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ぶつかる思い Ⅱ
しおりを挟む「……そこまでにしなさい。見苦しいわよ、ライアン王子」
しかし、そこでディルが口を挟んできた。
イリスは怒気を浮かばせているライアンに脅えと威圧を感じて体が動かなかった。
「あ?」
苛立ちを露わにし、機嫌が悪そうな顔でディルの顔を見る。
「そんなに怒らなくても、貴方の気はもう済んだでしょう。お姉さまが過保護にするのは私に同情していたからよ。恋や愛だの甘ったるい感情なんてないわ」
「……ディ…」
「それにこんな痴女、私の許容範囲を越えてるわ。淫乱で下品な王女なんて、誰が恋心を抱くのよ。まっぴらごめんだわ」
イリスはその言葉に、激しい痛みを覚えた。
誰の目にも明らかな、拒否。存在さえ遠ざけるように、卑下するかのような視線が、目が見えないのに身体に突き刺さる。
「せいぜい、一生ライアン王子に可愛がってもらえばいいわ」
そこで、イリスの支える力がなくなる。あまりにも傷つく言葉が心を満たし、必死に守ってきた精神が崩れていく。
見えない壁にぶち当たったように、心臓を苦しめる圧迫感が伝わっていた。
「ずいぶんな言い草だな。今まで守ってくれてきた相手を侮蔑するなど」
ライアンからは怒りが消え、反応を試すように言った。
「初めから、守ってほしいなど口にしていない。勝手に思い上がって、行動していたのはこの人でしょう」
既にイリスの耳には何も届いていなかった。世界が反転したかのように、五感が機能しなくなっていた。
「もういいでしょ、厭らしい香りがするこの部屋にいると気持ちが悪くなる。これからすることも多いし、失礼するわ。後はごゆっくり」
「勝手に出ていけ。まったく、面白くないな。少しは取り乱せばいいものを」
嘆息するライアンはつまらなさそうにドアに歩いていくディルを目で追いかける。
震えて丸まるイリスを一瞬だけ見つめたディルは最後、こんな台詞を吐いていった。
「私にとって、お姉さまはそれだけの存在ということよ」
――私は、なんのために、生きているの。
*
――ここは、どこ。
イリスはぼんやりとしたまま、薄っすら目を開けた。
時間がぽっかり空いたように、昼の明るさは消えうせ、夜の暗さが広がっていた。サイで何度も見た、宵闇。細く蒼い月明かりが窓から伸びてベットにかかってくる。
頭を働かせてなぜここにいるのかを考える。ディルにひどい言葉を浴びせられてから、記憶が飛んでしまっている。
思い出しただけでも胸がつまり、流したくない涙が浮かんでくる。
ディルの視界に入りたくない。もうあんな惨めな姿は晒したくない。ひどすぎる。
それに、どんより心を満たしているのは父の無残な最期だった。網膜の裏に焼き付いてゆっくりと再生される。
ディルが剣で止めを刺した。それでも、泣きそうな顔をして自分を見ていた。
「……もう、戻れないのね」
どう、足掻いても。ディルの笑顔さえ、今は遠かった。
ライアン王子はどう扱うのだろうか。玩具と同等に尊厳を無視して、自分の欲望を満たす道具として生きていくことになるはず。
それでも、構わない。自分の責任だ、幾らでも受け入れる。だからサイの皆を守れるように、ライアンの機嫌を取らなければいけない。
そんなことを言っても自分は嫌がるばかりで、王女として失格だと悔しくなった。
「目が、覚めたか?」
「っ……」
びくっと肩が動いて声のする方を見る。また震えが起きたが、歯を噛んで耐える。
ライアンは左に金髪を束ねており、腕を組んでイリスの近くに寄った。足音が聞こえると少し体が後退した。
さすが秀麗な王子と言われているだけあって流れるような動作が目に入ってくる。崩されない静かな笑みはいつもと違う雰囲気で逆に怖い。
「身体はどうだ。屑が出ていった後、すぐに気を失ったからな。よほどショックを受けたか」
「……っ、大丈夫です」
「ならよかった。しかし相変わらず顔は蒼いみたいだな」
いきなり身体の心配をしてくれるなんて、予想外だった。
優しさに惑わされてはいけない、この人は父を死に追いやった。どんな仮面をかぶっているのか分からない。イリスは警戒しながら睨みつけた。
「イリス」
ライアンはそう言えば、壊れ物を扱うかのように柔らかい動作で抱きしめてきた。
突然の態度の変化に驚いたイリスは瞬きを繰り返して動揺していた。
あれだけ乱暴にされたのに、優しく触れるなんて何を企んでいるのか。そう考えてしまう程、ライアンに恐れを抱いていた。
「あ……っ」
くんくんと匂いを嗅ぐように首筋に顔を落とされ、熱い息を感じる。
嫌でも感じてしまうその温度に、身をくねらせてしまった。何でも敏感にとらえてしまう体が情けなく思う。
「……ライアン、様?」
この人の真意が掴めない。まるで甘えるかのように抱きしめる力が強くなっていく。
そう、弟のウィールが温かさを求めるように。この人も血が通った、自分と変わらないただ一人の人間なのだと気づく。
「いい香りだ。本当に、イリスなんだな」
噛みしめるように呟く姿は、今までの印象とまったく違っていた。
「何を、仰います……」
ぺろっとライアンの舌が耳朶に触れて、甘噛みされる。ひっ……と恐怖と刺激に縮こまって口元に手を当てた。
ディルへの想いを宿した涙と、恐怖と触感からくる生理的な涙が交錯して目の筋に光った。狙ったようにライアンはわざと焦らして、痺れるような甘い余韻を与えてくる。
「今まで抱いたどんな女よりも綺麗だ。あの時見た強気な眼差しも変わらないな」
「……え」
「誰のものにもならないからこそ、こんなにも欲したんだ」
顎を持ち上げられ、熱を帯びた視線がぶつかってきた。綺麗なブルーの目が視線が重なると、複雑な思いが込み上げてくる。
この人の想いに応えていれば、よかったのかもしれない。邪険せず、ありのままを受け止めておけばよかったのかもしれない。ずっと、ディルしか見ていなかったのだから。
それでも許せない現実が、時として流れている。
国を犯した。大切な存在を失くした。居場所さえ、もうないに等しい。
「もうお前は、俺のものだ。やっと手に入れた、離したくはない」
そんな言葉が落ちてくれば、さらに心が苦しくなる。
この人は純粋に求めていたんだろうか。支配欲や欲望も奥底にはあったが、一人の人間、女性として欲していたのか。
理性を越えて、こんな強行手段まで使って、私を手に入れたの?イリスは泣きそうになって、ぐっと堪えた。
「……離れることなんて、できません」
貴方が私を必要とする限り、側に居続けるしか……ない。
例えライアンがどう思おうと今の自分は何もない殻に閉じ込められた、ただの飛べない鳥にすぎない。イリスはぼんやりとながら、鮮明に感じた。
「イリス」
かすれた声で名前を呼ばれ、んぱっと艶めかしい口付けをされた。
唇という柔らかい感触に、慣れる事は出来ない。間に忍び寄ってくる舌が脳に痺れを与えていく。
解けない緊張で顔の頬が強張っていった。それでも巧みな舌遣いを受けて、徐々に手の力が抜けていった。
「……ん、ふっ……ん、ぅ…」
角度を少しずつ変えて、唾液が交換される。隙間から覗くライアンの舌はまるで生き物のように蠢いた。
「っ……ふ…」
銀の糸がじれったく伸びて距離を埋めて離れていく。腰に回された手はさらに密着しようと近づけてくる。
本能が新しい酸素を求め始め、苦しくなって胸板を押した。が、離そうとしない。
定期的に弾む息を整えようとするが、胸に触れる手がそれを遮る。
いつの間にか着替えられていた薄着のナイトドレスには直接と言ってもいいほど、指の円形の動きを感じる。
「ぁ……っ、ん」
ほんのり桃色に上気した頬、泣きそうに揺れる瞳が切なげに視線を変えた。このまま自然の流れのように抱かれるしかない。
「抵抗しないようだな。従順な猫の様だ。力で抑えつけてヤるのも悪くないと思ったんだが」
「……抵抗なんて、できません。私はもう、貴方の手の平の上。逃げる事も抗うことも……叶わない」
例え嫌がったとしても、無駄な足掻きに終わるだけ。
この人の心の空いた隙間を少しでも早く埋めるなら、静かに耐えるしか方法はない。気を損ねないように、相手の機嫌を窺いながら。それこそ、淫売だって。
「……お好きに、どうぞ」
貴方の気の済むまで、何度でも。
イリスは真っ直ぐに逸らさず、強い瞳で見つめ返す。ライアンは面白そうに流麗に笑った。
「賢明だと思うか、自分の判断が。国のためならば己を犠牲にしても構わない。どんな仕打ちを受けてでも耐えて見せると。お前らしい見解だ」
「……王族に生まれた限り、国のために自分を差し出すのは当然です」
「模範解答だ。王の血筋に生まれた者なら誰であろうとそう口にする」
俺の想像通り、お前は自分を棄てた。ふっと笑う。
ライアンは絹のようなイリスの金髪を梳きながら、細い首筋に映える複数の赤い痕を上から撫でる。
そして鎖骨に至るまでの距離を何度も往復させた。口でちゅうっと吸ったり、乳首をいじったり、悪戯を繰り返す。
「……っ!」
「今日は約束をしたから抱けない。惜しい事をした。しかしお前の全身に紅い痕を散らすことは出来る」
「あッ……!」
「こうやって蜜壺に指を入れて掻き乱すことも、湿り気を帯びた喘ぎ声を聞くことも出来る」
ぴりぴりと甘い刺激が足の下から頭の先に駆けて伝わっていく。
「ほら見てみろ、この滴る白い液を。女としての悦びを知らず生きてきたお前にとっては目を覆いたいものだろうな」
「……っ見たく、な…」
「下の口が、漏らしてるんだ。心よりも身体の方が正直なのは認めるしかないな」
「……っ!」
自分だって分かってる。でも今まで生きてきた中で、こんな多面性があることを理解したくない。
「恥ずかしがるな、快感に抗うな。女は乱れて美しくなる」
「――…あ」
「そうだ、もっと声を出せ。隠そうとするが、気持ちいいんだろう?」
「……んッ」
「いじるだけでこの量だ、奥にはもっと卑しい愛液が溜まっているんだろう?イッた方が楽になれる」
クラクラしてきて、ぐっとライアンに縋りついた。何かの支えがなかったら簡単に崩れ去ってしまう。
「どんどん溢れてくるぞ。健気に耐えているのもいいが、腰が動き始めている」
「……っ、あぁ……ッ!」
下着越しでも分かる、濡れたあの箇所。ライアンの長い指がコシコシと揺れる度、高い声がこぼれていく。
誰も触ったことがないのに、こんなにも恥ずかしいことをされるなんて……羞恥が込み上げてくる。
高まってくる。頂上に、終着点に、上り詰めてくる。
掻き乱される度に、内側の太ももを撫でられ、たくし上げられたドレスは意味をもたなくなっていく。
イリスは打ち震えながら、ずり下がるドレスを気にする間もなく、達してしまいそうになっていた。
「恥ずかしいだろ?自分の汚い所を触られて。知りもしない快感に溺れまいとしても体の中は疼いてくる」
「……そ…れは、ぁ…っ」
「安心しろ、お前のココは汚くなんかない。甘い蜜が歓喜してとめどなく出てくる」
引き抜いた指先にテラテラと輝く無色透明の液。イリスは真っ赤になって指を口に運ぶライアンを見ていた。
泣きそうな心を煽るように舌を遣って見せびらかす様子は、認めたくないが…妖艶だった。
「ぐちょぐちょいっているのが聞こえるか?感じてる証拠だ」
またゆっくりと入ってくる感覚に、イリスは背中を弓なりに曲げていく。
少し開いた唇の隙間からは湿った息が吐き出される。
「ハシタナイのは嫌いか?全てをさらけ出すのは嫌だろうな」
気付いたらベットに押し倒され、脱ぎかけのドレスが広がる。月明かりが伸びてきて、イリスの綺麗なラインと重なっていった。
ライアンもその乱れる姿に、下半身の熱が甦って来る。
「喜ぶ人っ……あ…・…、なんて…いませ、んッ」
「最初は誰でもそう言う。だが快感に慣れてくると、自ら入れて下さいと口にする。イリスの場合、堕ちるのには時間が必要か……」
強情な奴だ、身を任せてしまえば楽になれるものを…と愉しげに呟く。
イリスは手を頭の上にまとめられ、固定されて動けなくなる。誘うような足は秘部を隠そうと曲げられる。
「さぁ、言え。気持ちいいんだろ。素直になった方が楽だぞ」
「……っ」
確かに全身を満たしているのは、続きを促す自分の声。しかし、プライドが許さない。こんなにも簡単に屈してしまうなんて、嫌。
しかしこれから先のことを考えれば、そう口にするしか選択肢はない。どちらにしろ、逃げ道なんて最初から存在しない。
ライアンの猛々しいモノは、上をめがけて反り返っている。
「言ったはずだ、気は長い方ではないと。お前に失うものは、何もないんだろう」
「ライアン、様」
「お前は何もかも忘れて、官能に染まってしまう方がいい」
お腹の部分を指の平で擦っては突く。その鈍い愛撫に、声を上げた。
「……どう…して……私など、何の意味も持たない、王族の姫にすぎないのに……っ」
「馬鹿か、お前は。自分がどれほど価値のある美しい女なのか、分かっていない。王族の奴は皆、お前を脳内で犯していただろう」
こうやってな。雰囲気を味わうように、圧し掛かってくる。
「どこも甘美な香りで包まれている……」
髪も、陰部も。お前は知らないだろうがなと至近距離で目線が交わる。白いシーツに二人の影が伸びていく。重なるのは熱い吐息だけだった。
「……ご冗談、を……そこまでして、私を辱めたいですか?」
からかうことでもっと傷つく様を見たいと。苦しむほど、この人は歓びを感じるのだろう。
「は、お前がいかに自分に興味がなかったのかが分かる。そんなにあの屑に熱を上げていたのか?」
「そんなこと……」
もっと奥深くに潜む心なんて、認めたくない。
もしディルを恋愛感情で見ていたなら、これまでの暮らしは一転する。彼に抱いていい感情なんて何もない。
――好きなんて、口にできるはずがない。
「ないとでも?屑のブツを咥えて恍惚としていたのはお前だろうが。感じていたんだろ、アイツのを咥えて」
「感じてなんか、いないわ……」
ぐるぐると頭の片隅にまで、ライアンの言葉が迫ってくる。脆く形となっている核を抉っていくような気がして恐怖を覚えた。
何をするわけでもなく、ライアンは試すように言葉を繋げるだけだった。
「嘘をつけ。自分に逃げてるのは卑怯だぞ」
イリスは、さらに追い詰められる。
「――ッ!」
「お前は自分を棄てたんだろう。ならば、屑などに構っている暇などないはずだ」
「……は、い」
「俺の気分を上げる事だけ、考えていればいい」
ほら舐めろと口にし、イリスの細かく揺れる手を誘い、擦り始める。
何度触れても気持ちの悪いモノ……それでも興奮しているのか、上を向いているのが分かる。
女ならその美貌で百戦錬磨であろうライアン。自分には、その人を魅了する要素があるとでもいうのか?
あるはずがない。
なのに、どうしてこの人は。大切な国を奪って……父を死に追いやって……私に嫌われてまで。
「ん、ぅ……ッ」
とめどなく流れる涙を止める事は出来ず、イリスはひたすら奉仕を続けていた。
「――イリス様…、リス様…!」
意識がない自分を起こそうと誰かの呼ぶ声が聞こえる。ああこの声は…と頭が認識すると、体の底から安堵が浮上してくる。
ずっと、支えていてくれた人。いつだって思ってくれていた。
不安そうな顔をしたのが最後だった。声からして彼女は無事だったのだ。本当によかった。
「ロズ」
「ああ、よかった。お目覚めですね……起き上がれますか?」
心配そうに顔を窺ってきて、イリスは力が抜けてふんわりと微笑んだ。
周りを見ればライアンの部屋だということが分かる。しかしあの人がいる気配はない。
静かな時間がゆっくりと流れていて、イリスは今まで過ごしてきた日々を思い出した。
「……長い夢を、見ていたような気がするの。皆が楽しくいつも通りに笑っていて、私も絶えず笑顔で……これまでのことはああ、怖い幻だったんだって」
「イリス様」
きゅっと手を握って、爪が直接肌に食い込んでいく。
「大丈夫……そんなの、甘い逃避だって気付いているわ。もうサイはなくなってしまった。私の大切な国は……消えたわ。お父さまも騎士の皆だって……」
「お気を確かに、姫様。しっかりなさいませ、貴方は生きておられます。生きている限り、復興の道は潰えておりません」
弱気な発言を聞いて喝を入れるようなロズの言葉に、イリスはぐっと涙をこらえた。
「ありがとう。そうね……弱腰だなんてらしくないわ。もっと前向きに考えなければ」
「はい。私たちもだいぶ混乱いたしましたが、正気は取り戻しました。貴方を、全力で支えます。これからのサイをまとめ上げるのはイリス様をおいて他にはありません」
そうだ。私しか、この国を守れない。まだ弟のウィールは5歳。父が亡くなった今、本来ならば正当な王位継承者。それでもあの子に、この国の重圧を背負わせるなんてあまりにも酷だ。
妹のサミルだってまだまだ母に甘えていたい年頃で、混乱の渦には巻き込みたくない。
「お姉さまに連絡はついている?」
同盟国に嫁いでいった姉を思う。きっと心配して力になりたいと思っているはずだった。
「いえ、それが。ライアン王子は私たちの行動をずっと監視してなかなか機会が取れず……」
「そう……でもいずれは文書を送れるでしょう。お姉さまとて、危ない橋を渡ろうとはしないはず。大丈夫よ、慎重な方だから」
サイを助けるため、軍事力の大きいエドームに戦を仕掛ける事はしないだろう。勝てる保証もなく、勝機もないのに、軍を徴収するわけにもいかない。
きっと機が熟すまで息をひそめて動向を探ってくれているだろう。サイが不利にならないように考えてくれている。
「……イリス様、これは」
ロズが驚いて見つめる先にあるのは、はだけたナイトドレスから浮かぶ無数の紅い印。イリスは恥ずかしがる様子もなく、ただ呟いた。
「あの人が、つけていったものよ」
大丈夫……気にしていないから。イリスはそうつぶやくと、悲しそうに頬を緩ませて笑った。
「よくも……大事なお体に……」
歯を食い縛って自分の事のように感じてくれるロズに、イリスは胸が熱くなる。
幼いころから本当によく可愛がってもらっていた。ロズだって厳しかったけれど、慈愛を感じる優しさで包んでくれた。
「平気よ。属国に下ったと聞いて、これくらいの覚悟はしていたから」
乱暴にされたことも、知っているんだろう。沸々と湧いてくる怒りを抑えつけようとしても、ロズは顔を赤くして拳を握っていた。
「国を滅ぼすだけでも飽き足らず、イリス様を傷つけるなどと…ッ!あの人間もそうです。カモーアが復活されると聞いて手の平を返すように戦いをやめたそうではないですか…」
「確かにライアン様が出した条件は悪くなかったわ。先を読んでいたんでしょうね。数には劣るカモーアだって十分危険な要素になり得るから」
そう言うと、イリスはベットから降りようとした。しかし下部に湿るあの感触がして、一瞬躊躇う。
が、立ち上がった途端にあの液体が太ももを伝って地面に落ちる。昨日の出来事がよみがえってきて、桜色の頬に赤が広がった。
「まさか、もう……純潔を失ったのですか?」
顔を真っ蒼にしてロズが言うものだから、首を振って間違いを正す。
「まだ、まだよ……純潔は、保たれているわ。でもきっと今日は……」
「――…拒否など許さないと?」
イリスは悲しく笑って頷いた。
「ロズ。これは避けられないことよ。今どうこう言ってもあの人は必ず私を犯すでしょう……大丈夫、皆の想いに比べたら私の痛みなんて無に等しい。何だって耐えられるわ」
「そんなっ!女の痛みなど、女にしか分かりません!どれだけ酷い目に遭うのか……!」
「ロズ……」
初めての痛みを未だに経験したことはない。 肉が裂かれるような刺激でひどく痛むのだと言う。
確かにあのナカに指を入れられた時はつらかった。動くたびに微弱の快感に勝って痛みが広がっていた。
それに…、思い出したくないが、あの人の、その……アレは大きい。直視したことはないが、ぱっと見ただけでも恐怖が湧いてきた。
「繊細な問題なのですよ……今だって精神的にまいっております、イリス様の負担を考えたら……」
「ロズ。何度も言うけれど、属国になった時点で私に自由なんて保証されないわ。私なんて後回しよ。それよりも国民の暮らしの、安全の保証が大事でしょう」
「……それは」
「ライアン様の行動からして、私はもっと辱められるわ。これから先、私の反応を試すような事件だって起こり得る」
あの人が分からない時がある。
優しく囁いたかと思えば、意地悪な言葉で傷つけたり。全部陥れたいという感情で動いているのは理解できる。
しかし、なぜなのか。ライアンは時折、目を細めて恋人を慈しむような視線を投げかける時がある。
「耐えてみせるわ。それにロズがここにいるということは、私のお世話を任されたのでしょう?月物の管理も含めて……」
「はい。お食事もご一緒させて頂きます」
よかった。これで少しは安心して過ごしていける。イリスはほっとして息をついた。
「……ライアン様は今どちらに?」
「大広間にて会議中、だとか……気を急かすようでありますが、起き次第準備せよとの申し伝えです」
「分かったわ。すぐに行きましょう」
素早く行動するイリスを見ながら、ロズはつらそうに顔をゆがめた。
こんな不幸に見舞われても、御身を削って皆のために動こうとする。時間はゆっくりだが、確実に過ぎていく。事後処理も交渉もまだまだ先は長い。
「全力でお支えいたします、イリス様」
十八でこの国の未来を背負われた主君に最高の敬意を込めて、頭を垂れた。
「……何、ですか、これは」
イリスは目の前に広がる光景に言葉を失い、足を支える力が抜けていく。
きちんとした衣服を整え、一礼してから大きな室内に入った途端、散らばる血の朱色に驚く。後ろから入ってきたロズも小さな息を漏らした。
室内の隅に脅えて震えている男たち。地面にぐたりと横たわる生身の人影。固唾を飲んで周囲を取り囲んで見守る団体。
そして、男の服を身にまとうディルの姿もあった。イリスは目を合わそうとしなかった。
中央部にはサイの関係者。主に父の側近が多いが、中心にいる人物を見て胸が震えた。
エドールと手を組んだ内通者の正体…最初の予想が当たって、顔に力がはいる。
「やっと来たか、イリス。何、裏切り者に制裁を下してやったまでのこと。お前がいなければ先も進まないだろう」
「エドルフ様……何故、貴方が……」
やはり、この人だったのか。サイの基盤、それに騎士団に至るまで細部を任され、長年に渡り尽力して下さった方。父だって、信頼を置いていた。
情報を受け渡すのなら、それなりに地位が高い人に限られる。中でも一瞬にして浮かんだのが側近であるエドルフだった。
一体、どんな望みを抱えて国を売ったのだろうか。
「イリス様……」
はっとして、居心地悪そうに顔を逸らしてきた。こちらだって直視など出来る筈がない。激しい怒りが湧いて怒鳴りたくなる。
それでも殴られ、蹴られた顔の損傷を見ると放っておけなかった。
「どういうことです?奴隷の見せしめのように甚振って……公開処刑でも行っているのですか!?」
駆け寄って怪我の具合を見ようとしたが、ライアンの剣によって制止される。
「あながち外れてはいまい。悟っただろうが、こいつはサイを売った。醜い欲望のために、この戦いを生んだともいえる」
ああ、やはりそうだったのか。認めたくないが、現実は残酷だった。
「……醜い、欲望?」
彼とて、仕えてきた国を簡単に明け渡すことはしないだろう。甘い誘惑に心を掻き乱されたに違いない。
さらなる地位の向上、富と財産……名声など、理由なんてたくさん浮かんでくる。
とても賢く、理性的な人だったのに。サイの中枢と言ってもいい人だった。ライアンもそこに目をつけ、熟した果実のように甘い交換条件を差し出したはず。
「聞きたいか」
上からの目線で問いかけるこの人が憎たらしい。
「……はい」
素直に頷いて、眉根を下げた。
「ふははっ、馬鹿としか言いようがない。教えてやるよ、こいつが欲しかったのは――」
一体、何だと言うの?
「カモーアの、屑だ」
「……は?」
感情と直結しているかのように素直な声が口から出ていく。戸惑いによってイリスの目は大きく目が揺れた。
頭がひどく混乱する。
訳が、分からない。なぜ、ディルが出てくると言うの……彼にとって今は関係のない話じゃ、ないの?
でも待って。確か父とエドルフが会話していた時に。
『ふん、女と瓜二つなのだ、実に楽しかったぞあの玩具は。憎悪を孕んだ目で睨んできたあやつを辱めるのがこの上なく幸せだった。一度お主にも貸してやっただろう』
『ええ、文句なしに最高でした。深淵までハマっていきそうで……おかげで夢にまで出てきましたよ……』
エドルフ様は……ディルを犯した、と。さぁっとイリスの体内に冷たい血が走っていく。
「――まさか、ディルを手に入れたくて、エドームに手を貸したとでも?」
そんな結論に達して、うずくまるエドルフを呆然と見つめ続けた。震えている体を見ると、本当にそうなんだと思い知らされる。
ディル、一人のために。だけどそれが、この人にとっての最大の願いだったのか。
父も、皆も、苦しむことはなかった。すぅっと吹き抜ける風に、イリスの絶望が交わっていく。
「話が早いな。そうだ、見た目はいい屑を欲して、邪道に手を付けた」
「……そんな、話って」
「ふ、これだけの理由だったとは信じがたいだろうな。しかしこれがすべてだ」
何も言えなくなって、頭が真っ白になる。
どこまでも綺麗なディル……エドルフは彼に溺れた為に、こんな事態を招いた。
同性の禁忌。世間一般では受け入れられないはず。それさえ超えるほど、のめり込んでいった。取り返しがつかないほどに。
「父を……支え、国を、支えて……下さったのに……」
「同情でもするか?」
「……同情、など…それでも、この人が命を懸けて手に入れたかったのは……手に、入らない…」
ディルは、ディル。
何の感情も抱かない、玩具のような人間じゃない。彼が誰を慕い、誰を愛しいと思うかなんて分からない。
ただ、熱烈で一方的な想いをぶつけても、何も返ってこないでしょう。
それでも、自分の地位を犯してでも欲した。力で抑えつけて、自分の支配下におさまって欲しかった。人の想いなんてどう湾曲するか、本人でも予測ができない。脆く、それでいて優しいものだから。
「屑がこいつを誑かすこともなければ、サイは滅びずに済んだ。全ての元凶は、お前が身を挺して加護してきた屑ということが分かるか?」
確かにそう考える人もいるかもしれない。
「本当の意味で裏切ったのは屑だ」
そんな悲しい事、言わないで。イリスは胸が張り裂けそうになった。
「……ディルが、悪いわけじゃない。彼は、何もしていないのよっ!疫病神のように言わないで!」
気付けば、叫んでいた。
「今さら、この現状が変わることなんてないわ。エドルフ様をどれだけ責めても結果論でしかない」
力強い瞳を失うことなく、冷静に言葉を続けた。後から嫌でも振り返るだろう。父の性癖を直しておけば、エドルフにディルを近づけないようにしておけば。
ある程度の自由を与えずに、いつでも自分の側においたなら、全力で守れたのに。イリスは歯がゆい思いを感じて、拳を握った。
「……私の、管理責任がいけなかったの」
エドルフは驚いたようにぴくっと体を動かしてイリスを見た。
顔を知っている周りの人もエドルフに協力して同罪なんだろう。小さく縮こまる姿が滑稽に映った。
「怒りで我を忘れずにいるとはな、さすがはサイの姫君。昨日は俺の下で快楽に喘いでいたのが嘘みたいだ」
「……ッ!」
ざわっと空気が震えて、一斉にイリスへ視線が集中する。ふっと笑うライアンはおっと失言……と悪気もなく呟いた。
恥ずかしくなりイリスがキッと睨みつければ、ライアンからは愉しそうな表情しか返ってこない。
室内にいる男たちの雰囲気が少し変わった。舐める様に全身を見つめる者も、物欲しそうにする者もいた。
「その細い首筋にたくさん紅い痕を刻んでやっただろう?」
「……ええ、目障りなくらいに」
服で隠すのが大変だった。イリスは嫌味を込めて言い返した。
「強気だな、俺の姫君。俺のを咥えて感じていたのが、そんなに気に喰わないか?」
「――っ…」
イリスは紅潮した顔を止められずに、火照らせた。
「ほら、そんな赤い顔をしてるから、周りの奴らが欲情するんだ。ああ、わざとやってるのか、淫乱?あれだけ可愛がってやったのに、まだ足りないとは」
「今そんな話をしなくてもいいでしょう!貴方こそ、こんな場で夜の営みの話題とは呆れますね。昼も夜も飢えていらっしゃるご様子で同情します」
言われっぱなしが悔しくて、つい発言してしまった。こんなにも取り乱すなんて、ライアンの思う壺だ。
「ああ、一日中お前の乱れる様を思い浮かべているさ」
あまりにも堂々言うものだから、イリスも口を噤む。
バチッと鈍い電撃のような視線が交わると、耐えきれなくなって背けてしまう。周りはライアンの威圧に凄んでいて、押し黙って何も言わない。
「……そんなことを考えているなんて…ッ」
なんて人だ。周りにどう思われようが、自分を貫いている。自信がなければこんな事は言えない。
「そんなことはどうでもいい。こいつの処遇について話し合おう」
広い室内でも危ない鋭利な剣をエドルフに向かって翳した。本人は怯えたようにびくっと反応する。
イリスは意味が分からず、目を疑って声を出した。
「止めてください。エドルフ様は貴方と繋がっていたのでしょう?どうしてこんなにも傷つけているの!」
「冗談、こいつは国賊だぞ。サイの裏切り者に制裁を下して何が悪い?」
イリスは険しい顔をしながら、じっと睨みつけた。きっとライアンは気紛れでこんな行動をしていると信じて疑わなかった。
素早くエドルフの状態を見れば、体の所々に傷があり、すぐにも手当てが必要だった。
恐怖によって痛みが緩和されているのかもしれないが、これ以上は危険だ。
「貴方がサイを奪ったのに、どんな口で…とにかく剣を下ろしてください。出血だってしてるわ、早急に手当てが必要……」
後ろにいるロズに声をかけようとした時だった。
「だからお前には為政者の器がないんだ、イリス」
「――…え」
「あまりにも軟弱で、甘さが目立つ。時には残酷な決断だって必要だということを分かっていない」
ライアンが持つ剣が揺れるのが視界の奥で見えた。
何をしようとしたのか頭がすぐに理解する。小さい頃から宿った反射神経で隠し持っていた懐剣を取りだしたがもう遅かった。
グサッと歪な音が、静まり返る空間に響いていった。
父を殺した物と同じ凶器。そして血が飛び散るのが鼓膜に張り付く。何人かが息を飲むのが分かった。
「……ぅぐああっ!」
苦しそうに喘ぐエドルフの声を聞くや否や、イリスは駆けだす。
即座に自分の服を引き千切り、止血をしようとした。その時はライアンは止めはしなかったものの、冷やかな目で動きを追っていた。
「エドルフ様っ!」
まずい。これだけの出血量で、腹部の貫通。傷を直視しても平気なイリスはすぐにでも医者の助けが必要だと判断した。
血が止まらず、すぐにイリスの服は赤く染まっていく。呼吸も浅くなってきて、蒼くなってきた。応急処置をしても、これでは大して効果がない。
「誰かすぐに医療班を呼んできてくださいっ!早くしないと間に合わないわ、ロズ、急いで!」
「はい……ッ!」
慌ててロズが室内を出ようとした時だった。
「何処へ行く?」
ライアンの低い低い声と、ドアへ突き刺さる短剣がロズの動きを止めた。
「誰が勝手に動いていいと言った?」
ライアンは遙か水底から這いだすような冷たい声音でロズに圧力をかける。
自分に向けられていないと分かっていても、凍えそうなこの空気。並みの人間が耐えられるものじゃない。
「……あ…」
ロズはその場に崩れる事はなくとも、足がすくんで震えだした。
イリスはそれを見て泣きそう顔をするがきつく目を閉じ、ある行動に出るため、エドルフを担ぎ上げようとした。
「何、を……」
まだ意識のあるエドルフが掠れた声を出した。しかしもう時間がない。
イリスを越える体重を支えるのは一苦労だったが、ぐっと耐えて歩き出そうとする。ここからは遠いが、治療の間に運んだら器具は整っている。
もちろんポタポタと伝う血は、イリスの服にまで染み込んでいく。一歩一歩進む度に、綺麗な床には鮮やかな赤が広がった。
「イリス」
ライアンの声が全身を犯していく。
とても低く、怒気が込められているのだと悟った。
足の先まで震えが込み上げてきたが、尚も進もうとするその姿勢に周囲の人間は固唾を飲んだ。
「死にたいのか?」
見えなくても分かる。ライアンは後ろで、今自分に剣を向けている。
それでも懸命に呼吸をしようとするエドルフの息吹を感じると、イリスは静かに呟いた。
「殺すなら、私を殺せばいいわ。どれだけ甘いと言われようが、苦しんでいる人を放っておけるはずがない。私が死んでこの人が助かるなら、こんな命いくらでも差し出す」
ゆっくりとライアンの方を向いて、真剣にぶつかりあった。
「……人の命を弄ぶことに意味を見出して何が愉しいの?貴方は、人として間違っている。自分を特別視してるわ。王族の私たちだって、皆と変わらないただ一人の人間なのよ」
深い沼に浸かっているような感覚だった。
底なしに広がる感情の海の中で、もがきながらも必死に自分の想いを伝えようとしている。
海岸に出られることはないけど、空を焦がれ、打ち寄せる波に抗って、今を生きている。
どれだけ怖い存在があっても、私は私でいたい。イリスは強い輝きを秘めて、臆することなく向かい合った。
「何を躊躇っているの。エドルフ様が危ないのよ、貴方達が支えてあげなければいけないでしょう!早く治療班へ彼を運びなさい!」
エドルフの近くにいた何人かに大声で命令すると、びっくりしたように慌てて行動に移す。ライアンは表情に変化がなく、立ったままその様子を眺めていた。
すぐにエドルフは部下の手によって、室内から出ていった。
「……王族だからえらいの?どんな人よりも上だと言うの?そんなことない、そんなのおかしいわよ」
「お前は理想主義者のようだな。つくづく甘い。何も分かっていない」
イリスは何も言わずに、ライアンの側に寄る。少しだけ悲しそうな顔で真っ直ぐ見つめていた。
室内では、高まる緊張感に誰もが動けずにいた。
「人を見殺しにする賢者より、人を助けられる無知の方がずっといいわ」
言ってはいけないと分かっていても、知らず知らずのうちに喋っていた。
ライアンは怒鳴るかと思いきや、荒れる様子もなくゆっくりと口角を上げただけだった。
そして数秒、無言で視線を絡ませる。イリスは多少なりとも罰を覚悟してじっと黙るが、ライアンの考えが読めずにいた。震えるロズはどうなるのかと観察を続けている。
「それが自分の信念か、イリス。お前が言いそうなことだ」
「……貴方の気を悪くさせてしまったのは謝ります。それでも、私は私の考えがあります」
ここまで来て引き下がれない。状況はぴりぴりしているが、ライアンは少し楽しげだった。
ああ、また嫌な予感がする。何なのだろう、この胸騒ぎは。イリスは内心落ち着かないでいた。
この人は自分にとって、何か悪い事を企んでいる気がしてならない。いつだって、動揺する様を見たいと思っているんだろう。
「いつまでその態度がもつか楽しみだな、ならば俺は高みの見物といこうか」
「……何を、しようと…!」
「お前がどんな選択をするのか試させてもらおう。世の中は残酷だと知らしめてやる」
連れて来い!とライアンが大きく叫ぶ。イリスは咄嗟にドアの方を向けば、直ぐにでも血の気が引いた。
そこには口に布を詰められ、うーうーっと唸る弟ウィールの姿があった。必死でもがいているが、大人の力には敵わない。
ウィールの顔にも、父と同様にいくつかの傷がある。抵抗したか、乱暴に扱われたと分かる。まだ5歳で怖いだろうに、涙を浮かべている姿にイリスは胸が痛んだ。
「ウィール!」
イリスは駆け寄ろうととすれば、すぐに手が伸び、ライアンに拘束される。
無我夢中で抜けだそうとしたが強い力が遮ってくる。イリスは悔しくて、後ろで押さえつけるライアンを思いっきりにらんだ。
「ウィールにまで傷を付けたの!まだたったの5歳なのに、なんてひどいことを…ッ!」
「馬鹿言え、あの餓鬼の精神年齢は体よりも上だ。見た目と違ってずいぶんな策士なようだが、俺に敵うなど百年早い。なぁに、簡単な取引をしようイリス」
ウィールを見れば、不安そうに瞳が揺れている。イリスを見れて安堵感も出たのか、先程よりは落ち着いていた。
「あの子を使って、取引ですって!?そんなこと……っ」
「黙って聞けないのか」
「……っ」
イリスは暴れたい気持ちを沈めて素直に続きを聞いた。
「まぁ確かにあの餓鬼は使わせてもらう。取引は簡単だ。弟を守りたければ、カモーアの奴らと真剣で戦え」
「真剣で!?相手を傷つけてしまうじゃない…」
いつだってこの人の言うことは突拍子で驚きを隠せないとイリスは耳を疑う。
「憎きカモーアの人間だろう。主たるお前が制裁を下さなくてどうする?と言っても罪人ばかりだがな。危ない連中もいる」
「……まさか、命を奪えなんて……」
罪人などと言っても人間ではないか。なぜ、こんな仕打ちを!とイリスは目を揺らした。
「相手が攻め込んできたらお前とて命を取らねばならんな」
分からない、理解に苦しむ。自分の剣の腕なんて、たかが知れている。イリスは混乱を隠せないまま、ライアンの提案を受け入れるか迷った。
「お前に引く選択などない。何も言わず、剣を握ればいい。負ければ弟の命はもらう。勝てばいいだけの話だ」
「馬鹿にしてるの?男の人相手に私が敵うわけないのに戦えだなんて……!」
危ない人もいるなら、尚更だ。自分とて無傷でいられるわけでもない。
罪人ということは、窃盗だったり、密売経由の者が多い。中には殺戮を繰り返す重罪人もいる。
「体力差、実戦値、力の差においても、私に勝ち目なんてないわ」
つまりは罪人と戦って勝てということ。それに負ければ、ウィールの命は消える。
とんでもない要求にプレッシャーが圧し掛かる。こんなの、無理がある。経験値を上回る相手に勝てる可能性なんて、ないに等しい。
室内でも動揺の輪が広がって口々に何か囁かれる。
「自分の力量も分からないで戦場に行ったのか。お前は騎士団でも師団長レベルに相当するといってもいい腕だ。俺だって目を疑ったがな」
「どこでそんな情報を手に入れたのですか……!」
「舐めるな、そんなものどこからでも手に入る。さぁ、剣技場に行くぞ。奴らもすでに準備を整えている」
本気でこの人が分からない。何を考えているのかさえ、掴めない。口では欲したと言いながら私がどうなろうとも、この人には痛くも痒くもないのだ。
むぐむぐと何か言いたそうに手を伸ばすウィールが視界に映る。
お姉さまと声にならないことを歯がゆく感じているようで顔が歪んでいた。
「ウィールは心配しなくていいわ。必ず、助けるから……!」
安心させるように頷いた。
「それはどうだろうな。その餓鬼も剣技場に連れて行け」
ウィールまで…イリスは歯を噛んで手を握る。
ライアンは簡単に命を見捨てる、無慈悲で、残酷な人なのか。イリスは信じられない思いで、ライアンに連れていかれようとしていた。
私は遊戯の駒のように扱われる存在なのだと叩きつけられたかのようだった。今度は殺戮の道具として動けと言うの?
そんな時だった。
呆然とする周囲に、凛と一歩前へ進み出る姿があった。
「――…待ちなさい」
それは、ディルだった。イリスは目を瞬かせてその様子を見守る。彼がなぜ出てくるのか疑問に思いながら、言葉の続きを待った。
「何だ、カモーアの屑。言いたいことがあるなら早くしろ」
なぜかライアンは想像通りだと言うように笑みを見せる。
「……カモーアの罪人と、言ったわね。なら、罪人が背負った罪は私の責任でもあるわよ。カモーアの人間が犯した行為は、私が請け負う」
「はっ、変な御託はどうでもいい。要するに屑は罪人共の代わりにイリスと戦うと言うのか」
――…私と、戦う?
イリスは唖然としながら、ディルを凝視した。
「私が相手なら不足はないはずよ。その辺に転がっている兵士よりも戦えるわ」
ちらっと室内にいる人間を見ながら、吐き捨てるように言った。
「それとも腰抜けなお姉さまは私と戦うのが嫌?」
馬鹿にするような言い方に、イリスはびくっと震えた。
正直、もう傷つきたくない。ディルと会話すればするほど、自分が虚しくなってしまう。
「ずいぶんと好戦的なようだが、そんなにイリスが傷つくのが怖いか。あえて煽る振りをしながら、本当はイリスを助けるために申し出たんだろう」
「何を勘違いされているのかしら。私はカモーアの不純を正したいだけよ。仲間意識は強いと自負しているから」
「見え透いた嘘だな。まぁ、いいだろう。準備してこっちに来い」
目まぐるしく変わる状況に、何一つ言えずにイリスはただ瞳を揺らしていた。
「待っ、私はディルとは戦えない……ッ!」
例えディルじゃなくとも、理由なく人を傷つけたり出来ない。
強引に引っ張っていくライアンの歩くスピードは速い。後ろからはディルが付いてくるのが足音で聞こえる。
城内を通っていけば、エドームの騎士が巡回を続けている。中にはカモーアも見られ、異様な光景に思えた。
「イリス様…っ!」と叫ぶ知り合いの顔を見つけると、振り返る暇もなく連れて行かれる。ウィールやサミルの侍女や騎士の皆も近くにいた。
控えめな行動を強いられているのか、室内の奥だったり廊下の端に追いやられている。
「無理な願いだな。お前は戦うしかない」
ライアンは残酷に言い捨てる。
「ウィールと天秤に計れとでも言うの!?どちらも選ぶなんて出来ないのに。私の大事な存在を奪って何が楽しいの……」
「だからお前を試すと言っただろう。これが現実だ」
「ひどいわっ……!どうして、どうしてこんなことを!」
イリスは想いをぶつけるようにライアンの胸板を叩く。しかしそれもどんどん弱まって、顔を沈めて虚しく肩を震わせた。嗚咽が漏れだす。
「嘆く暇などないぞ。ほら、もう剣技場に着く」
気付けば見慣れた剣技場の中に入っていた。何人かが剣を交えている。
何度も来た場所なのに、今感じるのは懐かしい想いではなく、息が詰まるような苦しさだった。
ウィールはもがいたまま、イリスの近くにいた。
不安そうに揺れている瞳を見ていると、この子を守らなければいけないと強い感情が湧いてくる。
しかし、ディルとだなんて。戦えるはずなど、ないのに。
それでもディルは迷いなく剣を握って、止まることなく試合のスペースに歩いていった。
美しい銀髪を一つに束ねると、切れ味を確かめるためスパッと剣で空を切る。
「さぁどうする、イリス。お前には逃げ道がない。屑と剣を交えるのを断れば、今この場で弟の首を刎ねる。負けても同じこと。自ら命を断とうとする様子を見せたらそこまでだ。お前は勝つしか弟を救う方法がない」
イリスは放心状態で渡された剣を掴んでいた。
「決断する暇など無意味だ。さっさと始めろ」
ライアンは腕を組み、どこからか用意された椅子に腰かけた。唇の端がゆるゆると上がっていくのを見て、言いようのない怒りが込み上げてきた。
やるしか、道はないのか。
ディルを傷つけるくらいなら自害する方がましだと思っても、それさえ許されない。どちらも選べるはずがない。守りたいのに、護れない。
いつの間にか剣技場にいた人は一時休憩に入り、ディルとイリスの勝負を見ようと周りに集まってくる。
噂を聞きつけて好奇心に誘われたエドームの騎士も近くで眺めている。周りにどう見られようが構わない。イリスにとってこの場に味方など一人もいなかった。
イリスは光る剣の先を見ながら、全身の血が引いていくのを感じていた。徐々に顔色も青ざめていき、浅い息を繰り返す。
「始めないのならこいつの指を一本ずつ切っていくぞ」
一歩も動けないイリスを見かねたのか、拍車をかけるように呼びかける。
はっとなれば、ウィールの顔に恐怖が浮かんでいる。それでも、姉を信じているのか黙ったままだった。
これ以上、大事な家族を失いたくない。もう誰も傷ついてほしくない。
胸が抉られる様に苦しくて、透明な涙が何筋も伝っていく。激しい心の内を叫びたかったのに、声が出てこなかった。
私が守らなきゃいけないものは、なに?
何のために、生きればいいの?誰か、教えて。
イリスの中で頑なに保ってきた感情の一線がプツンッと音を立てて消えていきそうだった。
ディル、ディル。どうして、こんなことに、なるの…と声にならない声で心から訴えかけた。
「……憎いんでしょう、私が」
ディルはふっと冷たく笑って、余韻を含ませながら、静かに語りかけた。
「この手で殺したくて仕方なかったお姉さまの父を殺せて、昨日は高揚感で眠れませんでしたわ。心臓を一突きではなく、もっと苦しめ、自我が狂うほど嘆き喚かせてやるべきだった」
「――……」
イリスは震える手で、剣を構えた。
「貴方が殺したと言ってもいいんですよ?私を今まで生かしておいたんですから。反乱軍を率いて混乱を呼び、お姉さまの大事な者に手をかけることが出来て清々しました」
「……う、して…」
ディルは薄く笑みを浮かべ、挑発的な眼差しを向ける。
「それに加え、お姉さまを傷つける事ができるなんて、私はどれほど幸せか。ここで貴方が死ねば、私の苦しみは消える」
「……私は、ディルにとって……苦しみの存在でしか、ないのね」
「当たり前です。お姉さまのおかげで、屈辱と恥辱にまみれた日々を送ることが出来たんですから。骨の髄まで憎しみが刻まれましたわ。出来るなら、九年前のあの時……王族の誇りを保ったまま、死んでおきたかった」
もう、言わないで。お願いだから、見ないで。
分かってた。知ってたの。ディルが心の底から私を憎んでいた事。だからこそ、貴方の手で私を手にかけて欲しかった。
少しでも痛みが和らぐのなら、苦しみが消えるなら、それでいいって。だけど時々……時々でいいから、貴方が思い出してくれたらって願った。心の隅の隅でいいから、そばにいたかったの。
でも、届かなかったみたい。
私の想いなんて、砂の結晶のように脆くて、意味をもたないものだったのね。
イリスは全身を覆い尽くす感情の茨に苦しまされながら、唇を引き結んだ。
「……もう、戻れない」
大好きで、愛しくて、仕方なかった。
――空気がすっと揺れた。
想いの全てを吸収した涙の粒は地面にぱらぱらと散らばる。まるで、光り輝く真珠が宙を踊るように。
キンッと衝突音が剣技場に響き、息が苦しくなるような空気が広がっていった。
金と銀がふわりと視界を泳いで、細かい動きを刻んでいく。剣との摩擦はお互いを知り尽くしているかのように、一定だった。
「始まったか」
ライアンは笑みを深めて呟いた。
イリスは断続的に溢れてくる涙のせいで、視界が曇っていた。
それでも見慣れたディルの攻撃線は少しも変化がない。むしろ、いつもよりスピードが遅い。今の動きと言えば、緩やかで大きな攻撃が目立つ。
何度も剣を交えてきたが、イリスは違和感を感じていた。
そして一瞬の間に見える顔。満たされるのは、包まれるような安心感。幼い頃から一緒のベットに寝て、温もりのように得た安堵に近かった。
緊迫した戦いをしているのに、甦ってくるのは思い出ばかり。それでも、父の最期が脳裏をちらついて離れない。
「……ッ!」
ディルの剣技は幼いころより格段に成長している。
剣先を突いて距離を取る微妙な速度だって調整をして相手を惑わしたり、視覚ではなかなか見えない角度の防げない攻撃も全部知っている。
たやすく手に入るような技力じゃない。何年も鍛錬しない限り、ディルのようにはなれない。
それでも彼は、本気で戦っていない。
ただの時間稼ぎとしか見れない乱雑な剣の振り方。回転するスピードさえ、目で追える。
しかし、そんな自分でも本気なんて出していない。必要最低限の攻撃と防御を繰り返し行っているだけだ。
「……ディ…!」
こうやって剣を向けている今が歯がゆい。誰が好んで自分の大切な人に剣を向けようとする?
ウィールを助けるためにはディルを傷つけるしかない。でなければ、ライアンは躊躇いもなくウィールの首をはねる。
いつまでもあの人の気が持つわけがない。こうやって剣を交えているだけでは満足しないだろう。
もう何でもいいから縋りついてあの人に乞うしか方法はない。
どれだけ人がいようと、どれだけ屈辱を味わおうと、守れるのならなんだってする。
もう誰も失いたくない……失いたくないの。イリスは心でそう決めると、ライアンの方を向いた。痛みを感じるような視線が絡み合えば、全身の力が強張る。
いきなり戦いを中断したことを悟ったディルは眉をひそめていた。
今まで散々騒いでいた周りは途端に静かになり、イリスの歩く足音だけが響く。
「どうしたイリス。戦いを放棄するのか?」
「……ライアン様、」
ふらっと揺れる足先にあるだけの力を送る。イリスの剣を強く握りしめる手からはポタポタッと赤い雫が零れていた。
葛藤と無念さに追い詰められ、気がつけば手が血で染まっていた。こうやって握るしか、正気を保てなかった。
「……私は、どうなろうとも構いませ…」
だから、ウィールは……奪わないで。そう、言おうとした時だった。
ピリッ。
後ろから体を刺すような強烈な殺気を感じ、靄がかかった五感が一気に覚醒した。吹き抜ける風が自身に襲いかかってくるのが分かると、後はもう本能だけだった。
――キンッ!
剣が激しくぶつかり、波打つような不協和音が指に伝わった。
何が起こったか分からずにいると、ややあって今度は本気でディルに攻撃されたのだと知った。
見間違えるはずがない。あの速度、あの剣圧…もし避けられていなかったら、必ず重症を負っていた。
「逃げ出すのですか、貴方は」
「……違うわ」
イリスは小さな小さな声で否定する。
「いつまでも甘えて、恥ずかしくないのですか?この世は黒か白しか存在しない。両方を得ることなど出来ない。一つしか、選べないのですよ」
「……一つだなんて、選べない」
声が、体が、心が、震えてしまう。
「お姉さま、私は貴方が大嫌いです、心の底から憎いです。あいつと同じくらい、殺してやりたかった」
どうして。
「――……分かっているものッ!!」
大きな声で叫んで、ディルに向かっていった。
イリスには躊躇いがなく、ある限りの力を振り絞って、剣を操った。
「じゃあ、どうすればいいの!貴方を傷つけて、ウィールを助けたって、何にもならない!こんなことしたくないのに!」
心からの叫びをディルにぶつけた。もう誰が悪くて、誰が必要かなんて、考えられなかった。
こんなことを望んでいたわけじゃなかったのに、どうしてこうなるの……!
悲しくて虚しくて悔しくて、夢中で剣を動かした。耳元で暴れる金属音さえ、聞こえてはいなかった。
「お、おい……尋常じゃなく早いぞ…見えねぇ…!」
「女のくせに何なんだあの技……師団長レベルってのも嘘じゃない……」
「カモーアの奴、圧されてないか?このままじゃ、負けるぞ……」
ざわざわと聞こえる声もどんどん広がっていく。
「苦しいの…ッ!ただ、貴方が……こんなにもディルを思うなら、お父さまと一緒に果ててしまいたかった!」
イリスの渾身の一撃が、咄嗟に避けたディルの髪を数本切った。
止まる事ない剣と、涙を散らして零れる言葉。イリスは様々な感情に覆われて、我を忘れていた。
「こんなにも……ッ、貴方が、愛しいのに……」
イリスの小さな声は、ディル以外、誰も聞かれることはなかった。
か細く震えるその姿には、精一杯の助けを求めていた。ディルは面喰ったように、一瞬だけ息をとめた。
――愛しい、のに。
「あああぁ!!」
そして決定的な攻撃がディルに迫る。
イリスが左肩に向かって剣を突き出せば、よけることもなく動かないディルに負傷を負わせた。
肌を切り裂く感触が確かに、伝わった。イリスは目を見開いて、呆然と立ち尽くす。
浅くはなく、深く切ってしまった。
ディルは左肩を手で押さえながら、後退して間合いを取った。少しだけ息を切らして、こちらを睨みつけている。
それでも地面には血の痕が残っている。赤い、紅い、朱色。
――赤?
「…あぁ、あ…っ!」
カランッと派手な音を立ててイリスは剣を落とす。
ディルを、傷つけて、しまった?ドクドクドクッと激しい鼓動が全身の血を騒がせてゆく。
嫌な汗が噴き出してきて、震えが止まらなかった。ついには地に膝をついて体を抱きしめる。
「いや。いや……嫌ぁぁ……!!」
ひどく錯乱して、頭を抱えて首を振り続ける。そうして動きが止まったかと思えば、ふらっと体の安定を失って、横に倒れた。
何が起こったんだと周りの人間は喚くが、ライアンはふーと息を吐くとつまらなさそうに立って声を出した。
「戦いは中止、イリスを運び出せ。俺の部屋に連れていけ」
ライアンはディルをちらっと見つめるとふっと笑った。
「本当に甘いのは、どっちだろうな」
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