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19【騎士との関係】
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謁見を無事に終えて、マレクは王妃とともに、生け垣で囲まれた庭園を散策していた。
園内の一角にある温室は、国王が王妃への愛情を示すために作ったものだ。
「あの頃のわたくしは幼くてね。恋や愛など頭になかったの。陛下にお会いするまで、まったく興味がなかったのよ」
そんな王妃が恋を自覚するまで、国王(出会ったときは王太子)は婚約を無理強いせずに待ち続けた。
ふたりの関係が動いたのは、即位した矢先の出来事だった。国王の母君が病により息を引き取ったのだ。
父君と母君を続け様に喪った国王は、王妃の前で涙を流したという。
経験の浅い自分が頼りなく、国を背負えるのかとも悩んでいた。様々な感情が交錯して、涙となって溢れたのだろう。
肩を震わせる大の男を慰めるために抱き締めた。虚勢を張った姿ではなく、本音をさらけ出したみっともない姿に心を奪われた。
この人を理解できるのは自分だけだ。この時に隣で支え続けたいと、強く思ったのだという。すぐに婚約を結び、半年後に挙式を上げた。
国王と王妃の馴れ初めを、マレクは興味深く話を聞いた。
バルトルトを思い浮かべて、あの人の弱味はなんだろうと考えた。
瞼の裏の騎士は、いつも動じない強い姿ばかりだ。
唯一あるとすれば、熱によって倒れた時だ。マレクが夜通しで看病した。殺すとまで言われたのに、マレクのことを思いやってくれて、この頃は警戒されている場面はない。
今日の段階で色々と話してしまったし、隠し事も無くなった。
――僕とバルトルトの関係って何なんだろう?
王妃は「わたくしたちの話はいいわね」と前置きした上で、「あなたは、ガドリン団長をどう想っているの?」と、問うた。
マレクは言葉に詰まってしまった。今まさに考えようとしていたところだった。
先程は場の空気に流されて、一目惚れしたと口を滑らせた。決して嘘ではない。本心ではあったが、好きなのか詰められると、自信がなくなる。
「わからないんです。バルトルトをどう想っているのか」
「好きになるのが、怖いの?」
「そうかもしれません」
曖昧だとしても、今のマレクにはそう答えるしかなかった。
◆
しばらくして迎えに来た国王は、執務を理由に王妃を連れて王宮へと戻っていった。
バルトルトとふたりになったところで、マレクは生け垣まで追い詰められた。
「一目惚れとはどういうことだ?」と耳元で囁かれる。マレクは熱い耳を感じながらも顔を背けて、「言ったでしょ。男が男に惚れるみたいなものだって」と告げた。
バルトルトが欲しいのはきっとそんな答えではないと、知っている。それでも恐ろしくて口にできない。
「俺は違う。男が男に惚れるというのではない」
左手の指で顎を掴まれて、首筋が張るくらい持ち上げられた。
「マレク。俺はお前に惚れている。少しでも離れれば恋しくなり、側にいたくて仕方ない。お前は……」
マレクの三本の指が、右手に掴まれる。探るような目をしていたのに、瞳の奥に熱がこもった。
額を晒した野性味のある顔が近づいてくる。慌てて瞼を伏せると、しっとりと柔らかい唇についばまれた。バルトルトの身体はどこもかしこも鎧を纏ったように硬いのに、唇だけは柔らかい。
「んっ」
探るような舌が口内をかき乱す。水音が耳を侵す。マレクの舌を引きずり出すと、ざらついた表面を擦り付けたり、裏側から絡めたりする。
生け垣で身体は隠されているが、陽射しの下で口づけられている。羞恥でどうにかなっても、おかしくはない。それなのに、身体を遠くに突っぱねることはおろか、頭が熱くて何も考えられなかった。顔からつま先に至るまで、バルトルトしか感じない。
ようやく唇が離れていく。勢いよく吸い込んだバルトルトの匂いが、鼻孔から肺を満たす。
太い腕がマレクの腰と背中を支えた。腿が押し付けられている。バルトルトの硬い部分を感じて、マレクも興奮していた。
このまま何も考えずに、抱きしめ合っていられたらいいのに。そう思わずにはいられない。
マレクもバルトルトの背中に腕を回そうと思った。自分の気持ちを言葉にできない代わりに、行動で示そうとした。
だが、手を上げかけたとき、ためらいが先に来た。この手で触れていいのだろうかと。
血に塗れた手でバルトルトを汚したくはなかった。国を守るために汚した手でもなく、自分の命の執着のために汚した手であったから。
「すまん、マレク。お前の気持ちも考えずに」
至福の時間は、マレクが答えを出す前に終わってしまった。
バルトルトの大きな身体が離れていく。きつく掴まれていた指は開放されて、血の気が戻ってきた。
しかし、マレクはその場から動けなかった。いくら血液が巡っても、歩き出す勇気が持てなかった。せっかく告白してくれたのに、受けとめきれなかった。
バルトルトは呆れてしまったかもしれない。手に入れるのを諦めるかもしれない。
受け入れる度量はないくせに、そんなことを考えると胸が痛んだ。いつの間にか、バルトルトを恋しく思い始めていた自分に呆れてくる。
馬車の中では義務的にぽつぽつと、舞踏会の話をした。始めにバルトルトと踊ることを約束された。「舞踏会では俺以外とは踊ってくれるな」とも言われた。
マレクはどんな形であれ、バルトルトと踊れるのは嬉しかった。しかし、それを言葉にすることはなかった。
夜も挨拶を交わした程度で、それぞれ自室に戻った。隣り合った部屋なのに、ひどく遠くに感じた。
◆
憂鬱なまま朝を迎えた。さらに憂鬱だったのは、バルトルトが不在だったことだ。
いつだって勝手に部屋に入ってきて挨拶をするのに、それがなかった。おかげで起きるのが遅くなった。
不在の理由を執事にたずねると「早朝に出られました。お帰りは夜遅くになるでしょう」と返ってきた。
いったいどこへ、と聞こうとして、やめた。昨日の出来事が頭を掠めたからだった。
ここに来て朝から姿がないとすれば、昨日の出来事が影響していると考えてもおかしくない。マレク同様、バルトルトも気まずかったのだろう。挨拶もしないで、どこかへ出かけた。寂しかったが、仕方ないと噛み締めた。
朝食を終えた頃に、バルトルトが手配したダンスの先生がやってきて、練習することになった。
マレクは今まで舞踏会に出た経験がなかった。ダンスの練習はしていたが、十二歳になった頃に誘拐されて森に捨てられた。帰る家も沒落して、ついに社交場に出なかった。
これが初の機会になる。亡命者として紛れた父と兄を探すという目的はあるが、舞踏会に出るのは紛れもない事実だ。
慣例では女性を相手に踊るはずなのに、なぜかマレクはバルトルトと踊ることになった。
しかも、他の女性と踊るのは許されない。男性もだめ。バルトルトのみと踊ることを約束させられた。
男同士で踊るとなると、どちらかが女性役をしなくてはならない。受け身になるため、身体に染み付いているものが邪魔になった。
それらを打ち消して、新たなステップを学ぶ。改めてダンスの練習をする必要があった。
期間は一週間。短い時間で見苦しくないところまで仕上げなければならない。自分で行くと言った手前、泣き言は言えなかった。
昼休憩を取った後も、みっちりと練習した。時間は経過しても、上手くなっている気配がなかった。ついに先生から「筋は悪くありませんわ。ですが、今日はここまでにしておきましょう」と言われ、お開きになった。
自室に戻ってから、マレクは寝台の上にうつ伏せに倒れ込んだ。
茜色が部屋を満たしている。夕飯もひとりだと思うと、気が重い。
こんな時間まで、ついにバルトルトと顔を合わせることがなかった。頬をシーツに当てながら、瞼を閉じる。
壁に背中を預けて、監視するようにじっと睨んでくる騎士の姿がなかった。何度も探してしまう自分に戸惑った。
バルトルトがいないことが、こんなにも心に来ている。あの手で、あの唇で、どれだけの安心を得ていたのか。今更になって気づいた。
◆
いつの間にか、眠りこけていたらしい。辺りには闇の幕が落ちていた。ろうそくの明かりだけが枕元をぼんやり照らしている。大きな影がマレクに覆いかぶさっていた。
誰かがマレクの頭を撫でている。身動ぎして、鼻をすすると、血の臭いが掠めた。人の血ではなく、獣の血のような気がする。
マレクは人の血を何度も浴びて、散々嗅いできた。戦場では、今さっき話していた兵達が血を流して倒れる。未来を語ったはずの青年も、死を達観した中年も、戦場でしか生きられない手練れも、容赦なく死ぬ。死は平等に忍び寄って、人間の首を次々と刈っていく。
マレクも何度もそちら側に行きそうになった。でも、最後には命への執着が働いて、どうにか生き延びてきた。
「血の臭いがする」
呟くと、バルトルトの手が止まった。ここで引き止めないと逃げられる気がして、手に飛びついた。両手に力を込める。
「すまない。体を清めずにここに来てしまった」
「早く、僕に会いたくて?」
言葉の足りないバルトルトの補足をすると、あっさり「ああ、そうだ」と肯定された。今日一日会いたいと思ったのは、マレクだけではなかったらしい。
「朝会えなくて、寂しかった。どこに行ってたの?」
バルトルトの顔色が見えないから、遠慮なくたずねた。思案にくれるように答えるまで間があった。
「さあな」たっぷり待った答えにしては物足りない。
「そうやって、誤魔化して」
むくれたくなるが、せっかく会えたのに、腹を立てている時間がもったいない。
手を離すと、バルトルトの太い指が勝手にマレクの頬をかいた。くすぐったくなるくらい優しい手つきだった。それから指先で頬を押してくるのが、たいへん鬱陶しい。
赤ん坊がするように太い指を力を込めて握ると、吐息がした。
「ずっと、こうしていられたらいいのだが」
深刻そうな声に、マレクは一気に心配になった。
「忙しくなるの?」
「ああ、休暇が終わった」
バルトルトの話によると、療養を理由に休暇をもぎ取ったのだという。本来、バルトルトはマレクにかまけるほど暇な身ではない。騎士たちを束ねる長として、常に重圧にさらされている。
貴重な休暇をほぼマレクの世話に使わせたのが、申し訳ない。
「朝は会えないの?」
「日が昇る前に出立するから朝は無理だな。こうして会えるのは夜だけだ」
「じゃあ、がんばって起きてなきゃ」
「いや、無理をするな」
笑い声が降ってきた。優しく頭を撫でられると、マレクは懐いた猫のように気持ちよくなって目を細めた。
意識が遠のいていく。あくびをひとつする。重くなる瞼を開けられない。
まだ寝たくない。眠る前に言いたいことがあるのに。どうにか眠気をこらえて、口に出す。
「バル、楽しみにしててね。僕のダンス」
「ああ、楽しみにしている」
「がんばるから……」
その言葉を最後に、身体が軽くなってきた。バルトルトの「おやすみ」の声が近くで聞こえた。太い腕が身体に巻き付いて、同時に安心感に包まれる。心が満たされたみたいに胸がいっぱいになって、瞼を閉ざした。
園内の一角にある温室は、国王が王妃への愛情を示すために作ったものだ。
「あの頃のわたくしは幼くてね。恋や愛など頭になかったの。陛下にお会いするまで、まったく興味がなかったのよ」
そんな王妃が恋を自覚するまで、国王(出会ったときは王太子)は婚約を無理強いせずに待ち続けた。
ふたりの関係が動いたのは、即位した矢先の出来事だった。国王の母君が病により息を引き取ったのだ。
父君と母君を続け様に喪った国王は、王妃の前で涙を流したという。
経験の浅い自分が頼りなく、国を背負えるのかとも悩んでいた。様々な感情が交錯して、涙となって溢れたのだろう。
肩を震わせる大の男を慰めるために抱き締めた。虚勢を張った姿ではなく、本音をさらけ出したみっともない姿に心を奪われた。
この人を理解できるのは自分だけだ。この時に隣で支え続けたいと、強く思ったのだという。すぐに婚約を結び、半年後に挙式を上げた。
国王と王妃の馴れ初めを、マレクは興味深く話を聞いた。
バルトルトを思い浮かべて、あの人の弱味はなんだろうと考えた。
瞼の裏の騎士は、いつも動じない強い姿ばかりだ。
唯一あるとすれば、熱によって倒れた時だ。マレクが夜通しで看病した。殺すとまで言われたのに、マレクのことを思いやってくれて、この頃は警戒されている場面はない。
今日の段階で色々と話してしまったし、隠し事も無くなった。
――僕とバルトルトの関係って何なんだろう?
王妃は「わたくしたちの話はいいわね」と前置きした上で、「あなたは、ガドリン団長をどう想っているの?」と、問うた。
マレクは言葉に詰まってしまった。今まさに考えようとしていたところだった。
先程は場の空気に流されて、一目惚れしたと口を滑らせた。決して嘘ではない。本心ではあったが、好きなのか詰められると、自信がなくなる。
「わからないんです。バルトルトをどう想っているのか」
「好きになるのが、怖いの?」
「そうかもしれません」
曖昧だとしても、今のマレクにはそう答えるしかなかった。
◆
しばらくして迎えに来た国王は、執務を理由に王妃を連れて王宮へと戻っていった。
バルトルトとふたりになったところで、マレクは生け垣まで追い詰められた。
「一目惚れとはどういうことだ?」と耳元で囁かれる。マレクは熱い耳を感じながらも顔を背けて、「言ったでしょ。男が男に惚れるみたいなものだって」と告げた。
バルトルトが欲しいのはきっとそんな答えではないと、知っている。それでも恐ろしくて口にできない。
「俺は違う。男が男に惚れるというのではない」
左手の指で顎を掴まれて、首筋が張るくらい持ち上げられた。
「マレク。俺はお前に惚れている。少しでも離れれば恋しくなり、側にいたくて仕方ない。お前は……」
マレクの三本の指が、右手に掴まれる。探るような目をしていたのに、瞳の奥に熱がこもった。
額を晒した野性味のある顔が近づいてくる。慌てて瞼を伏せると、しっとりと柔らかい唇についばまれた。バルトルトの身体はどこもかしこも鎧を纏ったように硬いのに、唇だけは柔らかい。
「んっ」
探るような舌が口内をかき乱す。水音が耳を侵す。マレクの舌を引きずり出すと、ざらついた表面を擦り付けたり、裏側から絡めたりする。
生け垣で身体は隠されているが、陽射しの下で口づけられている。羞恥でどうにかなっても、おかしくはない。それなのに、身体を遠くに突っぱねることはおろか、頭が熱くて何も考えられなかった。顔からつま先に至るまで、バルトルトしか感じない。
ようやく唇が離れていく。勢いよく吸い込んだバルトルトの匂いが、鼻孔から肺を満たす。
太い腕がマレクの腰と背中を支えた。腿が押し付けられている。バルトルトの硬い部分を感じて、マレクも興奮していた。
このまま何も考えずに、抱きしめ合っていられたらいいのに。そう思わずにはいられない。
マレクもバルトルトの背中に腕を回そうと思った。自分の気持ちを言葉にできない代わりに、行動で示そうとした。
だが、手を上げかけたとき、ためらいが先に来た。この手で触れていいのだろうかと。
血に塗れた手でバルトルトを汚したくはなかった。国を守るために汚した手でもなく、自分の命の執着のために汚した手であったから。
「すまん、マレク。お前の気持ちも考えずに」
至福の時間は、マレクが答えを出す前に終わってしまった。
バルトルトの大きな身体が離れていく。きつく掴まれていた指は開放されて、血の気が戻ってきた。
しかし、マレクはその場から動けなかった。いくら血液が巡っても、歩き出す勇気が持てなかった。せっかく告白してくれたのに、受けとめきれなかった。
バルトルトは呆れてしまったかもしれない。手に入れるのを諦めるかもしれない。
受け入れる度量はないくせに、そんなことを考えると胸が痛んだ。いつの間にか、バルトルトを恋しく思い始めていた自分に呆れてくる。
馬車の中では義務的にぽつぽつと、舞踏会の話をした。始めにバルトルトと踊ることを約束された。「舞踏会では俺以外とは踊ってくれるな」とも言われた。
マレクはどんな形であれ、バルトルトと踊れるのは嬉しかった。しかし、それを言葉にすることはなかった。
夜も挨拶を交わした程度で、それぞれ自室に戻った。隣り合った部屋なのに、ひどく遠くに感じた。
◆
憂鬱なまま朝を迎えた。さらに憂鬱だったのは、バルトルトが不在だったことだ。
いつだって勝手に部屋に入ってきて挨拶をするのに、それがなかった。おかげで起きるのが遅くなった。
不在の理由を執事にたずねると「早朝に出られました。お帰りは夜遅くになるでしょう」と返ってきた。
いったいどこへ、と聞こうとして、やめた。昨日の出来事が頭を掠めたからだった。
ここに来て朝から姿がないとすれば、昨日の出来事が影響していると考えてもおかしくない。マレク同様、バルトルトも気まずかったのだろう。挨拶もしないで、どこかへ出かけた。寂しかったが、仕方ないと噛み締めた。
朝食を終えた頃に、バルトルトが手配したダンスの先生がやってきて、練習することになった。
マレクは今まで舞踏会に出た経験がなかった。ダンスの練習はしていたが、十二歳になった頃に誘拐されて森に捨てられた。帰る家も沒落して、ついに社交場に出なかった。
これが初の機会になる。亡命者として紛れた父と兄を探すという目的はあるが、舞踏会に出るのは紛れもない事実だ。
慣例では女性を相手に踊るはずなのに、なぜかマレクはバルトルトと踊ることになった。
しかも、他の女性と踊るのは許されない。男性もだめ。バルトルトのみと踊ることを約束させられた。
男同士で踊るとなると、どちらかが女性役をしなくてはならない。受け身になるため、身体に染み付いているものが邪魔になった。
それらを打ち消して、新たなステップを学ぶ。改めてダンスの練習をする必要があった。
期間は一週間。短い時間で見苦しくないところまで仕上げなければならない。自分で行くと言った手前、泣き言は言えなかった。
昼休憩を取った後も、みっちりと練習した。時間は経過しても、上手くなっている気配がなかった。ついに先生から「筋は悪くありませんわ。ですが、今日はここまでにしておきましょう」と言われ、お開きになった。
自室に戻ってから、マレクは寝台の上にうつ伏せに倒れ込んだ。
茜色が部屋を満たしている。夕飯もひとりだと思うと、気が重い。
こんな時間まで、ついにバルトルトと顔を合わせることがなかった。頬をシーツに当てながら、瞼を閉じる。
壁に背中を預けて、監視するようにじっと睨んでくる騎士の姿がなかった。何度も探してしまう自分に戸惑った。
バルトルトがいないことが、こんなにも心に来ている。あの手で、あの唇で、どれだけの安心を得ていたのか。今更になって気づいた。
◆
いつの間にか、眠りこけていたらしい。辺りには闇の幕が落ちていた。ろうそくの明かりだけが枕元をぼんやり照らしている。大きな影がマレクに覆いかぶさっていた。
誰かがマレクの頭を撫でている。身動ぎして、鼻をすすると、血の臭いが掠めた。人の血ではなく、獣の血のような気がする。
マレクは人の血を何度も浴びて、散々嗅いできた。戦場では、今さっき話していた兵達が血を流して倒れる。未来を語ったはずの青年も、死を達観した中年も、戦場でしか生きられない手練れも、容赦なく死ぬ。死は平等に忍び寄って、人間の首を次々と刈っていく。
マレクも何度もそちら側に行きそうになった。でも、最後には命への執着が働いて、どうにか生き延びてきた。
「血の臭いがする」
呟くと、バルトルトの手が止まった。ここで引き止めないと逃げられる気がして、手に飛びついた。両手に力を込める。
「すまない。体を清めずにここに来てしまった」
「早く、僕に会いたくて?」
言葉の足りないバルトルトの補足をすると、あっさり「ああ、そうだ」と肯定された。今日一日会いたいと思ったのは、マレクだけではなかったらしい。
「朝会えなくて、寂しかった。どこに行ってたの?」
バルトルトの顔色が見えないから、遠慮なくたずねた。思案にくれるように答えるまで間があった。
「さあな」たっぷり待った答えにしては物足りない。
「そうやって、誤魔化して」
むくれたくなるが、せっかく会えたのに、腹を立てている時間がもったいない。
手を離すと、バルトルトの太い指が勝手にマレクの頬をかいた。くすぐったくなるくらい優しい手つきだった。それから指先で頬を押してくるのが、たいへん鬱陶しい。
赤ん坊がするように太い指を力を込めて握ると、吐息がした。
「ずっと、こうしていられたらいいのだが」
深刻そうな声に、マレクは一気に心配になった。
「忙しくなるの?」
「ああ、休暇が終わった」
バルトルトの話によると、療養を理由に休暇をもぎ取ったのだという。本来、バルトルトはマレクにかまけるほど暇な身ではない。騎士たちを束ねる長として、常に重圧にさらされている。
貴重な休暇をほぼマレクの世話に使わせたのが、申し訳ない。
「朝は会えないの?」
「日が昇る前に出立するから朝は無理だな。こうして会えるのは夜だけだ」
「じゃあ、がんばって起きてなきゃ」
「いや、無理をするな」
笑い声が降ってきた。優しく頭を撫でられると、マレクは懐いた猫のように気持ちよくなって目を細めた。
意識が遠のいていく。あくびをひとつする。重くなる瞼を開けられない。
まだ寝たくない。眠る前に言いたいことがあるのに。どうにか眠気をこらえて、口に出す。
「バル、楽しみにしててね。僕のダンス」
「ああ、楽しみにしている」
「がんばるから……」
その言葉を最後に、身体が軽くなってきた。バルトルトの「おやすみ」の声が近くで聞こえた。太い腕が身体に巻き付いて、同時に安心感に包まれる。心が満たされたみたいに胸がいっぱいになって、瞼を閉ざした。
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独身なのに父性強めな騎士団長×不憫な生い立ちで情緒薄めな甘えたがり魔導騎士+仲が良すぎる副官コンビ。
甘いだけじゃない、骨太文体でお送りする軍記物BL小説です。番外は日常エピソード中心。ややダーク・ファンタジー寄り。
※ぼかしなし、本当の意味で全年齢向け。
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