星降る檻(セカイ)の、向こうには。

静杜原 愁

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羽音

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 終わってみれば、実に虚しいものだった。身体は確かに熱を持ち、反応していた。それでも心は空っぽで、何一つ満たされはしなかった。あの瞬間に手にした筈のものは形を成さず、ただ指の隙間から零れ落ちる砂のような感覚だけが残った。
 サリタは既に隣にはおらず、衣服を整えてソファに腰掛けていた。
「おはよう」
 彼女は昨夜のことなど無かったように微笑んだ。その表情があまりにも自然で、昨晩の熱がまるで幻だったかの様に思えてくる――僕はあんなに、乱されたというのに。なのに、彼女は何も変わらない。シャツに袖を通す合間にも、彼女の視線を感じる。
 サリタはじっと僕の様子を見ていた。ずっと無言の僕の表情を、分析している様にも感じられた。僕もまた、彼女が何を考えているのか分からない。分析しようとも、答えに辿り着ける気がしない。
 服を着はしたが、僕は何処に行くでもなくベッドの上から動かないことを継続した。余韻に浸っている訳でなくて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。それは彼女がこの部屋に来る前に僕が過ごしていたただの「無意味」だった。
 僕の考えを計りかねたのか、彼女は不意に言った。
「ねえレイヤ。私、ちゃんと出来てた?」
 その言葉が耳に届いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
 思考が追いつかない。ちゃんと、出来てた? ……何が?
 瞬間的に、行為の事を指しているのだと察する。だが、それ以上に何か引っかかるものがある。
 確か、彼女は言った。僕の手紙を読んで、『謝りたかった』んだと。
 じゃあ、これは何の確認? 僕を悦ばせることが、謝罪の方法だったのか?
 償いとして、そうするべきだとでも思ったのか?
 胸の奥に、じわりと苛立ちが滲む。結局のところ、彼女は何も変わらない。他の男にするみたいに僕に身体を許し、他の男にするみたいに、僕を満足させようとした。そして今、その結果を確認しようとしている。僕が何を思うのかではなく、彼女自身が償えたと思えるかどうかを気にしているのだ。
「……何が、ちゃんと出来てたって?」
 自分でも驚く程、低い声が出た。彼女は一瞬、言葉を探すように目を伏せた。
「……そのままの意味よ」
 そう言いながらも、彼女の指先が膝の上でぎゅっと握られる。微かな戸惑い――それとも、後悔?
「ちゃんと……満足出来た?」
 先程よりも僅かに小さい声。自信が無いのが伝わる。それがどうしようもなく可笑しくて、笑いが込み上げる――けれど、それは決して愉快なものではなかった。
「満足? ……そんなもの、最初から求めてない」
 サリタの顔に、一瞬だけ曇りが差す。無意識に、衣服の裾を握る仕草が目に入った。
「……そっか」
 静かに落ちたその言葉には、微かな揺らぎがあった。けれど、それ以上何かを言おうとはしない。ただ、服の裾を直す仕草だけがやけに静かで――それが、ひどく癇に障った。
「……ふざけるなよ」
 サリタの指先が、僅かに止まる。
「僕の事を、そうやって子供みたいに扱って」
「……っ、そんなつもりは」
「嘘だ」
 胸の奥が焦げ付くみたいに痛い。抑えきれない怒りが、喉の奥からせり上がってくる。
「結局、僕の気持ちなんてどうでもいいんだろう? 償いたいからって、僕に身体を許せばそれで終わりだと思ったの? そうやって、自分の価値を都合よく切り売りして、誰かの為に消費されることしか出来ないの?」
 彼女は何も言わなかった。否定もしない。
「そんなもの、償いでもなんでもない。ただの自己犠牲だ」
 サリタの指が、裾を強く握りしめる。僅かに肩が震えているように見えた。なのに、それでも彼女は何も言わない。
 その沈黙が、酷く耳障りだった。胸の内側に焼けるような違和感が広がる。息を吸う度、それがじわじわと喉を塞いでいく。何を言っても無駄だと理解しているのに……分かっているのに、止まらない。
「……僕を救ってくれた時のサリタは、もうどこにも居ないの?」
 気づけば、その言葉が零れていた。口にした瞬間、驚く程の空虚感が胸を締め付ける。
 かつて、七歳の僕を命懸けで救ってくれたサリタ。その時の彼女は、まるでヒーローのようで、女神のようで……。
 あの日、サリタは僕にとっての全てになった。彼女が居なければ、僕は今ここには居ない。その記憶がずっと、僕を支えてきた。
 でも、今はもう――。
「憧れだった。あの時のサリタが……。格好良くて、綺麗で」
 言葉が次々と漏れ出す。止めようとしても、どうしても言わずにはいられなかった。
「今の君には、あの頃のサリタを微塵も感じられない」
 その一言が、サリタの心にどれ程の痛みを与えるか、分かっていた。分かっていて、言っている。この言葉をぶつけたら、何かが変わるかもしれない。僕はまだ、ほんの僅かな希望を抱いていた。
 けれどサリタは、今にも泣き出しそうな顔になる。その表情を見た瞬間、何かが壊れる音がした気がした。
 彼女は何も言わず、静かにドアを開けて歩き出した。
(ああ……行かないで)
 その言葉は、口にすることは叶わなかった。ただ黙ってサリタの背中を見つめることしか出来なかった。
 彼女の後ろ姿は、どんどん遠ざかる。僕の胸には、引き裂かれるような痛みが広がった。

 気付けば僕は、あの鳥を探していた。僕に似た、どこにも行けない籠の鳥。
 それは廊下の先にあった。鳥籠はテラスに出されるでもなく、屋敷の閉塞的な空気の中にいた。僕は鳥籠をあのガーデンテーブルまで持ち出す。あの日は隣に、サリタが来た。だが今日はきっと彼女はもう来ない。
「お前、本当にここでしか生きられないの?」
 ――サリタの言ったように。
 小鳥はただ、首を傾げている。小鳥に問いかけたつもりだが、それはそっくりそのまま自分に帰ってくるような気がした。
 僕はこいつに、自分を重ねていた。こいつ自身どう思ってるかは知らないけど。だから、やっぱり。こいつがここに居ることに、違和感を感じた。どこにも行けはしないと、勝手に決められて。
「ほら、飛んでいけよ」
 キィ、と小さな音を立てて扉は開いた。
 小鳥は僅かに戸惑う仕草を見せた後、躊躇いもなく飛んでいく――ほら、やっぱり。どこへも行けなくなかったんだ。
 小さな羽音は遠ざかり、僕はどこか自分の正しさを証明した様な気分になっていた。
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