地味な図書館司書、異世界で「禁書」を解読したら、うっかり救国の英雄に

あーる

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言霊

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「ひっ…!」  
 俺は思わず短い悲鳴を上げた。それは、巨大な黒豹のようでありながら、その体は揺らめく影と、所々腐った古木のような質感で構成されていた。爛々と赤く輝く双眸が、暗い森の中で不気味な光を放っている。体長は三メートルは超えているだろうか。明らかに、普通の生き物ではない。

「『影喰らい(シャドウ・ストーカー)』…! まさか、こんな森の浅いところにまで…高位の魔獣です!」 

 アリアが、驚愕と警戒をない交ぜにした声で言った。彼女の構える剣の切っ先が、わずかに震えているのが見えた。無理もない。あんな化け物、どう見ても衛兵一人の手に負える相手ではないだろう。
 影喰らいは、俺たちを値踏みするように見据え、ゆっくりと喉を鳴らした。そして次の瞬間、低い姿勢から弾かれたように飛びかかってきた!

「はぁっ!」

  アリアが気合一閃、剣を横薙ぎに振るう。しかし、影喰らいは素早い動きでそれをかわし、逆に鋭い爪の生えた前足でアリアに襲い掛かる! 

「くっ…!」
  アリアは咄嗟に剣を盾にして攻撃を受け止めるが、その衝撃に数歩後退させられた。影でできたような体は、物理的な攻撃が効きにくいのかもしれない。

 まずい、このままではアリアが危ない! 俺も何かしないと…!
  パニックになりながら、俺は背嚢から乱暴に記録書の写しを取り出した。何か、何か役に立つ情報は…! 追い払う方法、弱点、なんでもいい!

「…あった! これか?」

  ページを必死にめくる指が、ある記述で止まった。

  『…影に属する獣、根源たる響きに弱し。古き音節を発すれば、退散す…注意:微弱なる共鳴効果あり…』

  読めない文字があるが、前後の文脈からすると、特定の音を発すれば、影の魔獣は嫌がって逃げる、ということらしい。「微弱なる共鳴効果」というのがよく分からないが、今はこれに賭けるしかない!

 問題は、その「古き音節」とやらが、文字化けのような記号で記されていて、正確な発音が分からないことだ。エリオット先生のレッスンを思い出しながら、俺は喉の奥から、できるだけそれらしい響きを捻り出そうとした。

「ぐ…ぉ…る…ん……?」

  自分でも情けなくなるような、掠れた、奇妙な音が俺の口から漏れた。果たして、こんなもので効果があるのか…?

 ――直後。

「ギィャアアアアアアアアアアッッ!!」

 影喰らいが、鼓膜を突き破るような、凄まじい絶叫を上げた。それは、先ほどの威嚇の唸り声とは全く違う、純粋な苦痛と恐怖に満ちた叫びだった。

  魔獣は、まるで不可視の力に殴り飛ばされたかのように激しく後退し、地面を転げ回る。その影のような体が激しく明滅し、安定を失っている。両前足で頭を押さえ、のたうち回りながら、明らかに混乱しきっていた。

「え…?」

  俺もアリアも、目の前の光景が信じられず、呆然とその場に立ち尽くす。
 やがて影喰らいは、狂ったように身を翻すと、先ほど現れた方向とは逆の、森の奥深くへと、文字通り脱兎のごとく逃げ去っていった。木々をなぎ倒し、茂みをめちゃくちゃに引き裂きながら、その絶叫は遠くまで響き渡り、やがて森の静寂の中に消えていった。

 後に残されたのは、異様な静けさと、破壊された下草、そして俺とアリアだけだった。
「…………」
「…………」

 しばしの沈黙。
 先に口を開いたのは、アリアだった。彼女は、まだ剣を握りしめたまま、ゆっくりと俺の方を振り返った。その顔は蒼白で、瞳は大きく見開かれ、信じられないものを見た、という表情をしていた。

「……け、賢者様……」

  声が震えている。

「い、今の……は……いったい……?」
「え? ああ、いや…なんか、本に…変な音を出すと逃げるって、書いてあった、みたいで…」


  俺は、まだドキドキしている心臓を押さえながら、しどろもどろに答えた。正直、自分でも何が起こったのかよく分かっていない。微弱な効果じゃなかったのか?


 しかし、俺の言葉を聞いたアリアは、はくはくと口を開閉させ、やがて感極まったように、力なくその場に膝をついた。 

「変な…音…? い、いえ……あれは……! そんなものではありません!」


  彼女は、俺を見上げ、畏敬と、わずかな恐怖すら滲んだ目で言った。

「あれは…まるで、魂を直接震わせるような…! 魔獣の存在そのものを否定するような響き…! まさしく、古の…『言霊(ことだま)』の力…!」 
「こ、ことだま?」
 「はい! 失われた古代の魔法体系…言葉そのものに力を宿し、万象を操ったという…! まさか、現代にその使い手が、それもこれほどの力をお持ちの方がいらっしゃったとは…!」


 アリアは、感涙にむせびながら俺を見上げている。

 (言霊って…いや、だから、変な声を出しただけだって…) 

 そう弁解しようとしたが、あまりのアリアの思い込みの激しさに、俺は言葉を失った。どうやら、俺の出した奇妙な音は、この世界の理において、とんでもなく強力な何かとして作用してしまったらしい。禁書の記述は、やはり現代の常識では測れない。

「さすがです、賢者様…! このアリア、どこまでもお供いたします!」

  アリアは改めて俺に忠誠を誓うように、深く頭を垂れた。

 俺は、そんな彼女の姿を呆然と見つめながら、ただただ安堵の息をつく。…まあ、結果的に助かったのだから、よしとしよう。

 しかし、この禁書、思った以上にヤバい代物かもしれない。軽い気持ちで使うのは、本当に危険そうだ。
 俺は改めて気を引き締め直し、アリアに声をかけた。

 「…と、とにかく、先に進もう。日が暮れる前に、少しでも遺跡に近づかないと」
 「はっ! 承知いたしました!」

 力強く立ち上がったアリアは、先ほどよりもさらに恭しい態度で、俺の前方の道を開け始めた。その背中からは、「どんな魔獣が出ようとも、賢者様がいれば大丈夫だ」という、揺るぎない信頼が感じられた。

 俺の胃は、またキリキリと痛み始めた。
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