地味な図書館司書、異世界で「禁書」を解読したら、うっかり救国の英雄に

あーる

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転生した世界で

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 俺の世界は、いつだって紙とインクの匂いで満たされていた。

 地方都市の市立図書館。その片隅にあるカウンターの奥が、俺の定位置だ。柏木 透かしわぎ とおる、二十八歳、独身、図書館司書。それが俺のすべてと言っていい。

 窓の外では季節が移り変わり、人々が行き交う。けれど、俺の時間は古い書物のページをめくる音と共に、静かに流れていく。新しい本が入荷すれば少しだけ気分が高揚するし、傷んだ本を修繕するときは、まあ、古い機械をメンテナンスするような、そんな感覚に近いかもしれない。

 人と話すのは、正直言って苦手だ。利用者からの質問にはマニュアル通りに対応するが、世間話となると途端に言葉が出てこなくなる。だから、同僚たちが休憩室で盛り上がっている雑談の輪にも、ほとんど加わることはない。地味で、内向的。自分でもそれはよく分かっている。

 でも、本の世界は違った。ページを開けば、そこにはありとあらゆる冒険があり、未知の知識があり、想像を絶する物語があった。現実では経験できないことばかりだ。本は、俺にとって唯一の逃避であり、最高のエンターテイメントだった。

 その日も、閉館後のしんとした図書館で一人、返却されたばかりの古書の状態を確認していた。少しシミがあるな。書き込みは…ないか。よし。そっと書棚に戻そうとした、その時だ。

 ぐらり、と視界が揺れた気がした。立ちくらみか? 最近少し、読みすぎたのかもしれない。昨晩読み始めたSF小説が面白すぎて、気がつけば窓の外が白んでいた。

 まあ、大丈夫だろう。俺は軽く頭を振って、くたびれたショルダーバッグを肩にかけた。さあ、帰るか。明日はどんな本が俺を待っているだろう。そんなことを考えながら、通用口の重いドアノブに手をかけた。

 次の瞬間、俺の意識は猛烈な光と衝撃音に飲み込まれて、あっけなくブラックアウトした。

 気がつくと、俺は見慣れない天井を見上げていた。

 木組みの天井だ。太い梁が何本も渡されている。俺が住んでいる安アパートの、シミだらけの天井とはまるで違う。

 …ここ、どこだ?

 体を起こそうとして、すぐに違和感に気づいた。痛みが、ない。どこにも。さっきの衝撃は何だったか思い出せないが、普通なら全身打撲くらいしていてもおかしくないはずだ。それどころか、妙に体が軽い。いつもの肩こりや腰の重さもない。

 ゆっくりと上体を起こし、周りを見渡す。石造りの壁に、小さな木製の窓。簡素なベッドと、小さなテーブル、それに椅子が一つ。まるでファンタジー映画に出てくるような部屋だ。

 混乱したまま窓に近づき、外を覗き込む。

「は…?」

 間の抜けた声が出た。眼下に広がっていたのは、石畳の道と、煉瓦造りの家々が立ち並ぶ、見たこともない街並みだった。行き交う人々は、革鎧を身につけた屈強な男や、長いローブをまとった老人、荷馬車を引く商人など、明らかに現代日本のそれとはかけ離れた格好をしている。空には…なんだ、あれは? でかい鳥…いや、違う。翼の生えた爬虫類、みたいな生き物が悠々と飛んでいる。

「…マジかよ」

 頭が真っ白になる。事故? 夢? それとも、まさかとは思うが。

 異世界転生、なんて。

 ラノベや漫画の中だけの話だと思っていたことが、自分の身に起こるなんて。あまりにも現実離れした状況に、思考が追いつかない。しばらく呆然と窓の外を眺めていると、不意に、ぎい、と部屋のドアが開く音がした。

「おや、気がつかれましたかな」

 入ってきたのは、恰幅の良い、人の良さそうな髭面の親父さんだった。汚れたエプロン姿からすると、宿屋の主人だろうか。彼は、俺が知らないはずの言葉を話しているのに、なぜかその意味はすんなりと理解できた。

「ここは…?」
「ここは『銀の竜亭』という宿屋ですだよ。あんた、森の中で倒れているところを、冒険者の連中に助けられたんだ」

 森? 冒険者? ますます訳が分からない。けれど、一つだけ確かなことがある。俺はどうやら、本当に、とんでもない世界に来てしまったらしい。

 宿の主人、バルトさんと名乗った親父さんに、保護された経緯と、この世界の簡単な説明を受けた。ここはエルミナ王国という国で、剣と魔法が存在する世界らしい。俺が倒れていたのは国境近くの森で、幸いにも大きな怪我はなかったこと。そして、俺の服装や持ち物から、どこか遠い異国から来たのだろうと推測されていること。

 言葉が通じるのは、どうやらこの世界では普通のことらしい。便利なものだ。

 事故で死んで、異世界に転生した。

 荒唐無稽だが、目の前の現実がそれを肯定している。本の中だけの出来事が、現実に起こるなんてな。

 しばらく宿に厄介になりながら、俺はこの世界のことを学んだ。バルトさんは親切で、俺の怪しい身の上にも深くは詮索せず、宿の雑用を手伝う代わりに部屋と食事を提供してくれた。力仕事は苦手だが、まあ、なんとかやっている。

 少し落ち着いて街を歩けるようになったある日、俺は広場に建てられた古い石碑に目を留めた。かなり風化していて、文字が刻まれていることすら分かりにくい。周りの人々は気にも留めず通り過ぎていく。

「…読めるな」

 呟きは、自分でも驚くほど自然に出た。石碑に刻まれていたのは、見たこともない複雑な形の文字。だが、俺にはその意味が理解できたのだ。それは、この街の成り立ちを記した古い時代の詩だった。

 どうしてだ? この世界の文字は、バルトさんに基本的な読み書きを教えてもらったばかりのはずなのに。

 もしかして、これが。

 転生特典、とかいうやつか。俺の場合は、「古代言語の読解能力」。

 …だとしたら、地味すぎる。剣も魔法も使えず、ただ古い文字が読めるだけとは。もっとこう、派手な能力はなかったのか?

 だが。

「…面白いかもしれないな」

 心の奥底で、 知的好奇心がむくりと頭をもたげるのを感じた。誰も読めない古い文字が、俺には読める。それは、失われた歴史や知識への扉が開かれたということだ。

 それからというもの、俺は街の片隅にある小さな図書室…と呼ぶにはおこがましいが、とにかく本が集められている場所に足を運ぶようになった。規模は勤めていた市立図書館の足元にも及ばないが、それでも未知の書物が並んでいるのを見ると、自然と心が落ち着く。

 そして、ある日。書庫の奥深く、埃をかぶった棚の一番上で、俺はそいつを見つけた。

 分厚く、黒い革で装丁された、一際古めかしい本。表紙には、あの石碑と同じ、複雑な古代文字が刻まれている。他の本とは明らかに違う、何か特別なオーラを放っているように見えた。

「これは…?」

 近くにいた管理人の老人に尋ねてみると、彼は「ああ、それかね」と面倒くさそうに言った。

「誰も読めんから、ずっと置きっぱなしじゃよ。なんでも、古い時代の強力な魔法が書かれておるとかいないとか…まあ、ただの言い伝えじゃろうが。気味が悪いんでな、誰も触りたがらん。『禁書』なんて呼ばれておるわい」

 禁書。

 その言葉の響きに、俺の心臓が妙に高鳴った。誰も読めない、失われた魔法の書。それが、今、目の前にある。そして、俺には、これを読むことができる。

 表紙にそっと指先で触れる。ざらりとした革の感触と、長い年月を経た紙の匂いが鼻をついた。

「すごい…なにか、とんでもないものが眠ってるかもしれない」

 面倒ごとはごめんだ。目立つことも、人と深く関わることもできるだけ避けたい。ただ、静かに本を読んでいたいだけなんだ。元の世界と同じように。

 でも、この本は。この本だけは、どうしても中身を確かめてみたい。

 俺の異世界ライフは、どうやら思ったよりも退屈せずに済みそうだ。この『禁書』との出会いが、これから俺の身に何をもたらすのか。この時の俺には、まだ知る由もなかった。
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