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23【騎士と仲違い】
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行きと同じ馬車に揺られながらも、ふたりは押し黙っていた。
向かい合わせに座ったのは、今はバルトルトの隣に座るべきではないと察したからだ。
四人乗りの箱馬車は隣り合って座っていないと、空間が広く感じる。
バルトルトは窓枠に頬杖をついて、外の景色を眺めていた。
琥珀色の目は遠くに置かれている。口元は固く閉ざされていて、表情はない。
これまでマレクを真っ直ぐに見てくれた。不器用にも話しかけてくれたのは、奇跡だったのではないかと思う。
もし、あの牢獄で話しかけなければ、バルトルトの瞳には一時的でも自分の姿は映らなかった。
同じ馬車に乗って、舞踏会など出なかったかもしれない。
一方的に眺めていると、胸の辺りがせつなくなってきた。鼻の奥がつんと痛くなる。涙腺を刺激して来るから、視線を窓の外に移した。馬車が揺れる音しかしない。
行きの時に感じた温かさは、どこにもなかった。手には自分の体温しかなかった。
馬車が速度を落として止まると、バルトルトは我先にと出ていった。慌てて追いかけるが、マレクがステップを降りたときには、出迎えた執事を振り切ったところだった。
マレクを置き去りにしても、大きな背中は一切、振り返らない。そんなことは今までなかった。いつだって後ろを振り返ってくれて、手を伸ばしてくれていたのに。
傍から見ていた執事も事態を重く見たのだろう。
「旦那様はどうされたのでしょうか?」と、たずねてきた。非難めいたものではなく、主人の行動の真意を純粋に知りたがっている様子だ。
当事者であるマレクは、どう答えるべきかわからなかった。曖昧に笑って返そうとしたが、できなかった。
何もないと言おうとして、ためらう。何もない訳がない。自分の気持ちは偽れない。
俯いたマレクの様子を見て、執事は気づかわしげな顔をした。
「自室に戻られる前に、お茶でも召し上がりませんか?」
優しい声色が冷たい胸に染みる。マレクは顔を上げた。うなずいて「いただきます」と返事をしたとき、若干、涙声になった。優秀な執事は気づいていないように振る舞ってくれた。
談話室に案内されて、長椅子で腰を落ち着かせていると、銀の盆を持った執事が部屋に入ってきた。盆の上にはティーカップとティーポットが載せられている。
対になったそれは、マレク専用と言われた気がする。金色の縁取りがマレクの髪の色に似ているとか。バルトルトが本気とも冗談とも取れる話をしていた。懐かしく思い出すと、ぎゅっと心臓が絞られたような苦しみがあった。
執事はテーブルに盆を置くと、慣れた手付きでポットを持ち上げる。カップに紅茶を注いだ。
辺りは甘い紅茶の香りで占められていく。
湯気を漂わせたティーカップがテーブルに置かれて、マレクは感謝を述べた。白のカップに赤く透き通った水面が浮かぶ。それに向かって、息を吹きかけた。
カップを傾けて一口飲むと、胸の辺りを中心にして、体中が温かくなってくる。カップを持つ指先にまで、温もりが行き渡った。
何度か口に含むうちに、手汗が浮かぶほどに体温が上昇してきた。
執事はそんなマレクの顔を確かめると、安堵したかのように笑った。
「少しはお顔の色がよくなりましたね」
「え、そんなに酷い顔でしたか?」
マレクはカップを置くと、自分の頬を撫でて、表情を読み取ろうとした。わかるはずもない。一度、言われると、気になって仕方ない。
執事は神妙な面持ちでうなずいた。
「今にも泣き出しそうで、おひとりにしてはいけないと思いました」
確かにバルトルトがひとりで行ってしまって、寂しいという気持ちはあった。大きな背中を思い出すと、鼻奥がツンと痛くなる。
それでも簡単に表情を取り繕えると思っていた。言い当てられるほど、あからさまに顔に出るとは自分でも意外だった。
「お気づかい、ありがとうございます。おかげで落ち着きました」
素直に感謝の言葉を表す。熱が通ったからか、強ばっていたはずの頬は緩んだ。執事は笑い返した後、「しかし」と強調して真面目な顔を作った。
「舞踏会に行かれる前は、お二人は仲睦まじいご様子でした。しかし、帰宅した途端、自室にこもられました。旦那様とマレク様の間に、何が起きたのか。お聞かせいただいてもよろしいですか?」
何もないと言い張るのは、無理があるだろう。マレクにしても帰りの馬車までは、バルトルトと寄り添うことも会話もできていた。
執事がオルジフに似ていたためか、マレクは特段、話すことに抵抗を感じなかった。バルトルトとの間に起きたことや、舞踏会の後に起きたこと、自分の胸の内をぽつぽつと語り始めた。
話し終えるまで、執事は黙って聞いてくれた。結果的に、マレクがすべて悪い。そう思うのに、執事は場をわきまえたように何も言わないでいてくれる。
「バルトルトが怒ったのは、たぶん僕が突っぱねたせいです。でも、僕はバルトルトを巻き込みたくないし、危険な目に合わせたくないんです」
「マレク様のお兄様は、そんなにも危険な方なのですか?」
「追い詰められたら、何をしでかすかわからない男です。もしかしたら、罠を用意しているかもしれません」
何年も会っていないうちに、ますます狡猾になっているかもしれない。
「それなら、マレク様もお兄様と会わないほうがよろしいのではないでしょうか?」
関わらないほうがいいのはわかっている。すべてを忘れて新天地で生きていけるなら、それに越したことはない。
しかし実際は、簡単には割り切れない。母と長兄を殺したのは、間違いなく父と次兄だ。幼いマレクを殺そうとしたのもふたりに違いない。
行方不明の二人を探してきたのは、家族だからではない。単なる復讐心のためだ。この手で報復を受けてもらうためだけに、次兄と接触した。危ないと知りつつも、この血の繋がった家族と呼ばれる者たちを罰するのは、自分しかいない気がしている。
「それはわかってます。バルトルトが心配してくれているのも」
「でしたら……」
遮るように「でも」と言った。
「僕はそれを受け止め切れません。あの父や兄をどうにかしない限り、幼い頃の記憶は消えないし、ずっと、苦しみ続けるでしょう。すべてを忘れたふりをするなんて、無理です。バルトルトの隣で偽りの笑みを浮かべて過ごすなんてごめんです」
もっともな理由をつけているが、結局のところ自分自身が、バルトルトの隣にいるのは相応しくないと思っている。周りにどう思われるとかではなく、単純にバルトルトの幸せしか考えていない。
バルトルトはきちんとした家柄から妻を娶り、子を成して、幸せに生きるべき人間だ。マレクのように復讐を足枷に生きている人間とは釣り合わない。
足枷が取れたとして、マレクから与えられるものは何一つないのだ。財力も、身分も、子も。他の誰かが当然に与えられる幸せを、マレクは持っていないし、与えられない。
「僕と一緒にいないほうが、バルトルトは幸せになれます」
そんなことを言いながらも、簡単には割り切れなかった。自分ではない他の誰かを想像しようとすると、未練がましく胸の奥が軋んで痛む。歯の根を強く合わせて、込み上げてくる涙を堪えた。
それでも痛みなど永久には続かない。どんな痛みや苦しみにも終わりは来る。生まれついてから死に向かっていくように、出会っても例外なく別れるときは来る。それが遅いか、早いかだけだ。
マレクは自分にそう言い聞かせた。
執事は「マレク様にも事情というものがありましょう」と前置きした上で、「それでも旦那様を側で見続けてきた者として、お伝えしたいことがあります」と、さらに話を続ける。
「マレク様と出会う前の旦那様は、屋敷にお戻りにはなりませんし、食事も食堂をお使いになりませんでした。『貴族のような振る舞いは好かん』とおっしゃっていました。
しかし、マレク様に出会った旦那様は、確かにお変わりになりました。
忙しくとも毎日、屋敷にお戻りになります。マレク様と一緒に食堂をお使いになりますし。
マレク様のためにお部屋や新しい服をあつらえた時なんて!
『マレクはどういったものが好きだろうか』と、私共にたずねてきたのですよ。その時の旦那様は、生き生きとしていらっしゃいました。
仕える者として、微笑ましく見ていたものです」
穏やかな表情を浮かべる執事は、嘘偽りがないことを物語っている。あのバルトルトがマレクのためにそこまでしていたとは、深くは知らなかった。断片として感じていた優しさが、まとめて一つになって目の前に提示されたような気がした。
「旦那様は極めて特殊な環境で生きてこられました。常人では決して生きていけないような中を生き抜いて来られました。
ですからこそ、私や周りの使用人たちは、旦那様の幸せを切に願っております。
どうか、マレク様には後悔のない決断をしていただきたく思います」
バルトルトの過去には触れたことがない。自分の話は聞いてもらったのに、たずねることもしなかった。気にかかる場面や言動はいくつかあったのに。今になって思えば、聞いておけば良かったと、後悔の念が胸に広がった。
執事は正していた背中を少しだけ丸めて、吐息を落とした。
「まったく、年を取ると説教臭くなってしまいますね」
そんなことはないと首を振って、マレクは目尻に浮いた涙を拭う。未練がましい自分を潔く認めた。何も残さず、屋敷を去ることはできそうにない。
「ひとつだけ、去る前に頼み事をしてもいいですか?」
執事は一旦顔をしかめたが、無理やり表情を明るくさせて「何なりとお申し付けください」と、微笑んだ。
「バルトルトが本当にもし、僕を探すことがあったら、ひとこと伝えてほしいんです。探さなかったら、伝えないでいいです」
マレクは耳打ちでこっそりと“ひとこと”を伝えたが、執事は首を傾げた。それだけ聞いても、何のことやらという感じだろう。暗号とまでは言わないが、ふたりにしか通じない言葉だ。だから、使える。
執事は飲み込んだようで、うなずいた。
「承知しました。絶対にお伝えいたします」
もし探すことがあったらの話だ、絶対ではないと言ったのに、執事は熱を燃やしている。マレクは苦笑したものの、執事の気遣いを無下にはしたくなかった。
◆
影が色濃くなり、蝋燭の明かりだけが頼りになる頃、屋敷内はひっそりと息を潜めていた。
マレクは湯浴みを済ませた体で、クローゼットの前に立つ。両開きの扉を開けると、上等な服が所狭しと、かかっていた。
端にかけられていたのは、マレクがこれまで着ていたフード付きの黒装束だ。
捨てずに残しておいてくれたのは、バルトルトにもこの日が来ることを予感していたからだろうか。新しくあつらえた服はどれも上等だが、長く庶民として生活してきた癖で気後れしてしまう。
その点、汚れても何をしてもいい、黒装束の存在はありがたかった。
肩からガウンを脱ぎ落とすと、黒装束に着替えた。
フベルトに会いに行く。そして、バルトルトの屋敷から出ていく。出たのなら、二度と戻らないだろう。
この選択が正しいかどうかはわからない。後から悔やむだろうか。だとしても、無事に生きていられたらの話なので、考える必要もないだろう。
自室を音もなく出ると、隣のバルトルトの部屋の前で足を止めた。おそらくまだ、起き出してはいないと思われる。
だから、ノックはやめた。バルトルトの大きな体に触れているような思いで、閉ざされた扉に手を置く。
「バルトルト、今までありがとう」
告げたい言葉はいくらでもある。
牢獄で出会った時、脱獄して別れの時、屋敷に忍び込んで再会した時、街を散策した時、舞踏会に出た時、夕飯を食べた時、一緒に湯浴みをした時。すべての時間を引っくるめて言えることは「幸せだったよ」だった。
マレクは最後に「それじゃあね」と告げると、扉から離れていった。通路の窓が開くや否や、扉の前にいたマレクの姿は消え失せていた。
向かい合わせに座ったのは、今はバルトルトの隣に座るべきではないと察したからだ。
四人乗りの箱馬車は隣り合って座っていないと、空間が広く感じる。
バルトルトは窓枠に頬杖をついて、外の景色を眺めていた。
琥珀色の目は遠くに置かれている。口元は固く閉ざされていて、表情はない。
これまでマレクを真っ直ぐに見てくれた。不器用にも話しかけてくれたのは、奇跡だったのではないかと思う。
もし、あの牢獄で話しかけなければ、バルトルトの瞳には一時的でも自分の姿は映らなかった。
同じ馬車に乗って、舞踏会など出なかったかもしれない。
一方的に眺めていると、胸の辺りがせつなくなってきた。鼻の奥がつんと痛くなる。涙腺を刺激して来るから、視線を窓の外に移した。馬車が揺れる音しかしない。
行きの時に感じた温かさは、どこにもなかった。手には自分の体温しかなかった。
馬車が速度を落として止まると、バルトルトは我先にと出ていった。慌てて追いかけるが、マレクがステップを降りたときには、出迎えた執事を振り切ったところだった。
マレクを置き去りにしても、大きな背中は一切、振り返らない。そんなことは今までなかった。いつだって後ろを振り返ってくれて、手を伸ばしてくれていたのに。
傍から見ていた執事も事態を重く見たのだろう。
「旦那様はどうされたのでしょうか?」と、たずねてきた。非難めいたものではなく、主人の行動の真意を純粋に知りたがっている様子だ。
当事者であるマレクは、どう答えるべきかわからなかった。曖昧に笑って返そうとしたが、できなかった。
何もないと言おうとして、ためらう。何もない訳がない。自分の気持ちは偽れない。
俯いたマレクの様子を見て、執事は気づかわしげな顔をした。
「自室に戻られる前に、お茶でも召し上がりませんか?」
優しい声色が冷たい胸に染みる。マレクは顔を上げた。うなずいて「いただきます」と返事をしたとき、若干、涙声になった。優秀な執事は気づいていないように振る舞ってくれた。
談話室に案内されて、長椅子で腰を落ち着かせていると、銀の盆を持った執事が部屋に入ってきた。盆の上にはティーカップとティーポットが載せられている。
対になったそれは、マレク専用と言われた気がする。金色の縁取りがマレクの髪の色に似ているとか。バルトルトが本気とも冗談とも取れる話をしていた。懐かしく思い出すと、ぎゅっと心臓が絞られたような苦しみがあった。
執事はテーブルに盆を置くと、慣れた手付きでポットを持ち上げる。カップに紅茶を注いだ。
辺りは甘い紅茶の香りで占められていく。
湯気を漂わせたティーカップがテーブルに置かれて、マレクは感謝を述べた。白のカップに赤く透き通った水面が浮かぶ。それに向かって、息を吹きかけた。
カップを傾けて一口飲むと、胸の辺りを中心にして、体中が温かくなってくる。カップを持つ指先にまで、温もりが行き渡った。
何度か口に含むうちに、手汗が浮かぶほどに体温が上昇してきた。
執事はそんなマレクの顔を確かめると、安堵したかのように笑った。
「少しはお顔の色がよくなりましたね」
「え、そんなに酷い顔でしたか?」
マレクはカップを置くと、自分の頬を撫でて、表情を読み取ろうとした。わかるはずもない。一度、言われると、気になって仕方ない。
執事は神妙な面持ちでうなずいた。
「今にも泣き出しそうで、おひとりにしてはいけないと思いました」
確かにバルトルトがひとりで行ってしまって、寂しいという気持ちはあった。大きな背中を思い出すと、鼻奥がツンと痛くなる。
それでも簡単に表情を取り繕えると思っていた。言い当てられるほど、あからさまに顔に出るとは自分でも意外だった。
「お気づかい、ありがとうございます。おかげで落ち着きました」
素直に感謝の言葉を表す。熱が通ったからか、強ばっていたはずの頬は緩んだ。執事は笑い返した後、「しかし」と強調して真面目な顔を作った。
「舞踏会に行かれる前は、お二人は仲睦まじいご様子でした。しかし、帰宅した途端、自室にこもられました。旦那様とマレク様の間に、何が起きたのか。お聞かせいただいてもよろしいですか?」
何もないと言い張るのは、無理があるだろう。マレクにしても帰りの馬車までは、バルトルトと寄り添うことも会話もできていた。
執事がオルジフに似ていたためか、マレクは特段、話すことに抵抗を感じなかった。バルトルトとの間に起きたことや、舞踏会の後に起きたこと、自分の胸の内をぽつぽつと語り始めた。
話し終えるまで、執事は黙って聞いてくれた。結果的に、マレクがすべて悪い。そう思うのに、執事は場をわきまえたように何も言わないでいてくれる。
「バルトルトが怒ったのは、たぶん僕が突っぱねたせいです。でも、僕はバルトルトを巻き込みたくないし、危険な目に合わせたくないんです」
「マレク様のお兄様は、そんなにも危険な方なのですか?」
「追い詰められたら、何をしでかすかわからない男です。もしかしたら、罠を用意しているかもしれません」
何年も会っていないうちに、ますます狡猾になっているかもしれない。
「それなら、マレク様もお兄様と会わないほうがよろしいのではないでしょうか?」
関わらないほうがいいのはわかっている。すべてを忘れて新天地で生きていけるなら、それに越したことはない。
しかし実際は、簡単には割り切れない。母と長兄を殺したのは、間違いなく父と次兄だ。幼いマレクを殺そうとしたのもふたりに違いない。
行方不明の二人を探してきたのは、家族だからではない。単なる復讐心のためだ。この手で報復を受けてもらうためだけに、次兄と接触した。危ないと知りつつも、この血の繋がった家族と呼ばれる者たちを罰するのは、自分しかいない気がしている。
「それはわかってます。バルトルトが心配してくれているのも」
「でしたら……」
遮るように「でも」と言った。
「僕はそれを受け止め切れません。あの父や兄をどうにかしない限り、幼い頃の記憶は消えないし、ずっと、苦しみ続けるでしょう。すべてを忘れたふりをするなんて、無理です。バルトルトの隣で偽りの笑みを浮かべて過ごすなんてごめんです」
もっともな理由をつけているが、結局のところ自分自身が、バルトルトの隣にいるのは相応しくないと思っている。周りにどう思われるとかではなく、単純にバルトルトの幸せしか考えていない。
バルトルトはきちんとした家柄から妻を娶り、子を成して、幸せに生きるべき人間だ。マレクのように復讐を足枷に生きている人間とは釣り合わない。
足枷が取れたとして、マレクから与えられるものは何一つないのだ。財力も、身分も、子も。他の誰かが当然に与えられる幸せを、マレクは持っていないし、与えられない。
「僕と一緒にいないほうが、バルトルトは幸せになれます」
そんなことを言いながらも、簡単には割り切れなかった。自分ではない他の誰かを想像しようとすると、未練がましく胸の奥が軋んで痛む。歯の根を強く合わせて、込み上げてくる涙を堪えた。
それでも痛みなど永久には続かない。どんな痛みや苦しみにも終わりは来る。生まれついてから死に向かっていくように、出会っても例外なく別れるときは来る。それが遅いか、早いかだけだ。
マレクは自分にそう言い聞かせた。
執事は「マレク様にも事情というものがありましょう」と前置きした上で、「それでも旦那様を側で見続けてきた者として、お伝えしたいことがあります」と、さらに話を続ける。
「マレク様と出会う前の旦那様は、屋敷にお戻りにはなりませんし、食事も食堂をお使いになりませんでした。『貴族のような振る舞いは好かん』とおっしゃっていました。
しかし、マレク様に出会った旦那様は、確かにお変わりになりました。
忙しくとも毎日、屋敷にお戻りになります。マレク様と一緒に食堂をお使いになりますし。
マレク様のためにお部屋や新しい服をあつらえた時なんて!
『マレクはどういったものが好きだろうか』と、私共にたずねてきたのですよ。その時の旦那様は、生き生きとしていらっしゃいました。
仕える者として、微笑ましく見ていたものです」
穏やかな表情を浮かべる執事は、嘘偽りがないことを物語っている。あのバルトルトがマレクのためにそこまでしていたとは、深くは知らなかった。断片として感じていた優しさが、まとめて一つになって目の前に提示されたような気がした。
「旦那様は極めて特殊な環境で生きてこられました。常人では決して生きていけないような中を生き抜いて来られました。
ですからこそ、私や周りの使用人たちは、旦那様の幸せを切に願っております。
どうか、マレク様には後悔のない決断をしていただきたく思います」
バルトルトの過去には触れたことがない。自分の話は聞いてもらったのに、たずねることもしなかった。気にかかる場面や言動はいくつかあったのに。今になって思えば、聞いておけば良かったと、後悔の念が胸に広がった。
執事は正していた背中を少しだけ丸めて、吐息を落とした。
「まったく、年を取ると説教臭くなってしまいますね」
そんなことはないと首を振って、マレクは目尻に浮いた涙を拭う。未練がましい自分を潔く認めた。何も残さず、屋敷を去ることはできそうにない。
「ひとつだけ、去る前に頼み事をしてもいいですか?」
執事は一旦顔をしかめたが、無理やり表情を明るくさせて「何なりとお申し付けください」と、微笑んだ。
「バルトルトが本当にもし、僕を探すことがあったら、ひとこと伝えてほしいんです。探さなかったら、伝えないでいいです」
マレクは耳打ちでこっそりと“ひとこと”を伝えたが、執事は首を傾げた。それだけ聞いても、何のことやらという感じだろう。暗号とまでは言わないが、ふたりにしか通じない言葉だ。だから、使える。
執事は飲み込んだようで、うなずいた。
「承知しました。絶対にお伝えいたします」
もし探すことがあったらの話だ、絶対ではないと言ったのに、執事は熱を燃やしている。マレクは苦笑したものの、執事の気遣いを無下にはしたくなかった。
◆
影が色濃くなり、蝋燭の明かりだけが頼りになる頃、屋敷内はひっそりと息を潜めていた。
マレクは湯浴みを済ませた体で、クローゼットの前に立つ。両開きの扉を開けると、上等な服が所狭しと、かかっていた。
端にかけられていたのは、マレクがこれまで着ていたフード付きの黒装束だ。
捨てずに残しておいてくれたのは、バルトルトにもこの日が来ることを予感していたからだろうか。新しくあつらえた服はどれも上等だが、長く庶民として生活してきた癖で気後れしてしまう。
その点、汚れても何をしてもいい、黒装束の存在はありがたかった。
肩からガウンを脱ぎ落とすと、黒装束に着替えた。
フベルトに会いに行く。そして、バルトルトの屋敷から出ていく。出たのなら、二度と戻らないだろう。
この選択が正しいかどうかはわからない。後から悔やむだろうか。だとしても、無事に生きていられたらの話なので、考える必要もないだろう。
自室を音もなく出ると、隣のバルトルトの部屋の前で足を止めた。おそらくまだ、起き出してはいないと思われる。
だから、ノックはやめた。バルトルトの大きな体に触れているような思いで、閉ざされた扉に手を置く。
「バルトルト、今までありがとう」
告げたい言葉はいくらでもある。
牢獄で出会った時、脱獄して別れの時、屋敷に忍び込んで再会した時、街を散策した時、舞踏会に出た時、夕飯を食べた時、一緒に湯浴みをした時。すべての時間を引っくるめて言えることは「幸せだったよ」だった。
マレクは最後に「それじゃあね」と告げると、扉から離れていった。通路の窓が開くや否や、扉の前にいたマレクの姿は消え失せていた。
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