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第三章 ちゃんと私を見てくださいよ先輩!

死ねてよかった

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 謎の液体が落ちていた場所から少し離れた所で。

(ここで……終わるのか……)

 熊こと、熊野幻弥くまのげんやは蝋燭のようにドロドロに溶けていく自らの体を見てそう死を覚悟した。

 染色解放銃の代償はひどく重かった。
 幻弥の体が無理矢理引き延ばされた“豪傑熊”に耐え切れず、崩壊を通り越して溶解しているのである。

 幻弥が化物になり自我を失っていた間は、彼の体に焼けるような壮絶な痛みと見知らぬ人間に全身を舐め回されるような不快感だけを味わっていたが、彼はもう今はそれも感じていなかった。

 神経も機能を為さなくなっている。
 それは彼の体が終わりに近い事を意味していた。

 最後の最後に、彼は自我を取り戻したのだ。

(なんだ……? 昔の記憶が……)

 溶けかかっている彼の脳に、馴染み深い映像が映し出された。



 ――2年前。

「何で酒も買ってこれねえんだ! このクズが!」
「痛っ……!」

「クソがクソがクソが……酒さえありゃ俺は完璧な人間なんだよ……酒がぁ! 俺にはぁ! 必要なんだよぉ!」

「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」
「やめろ親父! あやがなんかしたなら俺が謝るから!」

 激昂して妹を折檻する父親を慌てて止めに入る幻弥。
 彼の父親は酒に溺れ、家族に暴力を振るっていた。

 父親は一般人である為、特色者の幻弥を標的にする事は無かったが、一般人の妹の文は格好の的となった。

「チッ……クズが……!」

 幻弥の父は彼が間に入るとすぐさま折檻を止める。
 彼はいつも、父が暴走した時は必ず文の前に立ちかばっていた。

 母親は幻弥と文を見捨て他の男と逃げた為、幻弥以外に文に味方は居ない。

 故に幻弥が文を守り切らなければならなかった。

 父が自室に籠るのを見ると、幻弥は文の傍に寄って優しく声を掛けた。

「助けに入るのが遅れてごめんな、文。大丈夫か?」
「大丈夫なわけないじゃない! 凄く痛いわよ……! 何で私がこんな目に……!」

「………」

 整った顔を歪ませながらそう恨み言を言う文に、幻弥の心は申し訳なさで埋め尽くされた。

 自分の所為で、文が。
 まだ中学生だと言うのに、この子が一体何をしたというのか。

 幻弥は、迂闊に力を振るう訳にもいかない自分が恨めしかった。
 拳を血が出る程握り締める幻弥に、文がぽつりと言う。

「……ごめんなさい。お兄ちゃんは私を守ってくれたのに……」
「いいんだ文。ふがいない俺が悪い」

「いや……そんな事ないよ……弱いのは私だもん……」
「それはない……! 今の状況を耐えてるお前は、すごく強いよ……」

「そう、なのかな……」

 文はそう呟いて薄く儚い笑みを浮かべる。
 それを見た幻弥はさらに胸の奥がぎゅっと引き締められた。

「……いつか、元の優しい親父に戻ってくれるはずだ。
それまで俺が絶対守るからな、文」

「……ありがとう。ごめんねお兄ちゃん」
「いいんだよ、家族なんだから」

 幻弥がそう言うと、文は少しだけ明るく笑った。
 その笑みが、あまりにも綺麗で、儚くて。

 彼は文を守る決意を、更に強くした。

 二人は、そうしてけなげに苦しい環境を生きていた。

 父の、更生を頼りに。

 だがそれは、突然終わりを告げる。
 運命の糸によって。

 ある日幻弥が大学から家に帰ると、また文の悲鳴が耳に入ってきた。

(またか……! 親父め……!)

 バッグを置き、急いで文の下に駆け付けると――。

「痛い……痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――!」

「おい文……どうしたんだよ……!? 一体何があった!?」

 そこには父の姿は無く、苦しみ悶える文が居るのみだった。

 幻弥は尋常でない文の様子にこれはただ事ではないと察した。

 幻弥が声を掛けても、文はただ半身を潰された虫のように転がり続けている。

「どうしてこんな事に……ん?」

 幻弥はふと、文の制服のスカートに目をやった。
 そこで彼は恐ろしい事実に気付いた。

 文のスカートに、夥しい数の細かい穴が開いている。

 ごく細い針か糸を通したかのような。

 文の肌には傷一つ無いが、文がこうして悶えている原因はそこにある事を示していた。

「何だこれ……何なんだよ……!」

 何の意味があるのかは想像も付かなかったが、
少なくとも、正気の人間がやる事では無かった。

 そして、この行為が今文にとてつもない苦しみを味わせている。それだけは確かだった。

 こんな事をする人間は、確実に精神を病んでいる。
 幻弥には、その精神を病んでいる人間に心当たりがあった。

「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い――」
「うるせえぞクズが! 黙れ! 息の根ごと止めてやろうか!!」

「お前か……こんな事をしたのは……」
「ああ?」

「お前かあああああああああああああああああああっ!!!」

 幻弥の心が、絡みつくような憤怒に駆られた。
 猛獣のように吠えると、激情に応えるかのように体が猛々しい熊へと変貌し、意識が暗転した。





 幻弥が次に意識を取り戻したのは、文の胸を自らの爪で刺し貫いた時だった。
 彼の“豪傑熊”が、文に牙を剥いたのだ。

「え……ぁ……」
「おにぃ……ちゃん……」

 幻弥は、自分が何をしてしまったのか、理解が出来なかった。
 いや、理解を阻んでいた。

 自らの豪腕にある、消えつつある命の灯の事を。
 そんな幻弥に、文がこれまでに無い程の幸せな微笑みを浮かべて言った。

「あり……がと……う……おに……い……ちゃん……
これ……で……も……う……わたし……いたく……ない……」

「文……アヤ……あや……ッ!!!」

「あ……りが……と……ら……く……に……なれ……る……しねて……よかっ……た――」

「ぁっ……………!」

 文の身体が、魂を失い、崩れ落ちた。

「うっ……うああああああああああああああああああああああああっ!!!」

 物言わぬ骸と化した最愛の妹を前に、幻弥は激しく慟哭した。

 この上無く罪悪感と哀しさに苛まれ、感情が堰き止められなくなる。

 幻弥は、崩れた家の残骸の上で、涙を流し続けた――。



(これが……走馬灯、か……)

 幻弥の頬を、一筋の涙が伝う。

(この後だっけ……クスリに手を出したのは……)

 最愛の妹を喪った彼は、人が変わったように自暴自棄になり、クスリに溺れ、いつの間にか死んでも使うまいとしていた“豪傑熊”で日銭とクスリ代を稼ぐようになっていた。

 精神を、切り刻みながら。

(どこで間違えたんだろう……)

 幻弥は、過去を見て、そう強く悔やんだ。
 そして、一つの考えに辿り着く。

(……分かった、生まれてきた事だ! 俺が生まれてこなければこんな事にはならなかったんだ!)

 溶け始めた頬を歪ませて、幻弥は笑って最後に言った。
 誰の耳にも届かない声で。



 死ねてよかった、と。



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