恥ずかしいじゃん……」
「……ほぉ~ん。お前も成長してんだなぁ。嬉しいよ」
 いたずらっぽく笑う田儀にワシャワシャと頭を撫でられふてくされるコウキ。サキがその様子を見つめていると、奈々子がクスッと笑った。
「そんなにからかってると、パパさん嫌われちゃいますよー?」
 大きく口を開けてグラタンを頬張るユウトの汚れた口元を拭いながら言う。
 それぞれの顔を見ていたサキは、伏し目がちに少し冷めた食べかけのグラタンをいじる。皿の底にへばり付くパプリカをフォークで刺してかじった。柔らかくなった甘いパプリカの皮が口に残る。その厭わしさに胸がグーッと締め付けられ、こみ上げてくる涙を誰にも気づかれないように必死で堪えた。


 雨上がりの夜空の下、冷え込む空気に白い息と微量の煙を吐く。
 ピアノがある窓際のウッドデッキで片手をポケットに突っ込む田儀は、肩をすぼめながら吸い終わったタバコをスタンド型灰皿へ入れた。
 足早に室内へ戻り「うっしゃお待たせー……」と声をかけると、すでに帰る身支度を済ませていたサキが、視線を向けて立ち上がった。
 吸い終えたあとすぐに送り帰すつもりだったが、田儀はサキがピアノを見つめていたことに気がついていて、「ちょいと触ってみるかい?」と誘った。
 サキは一瞬口角を上げたが、すぐに物思わしげに目を逸らす。
「でも、なにも弾けないです……」
「んじゃあ今度は、俺の手伝いをしてもらおうかなぁ」
 ピアノ椅子に座った田儀は右側に寄って、空けた左側の座面をポンポンと叩いて呼んだ。重い腰を上げたサキは、田儀の隣にちょこんと座る。
「つっても俺一曲しか弾けないんだけどなー」
 意気込んで腕まくりする田儀。その血管が浮き出る筋張った腕に、緊張するサキの胸の高鳴りは増す一方で落ち着かない。
「サキちゃん、人差し指出して」
 不思議に思いながらも言われたとおり、人差し指を一本立てた。
「最初はド」
 田儀が音の位置を教えるために、鍵盤を押し下げてみせると、低い音が鳴った。指を離して「さあどうぞ」とサキに押すよう促す。強張る指でトンと叩いてみると、鍵盤は意外と重かった。
「次に下がって、ソ、で、隣のラ……」
 田儀がゆっくりと指差す鍵盤の位置を、額に汗を滲ませながらサキは真剣な顔で押し下げる。
「よしよし。ソーまで行ったらまたドーソーラーミー……」
 すぐに位置を覚えられたサキは、『ドソラミファドファソ』の8つの音を一定のリズムで繰り返す。
「ん、いい感じだ。そのまま続けてくれ……」
 と、田儀は右手を鍵盤に添える。そしてサキが出す音にタイミングを合わせて鍵盤を押し下げると、
(……あっ!)
 聴いたことのあるメロディが流れ始めた。
(カノン!)
 視界の端に映る田儀の軽やかな指さばきが気になって、チラッチラッと視線を動かす。もっとじっくりと見たいが、鍵盤から目線を外せば音程がずれそうで、サキはそのもどかしさに体をウズウズさせる。
 田儀が空いていたもう片方の手も添えると、綺麗な和音が鳴った。
 その切ないコード進行は、夢で感じたあのくすぐったい手のひらをまた思い出させた。
(せんせ……)
 動かすたびに擦れ合うお互いの腕。
 熱を帯びる瞳が揺れる。
 滑らかに弾く手元を見ては(また撫でられたいな……)と思ってしまう。
 ふと、畳コーナーで戦いごっこをしている子供たちの無邪気な笑い声が聞こえてきて、我に返ったサキは体の火照りに罪悪感を抱いた。
 とにかく音を間違えないようにリズムを崩さないようにと、震える指先に神経を集中させ、ひたすらに雑念を振り払う。
 田儀の演奏に合わせて、サキはそっと指を離す。なんとか無事に弾き終えると、ホッと一息つくサキに田儀が顔を向けた。そして肩に手を回し「よくできました」と囁いて、サキの頭を軽く撫でた。
 一瞬目を丸くしたサキは、鍵盤に視線を落としたまま顔を真っ赤にして、もじもじと下唇を噛む。
「ん? どした?」
 覗き込んだ田儀はサキの表情を見て、「急にごめんなぁ」と背中をポンポンと軽く叩いた。
 そしてまた鍵盤に両手を添えると、別の曲を弾き始めた。
 軽快なイントロが流れ、「しーんぱーいないからね!」と歌い出す。
 田儀はリズムに合わせて体を左右に揺らし、わざとサキにぶつかる。思わず笑みをこぼしたサキも、合わせて体を揺らした。
「もう一度夢見よお、愛されるよろこびを~っ、知っているのならぁ~」
 熱い歌声に耳を傾けるサキの口元はニマニマとゆるむ。そしてここぞとばかりに踊る指先を見つめた。
 その繊細な指使いに、似つかわしくない無骨な手。図らずも胸がときめく。
 サキは目を細めて胸元に手を当てた。
(はぁ……全部ぜんぶ夢のせい……!)
 擦れる腕から伝わる体温が、少女の雑念を加速させる。
「どーんなーに困難で~っ」
 最後のサビが迫ってくると、戦いごっこをしていた子供たちは手を止めて、
「最後に愛は勝つ~!」
 と、お約束のように一緒に歌った。
 満足げに演奏を終えた田儀は、拍手するサキの頭をひと撫でして「よし、帰ろうか」と腰を上げた。
「7時からお笑い番組あるからなぁ、その前に帰らんと」
 車の鍵を指に引っかける田儀の背中を見て、名残を惜しむサキはふと思う。
(……一曲しか弾けないって言ってなかったっけ?)


 雨粒が残る窓から、流れ行く街の景色を眺める。
 夜空に雲はなく空気は澄んでいるが、残念ながら星は見えない。華やかに街を彩るイルミネーションが、小さな星の輝きを阻むから。
「ごめんな、無理に連れ回しちまって……」
「嬉しかったです」
 ハンドルを握る田儀は、サングラスのレンズの端の隙間からサキの横顔をチラッと見て、またフロントガラスの向こう側に視線を戻す。
「……そ?」
「はい。仲良くなりたかったので……」
「ハハッ、そっか。そりゃよかった。俺も、家族が一人増えたみたいで楽しかったよ」
 サキは物悲しげに微笑む。
 昔の洋楽ディスコソングが流れている、タバコのにおいが染み付いた車内。
 運転席側のエアコンの吹き出し口に取り付けられた灰皿。申し訳程度に置かれた足元の消臭ビーズ。
 この車は先ほどサキが乗った車とは違う別のもの。子供たちを乗せることはほぼない趣味用の車だそうだ。
 今では珍しい角ばったデザインで、内装もレトロでシックな雰囲気が漂う。
 車は赤信号で止まった。
 真横の窓へ顔を向ける田儀は、信号へ視線を移し、正面を向いて、またチラリとサキに目をやる。
 なんだか帰りたくなさそうな顔。目的地が近づくにつれ、その表現は重くなる。田儀にはそう見えていた。
 信号はまだ赤色の光を放っている。
 田儀は窓枠に肘を引っかけて頬杖をつく。そして遠くを眺めながらぼそりと呟いた。
「サキちゃんを誘拐しようかしら……」
「え!?」
 驚いたサキは勢いよく田儀へ顔を向けた。その気配に気づいた田儀はおもむろに首を動かして、ぼんやりとした目付きでサキを見つめた。
「あんまりいい子にしてると、悪いこと教えたくなっちまうからさ」
 そう言って田儀は眉を潜めて微苦笑する。
「……さっきは甘えろっつったけど、嫌な時は『嫌だー!』ってシャウトしてもいいんだぞ?」
 きょとんとした顔のままじっと見つめ返すサキに、田儀は「フッ」と小さく声を漏らして笑う。
「サキちゃんはいい子だ。だからこそもっと暴れたっていんだよ。もっとわがままになりな。……つってもいきなりは難しいよなぁ。ま、俺にはなに言ってくれても構わねぇからさ」
 淡いオレンジ色をしたラウンド型のサングラスの奥から覗く、柔らかい瞳がサキを優しく見つめる。
 クラクションを鳴らされ、信号を見るといつの間にか青に変わっていた。
「おっといけね……」
 慌てて走り出した田儀はルームミラー越しに後ろの車を確認して、「若いくせにせかせかすんなよ~」と文句を垂れた。
 だがすぐに気分を切り替えて、新たに流れ始めた曲を陽気に口ずさみ出す。

「You can dance, you can jive, having the time of your life……」

 サキはそれを聴き流しながら、窓越しのぼやけた街明かりに目を向ける。

「……Night is young and the music's high」

 自然と体を揺らしたくなる優雅な音楽に、気づけばサキは自ずと耳を傾けていた。

「With a bit of rock music, everything is fine……」

 クリスマスムード一色に着飾った賑やかな街と、それを眺める対照的な少女の瞳が動く。

「……You're in the mood for a dance」

 その少女の太股の上に置いてある、クリスマスラッピングされた絵本。

『……大人を利用してやるぜ! ぐらいに思っときゃいいのよ。サキちゃんは、もっと大人に甘えなさい』

 少女は目を落とし、絵本をそっと抱きかかえた。

「And when you get the chance」

 意を決したサキは、睨み付けるような鋭い眼差しで、田儀の横顔を見上げる。
「……連れてってください、どこへでも……!」
 曲のサビに気を取られていた田儀は、思わず二度見する。内心慌てながらもすぐに視線を戻し、ハンドルを今一度握り直して聞いた。
「……それ本心?」
 サキが元気よく「はい!」と返事をすると、田儀は声を出して笑った。
「ようーしわかった。だったらあと1時間だけ、俺に付き合ってもらおうか」
 ちょっとの不安と好奇心で、胸を高鳴らせる少女を乗せたブルーバードは、浮かれた夜の街を気にも留めずに突っ走る。行き先はドライバー任せ。


「はぁ、あっちぃ~。体力の衰えを感じる……」
 田儀は汗で湿った前髪をかきあげて、どっかりとソファに腰を下ろした。
「風呂入ったのにな……」
 顔周りの汗を拭い、卓上の水を手に取ってゴクゴクと喉を潤すと、背もたれに寄りかかって一息ついてから、腕時計を確認した。
「7時過ぎてんなぁ。もう45分経ったのか」
 開いた足の上に肘を乗せて頬杖をつく。前屈みになる田儀は、胸の前で手を組んで熱い眼差しを向けるサキに目をやり、「これで約束の1/3は果たせたかな?」と微笑しながら言った。
「約束?」
 サキは聞き返す。
「前にサキちゃんをカラオケに誘ったろ? もう覚えてないか……」
「あ、初めて会ったとき……?」
「そぉです! まあ誘ったのも、元はあいつの歌声を聴かせるつもりだったからなぁ。それに今日は俺しか歌ってねぇし、サキちゃんの歌声聴いてねぇし……だから1/3ってとこだろう」
 田儀は歌うことを嫌がるサキに代わって、連続で歌い続けた。しかも、全てモノマネ付きの全力パフォーマンス。
 だが、田儀の選曲はどれもサキの世代とはずれていたから、モノマネを披露されてもなんとなくの雰囲気でしかわからなかった。
 それでも、どの曲も情熱を込めて歌っているから、歌詞が真っ直ぐ刺さって心に響く。きっとモノマネも上手いのだろうけど、単純に歌が上手くてサキは感動した。
「あー疲れた」
 とはいうものの、その表情はまだまだ余裕そうに見える。
 田儀はまたソファに深く腰かけて、液晶モニターに映る謎の映像をぼんやりと眺めた。
「……サキちゃんは、最近波瀬と会ってるか?」
「えっ」
「ここ最近休みがちでなぁ……元気にしてるか気になってんだよ」
「……病気、ですか?」
「病気じゃねぇと思うが……。そうか、なにも聞いてないのか」
 浮かない顔をするサキを見て、田儀はスッと腰を上げると、そっとそばに寄って隣に座り直した。
「サキちゃん。もし困ってることがあったら力になるから、遠慮しないでなんでも言ってくれよ?」
「あ……ありがとうございます……」
「礼を言うのは早い。俺はまだなにもしちゃいないからな!」
 ニヤリと笑うと、サキは苦笑い。
「おいおい、そんな顔してるとまたくすぐっちゃうぞー?」
「えっ! それはちょっと……」
「ははっ、冗談だよ」
 田儀はうつむく頭をスルリと優しく撫でた。その手はすぐに離れて行ってしまい、撫でられる心地よさを知ったサキは寂しく思う。
「どうした?」
 不思議そうに田儀が覗き込む。
 サキは憂いを帯びた瞳でそっと見つめ返す。そしてなにか言いたげに、うっすらと唇を開いては閉じるを繰り返す。
「んー? どしたのよー」
 首を傾げる田儀がまた頭を撫でると、サキは顔を歪めて今にも泣き出しそうになった。
「どどどどうした!? なんだ! 嫌だったか? ごめんな! そりゃ嫌だよな、こんななんだかよくわからんオッサンに連れ回されて。ごもっともだよ!」
 慌てふためく田儀に、サキは首をブンブンと激しく横に振る。
「違うんです! なんか、わからないんですけど、田儀さんに撫でられると安心するというか……。あったかいなぁって思ってたら、勝手に涙が出ちゃって……本当は泣きたくないんですけど……」
 そう言って溢れ出す涙を両手で一生懸命拭うサキを、困ったように見つめる田儀は、その震える肩にそっと手を伸ばして「泣いていいぞ?」と胸元に抱き寄せた。
 そのままサキの髪に顔をうずめて、「泣いても……いいんだ……」と優しく囁く。
 頭を包み込む暖かい腕に、サキは堪らず声を上げて泣き出した。
 撫でる手のひらを背中に滑らせて、ポンポンと優しく叩く。そして「よーしよしよし」とあやすように擦った。
 抱きしめる体からは、いつもの焦げたにおいじゃなくて、優しいにおいがする。
 むせび泣くサキは思わず田儀の背に腕を回して、服をぎゅっと掴んだ。その小さな感触に田儀は目をつむり、眉をひそめながらひっそりと笑う。
 落ち着きを感じて、田儀はそっと体を離した。
 うっすらとまぶたを開いたサキは、涙と鼻水でビショビショになった田儀の胸元に気づいて、慌てて手のひらで覆い隠した。
「ん?」
 田儀が見下ろす。
「すっすみません、あの……服が……!」
 サキが恐る恐る手を退けると、田儀は服をつまんで引っ張り広げる。
「あーあー、こんっなに濡らしちゃってぇ……どうすんのよこれぇ、なぁお嬢ちゃん……」
 と、意地悪く低い声で囁く。
「弁償してくれる?」
 そう続けるとサキは勢いよく見上げた。
 その心苦しそうな瞳を見つめ返す田儀は、いたずらな笑みを浮かべて、涙で赤くなった鼻を指先でちょんと突く。
「冗談だってぇ。むしろもっと濡らしてくれてもいいんだぞ~?」
 と笑ってみても、サキは気まずそうに目を逸らす。
 田儀は渋い顔で垂れた前髪をクシャッと握り、後ろへかきあげてそのまま後頭部を掻いた。
「あ~……俺でよければまた撫でてあげるから……な? ハッ、俺じゃ嫌かっ!」
 また冗談めかして笑うと、サキは伏し目がちにニヤッと口元を歪めた。
「んー? 嫌じゃなさそうだなあ?」
「えっ……!?」
 驚きつつも笑ってしまうサキの頭に手を伸ばして、豪快に撫で回し髪をグシャグシャにする。
 サキはボサボサになった髪を手グシで軽く直す。
 なんとなしに腕時計を見た田儀は「やべっ、ギリッギリじゃねぇの!」と焦り出したが、すぐに冷静さを取り戻す。
 そして、
「最後に一曲歌って出るか」
 と、田儀が選んだ最後の一曲は『日曜日よりの使者』だった。

「このままぁ~……どこか遠ぉ~くぅ~……連ぅ~れ~てぇて~……くれなぁいぃかぁ~……」

 カラオケの締めはいつもこの曲で、手拍子しながら全員で大合唱するのがお決まりのパターンになっているらしい。

「シャララ~ラッ! シャラララ~ラッ! シャララァ~ラッ! シャラララァラッ!」

 満面の笑みを浮かべるサキは、体を揺らしながら手拍子する。

「たとえ~ば、世界中が、どしゃ降り~の、雨だろうと……」


・・・

 ワンルームの一角。
 狭いキッチンで料理中のハル。
 サラダを盛り付けていると、「ふんっ」と小さく漏らす声が耳に入った。
 見ると、テレビの前で膝を抱える小松が、声を抑えながら笑っていた。
 彼女が見ているのは、お笑い芸人が珠玉のネタを披露する、4時間生放送の特別番組。
 ハルはローテーブルの真ん中に飾った花を、窓辺へ一時避難させ、できたての料理を並べた。
「食べようか」
 ぼんやりとテレビを眺める小松は、腰を下ろすハルを見上げて柔らかく微笑む。
 今日の夕食はクリームシチュー。
 小松はシチューボウルを包み込むように触れて「あちちっ」と呟く。
 そして、鶏肉と野菜がごろっと入ったシチューにスプーンを滑り込ませ、ぐるりと大きくかき回してニンジンをすくい上げた。
「ウチがニンジン嫌いなの知っとるやろ~? トマトもやん」
 付け合わせのサラダに目を移して言うと、「……ん? なんか言うてますね」と手元のニンジンに耳を傾けた。
 その様子を不思議に見つめるハル。
「ふむふむ……そうなん? ……あ、ほんまに? ほなしゃーないなぁ」
 小松はそう言ってハルのシチューボウルに、ニンジンをヒョイと入れる。
「このニンジンさんたち、ウチやのうて『波瀬さんに食べられたい』言うとりますよ」
 次々と足されていくニンジンを、ハルは黙って見守る。
「めっちゃ山盛りですねぇ……ほんなら代わりにジャガイモいただきますね! トマトはどないしましょう……。あ、イチゴと交換や!」
 小松はハルのイチゴを一個奪って、ヘタをビチッとむしり取ると、そのままパクンと一口で食べた。
「ん! めっちゃ甘い! このイチゴ当たりやぁ~」
 片方のほっぺたを膨らませる彼女がにへらと笑うと、コップに入れた一輪の黄色い花が微かに揺れた。
 ほのかに甘く、爽やかな香りが小松の鼻腔をくすぐり、ふと窓辺に目を移す。
「ええ香りしますね」
 花が枯れる度にハルが新たに一輪買って帰っても、気にも留めなかった小松が、今日初めて反応を見せた。
「今日はなんでこのお花選んだんです?」
 ニンジンに視線を落としていたハルは顔をスッとあげて、「目が合ったので」と彼女の顔を見つめて言った。
 一瞬見開いた目が、ハルの顔へ移る。
 ふたりは数秒見つめ合い、小松は思わず「くふっ」と笑った。
「ほんまいやらしい人やわぁ……」
 照れ隠しするように眉を潜めて笑い、両手でそっと頬杖をつきながら、また窓辺の花へ目を向けた。
 シチューの表面に薄い膜ができている。
「もう冷めてしまったね。温め直そう」
 ハルは立ち上がり、彼女のシチューを先に電子レンジへ入れる。
「波瀬さん。ウチもう大丈夫やで」
「……うん?」
 少し首を動かしたハルが聞き返す。
「さっき気づいてんやんか。久しぶりにお笑い見て、『あ、ウチまだ笑えるんや』って……気づいてん。せやからもう、大丈夫や」
 音が鳴ったのと同時に、シチューを乗せたターンテーブルが止まる。
 シチューを取り出しリビングへ体を向けると、窓辺に立った小松は花に顔を近づけて香りを嗅いでいた。
「その花には」
 と、ハルが言いかけると、
「わかっとりますよ、スイセンの花やんな」
 小松が言葉を遮った。
 ハルは温めたシチューをローテーブルに置く。
「美味しそうやわぁ」
「今度は冷めないうちにどうぞ」
「ほな、お先にいただきます」
 座り直した小松は手を合わせて、ニンジンのないシチューを食べはじめる。そしてハルは、ジャガイモのないシチューを温め直す。
「波瀬さん」
「はい」
 回転するシチューを見つめるハルは背中越しに返事をする。
「このスイセンは、波瀬さんの代わりにウチが、責任持って長生きさせますね」
 電子レンジが温め終了の合図を鳴らす。
 中身を取り出し振り返れば、テレビを見て可笑しそうに笑う彼女の姿が目に留まる。 
 温め直したシチューを食べながら、ときおり腹を抱えて笑っている彼女を遠くに感じて、ハルはその場に立ち止まったまましばらく彼女を見ていた。
 その手元の少しサラッとしたシチューの表面が、また固まろうとしている。
 温度差に慣れないハルは、加熱ムラのあるシチューを軽くかき混ぜて、無理やり均一にした。

・・・


「シャララ~ラッ! シャラララ~ラッ! シャララ~シャララララァ~!」

 繰り返されるメロディを覚えたサキも、最後は一緒になって小さく口ずさんだ。


 結局延長料金を支払った田儀は、夜風に当たりながら両手を上げてうーんと背伸びして、「おーさびぃっ……」と呟いてその両手をポケットに突っ込んだ。
 店を出た瞬間は心地よく感じられた冷気が、駐車場にとめた車に向かっている途中で一転してもう寒くて震える。
「悪いことしちったなぁ……」
 星の見えない空を見上げていたサキの視線が田儀へ向くと、二人の目が合った。
「もう寄り道しねぇから、安心してくれ」
 そう言われ、サキは少し寂しく感じた。
「わたしはすごく楽しかったです」
「はっ、俺もだ。サキちゃんのおかげで久々に息抜きできたよ」
 車の鍵が開き、気乗りしないままドアを開けると、突然強い風が吹いてサキは押されるように乗り込んだ。
 エンジンがかけられ、再び車内に音楽が流れる。
 仕方なくシートベルトを締めると、「サキちゃんごめん!」と謝られた。
 見向けば田儀が苦渋の表情で手を合わせている。
「寄り道しないっつったけど、ちとタバコ1本だけ吸ってきてい?」
 サキは少しびっくりしながらも、ホッとした。
(ダメって言ったらどうするのかな……)なんて思いつつ「はい」と返事する。
「危ねぇ奴いるかもしれねぇから、俺出たら鍵かけといて。ん? 俺が一番危なそうに見えるって?」
「言ってない言ってない……!」
 田儀は笑って「少し待っててな」と、サキの頭をひと撫でして車を出る。
 その間際に「あー腹減った」という呟きが聞こえて、車に残されたサキは頭にハテナを浮かべ、ひっそりニヤついた。


『Gimme gimme gimme a man after midnight……』

 暗い車内でひとり、体を揺らす。
 煌びやかだがどこか怪しげなメロディー。
 サキは首を軽く振ってリズムを取りながら、ふと窓の外の輝く街路樹に目を移した。
 その瞳を横切る、親子連れやカップル。楽しそうに笑う顔がやけに目についてしまう。
 気を紛らすように見上げた夜空も明るい。
 サキは手元のクリスマスプレゼントに視線を落とし、浮き出る謎のでこぼこを指でなぞる。
(……この形たぶん、文房具だ。でもなんだろう? はやく帰って開けたいな)
 そう思っていたが、急ぎ足で戻ってくる田儀の姿が見えると、簡単に翻意された。
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