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アンチ・リアル 31
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「アンチ・リアル」 31
高山を出る頃には陽が傾きかけていた。
帰りの国道は、夕方の宵に紛れ、カードを裏返したようにその表情を変えた。
窓の外を走り去っていく、季節の変わり目にたゆたう背景を額にして、薫の横顔を何度も横目で見流す。
こんな機会が、この先にあるとしたら、自分の人生はどんな風になっていくのだろうと日出郎は思う。
そこにはいくばかの罪が、望みはしないにしても、別れと共に自分の存在を汚すことになる。
希望と絶望は、相反するのではなく、同義なのだ。
256号線に入る頃には陽は落ち、付知川の姿はもう闇の向こう側となり、それが近くに来た時に時折耳にする川の音だけとなっていく。
長い距離だが、薫は眠気に微睡むこともなかった。
名古屋に戻り、薫のリクエストで仲田にある串焼きの店で晩餐を祝い、かつて二人で行ったことのある、上前津のバーに行くことにした。
特にバブル前後に鬼才として脚光を浴び、名古屋から全国的に活動することになったポストモダンの建築家、吉柳満の手掛けた賃貸住宅の中に、その店はあった。
バー「紙音」は、かなりのモルトを揃えた、今でいう隠れ家的ダイニングバーの走りだった。
この店に限らず、特徴のある吉柳満の賃貸住宅の一室を、飲食店として使った案件は幾つかある。
都心の賃貸なので、高層部分は分譲並みの広さの高級物件で、夜景も映えるロケーションは雑誌などでも取り上げられた。
バーのオーナーは変わり者で、以前来店した時に店を売ると言っていた。
薫はそのオーナーと、店に置くグラスのためにクラフトガラスの工芸家を紹介した仲だった。
クラフトガラスの魅力に憑かれたオーナーは、自分でクラフトガラスをやりたくなってしまい、店を他に譲って北海道に移住してしまったのだ。
店は、違うオーナーが運営していて、内装はそのままだが、馴染み深い雰囲気は無くなってしまっていた。
「私のせいかしら」
薫は、悪戯気味に微笑むと、マッカランのロックに口をつけた。
カウンターの下で、薫の左手を握った。
薫はやさしく、右手で日出郎の手に被せるようにして、その手を上手く自分の手から離した。
「私の手、痩せてて、きれいじゃないでしょ。
日出さんの手の方が、なんか女の子の手みたいにきれいなんだから」
以前、「手は人の心を表す」と、頼子は日出郎に言った。
どうしてと聞くと、理由はないけど、私はずっとそう思っていると言う。
「だから、私より華奢にみえるこの手は、日出郎はやさしいってことなの。
だけど、そのやさしさは、時として迷いを生む。
あなたはいつも、そう」
思い出して日出郎は、なんとも言えない気分になった。
店を出て、夜中の裏道で、壁にその体を押し付けるように日出郎は薫を抱き締めた。
薫は笑って、腕で日出郎を押し離そうとした。
「日出さん、ちょっとだけ離れて。
口を開けて。」
薫の言っている意味がわからないままに、日出郎は半分ほど口を開けて、薄目を閉じた。
薫の口が近づくのがわかる。
そして薫は、細い指を日出郎の上唇に添えると、突然、日出郎の八重歯をやさしく吸った。
日出郎は心臓が止まりそうになった。
感情にエクスタシーというものがあったら、あの時間違いなく、日出郎は一瞬で絶頂に達していた。
そして薫は一気に日出郎から離れると、「さようなら」と言うなりその場から走り去った。
あまりに突然な出来事の連続に、日出郎は茫然自失の状態に陥り、薫の後を追うことすらできなかった。
「おやすみ」ではなく、「さようなら」だった。
薫の柔らかい唇と舌の感触によって、日出郎の五感と感情は、完膚なきまでに破壊された。
高山を出る頃には陽が傾きかけていた。
帰りの国道は、夕方の宵に紛れ、カードを裏返したようにその表情を変えた。
窓の外を走り去っていく、季節の変わり目にたゆたう背景を額にして、薫の横顔を何度も横目で見流す。
こんな機会が、この先にあるとしたら、自分の人生はどんな風になっていくのだろうと日出郎は思う。
そこにはいくばかの罪が、望みはしないにしても、別れと共に自分の存在を汚すことになる。
希望と絶望は、相反するのではなく、同義なのだ。
256号線に入る頃には陽は落ち、付知川の姿はもう闇の向こう側となり、それが近くに来た時に時折耳にする川の音だけとなっていく。
長い距離だが、薫は眠気に微睡むこともなかった。
名古屋に戻り、薫のリクエストで仲田にある串焼きの店で晩餐を祝い、かつて二人で行ったことのある、上前津のバーに行くことにした。
特にバブル前後に鬼才として脚光を浴び、名古屋から全国的に活動することになったポストモダンの建築家、吉柳満の手掛けた賃貸住宅の中に、その店はあった。
バー「紙音」は、かなりのモルトを揃えた、今でいう隠れ家的ダイニングバーの走りだった。
この店に限らず、特徴のある吉柳満の賃貸住宅の一室を、飲食店として使った案件は幾つかある。
都心の賃貸なので、高層部分は分譲並みの広さの高級物件で、夜景も映えるロケーションは雑誌などでも取り上げられた。
バーのオーナーは変わり者で、以前来店した時に店を売ると言っていた。
薫はそのオーナーと、店に置くグラスのためにクラフトガラスの工芸家を紹介した仲だった。
クラフトガラスの魅力に憑かれたオーナーは、自分でクラフトガラスをやりたくなってしまい、店を他に譲って北海道に移住してしまったのだ。
店は、違うオーナーが運営していて、内装はそのままだが、馴染み深い雰囲気は無くなってしまっていた。
「私のせいかしら」
薫は、悪戯気味に微笑むと、マッカランのロックに口をつけた。
カウンターの下で、薫の左手を握った。
薫はやさしく、右手で日出郎の手に被せるようにして、その手を上手く自分の手から離した。
「私の手、痩せてて、きれいじゃないでしょ。
日出さんの手の方が、なんか女の子の手みたいにきれいなんだから」
以前、「手は人の心を表す」と、頼子は日出郎に言った。
どうしてと聞くと、理由はないけど、私はずっとそう思っていると言う。
「だから、私より華奢にみえるこの手は、日出郎はやさしいってことなの。
だけど、そのやさしさは、時として迷いを生む。
あなたはいつも、そう」
思い出して日出郎は、なんとも言えない気分になった。
店を出て、夜中の裏道で、壁にその体を押し付けるように日出郎は薫を抱き締めた。
薫は笑って、腕で日出郎を押し離そうとした。
「日出さん、ちょっとだけ離れて。
口を開けて。」
薫の言っている意味がわからないままに、日出郎は半分ほど口を開けて、薄目を閉じた。
薫の口が近づくのがわかる。
そして薫は、細い指を日出郎の上唇に添えると、突然、日出郎の八重歯をやさしく吸った。
日出郎は心臓が止まりそうになった。
感情にエクスタシーというものがあったら、あの時間違いなく、日出郎は一瞬で絶頂に達していた。
そして薫は一気に日出郎から離れると、「さようなら」と言うなりその場から走り去った。
あまりに突然な出来事の連続に、日出郎は茫然自失の状態に陥り、薫の後を追うことすらできなかった。
「おやすみ」ではなく、「さようなら」だった。
薫の柔らかい唇と舌の感触によって、日出郎の五感と感情は、完膚なきまでに破壊された。
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