林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』

13 住処を追われた魚たちは、新たなる海底楽園を探して……

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 行きつけの喫茶店まであと12.3歩というところで、足が止まった。否、自ら止めた。
 それに気づいたハルは、なにも知らずに「どうしました?」と振り向く。
 苦虫を噛み潰したような田儀は、目を逸らし、首にグルグルと巻きつけたマフラーに顔をうずめる。
「……やっぱり別の店にしないか?」
「え? はい、私は構いません」
「あー……いや! やっぱり、“ナス”にしよう! 今日は……今日こそ、な……!」
 田儀が『ナス』と呼ぶ、あの日以来避けてきた行きつけの『喫茶 Egg-Plant』。止めた足を再び動かし、ゆるゆると、通常より倍の歩数で店の前に到着する。
 先に着いたハルがなんのためらいもなくドアを引くと、アンティークなドアベルが揺れ、控えめな優しい金属音が入店を知らせた。
 すると、見慣れない顔のスタッフが、二人を出迎えた。
「いらっしゃいませ。2名様ですね? お好きな席へどうぞ」
 ハルの後ろから顔を覗かせる田儀は、店内を見回しながらいつもの席へ座る。
 彼女の姿は見当たらない。
(今日は休みか……)
 内心ホッとしながらも、どこか残念。
 気を取り直し、田儀はすぐさまグルグル巻きのマフラーを外して、コートのポケットに手を突っ込みタバコを取り出し、一本銜え手早く火を点けた。
 煙を摂取すると、落ち着き払って背もたれに寄りかかる。が、テーブルに置いた手はせわしなく動く。
 田儀は今さら見る必要もないメニュー表をヒョイと取って眺めたが、どの文字も料理の写真もなにも頭に入ってこなかった。
 セルフサービスの水を取りに席を立っていたハルは、その落ち着かない頭を見下ろしながらテーブルに水を置いた。
「倒さないように気をつけてください」
 不意に話しかけられ「ぁあ?」と、高圧的に返事をしてしまい、田儀は気まずそうに頬杖をつくふりをして顔を隠す。
「……大丈夫ですか?」
「なにがだ」
「様子がおかしいので……」
「いつもどうりだろ」
「……確かにいつもおかしいですが」
「そうだろ? 俺は今日も通常運転だ。……あっ! んなことより小松さん、突然辞めちゃっただろ? 俺びっくりしたよー。頑張ってたのになぁ」
「ええ、そうですね」
 素っ気なく返すハルは携帯電話に目を落とし、田儀は手前に寄せた灰皿に灰を弾き落とす。
「メニュー決まりましたー?」
 いきなり現れた馴染みのある明るい声に、田儀の心臓がドキィッと大きく跳ねて縮み上がった。
 田儀は胸の痛みを感じながら、恐る恐るその声の方へ顔を向けると、数日ぶりの彼女の姿に、思わず声にならない声が漏れた。
 いつも一本に束ねられていた長い髪が、バッサリと切られている。
 鼻先辺りまで伸びた前髪はセンター分けで、後ろは少し刈り上げているのか、前から襟足は見えない。そしてブロンドカラーだった髪色が、黒に戻っていた。
「どしたん?」
 じっと見つめたまま黙り込む田儀がハッと我に返り、見つめ返すのどかの視線に気づいてぎこちなく顔を逸らした。
「……雰囲気が違うから、新しいスタッフさん、二人も雇ったのかと思ったよ」
 と、冗談交じりに笑ってみせる。
「ふふーん、どうよ、可愛っしょー? この髪型マッシュショートっていうの」
 右や左を向いて自分の髪型を見せるのどかに、田儀はチラリと目を向ける。
 いつものナチュラルメイクよりスッピンに近く、シンプルで、その切れ長の目はモノトーンコーデと相まって、とてもクールに見える。
「……俺は、前の方がよかったなぁ」
「ウソでしょ? マスターにも同じこと言われたし。でもサキちゃんは似合ってるって褒めてくれたよぉ?」
 いつもと変わらない態度を取るのどかだが、田儀はおどおどしっぱなし。
「でもね、ほんとに新人さん二人雇いましたよ。これからよろしくお願いします。で、メニューは?」
 のどかの問いかけに、田儀の当惑する様子を見ていたハルが答える。
「……すみません、もう少し考えます」
「え? 珍しい……。じゃあまたあとで聞きにきます」
 のどかの姿が見えなくなると、田儀は「はあー」と大きくため息を吐いて、テーブルに突っ伏した。
「中2の気分……」
「……思春期ですか」
「うん……」
「40代の思春期は、思秋期と呼ぶそうですね」
 田儀がムクリと顔を上げる。
「え、俺40代なの? マジで? まだ17だと思ってた」
「『来年厄年だ』って怖がっていたのはどこの誰ですか?」
「……今はそれどころじゃねんだよ……」
 田儀はまた背もたれに寄りかかる。
 何気なく店内を眺めると、知らない若い男性客と談笑するのどかの姿が目に入った。中身は相変わらずだったがまるで別人のようで、馴染みの店なのにどこか居心地が悪い。
(俺は浦島太郎か)
「それで、どうします?」
 その言葉に一瞬目を見開いた田儀は、ハルを見ておもむろに背筋を正した。
「ど、どうしますって……今さらどうすることもできねぇだろ……」
「いえ、間に合いますよ。まだなにも決めていないじゃないですか」
「え?」
「注文、はやく決めましょう」
「……お前って冷たい奴ぅー」
 ジトリと見つめる田儀に、ハルは首を傾げる。
「なんだか食欲なくなっちゃったよ……。コーヒー一杯も飲めなそう。俺ぁこの水飲むのでいっぱいいっぱい……」
 田儀の目が自然とのどかの方へ向くと、ふいに目が合った。田儀は焦ってすぐに視線を外し、飲むつもりのなかった水を一気に飲み干す。
「オジサンたちメニュー決まった?」
 さっきの視線を目配せと勘違いして、再び注文を取りに来たのどかは陽気に聞いたが、まだ決めかねている田儀の様子を見て、「それならあたしが決めていい?」と微笑みながら言った。
「俺は構わんよ。その方がありがてーや」
 と言う田儀に同調してハルも頷く。
「かしこまりました、ただいまお持ちしまーす!」
 厨房へはける上機嫌なのどかの後ろ姿を、田儀は見えなくなるまで横目で追った。
(あいつ絶対なんかあっただろ、俺の知らない間に……)
 田儀はテーブルに突っ伏しながら、火種を消し潰した吸殻を摘まんで、その先端を意味もなく灰皿に押し付けた。
(……ん? なんだ? 恋か? 恋してんのか? おいおい、相手は足立じゃねぇだろうなぁ……いやいやいや、だってあいつの好きなタイプは……ハッ!)
 気づいてしまった田儀はスッと状態を起こして、テーブルに肘をつきながら額を触った。
(まさか失恋して髪切った、ってことか? ……はあ? そんなことするタイプか? あいつは。うん、ないな)
 と、今度は目をつむり腕を組む。
(……つーか意識しちゃってんの俺だけ?)
「ジャジャーン! のどかオリジナルスペシャルデラックスエレキテルスーパーハイパーおとなさまランチでーす」
 その声に目を開くと、オムライスをメインとしたワンプレートが目の前に置かれた。
「……なんて?」
「同じメニュー名は二度言えぬおとなさまランチでーす」
 田儀は前のめりになって一目する。
 手前のオムライスに寄りかかる2本のエビフライと、寄り添うナポリタンと、デミグラスソースがかかったミニハンバーグ。そして、千切りキャベツと斜め薄切りきゅうりのサラダが添えられている。
 かなりボリュームのあるワンプレート。普段なら余裕で完食できるが、今日は見るだけでも胃が圧迫される。
「おとなさまランチ……もしかして、のどかちゃんが作ったの?」
「うん。って言いたいところだけど、マスターに頼んで特別に作ってもらいました」
「特別? そりゃスゲーな……。にしても一体いくらすんだぁ? とうとうツケのツケが回って、俺たちぼったくられんじゃねーか?」
「これサービス」
 二人は顔を見合わせ、のどかへ見向くと、しかめっ面の田儀が先に口を開いた。
「え? タダ? なんでだよ、なんかこえーよ、いいよ払うよ」
「ええ、私もここはしっかりとお支払いします」
「な! 払おう払おう! 今日はちゃんと」
 のどかは二人の顔の前に手のひらをかざして、浴びせられる拒否の言葉を遮る。
「聞け。今日だけだから。今日だけ特別! 今後はもう一切なし!」
「だからそれがこえぇんだって……」
「そんなに怖がんないでよ、裏なんてないから。単にお礼の気持ちです」
 眉間にしわを寄せる田儀はハルに目を移す。
「……俺たちなんかしたっけ?」
「いえ、身に覚えがありません」
 頭を悩ませる二人を見て、のどかはそっと苦笑する。
「お二人にはいつもそれなりにお世話になってますんで、今日はあたしのお給料から差し引いて、奢らせていただきます」
 そう言って会釈する姿に、しきりにざわつく胸が『いつか訪れるかもしれない“最後”』を予感させる。
「なんだよお前~、ここ辞めるみたいな言い方しやがってよぉ~」
 田儀はその不安を蹴散らすために、冗談めかして明るく振る舞うと、のどかはあっけらかんと笑って、「ビンゴ~! あたし今月いっぱいで辞めるからさっ」と軽く告げた。
 薄々覚悟はしていたが、その瞬間はやはり空気が止まった。ほんの一瞬。でも長かった。そんな気がした。
「その前に二人が来てくれてよかった。だから、あたしからの最後のお願い! もちろん聞いてくれるよね? ねぇ?」
 ニコニコしながらもその声は威圧的。
 黙り込む田儀を追い越し、のどかを見上げたハルが返答した。
「わかりました。ご厚意に甘えてご馳走になります」
「……ああ。ありがたくいただくよ」
 食べ始めるハルに数秒遅れて、田儀が言葉を返す。
 のどかは柔らかく微笑み、田儀に向かって「これあげる」と、ポケットから取り出したストラップを手渡した。それは、携帯電話のゲームで田儀が愛用するキャラクターのラバーストラップだった。ニンジン形のロケットを背負ったウサギ耳の小さな女の子。
「ロサくん?」
「それダッチーからのプレゼント」
「だっちー? 誰だ?」
「足立」
「はぇ? あだっ、足立?」
「うん。ガチャガチャで当てたんだって」
「……で、なんでお前が?」
「あたしは『自分で渡せばいいじゃん』って言ったんだけど『今は気まずいから代わりに渡して欲しい』って言われてさ。喧嘩でもしたの?」
「……してない」
「あー、したんだ。大の大人が喧嘩って……お二人さん超仲良いんだぁねぇ」
「別に仲良かねぇよ……」
 手元のストラップを見つめる田儀は、(お前らの方が仲良さそうに見えるけどな)と付け足したくなったが、ゆっくりと口をつぐんだ。
「すみませーん、注文いいですかー?」
「ただいまお伺いします! ではではごゆっくりどうぞ」
 のどかは4人組の女子高生が座るテーブル席へ向かっていく。
 田儀は目の前のオムライスに目を移した。綺麗な薄焼き玉子の上に、ケチャップで描かれた真っ赤なハートマーク。
(『ダッチー』なんて呼んじゃってよぉ……)
 固い薄焼き玉子にスプーンを差し込むと、ハートは簡単に崩れた。
(俺を差し置いて親しくなってんじゃねぇよ)
 そのまますくうと薄焼き玉子はペロンと落ちたが、気にせずチキンライスのみを食べて、歪んだハートマークをスプーンの背で伸ばし、全体を赤色に染める。
(……まさかあいつ、足立と付き合ってんのか!? 辞めるのも足立絡みじゃねぇよなぁ)
 今度は薄焼き玉子とチキンライスを一緒に持ち上げ、落とす前に口へ放り込んだ。
(いやいや、そんなのありえねぇが……もし妥協したんなら……)
 瞳は無意識に、ホールで働くのどかの横顔を盗み見る。楽しそうに色んな客と話をしている姿に、田儀の喉が鳴る。
(もう……エッチしたのか……?)
 スプーンの先がハンバーグへ向かい、大きめに切って、大きく開いた口へ運ぶ。
(どんな顔、するんだ……)
 舌で押し上げるだけで、ホロホロとほぐれてしまう、柔らかい弾力。噛めば噛むほどジュワリと口の中に広がる熱い肉汁。
(……見たい)
 ゴクンと飲み込んで、また頬張る。
 ほどけた肉の塊と熱い汁と濃厚ソースが、舌の上で転がり混ざり合う。
(触りたい)
 ときおり聞こえてくる彼女の明るい声が、欲望を加速させ、頭の隅にこびりついている記憶を頼りに、脳内でその触感を堪能しようとする。
(噛みてぇ)
 箸に持ち替えエビフライをつまみ上げる。サクサクの衣にくるまった、反発するエビの身を歯でブチリと噛みちぎり、尻尾まで一気に食べた。

 大皿にスプーンがカチンと当たって我に返る。
 結局田儀は、先に食べ始めたハルを追い抜き、綺麗に完食した。が、そのお腹は満たされない。完全に空腹というわけではないが、胃は食べる前と変わらない空腹感で、食べた気がしない。
 喉が渇き、手を伸ばして掴んだコップはカラ。
「お持ちしましょうか?」
「……いや、いい」
 田儀はハルの配慮を断って、くわえたタバコに火を点けた。
 ふと甲高い笑い声が聞こえた。その若くてみずみずしい話し声に耳を傾ける。略語ばかりで、なんとも難解な会話。少しもわからず、田儀は首をかしげて灰を落とす。
 店内を気にしてみれば、若年層が増えたように感じる。
 ためらっている間に、雰囲気が変わってしまったオアシス。
 何気なく見渡していると、4人組の女子高生の一人と目があった。女子高生は冷ややかな目をして、3人の会話に戻ると、声のトーンを落としてヒソヒソと話し始めた。
 田儀はタバコを3分の1残して、灰皿に押し潰す。
「やっぱ水もらえる?」
「ご自分でどうぞ」
 無関心なハルの顔を見て、仕方なく重い腰を上げる。
 給水機に貼られている紙の『セルフ』と油性マーカーで書かれた太い文字が、時代に取り残された心をホッとさせてくれた。
 席に戻って水を飲む。
 長年愛してきた心休める居場所は、新たに訪れた若い旅人たちが、一時の流行りに興じて占拠し始める。そして、古き先住民には白い目を向け『邪魔だよ』と永久追放。
 灰皿には潰れたタバコが2本。余った水をかけると、灰で汚れた水溜まりの上で、タバコがヌタリと泳いだ。
 もうすぐこの灰皿もなくなってしまうような気がしていた。
 禁止や規制がはびこる社会。タバコの煙ではない息苦しさが、呼吸を浅くする。
 この街で再びオアシスを探すということは、子供の頃、誤って海に落としてしまった海色のビー玉を、今になって見つけに行くようなもの。
(砂漠だったら見つけやすかったかもなぁ……)
 あの海色のビー玉は、海と一体化することなく、いつまでも違和感を与えているだろう。それとも打ち上げられて棄てられたか。
 田儀は手元の時計を一目する。まだ余裕はあったが、携帯電話を眺めるハルに「行くか」と声をかけた。
 のどかは他の客の対応に追われ、声をかけることができず、会計も必要なかったため、帰りの言葉もなくそのまま店を出た。


 冷たい風が頬を突き刺し、田儀はまたグルグル巻きにしたマフラーに顔をうずめる。
「うおーさぶっ……」
 早めに戻って会社の喫煙室でゆっくり一服しようと決めた時だった。ポケットの中の携帯電話が震える。
 赤色に光る歩行者信号に歩みを止められ、携帯電話を取り出す。
 新着メールの通知が一件。
 送り主はのどかで、かじかむ手ですぐに開いて見ると、一言だけ送られてきたそのメッセージに、田儀の瞳孔が開く。

 ──好みじゃなかった?

 田儀はすぐさま『本当はめちゃくちゃ可愛かった』と打ち込んだが、そのまま送信ボタンは押せず、キーボードのバツボタンを連打する。
 そしてまた似たような文を打ち込み、消す。
 この返信の言葉次第で、運命が変わってしまうような淡い期待を感じて、何度も打っては何度も消してを繰り返し、迷いに迷い、挙げ句の果てには「ぐわああっ……!」と苦しむ声を上げ、胸を押さえて崩れ落ちた。
 その異変に、ハルは道端でうずくまる隣の背中を見下ろした。
「どうしました?」
「俺思春期拗らせてるわ……」
「てっきりスナイパーに狙撃されたのかと」
「……狙われるようなことなにもしちゃいねーよ」
『カッコー、カッコー……』と鳴る音がして、見向けば信号は青に変わっていた。二人を横目に見ていた通行人は、知らぬ顔で横断歩道を渡り出す。
「田儀さん青です、渡りましょう」
 ここの赤信号は長い。そして距離も長い。今渡らなければ、灰色の雲がかかる寒空の下で、だいぶ待たされることになる。それでも丸めた体が動かなかったのは、生ぬるい喫煙室にこもるより、冷気にさらされている方が冷静でいられる気がしたからだった。
「この世は……人生で一人の人間しか、愛しちゃいけねぇのかねぇ……」
 青色がチカチカと点滅する中で、ポツリと呟く。
 しゃがんだままの田儀を置いては行けず、ハルも諦めて、次にまた青に変わる時を一緒に待った。
「心臓発作じゃなくてなによりです」
 田儀は両膝に肘を置いて頬杖をつきながら、信号に目を向けているハルを見上げた。
「え? 心配してくれたの?」
「……一応」
「へぇ、可愛いなぁ」
 田儀は隣の足を手の甲でペシペシ叩き、見向いたハルに向かって手を差し伸べる。ハルがそのまま見下ろしていると、田儀は「立たして」と言った。
「……一人で立てるでしょう?」
「ああ、いてて、心臓が……」
「救急車呼びます?」
「お前が手を握ってくれたら治るよ」
 ハルは田儀の手を掴んで、軽く引っ張り上げる。
 ゆっくりと腰を上げた田儀は、ハルの肩に腕を回して体を密着させた。
「……好きだよ」
 そう囁く田儀の言葉にハルがチラリと横目に見ると、彼は横断歩道の向こう側をじっと見つめていた。
 この人が口にする『愛の言葉』は、大抵自分が弱っているときに、その不安感を紛らすために使われることが多い。
 からっ風に吹かれながら、二人は青に変わるのを待つ。
 田儀の手元の携帯電話が震え、見るとまたのどかからメッセージが届いていた。

 ──オジサンには受けると思ったんだけどなぁ。でもお子様ランチみたいで懐かしかったっしょ? そんでさ、今週末うち来てよ、約束の手料理ご馳走するから。時間はまたあとで連絡しますんで。

(……好みってそっちかよ! あぶねっ!)
 今度は悩まずに、冗談を交えながらメッセージを返した田儀は、“約束”を信じて携帯電話をポケットにしまった。
「例えば……」
「はい?」
 呟くように発した声にハルが聞き返すと、田儀は咳払いをして、改めてハルに問う。
「例えばな? 今、本当に好きな人ができたら、どうする?」
「本当に好きな人?」
「うん。……今見えている人生を捨ててでも、愛したい人が目の前に現れたら、お前ならどうする?」
「私はどうもこうもしません。今の生活を変わりなく続けます」
 淡々と答えてしまう声に、田儀はハルの顔を覗き見る。
「……本当にだぞ? 本当に、好きな人……」
「田儀さんは、嘘で人を好きになったことがあるんですか?」
 上目遣いに見上げたハルの瞳に、目を丸くして見つめる田儀の顔が映る。
「田儀さんは、いつも本気、ですよね?」
「あ……ああ、もちろん……」
 彼の愛情表現は不安の表れ。だがその言葉はいつも正直で、それに伴って生まれる行為も、ありのままの感情をさらけ出される。
「ですが、道を踏み誤らないように。田儀さんにとってなにが一番大切か、わかっていますよね? それだけを考えて行動してください」
 そしてまた鳥が鳴き出した。
「青になりましたね、行きましょう」
 ハルが歩き出すと、肩に乗っていた手がスルリと落ちた。
 田儀はその場に立ち止まったまま、振り向きもせず、スタスタと歩いて行ってしまうハルの背中を見ていた。
 無機質な鳥のさえずりが耳に届く。今日は無性に『故郷の空』や『通りゃんせ』が恋しい。
 田儀はおもむろに駆け出し、遠退くハルが横断歩道を渡りきる前に、その腕を掴んだ。
 歩みを止められたハルは振り返り、田儀は顔を近づける。そして唇を重ねた。
 行き交う人は一瞬ギョッとした目を向けるが、すぐに見てみぬふりをして遠ざかっていく。
 ハルの冷たい頬を、田儀は冷たい両手で包み込み、重ねている熱い唇を強く押し付ける。
 二人を避けてすれ違う人々の隙間から、停止中の車の運転手と目が合った。
 その女性はそっと目を逸らしたが、口元を緩めた田儀は、見せつけるようにキスをした。
『プーペープーペー』鳴り出す警告音に目を向ければ、青信号が点滅している。
 唇を離した田儀はハルの手を強く握りしめ、「サボっちゃおうか」と真っ直ぐな瞳で言った。
 手の届くオアシスに背を向けた田儀は、有無を言わさずハルの手を引いて、横断歩道を逆戻り。信号はもう赤に変わっていたが気にせず走った。クラクションを鳴らされたって構わない。
 横断歩道を渡りきると、呼吸を乱されたハルは膝に手をつきながら肩で息をした。その隣で、田儀は息を切らしながらも声を出してゲラゲラ笑っている。
「今の超ドラマみたいだったな!」
「勘弁してください……」
「ハハッ! 最高だろ?」
 息を整えながら見上げれば、田儀は満面の笑みを浮かべている。
「……本当に早退する気ですか?」
「当たり前だ。俺に二言はない!」
 田儀は胸を張って堂々と言う。
 呆れ顔のハルは「ふう」と息をついて背筋を正した。
「残りの仕事はどうするおつもりで?」
「仕事の代わりはいくらでもいるが、俺とお前は一人しかいねぇからな。一日ぐらいかまやしねぇさ」
「……どういう理屈ですか。それにしたって迷惑をかけることになるでしょう?」
「よし、困らせとけ!」
 そう言って、子供みたいにいたずらっぽく笑う無責任な田儀だが、どこか憎めない。
「わかりました。私も田儀さんと一緒に叱られてあげます」
「お、道連れになってくれるか。ありがとう」
 にへらと笑って握り直す田儀の手は、指先までじんわりと温かくなっていた。ハルが繋がれた手を軽く動かして指を絡めると、田儀は顔を逸らしたが、マフラーで見えないその口元はきっとゆるんでいるだろう。
「なんか、腹減ったな。とりあえず甘いもの食いに行こう」
「……さっき食べましたよね?」
「甘いもんは食ってねーよ」
「いやあのランチの量……」
「たい焼きひとつなら入るだろ?」
「たい焼きですか……」
「そう! 坂のぼった先の大通り沿いに、超ウマイたい焼き屋さんがあってな? そこのたい焼きは薄皮でさ、もうカリッカリなのよ! そんであんこたっぷり。これがまあ~ウマイらしい」
「……ん? お食べになったことはまだない……んですね?」
「うんない。ウマイって噂聞いて気になってんの。だからちょうどいいだろ? 今すぐ食いに行こ!」
 午後の仕事へと続く定められたレールから目を背け、田儀はハルの手を引き歩き出す。
 あのまま慣れ親しんだいつもの狭い箱へ戻れば、世間から煙たがられていることを、認めてしまうような気がした。
 より住み良く、多種多様に変わりゆく社会によって、小さくなっていく本来の居場所。
 否定はしないし邪魔もしない。
 これからも柔軟に対応していくつもりではあるが、視野が狭くなってきていることにも、本当は気づいている。それでもまだ、受け入れたくない。受け入れられないのではなく、まだ主流に逆らっていたい。
 日々変化し続ける社会に取り残されてでも、自分が愛した時代にとどまっていたいのだ。
 もしも知らない誰かに、愛するオアシスが幻だったと気づかされたら、その時は覚悟を決めて小さな旅にでも出ようか。
 古き良き新たなる理想郷を尋ねて……、
「田儀さん待ってください、盲点です」
「おぇ? なに?」
「カバン、会社です」
「いっけね、ホントだ! 財布もなんもねーわ。うわダッセー、俺かっこわりー……!」
 ショックを受けて手を離した田儀は、頭を抱えてうなだれる。
「……財布持っていなかったんですね」
 それなのにランチ代を払うと言ってしまう、その適当さにハルはまた呆れた。
「しょうがねぇ、戻ろう」
 体をひるがえした二人は、またもや同じ信号機に止められる。
 田儀は日の光の眩しさに目を細めた。
 低い位置でぐだついていた雲は強い冷風に押し流され、わずかに顔を上げると、形の崩れ行く雲の隙間から水色の空が見えた。
 睨み付けるように空を見上げる田儀は、懐から取り出したライトグリーンレンズのサングラスをかけ、日差しを避けるように下を向く。
 逆光によって生み出された、足元から伸びる長い影。
 その影をたどって背後に視線を移せば、先を急ぐ通行人に影を踏まれた。
 日差しが届いても吹き荒ぶ風は冷たく、ポケットに両手を突っ込むと、左手がラバーストラップに当たった。すっかり忘れていたウサギ耳の小さな女の子。少し触って、軽く握る。
(……一応礼は言っとくか)
『カッコー、カッコー……』
 頭上の鳥が「渡っていいよ」と合図し、歩き始めたハルに2歩遅れて歩き出す田儀。
 うつむきがちに歩いていると、舌足らずに歌う『故郷の空』が聴こえ、ふと目線を上げた。その視線の先には、若い母親と手を繋ぐ幼い男の子がいて、両足でジャンプしながら、白線だけを踏んでこちらへ渡ってくる。
 田儀は真っ正面に向かってくる男の子をよけたが、すれ違いざまに、予想外の動きをした男の子の振り上げた腕が足にぶつかった。母親は「すいません……」と申し訳なさそうな顔をチラッと向けたが、男の子はお構い無しに進んでいく。
 すぐに振り向いた田儀が、すれ違ったその背中に「大丈夫っすよー」と笑いかけると、その声が届いたのか、母親はそっと会釈を返した。
 視線を戻し、足元の白線に目を落とす。
 なんだかバトンを渡されたような気がした。
 鼻歌を口ずさみ出した田儀は、大股で跳ねるように白線を踏んで渡り、先を歩くハルを軽々と追い抜いた。

(このまま俺をどこか遠くの地へ連れてってくれよ。なあ、ロサ……お前のそのロケットでさぁ……)

 世界の果てを抜けたその先にあるはずのユートピアを夢見て、ポケットから出した拳を大きく振りながら、田儀は誰よりも先に横断歩道を渡りきった。
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