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遠くなる貴方
しおりを挟む「急いで……っ」
巡る呼吸の音が、移り変わる景色の中で放たれる。イリスの長い金髪が風に遊ぶように揺れ、落ちては上がりを繰り返した。
たくましい馬に乗っていることが正直、信じられなくなる。過ぎゆく視界に思い浮かべるのは鮮やかな銀色の人だった。
ディッシュの言葉が、頭によぎる。
『ごめんな、それは出来ない』
仕方がないと思った。どうあがいても彼を突き動かすのは真っ直ぐな思いだと知っていたから。
あの後、ディッシュからもらった少ない食べ物を口にして、行動に出た。存在感を示すように近くに置かれた剣を使って……鎖を断ち切り、あの部屋から抜け出した。重たい体を引きずるようにして、見張りにいた人を気絶させてまで逃げ出した。ごめんなさい、と声にならない声を呟いて、銀に発光する剣を握りしめていた。
ディッシュには何も告げずに抜けだしてきていた。
こんな真夜中に馬を走らせ、向かうのは生まれ育ったお城。
ディルにもう一度会いたいという気持ちが今のイリスを動かしていた。最後に会った日から、気がつかない内に数日たっていたらしい。ディッシュが来たときそう言っていた。
ひたすら暗い道を前に進んでいく。
「……ディル」
――どこに、いるの。
激しい息切れが何度かイリスの口から飛び出していく。心臓を落ち着かせようとしても、時間ばかりが急かしていく。
まだまだお城は見えてこない。
剣技大会に行くために乗った馬車でも時間がかかったのだから仕方ない。そう思っても、もどかしい。
焦りが呼び寄せるのは危険だと分かってる。それでも一秒でも早く辿りつきたい。それに気絶した見張りに気付いて、いつ追手が来るのか分からない。
「は、はぁ……っ!」
馬も疲れを見せてきて速度が最初よりも落ちている。重低音に揺られながら、ただイリスは走っていった。
「もうすぐ夜が明ける……」
冷えた空気が肌に染み込んで、体の熱を少しだけ奪っていく。
ディルはこの温度を感じているのだろうか。どんな思いを抱えて、どんな顔でいるのだろうか。
一体どれくらいの距離を進んだのか、いまいち掴めない。閉じ込められていた所は剣技大会が行われた場所より少し離れていたのは理解できた。夜が明けるころにはお城まで半分の距離にまで進めるかもしれない。
何事もなければ、だけれど。
「……面倒ね」
胸にあった嫌な予感は、的中することになった。こんな夜明けに女性が一人、馬に乗っているのがいけない。無防備にもほどがある。襲って下さいと言っているようなものだ。
がさがさと音がしたと思ったら何人かの男性がにやにやとしながら剣を持って現れた。鋭利な刃物で恐怖心を煽ろうとしているのか、青光りする剣の光がやけに目につく。
「何か、御用ですか…」
いつの間につけていたのか、とイリスは悔しそうに顔をしかめた。馬を走らせようとしてもさっと行く手を阻まれ、前へ進むことは出来なかった。
時間がないのに……!と焦る気持ちだけが膨れ上がっていくが、この状況は無視できない。さっと目配せをすれば、五人も囲まれていた。全身を舐めまわし品定めする感じが伝わってくる。
「いーぃねぇっその強気な視線、態度!久しぶりに上玉が手に入りそうだ」
「かなりのもんだなぁ、お前さん。売り飛ばせば三年は遊んで暮らせそうだ」
「一暴れしてから金目の物引っ張り出そうぜ」
物騒な会話が交わされ、内心イリスの心臓がバクバクだったが、表には出さないでいた。剣を持ってきて本当によかったと思う。武器がなかったら何もできなかったはずだから。
「先を、急いでいます。どうか道を開けて下さいませんか」
慎重に問うが、答えなど分かり切っている。こんな大人数で一人を囲むのなら目的は一つしかない。イリスは手に汗がにじんできていた。動揺している体の震えを抑えつけようとするが無理だった。
「へーぇ、貴族階級の喋り方をするのか。どうも雰囲気が違うと思ったわけだ」
「上品で気高い女は嫌いじゃねぇぜ。仕込み甲斐があるってもんだ」
「痛いのが嫌なら反抗すんじゃねーぞ、お嬢ちゃん」
やはり、彼らは退く気がまったくないようだった。
イリスはごくんと息を呑んで、小さく深呼吸をした。
自分の腕がどこまで通用するか分からない。だけど、やらないと自分がやられてしまう。誰も傷つけたくないのに、剣を抜かなければいけない。後には引けない、自分の手を汚すことになるだろう。
それでも、今はすべきことがある。ディルはこんな覚悟をずっと前から背負っていたのかしら。イリスはふとそんなことを想った。
「退いて、頂けないのですね……」
最終確認をすると、イリスはぼそりと呟いた。男たちはじっくりと舐めまわすように見つめた後、にやにやと口の端をつり上げながら一斉に襲いかかってきた。
「大人しく観念しなぁーっ!」
そして、イリスの瞳が一気に変化した。瞬時に剣を抜くと馬から飛び降りて地面に着地した。いきなりのことに男たちの動きが一瞬止まる。まさかそんな行動をするとは思っていなかったのか、あんぐりを口を開いている。
「……どうか、許して下さい」
正当防衛と言ったら楽だけれど、人を傷つけることに変わりはない。
ブンッと銀の線が空中を浮遊してすぐに消えていく。イリスは金の髪を揺らしながら、一人ひとりの攻撃を押し留めていった。意識を失わせることに全力を注いで、キッと歯を食いしばって剣を滑らかに動かした。空気に溶け込む舞のような剣の揺らめきに後退する男たちに動揺が走っていく。
「な、なんだコイツ!剣なんか隠し持ってやがった!」
「落ち着け、たかが女だっ」
「こっちは五人がかりだぞっ!」
イリスは油断の隙をついてどんどんと倒していった。激しい息が耳元に張り付いてくるが、今はただ、目の前の相手の剣の音に集中した。
「はぁ……はっ!はー…っ」
イリスは肩を上下させながら大きく息を吐いていた。震えた手に握られるのは自分の鋭利な剣だった。なのに、触れている感覚が遠く感じる。
地面に横たわるのは……自分ではなく、襲おうとしたあの人たちだった。
本気だった。目の前が分からなくなるくらい、左も右も意識できなくなるほど、真っ白だった。
本能。生きようする、体の力。こんなにも理性を失った戦いは初めてだと感じるくらい必死だった。ただ、体に従うまま剣を動かした。
「なんて、ことを……」
殺してはいない……いない、はず。神経に脈打つ血の鼓動の早さに驚きが生まれ、急に力がなくなってどさっと腰を下ろした。
まだ相手の息遣いが耳元で暴れている。向こうも途中から真剣になって粘ってきた。それでも、今ある現実を見る限り、己が勝ったということなのだろう。
余裕などなかった、ちらっと脳裏に浮かぶのはディルの顔ばかりで。込み上げる震えが、止まらない。指に伝わるのは、銀の衝突で。
「行か、なきゃ……」
まるで呪文のように繰り返して、イリスはふらふらっとなる体を何とか奮い立たせる。
お城に。ディルのもとに。もう時間がない。
「つい、た……わ」
その後の記憶は靄がかかったように曖昧で不完全だった。
体は全身に鉛を乗せたみたいに重くて、気力だけで立っている状況だと気づく。水分も食事もとらず休みなしで走り続けて、馬にも大変な迷惑をかけてしまった。
置き去りにしたあの人たちに気を配る余裕なんてなかった。
時間だけが無情にも過ぎていく。あれから何時間たったか分からなかった。
目の前に広がるのは生まれ育ったお城。慣れ親しんだ場所なのに、今はどこかセピアに見える。ふらりゆらり揺りかごのように、景色が斜めになったりした。
「――…ディ、ル…」
自分で何を口にしているのか、イリスは頭が認識していなかった。一気に駆け抜けた疲労感が着いた途端、どっと雪崩のように襲いかかってきた。
目立たないお城の裏門を前にして、ついに馬から滑り落ちた。硬い地面との接触が再び意識を浮上させるが、すぐに闇に吸い込まれそうになる。
ぐたりと垂れる自分の腕を見て、情けない……とイリスは静かに口が動いた。騎士団の統率のとれた足音が聞こえてくる。
「おい、あれは?」
誰かの声が鼓膜の奥で響いたのが分かったけれど、イリスはもう瞳の先は見えなかった。
『許しはしない、決して。地の果てまで、この憎悪と共に生きていく』
『高みの見物か?廃れた亡国の王子を、軽蔑の眼差しで見つめていたんだろう』
『同情と見せかけてそこまで周りの感心を引き寄せたいのか』
『その息の根を止めるまで、いや止めても――…この憎しみは生き続ける』
待って、違うの。そんなこと、思っていないのに。
お願い、私を、嫌わないで……憎まないで……ディル!
本当は、本当は――…
私は、 貴方が… 。
「やめてぇ!!」
イリスはびくんっと肩が上下に揺れて、全身が汗だくの状態で目を覚ました。心臓が甲高い悲鳴を上げている。胸を突くディルの声が凄まじい息切れを近寄せる。
まるで、ディルの本当の声を聴いたかのようだった。心の内を、合わせ鏡で鮮明に代弁したみたいに。怖くて寂しくて切なくて、目の端から涙の粒が幾つも散っていく。
「怖い、の……」
嫌われたくない、本当は憎んでほしくない。貴方が感じている逆の位置にある感情で私を視てほしい。なんて身勝手な願いだろう。枯れたと思っていた水分が涙となってこぼれ出していく。
「……ここは?」
それでも、泣いている暇なんてない。
イリスはお城の自室だと分かると、億劫になる力を絞り出してベットから降りた。誰かが助けてくれて、ここまで運んでくれたのだろう。着ていた服が別のものに変わっている。
その時、バタンッと何かが落ちる音がした。素早くその方向に反応すると、見慣れた顔が目を大きく開いていた。
「ロズ……」
そう口にすれば、普段の冷静さを失った彼女が勢いよく駆けこんできた。
「姫様、やっと目が覚めたのですね……っ」
ぎゅううっと締め付けるような力で抱きしめてくるロズに戸惑いを覚えながらもイリスは小さく返事をした。腕から震えているのが伝わってくる。身を削るように心配をしてくれたのだと分かり、イリスは唇を引き結んだ。
「ごめんなさいロズ。心配をかけてしまって」
なんだかんだ言いながらも自分の事を一番に考えてくれていた。連絡が途絶えたときから最悪の事態も考えていたのかもしれない。罪悪感と申し訳なさが浮かんできて、イリスは悲しげに目を伏せる。
「本当です……!どれだけ寿命を縮ませれば気が済むのですか。よりによってあの人間に捕らえられたと聞いたときは怒りでどうにかなりそうでしたわ……っ」
込み上げる感情を表現するように、イリスの服を思いっきり握る。ここまで取り乱すのだから、相当な負荷がかかっていたのだろう。きっと生きた心地がしなかったはず。
「ディ……」
イリスは無意識に口からディルの名が飛び出そうとしていた。
「その名を呟かないでください、腸が煮えくりかえりそうですっ!今すぐにでも首をへし折りたいのに…」
しかしそれはロズの怒りを増やす結果としかならない。冗談抜きで実行しそうなくらい目がギラギラと色を成していると分かり、イリスは口を噤んだ。
「ごめんなさい。それよりお父さまは?騎士団はもう動いているのっ?」
今の状況が知りたいと焦りが急かしてくる。きっと想像した通りに進んでいるとイリスは慌てて質問をした。
「姫様、今は体調を整えてからの方がよろしいです。貴方は裏門に倒れてから数日、目を覚まさなかったのですよ」
気遣う彼女を見て、またさらに時間が経過したのかと頭から血の気が引いた。
「数日ですって?もう、そんなにも……ロズ、私は大丈夫だから。自分の事は自分が一番分かってるわ」
本当はズキズキと頭が痛み、体のあちこちを動かすのが億劫になる。緊張状態にあった今までと栄養をとらなかったことがそうさせるのか。イリスはよりによってこんなときに、と自らの体調を恨んだ。
「見くびらないでください。貴方が万全の状態でないことなど一目で分かります」
はぁと短く嘆息してから、ゆっくりとイリスをベットに座らせるように誘導させる。でも、と泣きそうな目でイリスが訴えかけると、ロズは分かっているといった風に静かに頷いた。
「あの人間から書状が送られた時、陛下は大変お怒りになりました。今すぐにでも先遣部隊を組織し痛手を負わせろと喚かれて聞かなかったそうです」
もはやディルの名を封印したとロズはあの人間、とだけ言った。そのことに胸が痛んで眉を落としたがイリスは続きを待つ。
「やはり……カモーアのことになるとお父さまは周りが見えなくなるわ」
そこまで憎んでいた、カモーアの王族を。
「はい。しかし側近のエドルフ様や他の方々が今動くのは得策ではないと、全力で止めました。どうにか陛下の気を鎮められると反政府論を掲げる者達の勢力をいち早く分析し、すぐに交渉を始めました」
紙に書いたようにスラスラと説明するロズに感謝しながら、まだ最悪の展開になっていないのだとほっとして肩の力が抜けた。
「交渉……向こうは要件を提示してきたの?」
心臓が今までにないくらい早い。胸の内に暴れる動揺が痛い。
――ディル。
「いえ、ただ戦と。勝者が正義だ、と」
そんな、と小さく微かな声が漏れていた。正義とは何なのか、自問としてイリスの脳内に反響していく。冷たい氷のような絶望が硬度を増して根を張っていき、パキンッと音を立てて記憶の中のディルの顔が粉々に砕ける。
「先日、国内に派遣されていた零隊が襲撃に遭いました。まだこれは序章です、次々に衝突は増えるでしょう」
ぐっ、と両手の指を肌に食い込ませ丸めて、イリスは力を込めた。
「勝つか負けるか、結果だけを求めているようです。本当の望みは王政復古もあるでしょうが、溜まりにたまった今までの憎しみをぶつけたいのでしょう」
胸に膨張していく悲しさと、どうにもならない現実。自分で抑えられる許容範囲を超えて防ぎようがない。
「もう、何を言っても、戦いでしか交わらないのね…」
――私たちが向きあうのは、戦場という残酷な舞台――
「――お父さま」
きちんとした身なりを整えて、イリスは謁見の間に来ていた。
何人かの人と今後について議論していたようだ。見た事のある顔がたくさんいる。軽く会釈して室内に入っていった。父ブレイヴは気付くと目を大きく開いて、イリスに声をかけた。
「おお、イリスっ!気がついたのか。心配したのだぞ、あの飼い犬め、よくもイリスを!」
いつものように優しく髪を撫でてくれる。でもディルの事を飼い犬を言ったことがイリスの胸に引っ掛かった。
それは昔から変わらないことで、今さら何を言っても直す気はないだろう。過去から根付くサイとカモーアの壁は簡単に払拭できるものではないのだと悲しくなった。
「ご心配をおかけしました、お父さま」
その言葉に、尽きる。周りの人に迷惑をかけてしまった。
「飼い犬に何かされなかったのか!?知らせを聞いたときは怒りで震えたぞ。自力で脱出できたとはさすが私の娘だ」
くるんくるんと遊ぶように金の髪をいじられ、イリスは斜め下に視線を落とす。
「……大丈夫です。直接的な被害はほとんどありませんでした」
ディルは悲しそうな顔をして、途中で襲う事をやめた。本当は犯すつもりだと言っていたけど、ぎりぎりで離した。
イリスはぐっと、手を丸めた。
「ならよい、安心した。だが、これだけは言わなければいかんと思ってな。イリスのお気に入りだが、あいつは処分しなければいけない」
これだけの被害になっているのだ、もう止められまいと続ける。イリスは泣きそうな自分を何とか抑えつけた。
「お父さま……この事態は私に責任が、あります」
ディルのことを分かっていなかった。この私に、責任がある。いつかはこんな行動を起こすと予想もできたはずなのに。
自分ばかりに囚われて、心の底では彼に殺されてもいいと思っていた。しかし、もう状況は火花が散っている。 自分が招いた現実。けじめだって、つけなければいけないのだ。
もう一度、言う。
「彼を管理できていなかった、私に、責任があります」
自分自身の問題じゃなくなってしまった。色んな人の未来を変えてしまった。もっと他にできることがあったではないのか、今さら後悔が覆いかぶさる。
様々な思いが蠢いて、今を彩っている。ぐるぐると回転を続ける歯車のように。
きっと城内の裏で口に出すことはなくても私を憎む人もいるだろう。なぜディルを生かしておいたのかと。
こんな面倒な事になる前にさっさと片付けておけばよかったのにと思っているはず。
「だからこそ、この事態を招いた後始末は、自分でつけます」
逸らすことなく、真っ直ぐに父を見つめた。
覚悟は、出来ている。
九年前のことを後悔することはない。ただ純粋にディルに生きてほしかったから。ただ隣で笑っていてほしかったから。その気持ちは何があっても揺らぐことはないだろう。
「イリス……何を?」
その真剣な表情を読み取ったのか、ブレイヴは途端に鋭い目つきでたずねる。
「お父さま、お許しを頂かなくても、私は――…」
私、は。これを口にしたら、もう後戻りができない。だけど、決心はついている。
「リリィ――ディルと戦います」
少し空気がざわつくのがわかった。室内にいた人が小声で何かを話し、無茶だと言っている。
ひ弱な王女に何が出来るのかと疑問に思うのも無理はない。実際、自分が動いたところで大した変化は起きないかもしれない。それでも、行かなきゃいけない気がする。
私とディルはこうなる定めだったの?抗えないような運命の引力を、イリスは体のどこかで感じていた。
「な、にを馬鹿なことを言っているイリス。今回のことは私にも責任がある、お主だけの問題じゃない」
やはり父は止めてくれた。だけど覆すつもりも、ない。イリスは瞳に力を込めた。
「お父さま、私はいつまでも子供ではありません。自分で考えて、行動できます。何も知らない幼い私はもういません!」
説得なんていくら時間がかかるか分からない。そうすると、近くにいた側近の人が次々に声をかけてきた。
「イリス様、お気持ちは分かります。しかし王女自ら戦地に赴くなどあり得ませんよ!」
「相手は血の気が盛んで野蛮な奴らばかりですぞ」
「城内にいた方がまだ安心です。どうかお考え直しを」
賛成の声は一つもない。皆、心配してくれている。それに普通に考えて、共にいけるはずがない。それでも。私は行く。そんな反対の声を押し切って、ブレイヴを見つめるとイリスは深々と一礼をした。
「今まで伝えておりませんでしたが、私は多少の剣技を身につけました。自分の身は自分で守ります。必ず、リリィを止めてみせます」
「なんだと、イリスが剣を?女が男に叶う筈ないではないか!」
語気を荒げるのもイリスは予想の範囲だった。何を言われようが、自分の考えは変わらない。
「確かにそうかもしれません。これは言いたくはありませんでしたが…お城に向かう道中、夜盗に襲われてその場で対処しました。もちろん私一人で、です」
「危険な目にあったのか?」
「はい。向こうは五人がかりでした。それでも今、この場にいます」
言葉を強めて、その意味を視線で訴える。簡単にやられるような女ではないことを伝えたかった。その時、父の後ろにいた側近のエドルフが控えめながらに口を挟んだ。
「イリス様の覚悟は分かりました。それでは陛下の目にその剣技がいかほどなのかご証明されたらいかがですか?」
思わぬ提案に少しだけ困惑したが、それが一番手っ取り早いだろうという考えに辿りつく。今は時間が惜しい、ささっと準備をして一刻も早くディルに会いたい。
「……そうですね。誰か騎士を呼んでください。お父さまの目でご確認いただければ」
「よかろう。イリスがそこまで言うのなら」
冷静を取り戻したブレイヴが手配するように周りの者に声をかけた。イリスは絶対に負けられない、とぎゅっと強く手を握る。
イリスは剣を取りに行ってブレイヴの元に向かう途中だった。静かな廊下でブレイヴとエドルフが話しているのが聞こえ、さっと姿を隠す。なぜこんなところにいるのかと疑問に思ったが、ディルという言葉が引っ掛かり、声をかけるタイミングを逃した。
「くそっ、こんな面倒な事になるなど……性欲処理に使っていた奴が勝手に暴れよって!」
イリスの心臓が勢いよく加速を始めていき、思わず口を手で覆った。
性欲、処理?信じたくない単語に頭が混乱して冷たいものが全身を駆け巡る。父の趣味は少し感覚がずれていることは知っていた。しかし、こんなことを聴いたのは初耳だった。
「あれはいい玩具でしたからね。陛下も大変気に入り、拷問部屋で何度も犯して喘がして……」
イリスの肩がびくんと上がって、息が荒くなる。何とか動揺を消そうと胸に手を当てた。
何を、言っているの?犯し……喘がす……その意味が分からない歳でもなかった。でもまさか男同士なんて、と手汗がじわりと滲んできた。
「ふん、女と瓜二つなのだ、実に楽しかったぞあの玩具は。憎悪を孕んだ目で睨んできたあやつを辱めるのがこの上なく幸せだった。一度お主にも貸してやっただろう」
「ええ……過去に経験したことがないほど、甘美な時でした。深淵までハマっていきそうで。おかげで夢にまで出てきましたよ…」
イリスは呆然としながら、次々に出てくる真実に震えが込み上げてきた。
知らない間にディルに手を出していたのか。拒否権すら与えられないディルを無理やり犯した?こんな生き地獄を、歩ませてきた……?屈辱と憎悪の狭間でどれだけの想いを抱えてきた?
「―――…っ」
イリスは涙を零して激しい自己嫌悪に陥った。こんな生き方なんて、望んでいなかったはずなのに。それでも、耐えて耐えて耐え抜いて生きてきたの……?ふらふらと動く体で何とかその場を離れた。
もう、どうしたらいいか。ディルの心はズタズタにされたに違いない。修復が不可能なほど傷ついてしまった。
『……分かってるんだよ、こんなこと、何も意味がないって。炎のように燃え盛る憎悪を復讐に込めても、俺は…これ以上…イリスに手を出せない…』
あの言葉が脳裏によみがえり、胸が悲鳴を上げ、息苦しくなった。
そう思っていると、剣の試合が行える広場に来ていた。
よくディルが稽古していた場所であり、小さい頃はここに来て無表情だったディルに剣を教えた。いつの間にか優に自分の剣技を通り越して強くなっていった。今思えば、剣を握っている彼はいつだって輝いていた。
「……ごめんね、ごめんね」
彼が受けた傷は癒せるものではない。生涯の中に深く刻み込まれ、悪夢のように何度も甦る深さだった。
何も出来なくて、知らなくて、ごめんね。ディルを止める資格なんてないとイリスは泣きそうになった。
「それでも……」
この国が、人が、大好きなの。その思いはずっとこの胸にある。そそっかしい自分を大きな心を持って育ててくれた。騎士の皆だって、本当の仲間のように接してくれた。
戦いになったらその空間がなくなってしまう。大好きな場所が悲しみに満ちてしまう。憎む心に歯止めが利かなくなり、負のスパイラルが続いていく。
そうして無意識に剣を掲げた。減速する世界の光に反射して輝く瞬きを見て、イリスは一人、小さく呟いた。
「……戦場で、会いましょう」
そうしてこの後の試合は、一本勝ちでイリスが勝利した。
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