404

たぶん緒方

文字の大きさ
上 下
10 / 16

(10)

しおりを挟む
   ***


「帰るぞ」
「……」
 のろのろとシャツにボタンを嵌めながら、久住の言葉を無視した。
 先ほどまで行われていた行為を、誉は他人事のように思い出す。
 彼に組み敷かれ、身体を暴かれ、思うまま貪り尽くされた。痛みに呻いたけれど、ほとんど声を上げた記憶はない。早く終われとも、もっととねだるようなこともなかった。ただ、体中が熱く、獣のような行為だと思った。
「…俺がやる」
 そう言いながら久住は誉の前で少し屈み、シャツのボタンを代わりに嵌めていく。制服を元通りに着せると、慣れた手つきでネクタイまできっちり締めた。
 頬を優しく撫でられ、見上げると久住は弱り切った顔で誉を見ていた。
「もう泣くなよ…」
 そう言われて初めて誉は自分が泣いていることに気付いた。
 いつから泣いていたのだろう。何で泣いているのだろうか。
 制御出来ない心が暴走して誉に涙を流させる。
「俺が、悪かった」
 ぎこちなく誉を胸に抱き寄せ、苦しげに謝罪する。瞬間、カッと血が沸き立った。ありったけの力で久住を突き飛ばす。
「なに…謝ってんだよ…」
 怒りで身体が震える。
 そんな言葉はいらない。聞きたくなかった。
「全部俺のせいにすればいいだろ! 聞きたくないんだよ! 久住が言ったんだからっ…」
 久住に身体を暴かれながら、何で抵抗しないんだと詰られた。苛立たれ、強引に突き立てられ、それでも何も言わない誉に後悔を滲ませながら責め立てた。
「〝おまえが悪い〟って言っただろ…。それでいいんだよ。久住は何も悪くない。でも…もう、俺のことは放っといてくれ」
 誉は踵を返すと逃げるように教室を出て行った。久住は追いかけて来ることはなかったが、空き教室の方から何かをぶつける音がした。
 階段まで来たところで誉は手すりに寄りかかる。身体のあちこちが痛み、貧血を起こしているのか目眩もする。痛みを逃すように息を深く吐き、その場に立ち止まった。
 このままでは久住と蜂合わせてしまう。
 特別室は四階で、今居る場所は二階だ。荷物を取りに四階まで一度は行っても、こんな体ではすぐに追いつかれるだろう。一瞬荷物を置いて帰ることを考えたものの、財布や定期券を置いては帰れない。
 スマホを取り出し確認すれば十七時を過ぎていた。別校舎の特進クラスならまだ生徒も残っているだろうが、この校舎にはもう戸締まりしている教室ばかりで隠れる場所もない。
 背に腹は代えられない。
 誉は手すりを握りしめながら階段を下りる。
スマホに新しく登録したアドレスを呼び出しメールを打つと、剣道部の練習する道場までふらつく足で向かった。


   ***


「峰石ぃ…俺がメールに気付かなかったらどうするつもりだったんだよ…」
 道場裏にあるコンクリートの階段に腰を掛けて待っていた誉を見つけ、加藤は心底呆れたように言葉を吐いた。
「でも、気付いてくれたし」
「気付いてくれた、じゃねーよバカ。練習中見れる方が稀なんだよ。剣道部舐めてんのか。世間知らずが」
 加藤に軽く頭をはたかれて、怒られているのに嬉しくなってしまう。頭を擦りながら素直にごめんと謝れば、何かあったのかと問われた。それには笑って曖昧に流し、本題を切り出す。
「ごめんついでにお願いがあるんだけど」
「ああ、もう、この際なんでも言っとけ」
 腕組みながら至極面倒臭そうに加藤が言い放つ。
 申し訳ないなと思いつつ、誉は特別室に置いてある荷物を取ってきてほしいことを告げると、加藤は目を瞬いて驚き、しばらく固まってしまった。
「ちょっと色々あって取りに行けなくて…」
 続けてそう言えば、大きな溜め息と共に了解してくれた。
「とりあえず外じゃ冷えるから、部活が終わるまで部室で待ってろ」
 加藤は気持ちを切り替えたのか、剣道部主将然としたきりっとした顔で誉を部室へ促す。
「部外者が入っていいの?」
「いいわけねーだろ」
 加藤の後を追いすがりながら尋ねれば、すかさず目を眇めて返してくる。完全に主将モードではないらしい。
「顧問に頼んでおくからそのあたりは気にするな。あと──、具合悪そうだけど大丈夫なのか?」
 加藤は部室の前に辿り着くと、ノックもなくドアノブを引き、入れと目配せする。緊張しながら室内へ入り見回せば、男子の部室とは思えないほど整理整頓されていた。
「できれば羽織れるもの貸してくれるかな?」
 室内は外に比べれば雲泥の差で暖かい。しかし加藤を待つ間に身体が冷え、手足が思うように動かなくなっていた。
 聞くや否や左右の壁に誂えた格子状の、二十個ほどある荷物置きから自分のコートを取り出し、加藤は誉に投げ寄越す。うまくキャッチ出来ずダッフルの重みが頭にかかり、誉はもぞもぞと顔だけ出して礼を言う。
「ありがとう。あったかい」
「礼はいらんから休んでろ」
 確か座布団があったはず、加藤はそうぶつぶつ言いながら探し出すと、誉に座るように促し、部室を後にした。
 加藤のコートを肩に掛け、座布団の上に猫のように丸まりながら横になる。
 久住に暴かれた体が痛くて姿勢を変えるたび息を飲む。今は冷えすぎて痛さも緩和しているものの、やはりダメージは大きかった。
 しかしそれを上回るほど心は空っぽで、何も感じなかった。
 〝何で抵抗しない〟
 〝おまえが悪い〟
 行為の最中、久住はずっと辛そうな顔をしていた。
 憐れんでいたのかもしれない。それを見て無性に悔しさが込み上げた。それとも怒りだったのだろうか。
 強烈な出来事だったにもかかわらず、どこか他人事のように現実感が薄く、誉は両手を握りしめてみる。強く握りしめれば握りしめるほど、手にしたものは何もなくて、まるで今の自分そのもののように感じた。
 何も求めない。
 こんな歪な恋を求めてはいけない。
 じゅうぶん分かっていた。だから与えられるなら、たとえ望んでいないものでも受け止めたかった。それによって自分が傷付くことになっても自業自得で、誰も責めたくなかった。
 こんな独りよがりな想いに情けはいらない。憐れまれて惨めになりたくなかった。
 誉に残っていたプライドは、それくらいしか残っていなかった。
 〝おまえが悪い〟と久住に言わせた。言われれば酷く胸に痛みを感じたが、そう仕向けたのは自分自身だ。久住は悪くない、誉が悪いのだと責められればとても安心した。
 優しさはひとを傷付ける。
 もしあのとき、久住に優しい言葉掛けられていたら、すべてが欲しくなってしまっただろう。手に入らないものを欲しても虚しいだけだ。
 渇いた心を潤せるのは、それもまた心でしかないのだ。
 手に入らないなら望まなければいい。望まなければ傷付かない。そう思わないと弱音を吐いてしまいそうで苦しかった。
 だから全部自分のせいにして、楽になりたかった。
「逃げてる…だろうな…」
 ぼんやり、他人事のように思う。
 誉は握りしめた掌を解くと、赤い三日月型の爪あとが残っていた。
 加藤を待つ間に眺めていた、雲の切れ間に見えた月はどんな形をしていたのだろう。


 人の話し声が聞こえるな、と思いながら目蓋をうっすら持ち上げると、誉の周りを取り囲むように道着を着た部員が覗き込んでいた。
数度まばたき、状況を理解して慌てて起き上がる。一瞬くらりと目眩がしたが、腕で支えながら体勢を整えた。
「あ、の…加藤に言って部室で待たせてもらってました…二年の峰石です」
 とりあえず状況説明だけでもしないとどう見ても不審者だろうと思い名乗れば、皆口々に知ってますと返ってきた。
「部長が〝部室にでっかい野良猫が居るからちょっかいかけるな〟って言ってました」
 誉を取り囲む一人がそう言うと、相づちを打つように皆一様に頷く。
「野良猫…」
 もう少し他の言いようがなかったのかと、誉はがっくり肩を落とす。
「野良猫だろ。半年以上懐かなかったのに気まぐれに懐に飛び込んできたりするし」
 いつからそこにいたのか加藤はしれっとそう答えると、誉を取り囲む部員たちを手を振って追いやった。
(やっぱりこんなこと頼んじゃまずかったのかな)
 連絡先を交換したくらいで頼るのは間違っていたのかもしれない。人間関係に不慣れなので匙加減が分からず、迷惑だったのだろう。
 とたんに加藤に申し訳なくなり、ここに居るのがいたたまれなくなってきた。
 項垂れていると部員たちが口々に加藤を責め始める。
「ほらー部長がいじめるからー」
「そうっすよ! 可哀想じゃないすか」
「確かに。今のは加藤が悪いよな」
「だよなー。俺にはそんなこと言えねぇわ」
「はいはい俺が悪い。全部悪い。じゃ、戸締まりよろしくな」
 加藤は着替えを手早く済ませ、部員の野次をいなして誉の肘を掴んで立たせると、部室を後にした。
「なんか、色々ごめん…」
 部員から口々に責められる加藤を庇うこともできず、おろおろと後を付いて行く。加藤は振り返り、これ見よがしな溜め息を吐いた。
「おまえがそんな態度だから俺がイジられるんだろうが」
「それはもう何て言えばいいのか…」
 目に見えて消沈していく誉を見て、加藤は苦笑いして冗談だと告げる。
「峰石って、わりと物怖じせずに言いたいこと言う方だけど、いまだに他人行儀が抜けないよな。そんなに俺が怖い? それとも何かあるのか」
 特別室へと続く渡り廊下を歩きながら問われ、心臓がはねる。辺りは人影もなく静かで、加藤の声はさして大きくもないのに耳に響いた。
 何度も何度も思い出す。廊下で泣いたあの日、すべてを諦め、求めないと決めたことを。
 誰かに縋りたい気持ちが溢れそうになれば、戒めのように居なくなってしまった友だちの顔を浮かべる。そうしなければひとりで立って歩くこともできなかったから──。
 特別室のある校舎が見えてきて、加藤は立ち止まり振り返った。
「電気点いてるぞ」
 その言葉に視線を上げると、四階の右端に見える特別室からは目印のように明かるい光が点されていた。
 なんで、と呟いたまま誉は固まってしまう。
 久住か高藤が電灯を消し忘れたまま帰ったのだろうか。それとも、鞄を残している誉が戻ってくることを見越して、点けたままにしているのだろうか。あり得ないことではないけれど、誉はそのどちらでもないような気がした。
(あんなことがあった後だから…)
 何故だか久住が待っているような気がした。
 勝手な妄想だ。
 顔を合わせることも言葉を交わすことも怖いくせに、待っていてくれれば嬉しいと、心のどこかで思っている。拒絶したのは自分の方なのに。
「とりあえず行こうぜ」
 加藤は突然そう言って、誉の二の腕を掴むと建物の中へ歩き出した。
「いや、待って。ちょっと待って。違うんだってば。一緒に荷物を取りに行くんじゃなくて、加藤に行ってもらいたいんだ」
 誉の言葉は聞こえてるはずなのに、加藤は鼻歌まじりにぐいぐい引っ張っていく。
「ほんとに困るから…って、もう、離せ筋肉ばか!」
 悪態をぶつけて思い切り手を振りほどくと、加藤はぶはっと思い切り吹き出した。
「いいじゃん。その調子でもっと罵ってみて」
 にやにや笑う加藤にむっとして何か言い返そうかと思ったけれど、何だか馬鹿馬鹿しくなってやめた。
「変態か」
 かわりに一言罵った途端、加藤は爆笑して腹を抱えた。何がそんなに面白いのか全く理解出来ないものの、いつの間にか、誉もつられて笑っていた。


   ***


 学校から最寄り駅で加藤とは別れ、電車に乗り込む。左手には高校指定の革の鞄が提げられていた。この重みに安心するのは初めてのことだ。
 あの後、ひとしきり笑って気が済んだのか、加藤は特別室まで荷物を取ってきてくれた。気になって誰か残っていなかったのか訊けば、明かりが点いているだけで誰も居なかったと言われ、ほっとしたような、少しがっかりしたような複雑な気分に陥った。
 結局、加藤は誉に何があったのか一切訊かなかった。ただ、薄々は何か感じているようで、道すがら誉の歩調に合わせて取り留めない話をしていた。
 別れ際、「よく寝ろよ」と誉の頭をくしゃくしゃと撫でていたその顔は、怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情だった。
(やっぱり少しは説明した方がよかったな…)
 とはいえ、何をどう説明したらいいのかさえ分からない。そもそもレイプされたなどと、ひとに話せるような内容でもないからどうしようもない。
(レイプだなんて…被害者面かよ)
 誉は自分自身にいらつき、胸の内で舌打ちした。
 確かに初めは無理矢理組敷かれたものの、抵抗は一切しなかった。むしろ受け入れたのだ。心の中で浅ましく欲しがっていたものがそこにあったから。
 むしろ被害者は久住の方かもしれない。男の誉なんかを抱くことになって、どんな気持ちでいたのか。誉には知る由もないが、きっと不快でたまらなかったはずだ。
 誉は出入り口のガラス窓に額を付けて、そっと息を吐く。揺れる電車と冷えた窓が心地良い。
 満員電車で窮屈であるのに、誉はどこかほっとしていた。檻の中に閉じ込められているようで、安心した。
 誰も傷付けたくない。誰にも傷付けられたくない。誰にも憐れまれたくない。
 なのに本当は、誉自身が自分のことを一番憐れんでいた。
 かわいそうな自分。
 誰にも見向きされない自分。
 ひとりぼっちな自分。
 そうやって出来上がったのが今の峰石誉なのだ。
 結局、幼かったあの日の自分がいまだに誉の心を支配している。心も体も久住を求めても、立ちはだかるのは〝かわいそうな自分〟だ。それが当たり前のように居座り、欲しいものを欲しいと言えなくさせる。
 辛くない、と言えば嘘になる。だけど、大切なものが目の前からなくなってしまうことの方が、よほど苦しい。
 それは裏返しでもあった。
 深く関わらないことで傷付かないで済むという、心の安定があったから。
 心が不安定に揺れ動くことは怖い。
 それなのに、久住を求めてやまない。
 どうすれば、誰にも執着せず生きていけるのだろうか。
 流れる住宅街の明かりを見つめながら、ガラス窓にそっと手を触れてみた。窓越しの明かりはただでさえ弱く、手で覆えば消えてしまう。流れるままにまた現れた明かりを、誉はどこかほっとしながら見つめた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

唐揚げは胸かももか?

大衆娯楽 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

魔法を極めし隠者と忌み子の放浪記。

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

君への恋は永遠に

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

三二・七六八の響き

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

金木犀は誘惑のかおり

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

書きたいシーン

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

ふたなりシスター百合日常

恋愛 / 完結 24h.ポイント:14pt お気に入り:7

いじわるな先輩の隣。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:0

孤独の星

現代文学 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

処理中です...