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予期せぬ事態
しおりを挟む――イリスは、揺れる馬車の中で、何日か前の回想をしていた。
「イリス様、本気なのですか!?」
胸倉を掴んでくる勢いで、侍女のロズが発狂するように叫び倒す。必死さが伝わるほど、すごい剣幕で迫ってきた。
「ええ。ロズ、お願い何も言わないで。どれだけ危険かも、全て分かっている上で決意した事だから」
そんなイリスを見て、ロズは信じられないと呟き、力なく首を振る。絶望に染まった顔をして、小刻みに手を震わせた。その様子に、イリスは胸が痛んだ。
「何をお考えです。貴方は自ら死にに行くというのですか……?」
イリスは、少し痩せたロズの肩に優しく手を置いた。
「違うわ。私は死ぬつもりなんてない。簡単にやられないわ」
今まで身に付けた剣の腕なんてちっぽけなものでも、皆を守る術くらいにはなるはず。例えこの命が尽きてしまっても……本望だと思う。イリスは、強い決意を瞳に覗かせた。
「なぜです、なぜそこまでして……まさか、あの人間の事を……好いて、いるのですか…っ?」
「ロズ」
悲しそうにイリスは目を伏せるが、完全に否定はしなかった。好いて、いるのかは自分でもよく分からなかった。ただ大事だと、家族のような存在だとは思っている。
本当は心の奥底の感情に向き合うことが怖かった。何かが、壊れていきそうで。
「今すぐにおやめなさい!あの人間を想うなど…災いを呼ぶだけです!」
持てる限りの力を振り絞って止めてくれるロズに、イリスは心が張り裂けそうだった。誰が王女を戦場に行かせるというのだろう。それでも、もう常識なんて、通用しない。
「……ごめんなさい。でも、私は行くわ」
我が儘で、身勝手で、最低な王女だと言われても。あの人は、ディルは、私が、止めるから。イリスは言葉にせず、目で語りかけた。
「――リス様、イリス様!」
自分を呼ぶ声が馬車の外から聞こえて、はっとなり慌てて返事をする。グータンという馴染みのある騎士で、何度か剣を交えた事があり、友達のような関係だった。
「ごめんなさい、どうしたの?」
ぼーとしていたことを恥ずかしく思って、気を引き締めようと手を強く握った。
「不穏な気配がします。我々が周りにいますが、もしもの時は、剣をお抜き下さい」
グータンは言いずらそうに、それでもきちんと警告してくれる。確かに、ピリピリと緊迫した空気を感じた。
「分かったわ」
彼らにはお城を発つ前に『自分も戦う』と言ってある。お遊びじゃない、本気だと伝えた。
人を傷つける。もしかしたら、命を奪ってしまうかもしれない。
躊躇いが自分の首を絞めることになるとは分かっていても、いざその場面に直面した時、一体どう行動するのだろうか。イリスは、今更そんなことを考えた。
駄目だ。そんな甘い考え、すぐにでも捨てなければいけない。イリスは己を奮い立たせた。
続々とカモーアの組織の衝突も増えていると聞く。
逸る思いを鎮め、冷静に現状を分析する。今は、サイに代々仕えてきた国家の隠密が数日前やっとの思いで見つけた、カモーアの野営へ向かっている所だった。
向こう側もこちらの動きにいち早く気づいた。影に優秀な情報収集がいるのだと分かる。しかし、攻撃はまだ仕掛けてこなかった。
「これから先、衝突は避けられないかと。この馬車は目立ちます。真っ先に狙われる可能性があります」
「そうね、ありがとう。剣は抜いておくわ」
カシャン、と金属音を発す剣を握っておく。薄い手汗が浮かんで、ガチガチに緊張しているのが分かった。
「イリス様は必ずお守りします。陛下に怒られますからね」
緊張が伝わったのか和らげるために冗談っぽく言う彼に感謝しながら、もう一度お礼を言った。
剣の経験はあっても、実戦の参加はまったくない。戦場という場所を、見たこともない。きっとここではただの足手まといにしかならない。それが、たまらなく情けなかった。女だからと言って甘く見られたくない。それにディルに会う前に死んだのでは意味がない。
「大丈夫。負けないわ」
自分に言い聞かせるしか、この不安は拭えそうになかった。
それから数時間した頃だった。がやがやと音が響いてきて、イリスは馬車の中でさっと身構えた。来た、と脳神経に緊張が伝わっていくが、剣の微光を見ていたら決意が固まっていく。
後戻りはできない。知っている顔を傷つけるかもしれない。それでも、ディルに近づくのならば、もう迷わない。
「イリス様、敵ですっ!」
緊迫した声が、自分に敵襲を知らせてくれた。馬車にいても響いてくる複数の声の大きさにイリスは汗が浮かんだ。
「ありがとう!」
すぐに剣の衝突音が辺りから聞こえ、イリスは危険を承知で馬車から飛び出した。
馬車で襲われたら逃げ場がない。広い場所の方が戦いやすかった。
目の前に広がる光景に動揺しないようにしても、初めて経験する戦場に恐怖を覚えた。何度も深呼吸をして、戦況を見る。周りの騎士達は自分が乗っていた馬車を守るため囲むように広がっていた。
武装した騎士達と対立するのは、カモーアの人間。燃やされた国旗を掲げている人もいた。浮かんでいる表情を見ると、イリスの顔色が薄くなっていく。彼らの中には、笑っている人もいた。
――恨んでいるのだ。胸が押し潰されそうになる。
「イリス様、危険です!馬車にお戻りくださいっ」
ある騎士が必死な声を上げながら忠告するが、もう、遅かった。イリスに目を付けた男が雄叫びをあげながら剣を振りかざしてきた。人生の大半を剣と共に過ごしてきたおかげか、思うよりも先に体が動いていた。
「だりゃあ!!」
突如として襲いかかってきた大柄の相手の顔は、イリスを見るなり勝利を確信しているかのように笑った。
華奢なイリスの体を見て、自分の方が上だと思ったのか。剣との衝突で一旦距離が生まれると、時間の感覚を割いてさらに迫ってくる。無造作に編んだひげが目立つ、イリスよりも何倍も年上な男で、馬鹿にするような視線が飛んできた。
「おチビさんがこんな戦場で何の用だ!?」
確かにこの戦場では背が低いかもしれないが、少し癪に障る。しかしイリスは何も言わずにいた。
見たこともない顔でイリスは一瞬安堵してしまう。もし知り合いだったら、躊躇いが発生するだろうから。一つにまとめあげたイリスの金髪が体の重力に揺れ、磨き上げた剣の腕で男の動きを的確に読む。
「綺麗な面しやがって、余裕の表情かーあ?」
「余裕なんてない」
スピードも防御も上々。力ではまったく叶わないだろうから遠近法を使った方がやりやすい。イリスは素早く剣を回転させると脚の軸を利用し、隙のある角度をすぐに見抜いた。
「く……っ!」と後退するがすぐに持ち直してきた。きっと数々の実戦の経験をしている。
「イリス様!!」
周りの味方の騎士はイリスが戦っているのを見るや、真っ先に相手を片付け、助太刀をしてくれる。複数の騎士がイリスの前に出ると、戦っていた男は少し驚いた様子でおおっと声を上げ、剣を交えていく。
この場を楽しんでいるんだわ、とイリスは背筋が冷たくなるのが分かった。少なからずカモーアの人たちは今まで蓄積した憎しみを原動力にしている。
「ふははっ!どっかのお坊ちゃまがそんなに大事か!守るのに必死なようだな!」
自分の存在が、足手まといになっている。イリスには、そう突きつけられた気がした。
「っと待て、その顔……」
すると今まで威勢のよかった大柄の男はイリスをじっと見つめ、目を大きく見開いた。
記憶の中を探るように、絡み合ういろんな顔を抑え、ある人物に辿りついた。神聖で気高い存在。こんな場所にいるはずがないと目がキョロキョロと動いている。萎んでいく元気の代わりに、冷や汗が頬を伝っていった。
気付かれた。イリスは王女として国の行事や祭典、広い分野で活動していたのだから顔は広い。この男が見ていても不思議ではない。それにサイを恨んでいるのなら、王族には神経の末端まで復讐の血が通っているはず。
「あーイリス様。もう戻れませんよー……」
ちょっとだるそうに嘆息する昔馴染みの友達は呟いた。しかし瞳の光は失われていない。
「あらグータン。元より、すべて覚悟の上よ」
くすりと艶美で魅惑的な笑みを浮かべていた。
イリスは凛とした態度で再度剣を構えた。王女だと知っていようが、目的はただ一つ。
決して、諦めたりはしないから。ね、ディル。
「野郎ども!サイ国の王女だああーー!」
わぁぁぁ!と地響きのような大声が広がっていき、一斉にイリスへと矛先を向けた。それに反応したサイ国の騎士達はイリスを守るために行動に移した。敬愛する彼女のためなら、命も懸けると言う者ばかりだった。
「行くわよ」
イリスの胸の奥底に秘めた闘志は一気に燃え上がり、音もなく前へ飛び出していった。
戦場でただ一人、女が剣を駆使し、舞う。
「命をかけてお守りいたしますよ、我が王女」
ふっとグータンの横顔が見えた気がした。
両者ぶつかり合う剣の摩擦や火花は散ることを知らず。地面に崩れ落ち沈む者も珍しくない。汗がキラリと光り、雄叫びをあげ、目の前の相手に挑む。
対立を深めていく中、戦場の真ん中には金髪の女神を思わせるイリスがただ無心に剣をふるっていたと言う。
「――ほんとうに……貴方は何者なんですか。男に生まれるべきだったんじゃないですか?ぜひ騎士団に入隊してください、歓迎しますよ」
時間が瞬く間に過ぎていき、グータンが汗だくになりながら話しかけてくる。常に近くにいて守ってくれた。
剣にこびり付く紅い血を見ると、イリスは吐き気に似たものが込み上げてくる。
辺りは先程までのぶつかり合う騒音が消え、静かな風が流れていた。イリスは激しい息切れをこぼしながら、伝う汗を片手で拭ってグータンと視線を合わせた。
「ずいぶんな…言い草ね。これでも、全力を出したのよ……っあ!」
極度の緊張がほどけ、うつろな目をしながら倒れかかるところで支えてもらう。イリスは額に手を当て、瞳からは涙が絶えず溢れ出していた。
小刻みに震える体をどんなに抑えようとしても制御できなかった。
「……ねぇ、グータン……私は、戦えて……いた?」
情けないほど、今にも消えそうな掠れた声で尋ねた。
何も考えず、己をただ信じて、剣を操った。鮮血が飛び散る戦場というものを初めて経験した。
生易しいものなど欠片もなかった。訓練なんかじゃない。あまりにも現実的で恐ろしく、この世の地獄のように感じた。
少しずつ仲間がやられていく光景を目にしても、前の敵に集中するしかなかった。心が引き裂かれるような痛みを覚えたが、時間は容赦なかった。
嗚咽を吐き出すイリスは珠のような涙が止まらなかった。
「立派でしたよ。どこの騎士にも負けず、凛々しく、美しかったです」
無理もない、とグータンは思った。あれほど繊細に剣を駆使する場面を見たことがあっただろうかと記憶を探る。綺麗に靡く金髪の髪に戦いの最中でも目を奪われた。この戦場に素早く溶け込み、空気を吸収していった。
本当に初めてなのか?と疑問を抱いてしまう程に、美しかった。戦いの意志を燃やしている目には、ぞくりと鳥肌が立った。
彼女をここまで突き動かすものとは、一体何なのか。
「貴方達は、こんな思いを……繰り返していたのね」
「それが仕事ですから。さぁ水分を取ってください。それにそんなに泣いていたら目が枯れます。周りの奴らが困っていますよ」
「……ええ、ありがとう」
いつまでも感傷に浸ることはなく、己を奮い立たせ、何とか水筒を口にする姿にグータンは強い姫だと思った。
「……イリス様。貴方は何のために、ここにいるのですか?」
突然口を開いたグータンは真剣な目をしながら言った。
「貴方にこの戦場は似合わない。心優しい性格です、人を傷つけるという行為をきっとこの先自分自身で許しはしないでしょう。どんどん追い込んでいきそうです。仮にも貴方は王女なのですから、ただ皆の帰りを待っていてればよかったんですよ」
イリスの心を容易く見破る発言に、思わず下を向いてしまった。
確かに、これから先の未来で自分を許すことはないだろう。この苦しみは想像以上につらいものだった。幼い頃から知った顔も見かけた。それでも、迷いを打ち消して迫っていった。本当は泣きたくて仕方なかった。
しかし全て、痛みを覚悟したうえでの行動。どれだけ過去に縋ったってどうしようもないなら、前を向いていくしかない。
「そんなに剣を振るう王女はおかしいかしら?そうね、今……焼けるように胸が痛いわ。でもね」
イリスは強い瞳を輝かせながら、滴る涙を煌かせ、口を引き結ぶ。
「カモーアの王子と会うまでは、私は絶対に退かないわ。必ず、止めてみせる」
「……責任感ですか?それとも、私情を挟んだものですか?」
グータンはイリスとディルの間柄を知っていた。
これ以上傷つけさせまいと害を成す者から庇うように守っていた小さなイリスの成長を見てきた。悪質な嫌がらせやいじめを受けたらやり返しにいき、自分の兄弟のように接していたのを覚えている。献身的で優しく、いつでも笑顔で励ましていた。
ディルはそんな彼女を避け、追い込み、傷つけた時さえあった。だが、イリスは何でも受け止め、必ず最後には抱きしめた。皆の中心にいたイリスから過保護なまでに擁護されていることに不満を持つ者は多かった。嫉妬や羨望の先にはいつもディルがいたのだった。
「どちらもよ。責任感でもあれば、私情を挟んだ私自身の意志でもある」
素直に認めるイリスは逸らすことなくグータンを見つめる。固い決意を目の当たりにして、少し羨ましくも思った。
「……願いが伝わるといいですね、ディル様に。俺は貴方の後ろについていきますから」
普段口にはしないディルの名を語って静かに微笑んだ。
そうしてイリスは戦いの余韻に震えることなく、負傷した者に手当を施していた。
こうやって動いていた方が余計な事を考えなくてすむ。騎士と共にきた治療班に混じり、あらゆる薬草の知識を活用させて、重傷者から順に包帯を巻いていった。その手際良さに治療班は呆然としていたが、すぐに思い直して続行する。
「じっとしていてね。すぐに終わらせるから」
足に怪我した者でも、迷いなくズボンを引き千切って、素早く傷口のひどさを判断した。イリスの白い手がするりと触れると、色んな意味で危機感を感じた騎士があわてて声を上げる。
「ちょ、イリス様っ!自分でできますから、離して下さいっ……」
「はいはい、文句なら後で言ってね。早く手当てしないと膿んでくるわよ。あ、汗臭いのは我慢してね」
そう言うイリスからは甘い香りが漂ってくるから不思議だった。
「違っ!非常に申し上げにくいんですが、そのっ……う、っひょぉ……」
そんなに近くに来られると困るんです!と叫ばれた。しかしそんな声にも耳を傾けず、ぱっぱと治療していく。血が滲む包帯を見ても、感覚が麻痺してきたのか、イリスの中で恐怖心は消えていた。
それでも、辺りに蔓延する匂いも、地面に散らばる人の姿も、直視できそうにない。
「――…グータン、情報は集まった?」
後ろに姿を現した副隊長の影を確認すると、手を動かしながら尋ねた。カモーア側の息のある者に主戦力の正体など、役立つものは何でも聞き出していたらしい。
「ええ。しっかしイリス様、男の気持ちも考慮してやって下さいよ……真っ赤になって震えてるじゃないですか」
「ごめんなさい……そこまで、気が回らなかったわ。後で痛み止めを持ってくるわね」
「だめだな」
なぜか、彼は呆れてしまった。
「それで、内容はどうだった?」
グータンの表情を見ながら、悪いものなのか半分は分かっていた。が、聞かずにはいられなかった。
「さすがと言ったところでしょうか。思った以上に手こずらせますね。今まで野営地を目指してきましたが、向こうは少し前から我々を感じ早々と移動したようです」
「じゃあ今回戦ったのはほんの一握りだということ?距離をとるための時間稼ぎだと?」
「はい。こちらとしても痛手を負いました、すぐに追いかけるのは厳しいです」
戦った中には結構な使い手もいたのに、まだまだディルには味方が大勢いるということになる。そして決着が見え始めると撤退していく男たちもいた。まずは様子見ということだったのだろうか。
きっと自分がいることをディルは分かっている。その報告を受けた時、彼はどんなことを思ったのだろう。取るに足らない存在だと、その場で切り捨てたのかもしれないと想像した。
「そうね……まずは皆を休ませた方がいいわ。また近いうちに衝突があると思うの」
「有り得ますね、不意打ちで攻められたら厄介です。見張りは怠らずにさせています」
「ありがとう」
こうやって現状報告をしてくれるグータンには頭が上がらない。一刻も早くディルの会いたいと願っている自分の気持ちを理解してくれる。だから、すぐに伝えてくれる。
「イリス様も体を休めて下さい。常に気を張っているでしょう?肩に力が入ってますよ」
「あら……見破られたかしら?」
「何年の仲だと思っているんですか。分かりますよ、そのくらい」
そうしてくすっと笑みを落とし、肩をポンポンとされた。
「……もやもや、する」
どうしてか、やけに胸騒ぎがする。どこか遠くの地で何か悪い事でも起きているのか。大丈夫だと言い聞かせた。城の父や皆を守れるように戦力も残してある。簡単にはやられはしないと断言できた。
この心の焦りは、何を示すのか。全てを飲みこんでいくような、大きなものが近づいている気がした。
戦い後、近辺の調査を隠密の部隊が行っていたが、元にあった野営地は跡形もなくなっていたそうだ。人もいなく、物も跡形もなく、それでも建物の壁には次のように走り書きされていたという。
『次に会う時こそサイは潰れる』
「……そう、ご苦労様。疲れたでしょう、貴方達も休んで」
綺麗に一礼して夜の闇に消えていく隠密の主を目で追うと、イリスは前髪をくしゃくしゃにして溜息をついた。服にこびり付いた血が夜目に映し出される。その色に目をそむけたくなった。
体がまた震えを起こし始め、近くの樹木にもたれかかって深い息を吐く。何度も繰り返すとやっと落ち着いてきた。やはり、体はこたえている。こんなときでも、思い浮かぶのはディルの顔だった。
「ねぇ、グータン。そこにいるんでしょう?出てきて話しましょ」
心配して来てくれたのか、隠れて様子を窺っていたのが分かった。
「よく気づきましたね。しかし、早く眠らないと明日起きられないですよ」
木に剣に手を置いたグータンが、話しかけてきた。
「そうなんだけど……駄目ね、眠れないの。ずっと吐きそうよ」
もうお手上げだわ、とイリスは肩を傾げる。
「俺が添い寝しましょうか?イリス様なら最高のおもてなしをしますよ」
「やめて、グータンが横に寝ると気付いてたら狼の餌になってるわ」
ふふ、と冗談っぽく言うとグータンは笑ってくれた。
「辛口ですね。確かに、イリス様が近くにいたら朝まで理性が持ちそうにないです」
「よく言うわ。私なんか貴方の相手にならないもの」
グータンがひっきりなしに女の人が絶えないのは周知の事実だった。本人に曰く、向こうから来たら断らないらしい。
「あのですね、イリス様のお相手が出来る男なんてそうそういませんよ。まぁ……リリィ様なら文句なしでしょうが」
「グータン」
何と言ったらいいのか分からず、とりあえず名前を呼んで戒める。
「すみません。だけど正直あれだけイリス様の側にいて、リリィ様が手を出さなかったことが未だに信じられないですよ……よく我慢できましたね。同じ男として尊敬します。俺なら絶対に無理です」
「ディルはそういう目で私を見たことなんて一度もなかったわ。憎いとだけしか言わなかったもの……」
「困った王女様ですね、リリィ様の葛藤も知らずに今まで生きてきたなんて」
葛藤?と不思議そうに首をかしげるイリスに何も悪気はなかった。
「よく分からない事を言うのね」
イリスはその場で腰を下ろすとグータンを見て、近くに座ってと地面を指した。呆れながらも素直に従うグータンは横に胡坐をかいた。過去に何度かこうやって話していたわね、とイリスは振り返る。
「まぁ言えるのはイリス様は男のアレを刺激する要素がありまくりということですね。騎士団の奴らなら一度は想像して抜いてますよ。あ、ちなみに俺は間に合ってるので大丈夫ですけど」
「へー…」
イリスは暗い空を見ながら聞いていたから、グータンの言葉が左から右へと流れていた。
「イマイチ興味がなさそうですね。というかイリス様が興味あるのはリリィ様のアレ……」
「ちょっとグータン、何を言ってるの。知ってると思うけど私はお父さまのような趣味はないわよ」
「とか言って一度くらいは意識したことありますよね?あれだけ綺麗な人、滅多にいないんですから。ないって方が驚きですよ」
探るようにじっと見つめられて、うっと声が詰まってしまった。
そんなこと今までにあったかしらとイリスは記憶を手繰り寄せるが、最近に関しては何も思い浮かばない。ずっと妹のように接してきたつもりだった。性の対象として感じたことは一度もない。
「ないわ。それに……ディルは、私を避けていたから」
「それは男の自然な防衛本能ですよ。あれ以上近づいたら俺なら問答無用で押し倒します」
「ならとっくに犯されているはずね。だって小さい頃から同じベットで何度も寝たわよ?最近では一緒に過ごす時間が減っていたけれど…」
「……イリス様、本気でおっしゃっているんですか?同じベット?冗談でしょう?」
何を驚く必要があるのか。小さい頃は夜にディルが変な行動を起こさないか心配で、いっしょに手錠をつないで眠ったこともある。別に何の問題もなかった。しかし思い返してみれば、朝になるとディルの顔が異常に不機嫌で、目に深い隅が出来ていたのはかすかに覚えている。
そういえば、触るな!だとか、近づくな!だとか、視界に入るな!だとか、散々言われた気もする。
「生殺しですよ、あり得ない……!どれだけ鬼畜なんですか貴方は……!何だこの放置プレイ!」
「は?」
「思春期にそんな体験を……リリィ様、心から同情します。よく、耐えられましたね」
まったくもって意味が分からないので解釈を誰かにお願いしたいと、イリスは思った。
「男の人は誰でもその……興奮したりするものなの?私はまったくないのだけれど」
「当たり前ですよ、子孫を残す為に脳が働きかけるんですから。イリス様に限っては欲情しない男なんていません」
いつもそんな冗談ばかり言うんだからとイリスは怪訝な目を向ける。
「あらお褒めの言葉、ありがとう。光栄だわ」
「本気でそう思っていないですよね」
グータンに呆れられると、イリスはくすくすと笑っていた。
「――ねぇ、グータン。本当のことを言うと、この戦いに勝算はあると思う?」
イリスは笑った後、少し黙ると真面目な顔をして言った。
「あります、と言いたい所ですけどいつ何が起こってもおかしくないですね」
「相手がディルだから?」
「はい。今回は水面下で動いている敵の分析がとても難しく、規模も想定しにくい。どれだけの数が集束してるのかが未だにはっきりしていないです」
「今思えば馬鹿なことをしたわ、昔からあの子は兵法や剣術に秀でて書物を読みあさっていたから」
あんな小さな頃から将来の想像をしていたのだろうか。同い年の子よりも賢く、人の表情を読むのが長けていた。
「正直言うとね、ディルを止めるなんて簡単に言うけど具体的にどうするとか何も想像していないのよ……馬鹿でしょう?ただ、会いたいだけなのかもしれないわ」
「……イリス様、正面衝突は避けられません。悲しい現実ですが、敗者に待つのは死です」
そう、もしこの戦いに勝ってもディルの首は取られる。どう足掻いても周りは黙っていないはずだった。何のためにここにいるのか、分からなくなってくる。口では大層な理由を語っても、本心では何かしたいのかを理解していなかった。
「嫌な予感がするの。近いうちに何か悪い事が起きそうで…お城には兵力も残してあるし、心配はないと思うんだけどね」
「サイに喧嘩を売る馬鹿はいないと願いますよ。他国が手を組んだら少し怖いですが」
「そうね……」
ディルが狙うのは、父の首。負けるなんて気味の悪いことなんて考えない。今は早くこの事態が治まるように終幕を引く事だと言い聞かせた。
「まさかとは思うけど……お父さま、早まって同盟国に応援を要請していないでしょうね」
「戦況が悪化したら行動に移すかもしれませんね」
ありがたいことに、同盟国は何国かある。今のところ順調に国交は続いていた。
しかし、一つだけ心配な国があった。エドーム国だ。武力を重んじ、硬派な人が多く、一つでも間違った発言をすれば戦いに火が付きかねない。非常に危ない国だった。
欲しいものがあれば、奪ってでも欲しがる。時には暴力で解決することもあるらしい。血気盛んな者が多いと有名だった。
そしてイリスは、何年も前からその国の王子ライアンに熱烈な求婚を迫られていた。他にも何組か縁談の話が出ていた。そのすべてを丁重に断っていたのだが、ライアンは諦めず、本当に執念深かった。
「私、エドーム国だけは苦手で。やることが無茶苦茶なのよ……今まで何とか避けてきたけどそろそろ厳しい時期ね」
「イリス様の姉上は十六にして喜んで嫁いで行かれたじゃないですか。エドーム国ではないですが」
「だってお姉さまは、お互い一目惚れだって言ってたわ。私だって夢くらい見たいものー……」
なんて我が儘なことを言えるのは、グータンのように仲が良い人しか無理だった。
「お噂は聞いてますよ。エドーム国のライアン王子にしつこく結婚しろとせがまれているそうですね」
「ええ。きっとあの人は欲しがったものは手に入れないと気が済まない性質なのね。目が怖いのよ……普通の色を宿していないわ」
「国が国ですからね。このあたりで一番厄介な方々です」
ライアン王子は、まるで捕食者のようなギラギラしたものを持っている。
容姿は申し分ない。まさに群れの長という印象で、それでいて礼儀や一般常識はあり、剣術も相当のものだった。
しかし、望んだものに関しては異常な執着心を見せ、思い通りにならないと気が済まない。イリスもその激しさに困っていた。
「何年か前、エドーム国の王子がサイに滞在したことがありましたね。あまりにも長い期間で驚きましたよ」
「そうなの、あのときは寿命が縮んだわ…何度襲われかけたか。一度喚き散らかされて、本気で焦ったもの」
「同盟国なので無下に断ることもできませんしね。心中お察しします」
しかしもうそろそろはっきりさせなければいけないだろう。完全に結婚する意識はないと示さなければ決して伝わらない。
それでも諦めることはしない気がする。交換条件を出して無理矢理でも納得させようとするかもしれない。自分を求めても何も返せないと何度も本人に伝えたが、けっして折れることはなかった。
しかしイリスにはどうしても結婚したくない理由があった。もし婚約すれば、ディルと離れる事になる。そばで守る人は誰もいなくなることは、完全に無防備になってしまう。それが気がかりだった。
「でもそろそろ適齢期ですよイリス様。結婚も視野に入れないと出遅れます」
母親のように口にするグータンに、イリスは苦笑いした。
「今はそれどころじゃないでしょう。分かってる、ちゃんと考えてるわ」
口にしたものの、そこまで深く考えてはいなかった。父は、結婚に関しては自分の意見を尊重して、自由にしてくれていた。
「まぁ確かに。このときは、勝つことだけを考えなければいけませんね」
だいぶ話が逸れてしまっていた。他愛のないことで会話すると徐々に夜が更けていき、イリスも眠くなってきた。
疲れや緊張が溜まった体を癒すのは睡眠が一番だ。明日からも忙しくなる。
「ふわぁ……やだ、体は疲れに正直なようね」
「あ、お眠りになりますか?」
グータンは気づいたように口にした。
「ええ、付き合ってくれてありがとう。ごめんね、こんな時間まで」
「いえ、良い眠りを」
「おやすみ、グータン。また明日からがんばりましょう」
イリスは深い笑みを返して、手を振った。そうして用意してくれた寝床に横になった。
――まさか、明日から恐ろしい事が始まることも知らずに。
イリスが目を覚ました頃、何かがこちらに行進する音が遠くから聞こえてきた。
まだ早朝であり、白い空が快晴を告げていた。狂いなく揃った足音に応援部隊が合流したのかと思ったがそうではないらしい。しかも数が多い。行列を成して向かってきているようだった。
何かがおかしいとすぐに隣にある剣を持ち、イリスはグータンの元へ向かっていった。
辺りは何やら騒然として、口々に囁かれている。その国名にイリスの体内の血が冷たく駆け巡っていく。
――「エドーム国の軍だ!」
なぜ、こんな場所にやってくるのか。一瞬父がエドールに助けを求めたのかと思ったが、それはないと考えを消した。
氷のような胸騒ぎが止まらずに、心拍数は大きく跳ねあがる。早くグータンに合流しなければと足だけが動いた。
赤い国旗が目に入ると、さらに走るスピードを上げた。慌てて騎士は寝ている者を叩き起こし、整列するように声をかける。いきなりのことで混乱しかけているが、迅速に対応していた。
やっとのことでグータンが見つかると、イリスは駆け寄った。副隊長として命令や指示に追われていたようだった。その顔は少なからず蒼いように思えて、イリスの不安は増した。
「グータンっ!」
息切れを起こしながら、イリスは名前を呼んだ。
「ああ、イリス様……今起こしに行こうとしていました。朝からとんでもないものが来ましたね。ちょうどいいところで夢から覚めて俺ちょっと不機嫌ですけど」
「冗談が言えるならまだよかったわ。もう使者が来るはず、エドーム軍と話しあいましょう」
イリスに言われずともグータンはその用意をしていたようで、整っていますと返事をした。
「くっそ、面倒な事に……噂のライアン王子もいるようですよ、イリス様を狙ってるんじゃありません?」
「なんですって?嘘、どうして戦いに……?」
ひどい眩暈がしてきたが、イリスは何とか耐えた。
「こんな所にまで押し掛けるんです、相当お気に入りのようですね。気持ちをしっかりお持ちください」
「そうね、しっかりしなきゃ。グータン、私も同席していい?」
恐ろしい裏を企んでいそうで怖くなってきた。エドーム国に持つ印象がそうさせているのかもしれないが、じわじわと恐怖が足元に迫ってくるのを感じた。
「危険です、ここは馬車に」
「駄目よ、何かある気がするの。お願い、私も一緒にいさせて。下手な事は言わないって約束するから……!」
「しかし」
「お願い……」
泣きそうな顔で頼むしか出来ない。グータンは渋い顔をして頷く素振りを見せる。するとダダダッと馬の足音が不安を増長させる。ついに来た。素早く顔を見合わせて、イリス目と目で会話した。
「エドーム国の使者である!隊長殿はお見えか!」
威風堂々とした強面の騎士が国旗を掲げながら大声で張り叫ぶ。
「遠い所からご苦労様です。私が隊長の代わりです」
隊長が不在の今、グータンが隊長の補佐になっている。表情を引き締め前に出る彼をイリスは心配そうな顔で眺めていたのだった。
――重苦しい空気が支配する。内心動揺していたイリスはそれを表には出さず、深く会釈するとグータンの横に座った。
ゆっくりと顔を上げていく。そこには見慣れた顔が微笑を浮かべていた。その冷たい眼差しに、イリスの全身に鳥肌が立ち始めた。
いつものような自信に満ちた勝気な印象がさらに濃くなる。深い海のような蒼い瞳がぶつかると、イリスは硬い表情で向かい合った。
同じ金髪だが薄い色で、サイの国にはないブルーの目は、何を考えているのか分からない。
王族として堂々たる面持ちで、他国にまで名を馳せている。単純そうに見えて頭の回転も速く、警戒を緩められずけっして侮れない。
体中から舐めるような熱い視線を感じた。冷たい不快感が湧きあがってきたが、我慢していた。
「久しぶりだな。まさかまさか、このような男の場に麗しのイリス様がいるとは驚いた。どういう心境の変化だ?大切な玩具が暴れ出しているようだが、管理が行き届いていなかったようだな」
「お久しぶりですライアン様。リリィをご存じでしたか……ええ、私の管理ミスです」
言い訳をするつもりなんてない。全て自分が犯した事実、どう言葉で飾っても己に問題がある。
「これだけの事態を引き起こしたのだから、責任は感じているようだな」
「はい。鎮圧するため、今ここにいます。先日戦いを交えました」
何を馬鹿な、と誰かが口にするのが聞こえる。何とでも言えばいいとイリスは涼しい顔で聞き流した。女は非力だという風土もエドームに浸透している。血の気が盛んだと言われる原因の一つだった。
ほう、と笑うライアンの顔に、不吉な予感を覚えた。グータンはその様子を見るや、早速口を開いた。
「挨拶はこのくらいにして本題に入りましょう。大軍を率いて我々の軍と合流したのは陛下が応援を要請して下さったからですか?何一つそのような報告は聞いておりませんでした」
「そんなに気を急かすともいいだろう。久しぶりにイリスに会えたのだからな」
いきなり立ち上がると、ライアンはイリスの元へツカツカと歩みを進め、すっと屈みこんだ。そして一房の金髪を掬いあげると、強引に近づけ荒っぽくキスをした。
そうしてイリスの白い顎を持ち上げ、勿体ぶるように顔を近づける。それでも筋一つ動かさずじっと見つめ続けるイリスに、ライアンの唇はにんまりと弧を描く。強い瞳だ、と呟くのがはっきり聞こえた。
「お戯れを、ライアン様。サイにとって今は一刻を争います。今すぐに現状をお伝え願います」
イリスは焦ることなく、冷静に言葉を返した。グータンを始め、サイ国の騎士は剣を抜きそうなほど殺気立っているのが伝わってくる。
「そうだったな。蟻一匹も倒せぬ者に取ったら今は時間が命取りだ。これくらいの暴動、軽く鎮圧すればよいものを」
「お恥ずかしい限りです」
どれだけ侮辱されようが、今必要なのは情報収集だ。イリスは毅然とした態度で、視線を合わせた。
「察しのいいイリスなら気付いているだろう?」
胸の中にあったもやもやした気持ちを否定したいのに、目の前の男は笑っている。まさかと冷や汗が流れそうになるが、冷静な思考に何とか縋りつき、イリスは小さな息を吐いた。
お城に残してきた人たちが脳内に浮かんでいく。出来れば信じたくない事実を口にするのが恐ろしかった。聞きたくなどない。しかどんなにつらい事が待っていたとしても、覚悟はしていた。
「……私の期待通りならいいのですが」
いつもと変わらぬトーンで真っ直ぐに見据えた。動揺を誘っているのなら、簡単に乗るつもりはない。
「なんだ?言ってみろ、当たっているかもしれない」
楽しそうに不敵な笑顔で返事をするライアン。余裕たっぷりで語るその口から零れる真実は何を指すのだろうか。
「グータンの言った通り、援軍としてここまで来て下さったのでは?」
それしか、考えたくない。
「そうだと言ったら?」
「ありがたい限りです。これで暴動も直に収まるでしょう。しかしこちらは何も報告を受けていなかったので、きちんとした挨拶が出来ず、申し訳ありませんでした」
心に巣食う黒々としたものを覆い隠すように会話をするが、向こうは見栄っ張りな虚勢だと気づいている。
しかしイリスは最悪の事態を頭に浮かべていた。なぜなら、相手からは血の香りがするから。辺りにも漂っているが、ライアンから香るのは濃厚なもの。イリスは無意識に震えが込み上げてきた。
「あくまで距離感を保つつもりか。俺の気持ちを知っていながら酷なことをする」
今そんな話をするのは間違っている。私用なことなど後回しでいい。でも発言には気が抜けず、注意しなくてはいけないとイリスは渋った。
「何度も申し上げたはずです。私にはその意志がないと。十分伝わったと思っていましたが」
「俺になびかない女ほど手に入れたいものはない。どんな強行手段を使ってでも、な」
サイ国側がざわっとざわめき、不穏な空気が伝染していくのが分かった。イリスはこの時ばかりは顔をしかめ、ぐっと拳を握った。
心底楽しそうな相手の顔を、イリスはじっと見つめる。
「まぁそんなことは関係ないな。サイにとっては一大事である今、エドーム国は同盟国として鎮圧に協力しよう」
やっと正式な発言が聞けるとサイの騎士の緊張もやや静まった。が、グータンとイリスは警戒を弱めなかった。何かがおかしいと確信的な思いが浮上してきていた。これから先も注意しなくていけないとイリスは思った。
「ありがとうございます」
グータンと共に深い礼をすると、イリスが顔を上げる瞬間に感じた冷たいもの。支配欲や、野望、そして満ち溢れる自信。
ライアン王子の引き寄せられる嵐のような渦が、自分を取り込んでいくように思えた。恐怖が肌の裏に纏わりつき、今すぐにでも悲鳴を上げてしまいたかった。
「既に奴らの居場所を突き止めた。進軍するなら今だ、カモーアの情報が出回る前にな」
「!…そこまで動いていらっしゃったのですね」
何をしても早い。正直ここまでだとは思っていなかった。確かにカモーアの情報網は侮れないし、限りなく広い。
動くなら早めの方がいいのは確かだった。兵士には疲れている中で大変だが、これ以上の戦いは体力を消耗させる。エドーム国の軍が味方に入れば勝ち目は見えてくる。
――何も起きずにいたらの話になるが。
「勝った暁には夜明けまで酒に付き合え、イリス」
「……ぜひ」
協力してくれたライアン王子に断ることなど出来ない。借りを作ってしまうが、国の一大事にはかえられない。幾らでも我慢出来ることだ。
それに犠牲を増やす前に、この悲劇に終止符を打たなければいけない。
「夜の相手も先に頼んでおこうか?どんな声を上げるのか楽しみだ」
「ご冗談を、ライアン様」
情欲にまみれた熱い目線にぶつかると、ぶるっと鳥肌が立った。
場の空気を変えるため、グータンはこれからの進攻について話題を変えてくれた。切り替えの早さに助かったと思いながら、今すぐにでも出発しようという結論に至った。
そうしてまだ早い時刻にここを発つことになった。重傷者や怪我人は無理に動かさず、治療班の何人かを残していく。それでも戦えると言って彼らはついていこうとするが、イリスやグータンが止めた。
準備もすぐに整い、エドーム国と合流して進攻を開始した。乱れる事のない長い列を作り、黙々と移動を続けるのを見て、よほど訓練されているのだと分かった。
その途中で、相変わらず近くにいて離れようとしないライアンと会話をした。グータンが側にいてくれるのが救いだった。隙があれば、すぐにでも顔を寄せてくる。
「父との連絡は?」
「書状だけ送った。直接の面会はしていない。それよりも、鎮圧したらあの玩具をどうする気だ?」
ディルのことだと分かると少しだけ顔を曇らせるイリス。主犯格は重い処分が下されるのは間違いない。かならず、命を取られるだろう。
「……それ相応の処分に従います。危険な因子を残しておけませんから」
「は、本当のことはどうなのだろうな」
見透かすような言い方に、ぎくっと肩が動きそうになった。イリスの中で、未だに整理できていない心を見破られた心地になる。
「どういうことですか?」
「玩具如きに邪な感情を抱いているんじゃないかと思ってな。元王族でも奴隷になり下がった下等種に惚れるなど笑える話じゃない」
「それはあり得ません。恋愛感情で見たことなどありませんから」
なぜか心音が乱れていく。唇が乾いていく。ロズにも言われた。ディルを好きなのかと。
「どうかな。サイに滞在したときも、玩具を見る目はどんな奴よりも色恋を感じた」
「気のせいです」
気の、せい……気のせいだから。葛藤に揺れる瞳を、ライアンは見逃さない。そこに生まれるのは、禍々しい感情だとイリスは知らなかった。
「あの女々しい下賤な玩具の頭を踏みつぶしてやる」
物騒な小言を落とすと、ライアンは鞘の剣に荒っぽく手を置いた。イリスはぎょっとして、彼を見つめた。
「ライアン様!近いです!」
報告の声が上がると、ライアンの、にっと曲がる口にイリスは目がいく。
―――開戦だ、と誰もが思った。
「うわぁぁぁ!!」
突然として降りかかる、地響きのような大声。人の気配を感じなかった中で大きく響いた、開戦を告げる剣を引き抜く音。不意打ちを狙うかのように、横の樹木の間から飛び出してきたカモーアの兵士。たくさんの人が一斉に傾れ込んできて、イリスは目を曇らせた。
「慌てるな!隊列を乱さず背中を合わせろ!」
グータンの声で一瞬にして空気が分かる。サイとエドームの騎士は臨機応変に反応した。目立った混乱をすることもなく、ぶつかり合う両者の勢いに負けず踏ん張った。
「イリス、お手並み拝見といこうか」
「お見苦しいところを見せてしまいます。目の前の敵に集中してください」
もちろんイリスやライアンを守るようにすぐに防御が固まった。それでも数が多く、完全に守るのは無理がある。その様子にカモーアの兵士は目をつけ、波のように襲いかかってくる。
「イリス様、ライアン様、お下がりくださいっ!」
グータンの声がすると、イリスは従おうとした。
「どこまで湧いてくるやら。イリス、こっちに来い」
「何を……っ!」
でもライアンがイリスの腰を掴んで軽々と自分の馬に乗せる。主を失ったイリスの馬はこの戦闘で驚いたのかヒヒーンと鳴き声を上げて離れていった。
周りが戦っている中、ライアンは普段と変わらず余裕を持ち、落ち着きを払っていた。
「は、細い体のラインだな。脚も長く、胸は俺好みだ」
至近距離になるとお腹のあたりですーとイリスの体に触れ、サラシを巻いた胸にまで手を置いた。がっちり両手で揉むとイリスは目を大きく見開いて悲鳴を上げる。
「やめ……っ、ここをどこだとお思いですか!」
「ふん、この戦いが終わったら幾らでも可愛がってやる」
そう言うと部下の名前を呼び、手綱を掴むといきなり馬を走らせていった。比較的衝突の少ない経路を選ぶとどんどんスピードを速めていく。目には企みがあるように見えて、イリスは怖いほど危機感が芽生えた。
「イリス様!!」
グータンの声がする。唐突の行動に唖然とするイリスは、今グータンと距離を取るのはまずいと声を上げた。
「ライアン様、お戻りください!」
「喚くな、すぐに勝負を付けてやる」
迷うことなく進んでいく景色に目を奪われながら、強引に暴れるわけにもいかずにじっとした。どこに向かっているのか、半分は分かっていた。
ディルの、ところだ。
「追いかけろ!逃げたぞ!」
イリスを乗せたライアンの馬を見逃さずに後を追おうとする何人かは、グータン達の手によって阻まれる。開いていく距離に戻るのは無理だと諦めたイリスは自分の身を守ろうと剣に手をかけたが、ライアンに手を握られる。
間髪を入れず馴れ馴れしく手を絡められ、不快な顔を消すことは出来なかった。
「イリスが剣を抜くほど俺は落ちぶれちゃいない。女らしく俺にしがみついていろ」
カンッという剣の音が耳元で暴れる。狙って来た攻撃を話しながら見分けるなんて……!イリスは驚きで体に力が入った。
崩れ去るカモーアの兵士が、一瞬にして視界の外にいなくなっていく。突き進んでいくライアンは、どこに向かっていくか分かっているようだった。
「っ……ですが、ライアン様のお手を煩わせるわけには!」
所詮女は何も出来ない、と思われるのは嫌だった。初戦では怖気ずいたかもしれないが、ディルが近くにいるのだから、自分で戦う意志を曲げたくない。心臓がドキドキして止まらない。やっと会えるんだと気持ちが先走りしそうでこわい。
「ぐだぐだ言うな。イリスは俺の上で啼いていればいい」
「――っ」
またこの人は……!とイリスの頬に朱色が走って、ぷいっと顔を逸らした。初な反応にライアンの顔がゆるゆるとにやけていく。未だに処女か、と嬉しそうに呟いた。
「初物を愛でるのも悪くない。せいぜい覚悟しておくんだな」
「私にその意志はないと言……っ」
「意志など簡単に消してやる。ベットの上では快楽以外感じさせない」
不敵な笑みでさらりと後ろから髪を撫でられた。
戦場でこんな会話をするなど、どんな神経をしているのか。ライアンは自分をどういう目で見つめているのか分かると、密着している今がとても危険だと感じられた。剣を片手に持っているが、既にイリスのお腹辺りに手を這わせている。大胆な触れ方にイリスは嫌悪感を表した。
周りの戦いも白熱化していき、鼓膜に直接響くような音が突き刺さる。
「もうすぐ玩具に会える。今のうちに別れの言葉でも考えておくんだな」
「ライアン様……場所も規模も戦略も、すべて分かった上でここにいらっしゃったのですねっ」
「ご名答。影で動いていた」
イリスは少し震えが込み上げてきた。こんなにも簡単に情報収集できるエドーム国の強さに不安感が募っていく。怪我ひとつ負うことなく樹木の間を進んでいく中、ディルに会える事だけに集中したくても、後ろの存在があまりにも巨大で恐怖がはりつく。
何が起きても可笑しくない。その時に直面しても、動揺だけはしたくない。
心強くあれ、心に太陽を持て。逃げるな、背けるな、挫けるな、諦めるな。強く、何度も、言い聞かせる。
「ディル……っ!」
イリスの運命の分岐点がすぐそこまで迫っていることは――…誰も知らない。
「あ……っ!」
所々で火が燃えている辺りに差し掛かると、上部の人間が出入りするであろう場所が見えてくる。
松明が倒れ、混乱で揺れる視界。囲まれた敷居、地面に突き刺さっている剣を、ライアンは慣れたように飛び越えていく。
見事な馬術を見せ、うろたえる敵を容赦なく滅していくライアンの冷静な判断力と瞬発力に、イリスは思わず息を飲んでいた。
「イリ、ス――…?」
誰かの声に、イリスはぴくんと反応した。見覚えのある、つい最近まで一緒にいた幼馴染。味方の騎士と対峙していた時に一瞬だけすれ違った。イリスは心痛が迫ってきて、泣きながら叫んだ。
「ディッシュ!」
ああ、ここで逢いたくなかった。こんな風に敵として、向かい合いたくなかった。自分で選んだ道なのに、今さら逃げたいなんて卑怯だと思った。手を伸ばしても届かない。虚しく宙を散歩していく。離れていってしまう。
「あ、あ……っ!」
駄目だ、胸が熱くて仕方ない。ディッシュがいるということはディルが近い。
もう、すぐ近くに、いる。
「お願い……無事で、いて」
その時だった。心臓が、甲高い悲鳴を、上げる。
ちらっと見えた――…目を引くほど立派な銀の髪。一本一本が繊細に揺れ、煌く眩しい肌によく映える。瞳に燃えるような激しさを宿して、この場にいる誰よりも美しく見えた。見事な剣の動きが一秒一秒を切り裂いて的確に刻んでいく。
今までにないくらい、体の内に痺れが走っていく。吐息のような小さな掠れ声が漏れた。
逢いたかった、とても、とても。この身が滅んだとしてもこの目で一目見たかった。でも、一目なんてそんなの、嘘。本当はこの視界いっぱいに顔を映したかった。壊れるくらい、力一杯、抱き締めたかった。
バクン、
バクン、
バクン、バクン。
ドクン、ドクン。ドク……っ!発作のような圧迫感が、神経を犯していく。
「相変わらず美しい男だな。女として生まれるべきだったんじゃないか」
ライアンまでもそう零すほど、ディルは綺麗だった。
「ディルっ!」
イリスはなりふり構わず、ライアンの馬から飛び降りる。何度も脳内でつくり上げたこの再会が、今目の前で起ころうとしている。
幻覚でも、幻聴でもない。生身の人間。自分が心から欲した、幸せを願った、とても大事な人。
ねぇ……駄目なの。貴方の側を離れたくない。
心のどこかでずっと私のものだと思っていたのかしら。醜い心でつなぎ止めようとしていたのかしら。
「ディルッ!!」
こっちを、見て。私、貴方を…貴方を――!
思いが最高潮に高まって、イリスの周りの景色がモノクロに変化していく。何も聞こえない、何も感じない。五感を全て感情に捧げた。
彼が、ゆっくりと、こちらを向いた。走り寄る距離が一歩、一歩と埋まっていく。近づいていく。触れられる。焦がれたその影に。
今、確かに、はっきりと。はっきりと。
「そこまでだ」
しかし、誰かの手が、行く手を阻めた。
引き戻される大きな力に添うように頭が揺れた。手を伸ばしたその先にディルがいたのに距離が生まれる。
どう、して……?
目があった瞬間、雷が鳴り響いたように衝撃が起こった。散っていく涙の光が地面に姿を消していく。ディル、ディル、ディル……っと泣きながら首を振った。気付いてほしくて何度も名前を呼んで手を伸ばした。
――届いて、届いて…!
「放して、放してッ!ディル、ディル……!」
動けない拘束を強めるのは、ライアンの広い腕だった。珍しくイリスは我を忘れて暴れる。しかし、どんなに抗っても男の力には敵わない。心底悔しくて、思わずライアンの腕に爪を立てていた。
「……お姉…さま…」
ディルの目に、少しの驚きが色を帯びていく。開かれる目には確実にイリスをとらえていた。それでもライアンに抑えつけられているのを見ると剣を構えなおした。鷹のような鋭い眼光を見せ、相手の出方を待っている。
エドーム国の王子だと一目見た瞬間から悟ったようだった。
「何の、つもりだ」
這うような低い声にさすがの威圧を感じた。ライアンの部下は凄まじい畏怖を受け、無意識に一歩下がる。
「は、ここまで取り乱すイリスも見たことがない。それほどまでにこの玩具を好いているのか。気に入らない」
「退きなさいっ、どういうつもりなの……!」
イリスは苦しそうに大きく叫び、全身で抵抗した。そこで首のあたりに力を入れられ、息がしにくくなる。次第に抗う勢いが衰え、イリスは静かになった。
その時、ディルを取り囲むように味方が助けに入る。その中にイリスの知る顔も何人かいた。ディッシュはいつでも飛びかかれるように構え、射殺すような睨みをきかせている。それでもライアンは、余裕の笑みを浮かべた。
「今は亡きカモーアの騎士たちよ。よく聞くがいい」
イリスは本能で悪い事が告げられる、と予感がした。聞きたくない、と思った。そうして冷たい光が細い首に突き付けられた。今にもイリスの喉元を貫こうと構えている。
全身の血が逆流していくような感覚が巻き起こった。
「サイの王都を我らエドームが占拠した。サイは我らの配下にくだった。大人しく戦を止めるなら国は返してやる。これ以上抵抗するのなら全面戦争といく。しかし王都には二万の兵、これより南に一万の兵が待機している。勝機があるとは思えんがな」
イリスの目に戦慄が走って、目に映る世界が黒に転じた。
王都を占拠……!エドームがサイを……!
「なんてことを…っ」
イリスは予想していた最悪の事態に声が震えていた。
「馬鹿ではない玩具なら分かるだろう?これ以上の犠牲は無用。無駄な死体を散らしたくないのなら早々に賢明な判断をすることだな」
冷酷な笑みを崩すことなく、ディルに目を見つめながら問いかける。
思わぬ事態にざわめいたカモーア側は目配せしてどうするか迷っていた。最終的な返答はすべてディルに与えられているようだった。
「さっさと返答しろ。俺の気は長くないぞ」
誰もが考え付かなかった展開に動揺と混乱が染みついていく。それでも警戒心を解くことはなかった。
冷や汗が絶えないイリスは放心状態に陥ることなく、靄がかかりそうな頭を精一杯クリアにさせる。
小さな震えだけは止まらなくて、サイ国の騎士の動向に目を向ける事を忘れないでいた。
一刻も早くこの戦いを終わらせなければいけない。これ以上は無意味だ。
カモーアと争っている暇などない。王都を占拠したということは父や弟や妹、皆の安否が危ない。属国に下っても命さえ守れれば希望は見えてくる。
「渦中のイリスは少しも驚いていないな。多少荒れると思ったが」
つまらないな、と暇つぶしでもするかのように髪をいじられる。よくもそんな悠長なことを言えるものだと憎しみに体が貫かれた。
息がしずらくて肩で呼吸をしながらイリスは怒りを全身から漂わせる。
「ふざけないで!この心の内は嵐のように荒れているわ……ッ!今すぐにでも貴方に殴りかかり、たい!」
それでも、心に身を委ねるほど愚かなことはしたくない。今すべきことが山積している、そんな時間など無駄だ。涙は絶対に流さない。脆い感情に左右されたくない。
「今にも理性を失う程、怒りに包まれているな。だが忘れるな、女というものは非力な存在だ」
耳に湿った息をかけられ、敏感に反応した。
「どうかしらね、貴方が思うような女と一緒にしないで。いつだって弱い存在じゃないのよ、いつかきっとその言葉を覆してみせるから」
激しい悔しさや怒り、悲しみのせいかいつもより語気が乱れる。
「あまり反抗しない方が身のためだぞ。後々に影響してくるからな。俺の機嫌でも取っていろ」
「っ……この…!」
ああ、もう……音を立てて崩れていく時間の狭間で揺れる今が恐怖によって埋め尽くされる。投げやりにならないで、冷静に一つずつ対処していこう。焦るな、時期を待て。早まったら全てが灰になる。
ディルはあらん限りの威圧を込めてこちらを凝視すると息をつき、応じようと言い、はっきりと返答する。イリスは出そうになる涙を必死にこらえ、以前と変わらないリリィの面影をちらつかせて聞いた。
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