亡国の王子の復讐

朝日

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虚像の愛と蜜月 Ⅴ

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イリスは厚く弾力のある感触に手がぶつかると、痺れるように体が戦慄いた。

布を通してでも分かる、この反り返った熱いモノ。ディルは焦らすように手が触れた瞬間、ビクンッと大きく反応して、ギリッと奥歯を噛みしめる。


「かたく、なってる……」 

思わず呟いてイリスは服の上からぎこちなく擦ってみた。

長時間煽られ、無理もないはずだった。イリスとて喉の渇きを満たす甘露のような刺激が欲しくてもう止められない。

もう思考は霧のように曖昧で、ただ目の前のディルだけに集中していた。自分との境界線の区切りがだんだん分からなくなってくる。


「言うなっ!」

「ご、ごめ……私で感じてくれたのが、嬉しくて……ね、触れても、いい?」

強い薬の影響で朦朧とする頭のイリスは首を傾かせとろんとした表情で訊ねた。ディルはその表情を見ると苦しそうに顔を歪め、悩ましげな息を吐く。

少しでも動けば触れそうな睫毛の距離や葛藤を続ける柔らかそうな唇を見つめてイリスは悦楽に押し流れそうになった。


ああ、なんて艶美な人。勿体ぶらないでもっと乱れて……私しか考えなくなるように、この人を独り占めしたい。

保っていた何かが崩れていく。早く、今すぐ……と吸い寄せられる引力のように欲望が膨れ上がって勢いよく爆発しそうになる。


「しっかり、しろ…イリス……俺が、もたなくなる…」

自分に言い聞かせるようにも見えるディルの発言が可愛く思えて、イリスは艶だった唇を開けて切なく呟く。


「ありのままのディルが、いい。私だけを見て、聞いて、受け入れて……今だけは、私のものでいて……」

その言葉に含まれるのが本心なのかそうでないのか。イリスは股間の間をコシコシッと上下に擦れば、ディルから喘ぎ混じりの色っぽい吐息がこぼれる。

もっと困った顔が見たくて、焦らすように触れてみた。耐えるディルの顔は今までに見たことがないほど余裕がないもので、イリスの中で征服欲がジワジワと湧き上がってくる。

 
「ディル……」

イリスはベルトに目を移し、カチャカチャッと外しにかかった。

ディルはそんな姿を見て慌てて身動ぎしたが、きつく縛られた拘束に敵う筈もない。



「大き、い……」

思わずそう呟いてしまう昂揚した存在感に息を呑む。生で見る迫力に物怖じしてしまったイリスはじっと見つめてしまう。

どうすればいいのか分からないまま、膠着して動きが止まった。


「イリスっ!」

ディルは苛立ったように名前を呼んだ。ハッとしたイリスだったが、とりあえず小さく縦に動かしてみる。

ビクッと反応する痛いほど張りつめたディルの性感帯はトロリと先走りを始めていた。ヒクヒクと揺れているのが指越しに伝わってくる。

きっと我慢の限界が近い。知識や経験は少なくともそれは理解できた。


「そうだイリス。まずは先端を丁寧に舐めてやるといい」

後ろからゼクスの声がするという認識すら遠く、誰かに洗脳されている気分だった。

言われるままおそるおそる口に運び、ねっとりした舌を這わせる。そうすれば熱の塊が脈打つように動き、ディルの体が大きく震えた。


「あッ、く……」

耐えきれず隙間から漏れる声と肩や腰を微妙にびくつかせるディルを見て脳が甘く痺れる。

こんな姿を目にしたら、中毒になるように溺れていく。麻痺した理性がドロドロに溶けて性の本能を引き寄せてくる。


「イリス、まだ教えた言葉があるだろう?早く言え」

頭に過ぎる卑猥な言葉。あんな恥ずかしいこと、言いたくない。なのに心の制止を振り払って操られたように口が動いていく。


「太くて、大きいの……グチャグチャになるまで、壊してあげる……」

イリスは我を失った淀んだ瞳を向け、優しく手を触れ咥えこんで愛撫を始めた。

ゼクスはニヤリとしてイリスの観察を続ける。


――しかし何かをとらえたように顔の表情を変化させ、つまらなさそうに息を吐いた。


「ずいぶん早い到着だな……」

オイ、もういいぞと男たちに合図を送れば、目を輝かせてすぐに動き出す影が四つ。

ゼクスを通り越して性急に何人もの手がイリスの腕をガシッと掴み、地面に組み敷いていく。


「ッ!」

突然のことに小さな悲鳴を上げるイリスは何が起きたのか分からず体を撫でまわす手に持てるだけの力で必死に抗おうとした。

ゼクスは部屋の壁に背中を預けて、遠くでけたたましい音が響くのを聞く。すぐにでも建物内に複数の足音が目立ち始めた。しかし息を荒くした四人がそれに気付くことはない。


「やめろ……っ」

ディルは目の前で良いようにされていくイリスを助けようとしたが何も出来ない。


「おい、止めろ!何をしている…!」

ゼクスを睨み付け声を大きくして迫るが、本人は澄ました顔で誰かを待っているようだった。ディルもその様子を見て、事態の把握をした。 



「――…来たか」

ゼクスは激しい衝突音と近づいてくる誰かの声を聞くと、腕を組んで唇に弧を描く。

暴れているイリスは服をたくし上げられ、首筋を吸いつかれ、もう少しで白い素肌が見えそうだった。

ディルはひたすら無言のドアを見つめ、焦燥を滲ませた目を走らせる。


「やめ……てッ」

イリスの消え入りそうな呟きが虚しく空を舞う。鈍る意識が回るように揺れ、強烈な香りが鼻孔にはり付く。

弄られ蹂躙する手の動きがついに胸まで達し、顔の近くには男たちの興奮した一物が煽るようにそばにあった。

ああ、このまま犯されるのだと薄れていく自我が諦めかけた。痛い思いをする前に今ここで気を失ってしまいたいと願う。


ディルと口だけが動いて、イリスは現実から目を閉じる。なぜか頭に思い浮かんだのは勝ち誇った微笑のライアンで――。


その時、だった。

バコンッ!!大砲がぶつかったように歪な音が鳴り響き、蹴り破られた何かに時間が裂かれたような違和感を覚えた。

暗い灯りでも目が眩むようなような光が飛び込んできて、息を切らした背の高い人影が見える。イリスは、目を疑った。


「おい……俺のものに、何をしている…?」

血が凍り付く身が竦むような声音。それだけではない、ドス黒い禍々しさを全面に醸し出した怒涛の威圧。

返り血を浴びたその姿は妖しく輝き、破れた服や乱れた金髪がその激しさを際立たせる。 

今までの比ではないくらい、怒りに歪んだ顔。全身から伝わってくる、炙った熱を煮詰まらせたように、見る者を昏倒させる毒蛇のような迫力に男たちは一瞬にして固まった。


「覚悟は、出来ているんだろうな?」

ライアンは普段の余裕を奥へ押し込め、冷徹な殺人鬼のように狂気を滲みださせた。


冷たい針を突き刺したような沈黙が流れていく。誰も声を発することなど出来なかった。

イリスに手をかけていた一人が逃げ道を探しながら目を左右に動かして後ろに下がり、続くように他の者も何もしていないと意志表示をして汗ばんだ手を広げ、足を引く。

無防備に晒され上を向く性器を隠すことさえ忘れ、助けを請うかのようにゼクスを見つめた。


「ど、どういう、ことですっ……!なぜ弟君であられるライアン様がこのような場所に……」

顔面が蒼白に変わり悄然とする太った男は腰を抜かして尻餅をついた。その無様な姿を見てゼクスは嘲笑うかのように肩を傾げて見せた。


「黙れ。まずその薄汚い口から削ぎ落してやろうか……」

青光りする剣にはポタッと伝う赤い雫が幾筋にも地へ落ちていた。

ヒィッと情けない声を上げる男たちが我先に逃げ出そうと足をもたつかせる。が、駆けつけた他の人間によって出口を塞がれた。


「ディル!」

そこにいたのは、真っ先に主の元へ駆けつけるディッシュ達だった。



「情けない面だな、ディル。露出狂にイメチェンでもしたのか?なかなかソソられる光景で……まぁ生きてて何より」

服を被せてすぐに縄を切るディッシュは冗談を交えつつ、疲労してグタリと垂れるディルを支えた。


「くたばれ、ポンコツが……いつまで待たせるんだ、もっと早く見つけろ……」

「悪い悪い。来る途中でナイスボインな可愛い女の子がいて、ナンパしてたら時間食っちまった。勿体ぶって登場した甲斐があっただろ?」

「お前、後で絞め殺してやる……」

大丈夫ですかと心配そうに訊ねる仲間に相槌を打つディルは荒い息を吐き出しながらディッシュに今すぐ殴れと命令する。


「は?ついにマゾに目覚めたのかよ。んな潤んだ目で見られても手加減出来ないぞー?」

「気を失った方がまだ楽だ。お前でも、犯しそうになる……殴り終わったら、早くイリスを介抱しろ……」

んじゃ遠慮なく……とディッシュはディルの腹に拳を突き入れる。カハッと体を揺らしたディルはそのまま闇の底へ落ちていくように気を失った。


「お前とイリスの間に何があったか知らねぇけど……これは、やばいだろ」

ディッシュが視線を変えれば、折り重なるようにして積み上げられた二人の屍があった。それは目を覆いたくなるもので、今や無言の血肉の塊となっている。

ライアンが持つ鮮血が伝う冷たい刃が不気味に光り、虫の息である他の二人の男が助けてくれと呟き、震える手を伸ばす。


「加減してやるほど俺は優しくない……が、今は痛みで苦しめ。それよりも、だ……」

ライアンの冷え切った目が意識がないディルを見つめ、後から来た仲間に助け出されるイリスへと移る。

立ち上がることさえ困難なイリスは、しきりに首を振って自身の体を抱きしめる。触れないで…と微かに口を開き、湿っぽい息を何度もこぼした。


「ゼクス……なぜお前がここにいる、などと問うことすら馬鹿馬鹿しい。命が惜しければ、何か弁解してみるか?左腕くらいは残るかもしれないぞ……」

「一人前に口を聞くようになったじゃないか、弟よ。愛しいイリスが傷つけられて少しは動揺するかと思えば、妙に冷静でつまらないな」

「よほど死に急ぎたいようだな……」

青筋を浮かべたライアンはゼクスに血で染まった剣を向け、一歩前に足を踏み出す。しかしその先を塞ぐ人物がいた。


「ライアン様、ここで剣を抜くのは得策ではありません」

ルークは流れるような動作でライアンの間を割って入り、落ち着いた声音で諭した。


「退け、邪魔だ」

「いいえ、ここは退けません。お気持ちは分かりますが、今優先すべきはイリス様……後々縛り上げることは十分可能です。どうか理性ある行動を」

「……ルーク、死にたいのか?」

「この命はライアン様に捧げると誓いました。例えここで命が尽きても本望です」

毅然とした態度で頭を垂れるルークを前に、ゼクスは笑いながら拍手を送った。


「まともな部下がいてよかったな、ライアン。今ここで俺を傷つければ他の奴等が黙っていない。さぁ、どうする?ん?」

ゼクスの傍にはいつの間にかどこから駆けつけたか分からない男たちが立っていた。

睨み合う両者には緊迫した空気が広がり、熱い火花が散る。息が詰まるような沈黙が続き、誰もが固唾を飲んで見守った。


「下衆が……覚えておけ、いつか死よりつらい目に合わせてやる」

ライアンは悪態をつき、込み上げる憤怒をどうにか全身に閉じ込め、剣を引く。


「至急王城へと帰還。早馬でアルトリアを呼べ。イリスは俺が連れていく」

ライアンは早急に指示を出し、ギラついた目をゼクスに向け、イリスの元へ歩み寄っていった。



――アツ、イ。

逆上せるような体温。次いで感じる、あたたかい人肌。

誰かが自分の体に触れている。それすらも遠い彼方にあるような感覚で、フワフワと綿雲に跨っている心地だった。


何でもいい。この渇きを満たしてほしい。

止めることができない欲求が、誰かも分からない腕をぎゅっと閉じ込める。

ただ、離してほしくないと思った。これ以上、私を独りにしないでと薄い涙が頬を何度も伝う。


どうして人を想う気持ちが誰かを不幸にしてしまうのだろうと不鮮明で半透明な感情が心の中で揺れ動く。


口から漏れる声が普段よりも高くなる。深く突かれるという衝撃が痺れる脳内を埋め尽くす。

悦楽と快感が同時に駆け抜け、真っ白い光が弾けて飛び出していった。


分からない。自分が、世界が、どこにも存在していないようで。

届かない手が、消えない優しさが、愛しくて仕方ない面影が、淡い欠片となって散っていく。

ディル……と声にならない声が唇から抜け出していく。そこで、完全に意識が途切れていった――。




「……イリス様が盛られたのは、狂花という媚薬です。これは一種の麻薬で、例え少量でも意識が朦朧となり、自我は徐々に崩壊。どんなに強い理性の持ち主でもいつかは堕ちる……随分前に規制されたはずなのですがまだ一部で出回っていたようですね」

「後遺症は?」

「微熱が続き、数日は体の疼きが止まりません。他には頭痛と吐き気を催す場合もあります」

アルトリアは疲れたように息をつき、言葉を繋いだ。


「毒針の効力は解毒剤でほとんど抜かれているとは言え、お風邪も召されています。正直、どんな煎じ薬を作れば効くのか分かりません」

「それがお前の仕事だろう?」

「無茶を押しつけないでください。ライアン様の怪我の手当てすら完全に終わっていないのに、少しはご自分のことも考えてくださいね」

失礼します、と了解を得て怪我の具合を確かめるアルトリアはこびり付く血を見て少しだけ顔をしかめる。

ライアンは隣で寝ているイリスの頬を撫でながら、どうしたと訊ねた。

 
「ここまで怪我が深いとは驚きました…。南ガイシやナヴィナ地区で激しい戦闘があったようですね。それを一日で弾圧することがどれだけ大変だったのか…一体ゼクス様の目的は何なんですか?」

「俺を陥れるための暇つぶしだろうな。俺の支配に不満を持っていた連中を密かに掻き集めて総攻撃を仕掛けたのはいいが、ことごとく全滅になる破目になった」

「最短記録ですよ。どんな手を使ったのか分かりませんが、余程イリス様が心配だったのですね」

「ああ、久しぶりに血の気が引いた」

白い綿の布で血を吸収させ消毒を終わらせると、アルトリアは別の包帯でぎゅっと引き結ぶ。

その間ライアンが見つめる視線は静かに寝息を立てるイリスに集中していた。他人には向けられることのない愛おしさを感じさせるもので、アルトリアは切なそうに眉を落とす。


「……薬の影響は、いかがでしたか?普段とは違うイリス様だったとか。手当てそっちのけでお部屋に籠城された時はイラッとしましたけど」

「そう言うな。なかなか良かったぞ」

「元々は自白の強要のために作られた媚薬ですからね。その代わり体の負担は大きいです」

もう動かして大丈夫ですと言い、アルトリアは一息ついた。




「カモーアの屑の様子はどうだった?」

「高い熱で呼吸も苦しそうでした。傷口が開き、毒針による体の痺れ、さらに狂花の三倍増しとは生き地獄だったはず……よく自我を保てたと思います」

あの方は魔物ですか?とアルトリアは肩を傾げる。


「幼い頃から苦労されたのでしょうね。体が毒素に慣れていて、強い耐性を持っている。並の精神ではありません」

「しぶとい奴だな。ポックリ逝ってしまえばいいものを」

「仮にもカモーアの第一継承者、行く行くは王になる御方ですよ?少しは協調性をお持ちください。今回は一歩間違えば死もあり得ました」

「死のうが生きようがどうでもいい。いつまでもつまらない意地を張っているただのガキだ」

ライアンは不機嫌そうにディルを非難すると、アルトリアは苦笑する。


「しかしイリス様を助けたのは事実。御身よりもイリス様の命を優先しました。自らが背負う国の責務も忘れるほど必死になったのでしょうね」

「何だ、やけに屑に肩入れしているな。恋情でも湧いたか?」

「いいえ。ただ……私と同じように、叶う事のない思いを抱いているのだと、思っただけです」

アルトリアの目が流れるようにイリスへ向かった。


「では、私はそろそろ。後はライアン様が暴走しないことを祈ります。ゼクス様は恐ろしい方なので、くれぐれも慎重かつ冷静な行動を」

「保障はできない。戯れにしては度が過ぎたからな」

「何かしらのお咎めは受けるでしょうね。ここまでの被害を出したのですから。では失礼します」

ドアの前に立ち、アルトリアは一礼して部屋を去っていく。


静かになった部屋で、ライアンは眉根を下げるイリスの顔を見ながら、表情をすっと和らげる。 

眠っているイリスの近くに手をつき、ゆっくりと髪に触れた。汗ばんだ金の髪をすっと真っ直ぐに梳き、労わるように頬を撫でる。

その柔い感覚に、イリスの目が微かに開かれた。まだ夢と現を彷徨っているようで、ぼんやりとライアンを見ている。


「悪い、起こしたか?」

「ライアン、様……?私……え?」

ここがライアンの部屋だと分かると、イリスは大きな瞳を全開にして、ハッと目が覚めた。

上体だけでも起き上がろうとしたら動くなと言われ、戸惑ったようにライアンの手に触れた。


「ディルはッ…ディルは、無事ですか?」

「ああ。高熱はあるが、生きている」

「よか……った…」

イリスは安心してダッと体の力を抜く。少しずつ現状が理解でき、戻りかけた記憶に手が震えてきた。


「記憶が曖昧で……貴方が、助けに来てくれたことも……怪我を、されたのですか?」

イリスは心配そうにライアンの傷を見る。

思い出せるのは息を切らして駆けつけたライアンの必死な形相と所々引き裂かれた服の跡。ゼクスの言っていたことが頭に過ぎり、サァッと血の気が引いた。


「こんなのはかすり傷だ。そんなことどうでもいい、体はつらくないか?」

「どうでもよくありませんっ!私のせいで……貴方まで……本当に、ごめんなさい」

ルドに言われたように自分は災厄を呼び寄せる存在で、人を傷つけるしか出来ないのか。イリスは自己嫌悪に陥り、顔を歪ませた。


「なぜ謝る?お前に苦しい思いをさせたのは俺だ。すぐ助けに行けなくて、悪かった」

あの、ライアンが。見たこともない表情で言葉を落とす。イリスは動揺したように目を何度も瞬かせた。

フラッシュバックするあの暗い部屋で、心のどこかで呼んでいた人はライアンだった。

助けて、と願った。自分の中で変わってきた思いが、苦しいほどに切なく揺れる。


「怖かっただろう?」

「こわ、怖かった……もう、サイには戻れないと思ったら……どうしようもなく、恐ろしくて」

ぎゅっとライアンの手を掴んで涙を浮かべた。あの恐怖が甦ってきて、足の先まで冷たい感覚が戻ってくる。 

誰かに寄り添っていなければ、ゼクスの冷たい闇が迫ってくるようで体が打ち震えた。 


イリスは安心させるように抱きしめられるライアンの腕の中で、静かに嗚咽を吐き出した。



「ディル、意識は?大丈夫か」

イリスがいる場所とは別の部屋で、ディッシュがベットに横たわるディルに声をかけた。

銀に縁取られた睫毛を薄っすらと開け、ディルは火照った顔で苦しそうに呼吸をしながら縦に首を振る。


「ああ……何とか。イリスは、どうなった?」

「ライアン様が大事そうに抱えてったよ。腕のいいアルトリアっていう女の医者が診てるはずだ。ディルも寝ている間に診てもらった」

「そうか。なら、いい……」

水をくれと言い、気だるさに耐えながらディルは上体を起こす。

ディッシュはコップに入った水を渡し、一気に飲み干すディルをじっと見つめた。その後ろには共にエドームにきた仲間が心配そうに顔を覗きこむ。


「お前はいつもイリスばかりだな、ディル。何があったか話してもらうぞ……とは言っても第一王子の仕業なのは一目瞭然だ」

「散々な目に、合った……端的に、話す」

ディルはグッタリとしながら目を閉じ、今までの経緯をゆっくりと語り出した。

ディッシュ達は話を遮ることなく、耳を傾けて聞いた。内容が濃くなるにつれて皆の顔が曇っていき、怒りの表情を浮かべる者も出る。

想像していたものとかけ離れ、命さえ危ぶまれた事態が明らかになるにつれて次第に顔色が蒼くなっていく。


「――…は、あ?お前何やってんだよ!」

ディッシュは額に青筋を浮かべ、力任せにディルの胸倉を掴んだ。グッと息が詰まり、ディルは片目を閉じる。

おいやめろ!と仲間が制止を図るが、ディッシュは強引に後ろに振り払うと、目じりを険しく吊り上げて怒鳴った。


「この、腰抜けッ!」

「……は?」

ディルは意味が分からないといった風に顔をしかめる。

これからを担う一国の王子であるという自覚を奮い立たせるため、己を殺して主に立ち向かうかと思いきや、腰抜けとは何事だとあんぐりと口を開く者が多数。

ディッシュ本人は胸の内が沸き返るようにディルに迫った。


「何で一晩一緒にいてイリスを押し倒さなかったんだよ!勿体ぶらねぇで最後までヤれ!性欲ガチガチのくせに途中で怖じ気ついたのかよ、せっかくのチャンスを無駄にしやがって馬 鹿 野 郎 ッ!」

「――…………」

ディルは心の壁に大きな風穴が開いたように絶句する。


「ヘタレ!チキン!何なんだよ見習い騎士の淡い初恋物語じゃねぇだろ!何年も耐えてきたくせに、いざって時にビビってんのかヘボ王子!このまま一人で勝手に抜いてろ貧 弱 男ッ!」

「お、おい……ディッシュ」

「フラフラフラフラとあっちに行ったりこっちに行ったり、ダァァァくっそ、さっさとはっきりしやがれこのヤロウ!本当はブチ犯したくて仕方ねぇんだろ!アァ!?」

「落ち着け、ディル様の前だぞッ!磔にされて死にたいのか!」

慌てて二人掛かりでディッシュを止めるが、しかとディルの耳にも届いていた。

墨汁を大量に流しこんだような暗さがディルの周りを覆い始め、おいどうすんだよと視線を交わし仲間同士で緊急の対策が練られる。

ディッシュは尚も暴れ、日頃溜まりに溜まった文句や愚痴をひたすら叫んでいる。やっとのことで口を押さえ、むぐぐっと声が静まった。


「言いたいことはそれだけか、ディッシュ……?」

「んぐ、ぐッ、ん、んんんん゛!」

「お気を確かに、ディル様!少し血迷っただけです、悪意はありませんから!どうかお体をお休め下さい!」

貴方死にかけてもおかしくなかったんですよ!と誰かが叫び、ディルの気を鎮めようと必死に言葉を繋ぐ。

そのままディルはディッシュに手をかけるかと思われたが、ひどい立ちくらみがして頭を抱える。 冗談を言ってる場合じゃないなとディッシュは真面目な顔をした。


「まぁこっちとしてもこの有様は納得いかねぇよな?やられっ放しは性に合わない。ご命令とあればいつでも倍返しといくけど?」

ディッシュはコキコキッと拳を鳴らし、不敵に笑った。


「あぁ……出来るなら今すぐアイツの急所に蹴りを入れてやりたい。が、将来を思うと関係悪化は避けたい。先を見越して仕掛けてきたか」

性質の悪い奴だ、とディルは重い息をつく。


「ヘタレ王子だからって舐めやがって……おい、このままとか言わねぇだろうな?」

「その減らず口黙らせるぞ。とりあえず、少しでも早く体力を戻す……話はそれからだ。今は何も出来そうにない」

体が鉛のようだと呟き、悪夢を見ているかのように顔が暗いディルは再び横になった。


「エドームの女騎士やら城の侍女様方からお見舞いの品が届いてるぜ。やっぱり美形は違うなー」

ディッシュは恨めしそうに目を細める。

視線の先には積み重なった花や果物などが置いてあった。ディルはそれらに目もくれず、ディッシュに指示を出した。


「ミレイアや国に速達の書状を送れ。心配して発狂していそうだ」

「ディル至上主義だからな。今回のことを聞いたら失神して寝込むだろうよ。今度こそイリスの命が危なくなる」

怖い怖いと肩を傾げてディッシュは仲間と視線を交わした。


「まさかとは思うが、イリスは自分からディルに迫ったのか?」

今までずっと我慢してきたお前が自分から行くとも思えないしな、とディッシュは一言付け足す。


「……その話はもういい」

「そうか、だいぶ追い詰められてたんだな。あの鈍感なイリスがそこまで想いを募らせていたのかよ……まぁあんだけミレイア様が見せ付けていたら無理もないか」

ディルの長い間から悟ったディッシュは複雑だな…と頭をかいて浅い息をついた。仲間の何人からはディルへ羨望の眼差しが送られる。


「分かってんだろ、ディル。ミレイア様はお前のためなら命さえ惜しまない。あの一途な思いが間違った方向に行くと、とんでもないことになる」

「……何が言いたい」

「守るべきものをはっきりさせろ。曖昧に期待させていつまでも優柔不断になってると、どちらも傷つけるぞ」

ディッシュは珍しく真剣な表情になり、強い口調で続ける。


「イリスとお前の間に、何もなかったわけがねぇだろ。俺らだってずっとディルの傍にいた。お前がどれほどイリスを想っているのか見てきたつもりだ」

「ディッシュ、どうでもい――」

「聞け、大事なことなんだよ。俺らはいつもお前にばかり重責を押し付けて自由を束縛してきた、今だってそうだ。カモーアの夢や希望をディル一人に託してだいぶ苦しめられただろ。
――お前の感情を押し殺してまで、強引にここまで来た。不自由で仕方なかったはずだ」

「それは俺が望んだことだ。苦に思ったことは、ない」

ディルは前髪を掻き上げて汗を拭い、仲間一人一人の顔を見ていく。 


「今回のことは、俺の過失も大きい。第一王子の誘いに乗るべきじゃなかった……これから重要な再建だと言うのに、危うく命まで落としかけた。全て俺の、認識の甘さが原因だ」

ミレイア一人に国を背負わせる所だった、と低い声で呟いた。


「止まらなかった。イリスが襲われているのを見て、自己抑制がきかなかった。俺は、国よりも、あいつを優先させた。どうしようもない奴だ」

「……ディル」

「守るべきもの、それは変わらない…それでも、イリスがいるだけで俺は揺らぐ。容易く、持っていかれる。もう因縁は――…終わりにした方がいい」


俺が、俺であるために。ディルは目を閉じて、ある決意を胸に秘めた。




それから数日、イリスは熱や体の疼きに苦しまされた。

忙しいはずのアルトリアが定期的にやってきて脈を計ったり、煎じた薬を飲ませてくれたり、献身的に看病をしてくれた。

その甲斐もあってかイリスの体調はみるみる快復に向かい、吐き気がなくなり体も楽になった。特に薬の効きが良く、アルトリアも安心していた。


「体は痺れますか?」

「いいえ。もう本調子に近いです」

「イリス様には驚かされてばかりですね。こんなに早く治ってしまうとは。お体が丈夫な証です」

アルトリアは冷えた布を水に浸すとぎゅっと絞り、イリスの額に被せた。

まだしつこく微熱が続いており、イリスの顔はほんのり赤みが出ている。本人は気にもしていないのか、部屋を出歩こうとしてアルトリアに叱られたばかりだった。


「幼い頃から風邪を拗らせることは滅多にありませんでしたから。眠ったらすぐに元通りで、次の日には木登りをして侍女に怒られていました」

「やんちゃなお姫様だったんですね」

今もお変わりないご様子で、とアルトリアはクスクス笑った。


「……ディルの様子は、どうですか?」

「今日で二回目ですよ、イリス様。早い快復力でもう熱も引き、体調も安定しています。心身ともに強い人ですからもう心配はないでしょう」

「そうですか、よかった……」

こうやってアルトリアに聞くことで安心を得ている。何度も尋ねて呆れられているが、そうでもしないとあの時の不安が押し寄せて怖くなる。

ライアンは領土に受けた襲撃の後始末を行っているらしい。昼過ぎには戻ると伝言を残して出かけていった。

部屋の外はライアンの部下が待機し、怪しい人影がいないか常に確認を怠らない。やりすぎではないかと思う程にピリピリしている。


最近アルトリアと会話することが増えた。

彼女の医学の知識に何度も驚かされ、自分の知り得ないこともスラスラと紙を朗読するかのように口から零れていくのを聞いた。

今では自分の世話係のようになっている。寝ているだけでは体が鈍ってしまい、することも限られているため、アルトリアとのやり取りは楽しかった。


「アルトリア様は優しいですね。エドームでは皆、私を快く思っていないようなので。敗国の王女なのに図々しいでしょうか」

「女は自分にないものを持っている人を見ると嫉妬してしまいますからね。ライアン様がここまでイリス様に夢中になっているのですから、至極当然なことかと思いますけど」

「……アルトリア様も、その一部ですか?」
 
遠慮がちに聞くことはしない。彼女とは真剣に向き合える気がした。


「直球ですね、イリス様。まぁ……否定はしませんよ。私がライアン様に側にいられるのは媚びないからです。あの人に、求めることはしません。
叶うことがないと分かっているから」

時々つらくなりますがね、と苦笑いする。


「どうしても、欲しい。何度も思いました。その度に思い知らされる、この人は絶対に無理だと。ライアン様の心を支配しているのは、いつだってイリス様ただ一人ですから」

イリスは聞いていて胸が痛くなる。

彼女につらい思いをさせているのは自分で。なのに今の私はまったく別の人を望んでいる。雁字搦めになりそうな現実を解いていくのは容易くない。


「ライアン様は情を求める面倒な女はすぐにでも捨てるでしょう。今まで何人もそんな人を見てきましたから」

「なら、どうして私、なの……」

「それは誰にも分かりません。ただ、あの人がイリス様に惹かれた。それは抗いようもない事実です」

私に振り向いてくれたことは一度もありませんでした、と零す。


「……私が憎くは、ありませんか?」

「さぁ、どうでしょう。今はもう、ライアン様が幸せであればそれでいいと思えるようになりましたから。貴女が側にいてあの人が笑顔になれるなら……私は、満足です」

なんて…私はそんな聖人君子ではありませんけど、と肩を傾げてみせた。


「隣にいることは叶わなくても、医者という利用価値さえあれば、少しでも近くにいられる。私はそれでいいんです」

彼女の切ない横顔は、届く事のない想いを象徴しているかのようで。

イリスは幸せを手に入れるためには誰かを犠牲にしなければいけないのかと思い、悲しくなって静かに目を伏せて口を閉ざした。


このまま流れていく時間の中で、どうすれば誰かを傷つけずに済むのか、分からなかった。


「――…全ては、時が解決してくれますよ」

葛藤するイリスの想いを汲み取るかのように。

お休みください、と静かなアルトリアの声でイリスはストンと眠りに落ちていった。
 

「俺は直接手を下していない」

ゼクスの乱れのない口調が室内に響く。

自分は何も悪くないかのようにしらを切る態度を受けて、イリスは怒りのため拳が震えた。


ここは謁見の間。

玉座に腰掛けるエドームの王を中心に、ゼクスやその配下の者、さらにディルを先頭に並ぶカモーア勢、そしてライアンとイリスがいた。

イリスとディルの体調に合わせ、事件後に初めて真偽を確かめるべく関係者が徴集された。

ちらっとライアンを覗き見れば、怒りは抑えているものの殺気に似た威圧を漂わせていて、隣にいるイリスは小さく息を飲んだ。


「闘人場でイリスと会ったのはただの偶然で、そこのカモーアの王子と親交を深めるために訪れただけです」

「そこでこの姫を襲ったと聞いているが?」

エドームの王は普段の変わらぬ厳格な表情で尋ねる。


「それは否定しません。少し遊んでみようと出来心でイリスを囲みました。まぁ、それを誤解して早まったカモーアの王子が俺の下っ端に攻撃しましたけど」

「出来心…?」

イリスは沸々と込み上げる怒りに耐えきれず、思わず小さな声で呟いた。


「逆上して我を失った家来の一人がイリスに飛びかかり、一緒に川へ転落。カモーアの王子が助けようと後を追い、川へ飛び込みました」

「間違いないな?サイの姫よ」

「……間違い、ありません」

確かに言っている事に偽りはない。

あの時、剣を持っていた男の精神は普通ではなかった。男の巻き添えを食らい川へ落ち、ディルもその後を追ってくれた。

流れの早い川で命を落としていたかもしれない。ディルが救い上げてくれなければあのまま沈んでいただろう。


「カモーア側で何か言いたいことは?」

「ありません」

ディルは表情に沈黙を保ったまま、短い言葉を落とす。イリスはディルを見つめると、バチッと視線が絡み合い、すぐに逸らされた。
 

「そのままイリスの消息を辿り、あの奴隷収容所で発見しました。運悪く捕らえられてしまったのでしょう」

「そこからが問題だ」

ライアンの強い口調が飛びだし、エドームの王がぴくっと眉を顰めた。


「俺はそこでカモーアの王子とイリスを見つけ、奴隷収容所の主と交渉し、助け出そうとしたまでです」

「ふざけないで!ディルに精神的苦痛を負わせて、媚薬まで盛ったくせに!罪のない人まで、死なせて…ッ」

頭に甦るのは息なく横たわる金髪の女性で。イリスは我慢できずに叫んでいた。ライアンに抑えつけられ、歯を食い縛って黙る。


「最初に言っただろう。俺は直接手を下していない、と。カモーアの王子に媚薬を盛ったのは俺ではなく収容所の奴らだ」
 
イリスはあまりの言い種に苛立った憤りがじりじりと胸の奥に食い込む。


ゼクスは今を見越して、あえて自分では直接手を下さなかった。全て他の者の手によって実行させ、事実を曖昧にさせている。

現に実行した本人たちは駆けつけたライアンによって死んでしまった。真実を証言できる者はもうこの世にいない。

悪賢く、汚いやり方に、出口のない怒りが体の中に暴れる。


「私の記憶が正しければ、貴方が命令していましたけど?それにどうしてあの時、止めに入らなかったのですか。貴方の権力があれば十分可能なはずだ」

そこでディルが会話に加わり、ゼクスに迫る。


「ゼクス様が嘘を申していると言いたいのか!生き上がりのカモーアの分際で、生意気なことを!」

「オッサン、少しは黙ってろ。馬鹿面がさらに老けて見えるぞ」

ディッシュは欠伸を噛み殺すように言うと、怒りのために真っ赤になった男が剣に手をかける。


「貴様、もう一度言ってみろ――」

「よさないか、オーク。見苦しいぞ」

ゼクスは部下のたしなめると、再び向き合った。



「命令したのが俺なら、なぜ平然としていられる?やられっ放しで胸糞悪いはずだが。見ているこっちとしては愉快だったがな」

ゼクスはディルを見つめ、冷ややかな能面のような、ぞっとする冷笑的な薄笑いを浮かべる。 


「それでは今すぐ顔面に拳をぶつけましょうか?それでは気が済まないのでさらに数発は我慢できそうにもありませんが」

「ハハッ、内心は穏やかではないらしい。それはそうだろう、よりによってイリスの手で自分の頼りない陰茎を慰めら――」

パ チ ンッ!室内に平手打ちの音が響いた。

驚いた何人かが目を見張り、涙目でゼクスを睨み付けるイリスを信じれない気持ちで見つめた。 ディルも驚いたような顔をしている。


「ディルがしないのなら、私がするわ」

イリスは真正面からゼクスにぶつかり、恐怖心も忘れて、思いを吐き出した。


「どうしてディルを巻き込んだの!一歩間違えたら死んでいたかもしれないのに。そんなに人を陥れて何が楽しいの?貴方の心は満足した?犠牲になる人の気持ちを考えたこともないくせに!」

「お姉さま、おやめ下さい。陛下の前ですよ」

後ろからディルの声がして我に返るとイリスは唇をかみしめて悔しそうに下を向く。

ゼクスの後ろにいた男たちは頭に血を上らせて剣の柄を握り、スパッと引き抜いた。ゼクスは動かないまま、叩かれた頬を擦っている。


「サイの王女如きが……よくもゼクス様に!愚弄にも程がある、今ここで切り刻んでやる!」

「イリスを傷つければお前たちは死ぬ――意味を分かって言っているんだろうな?」

ライアンの底冷えした声が突き刺さり、男たちの手が一瞬怯む。

圧倒的な存在感を前にして臆したように、男たちに刺すような顫動が背中を駆け巡った。ライアンはイリスを引き寄せて後ろにやり、どうなんだ?と高圧的に腕を組んで出方を待つ。


「ク、ククッ……」

しかしそこで今の状況には似つかない笑い声が聞こえ、ライアンは眉を顰める。

ゼクスが狂ったように肩を震わせて顔に手を当てた。イリスはその異様な光景に息を飲んで見守る。


「女で俺を打ったのはイリスが初めてだ。ますます気に入った」

「お前は人の女に手を出すのが趣味なのか。その低俗な性格、鍛え直した方がいいようだな」

ジリリと今にも発火しそうに危なげな視線を交わす兄弟の圧は尋常ではなく、いつ戦いが勃発するか分からないほどの緊張感が覆い始める。

イリスは早まった行動を後悔したが、自分自身ゼクスに一発浴びさせないと気が済まなかった。どうなる、と心臓の音が亢進し、体全体に力が入る。


「――静まれ、馬鹿共が」

エドームの王が一声上げれば緊迫に満ちた空間に沈黙が走り、静寂に包まれる。

不思議なほど静かになった謁見の間に呆れたような息が漏れ、エドームの王は口を開く。


「ゼクス、今回はお前に非がある。よって一月の謹慎、さらにサイの王女との接触を禁ずる」

「……父上」

「異論は認めない。南ガイシやナヴィナの行動は目に余るものだ。少しは頭を冷やせ」

反論は許さないという絶対の命令に、ゼクスは不服そうに口を曲げる。

 
「ライアン」

「は」

「どうやらだいぶその姫に入れこんでいるようだな。今回のようにいつ誰の手が加わるか分からない。玩具にしても、常に目を離さないように心掛けろ」

「心得ました」

ライアンの恭順な姿勢を見ながら、イリスはその背中が以前よりも大きく感じられることに気付いた。

最初の印象が悪すぎて、好きになれないと思っていた内面に少しずつ綻びが生じてきている。憎しみという形成でされていた虚像が、徐々に亀裂を走らせて壊れていく。

ダメだと心に強く言い聞かせる。このままではライアンという人を、受け入れてしまう。許せないはずの痛みを緩和させてしまう。言葉にしがたい危機感が心に満ちていった。


「ゼクスの代わりに非礼を詫びよう、カモーアの王よ。悪戯にしては度が過ぎた」

「……いえ、寛大なご配慮感謝いたします」

上手く丸めこまれたような気がするディルは内心では曇り顔だったが、冷静に言葉を繋げた。



「ゼクス殿が少々子供、であったと思うことにします。では我々は今日にでもエドームを発ちます。少し長居をしすぎました」

子供、というのを強調して、ディルは微笑む。

貴様ァ……とギリッと歯軋りをするゼクスの家来を空気のように扱い、視界にすら入れることなく、エドームの王と向き合った。


「そうか。道中気をつけて帰るといい。何かあればまた書状にて送るとしよう」

「――では、お元気で」

ディルやカモーアの一同が深々と頭を下げ、こちらを一瞥することなく謁見の間を後にした。

過ぎ去っていく後ろ姿を見ながら、イリスはそれが心の距離のように感じて涙が込み上げそうになった。

それでも自分がもたらした今が現実であり、どうにも出来る事のないものだと言い聞かせる。

いつまでも未練がましく思うのは己の弱さ。依存するように心の拠り所にして、思い通りにならなければ歯がゆく思う。それがどれだけ身勝手なのか考えただけで惨めになる。


「……さて、余興はこれくらいにしておこうか」

と、突然にライアンの背筋も凍るような低い声が隣から聞こえる。


あとはもう、一瞬だった。

スパッと流れるような一線が横切り、小さな何かが飛来していくのが見えた。それが小指だと分かったのも数秒後のことで、何が起こったのか理解するのも時間がかかった。

イリスや他の人間、ゼクスでさえも反応しなかった僅かな時にライアンは剣を抜き、ゼクスに襲い掛かった。


「ゼ、ゼクス様!!」

「ご、ご乱心かライアン様!いきなり斬りかかるとは何事ぞ!」

男たちが焦ったようにゼクスの周りを囲み、ライアンに向かって鞘から剣を取り出す。イリスは放心したように口を押さえ、瞬きをしてライアンを見つめた。

彼から感じるのは静かだが激しい雷雨のような怒りで、触れるのを躊躇いそうなほど怖い形相をしていた。


「や、やめて下さいライアン様……!何をしているの!」

しかしイリスはライアンの腕を掴み、身を挺して制止を図った。

それは物凄く勇気がいることだったが、こうして止めないと命まで狙いそうなほどライアンは狂気じみた殺気を放っていた。


「人の女に手を出しといて小指一本で済むくらい安いもんだろう、ゼクス?」

「ハッ……よっぽどお怒りのようだな、ライアン。こうやって俺に牙をむくのも久しぶりだ」

懐かしいなァ、その目……とギラギラした目付きで弟を見下すゼクスはククッと笑う。

左手の小指は途中から切断され、ボタボタと血が零れている。額に汗を浮かばせているが、余裕があるのか何も慌てた様子がない。

ざわつくな、見っとも無いと家来にまで話しかけている。


「ライアン」

エドームの王が息子に圧を込めた声を出す。


「こうでもしないと、俺の気が治まらないので。本来ならば両の手足を切断していますよ、父上」

怯んだ態度を見せず、堂々とゼクスの血を払うライアンは冷めた目で言葉を落とす。


「構いませんよ、父上。本気になったライアンは俺を殺しかねない。そうしないのはイリスの立場を守るため……変わったものだな、冷血も」

「しかしゼクス様!」

「黙れ。ライアン、小指ぐらいならくれてやろう。それくらい愉しませてもらったからな」

聞くのもハラハラする会話にイリスは冷や汗を浮かべた。さらにゼクスの心地悪い視線を感じてブルッと肩を震わせる。

その目の奥に宿る底のない暗さが迫り来るようで、本能的な拒絶を感じた。


「俺の気が変わる前に消え失せろ。今度は心臓を狙いそうだからな」

「そうした方がいいらしい。目が笑っていない」

行くぞと左手を押さえたゼクスが言うと、納得がいかないように顔を歪めた男たちが渋々ついていく。


「……処分は、何なりと」

ライアンはエドームの王に向かって頭を下げる。


「随分と軽率な行動を取ったな、ライアン。ゼクス同様、痛みは分かち合え……と言うところだが今回は閉口しておこう」

「父上」

意外そうに目を細めるライアンはもっと違うことを想像していたらしい。

イリスは未だに心臓の音が加速して、息も苦しかった。自分を中心にしてこんな事態になってしまった罪悪感も重く圧し掛かってくる。


「ゼクスはお前と違い、思慮に欠ける性格が目立つ。少しは痛い思いをした方がいい。しばらくはゼクスと距離を置き、お前も冷静になれ」

「はい」

「序列ではゼクスが次の王だからな。いつまでも遊び呆けて怠惰なようではエドームは任せられない。お前にも王になる可能性が無きにしも非ず。頭に入れておけ」

「……はい」

そうするとエドームの王がイリスの方へ目線を変えて、意味深に唇に弧を描いた。


「サイの王女はゼクスの頬を叩くような気性もあり、女々しく弱いわけではないらしい。ライアン、こんな女は一ヵ所に留まるような器は持っていない。精々足をすくわれないように気をつけろ」

「それこそ、縛りつけてでも」

イリスはその言葉にギョッとしてライアンを見る。


「ハハッ、お前はその気になったら落とせない女はいなかったからな。ただこの王女は手強いだろう、他に意中の存在もあるようだしな」

「……っ!」

「ご心配なく。そんなものは消してしまえばいい。これでも少しずつ俺に傾いてきているようだからな」

頭ごと引き寄せられ、イリスはすっぽりライアンの腕の中に収まる。

エドームの王の目の前で恥ずかしいとイリスは嫌がったが、なかなか離してくれない。


「サイに帰って子作りでもすればいい。その前に片付けなければならない問題があるようだがな」

「ファンシー家の問題はこちらで処理します。どうするかは本人次第ですが」

ライアンの声にイリスはピクッと反応する。


ファンシー家。ルド・エル・ファンシーの正体。そして父が行った許されない殺戮。思い出さないようにしていた過去がイリスの胸を突き刺した。

ルドやテオ、顎髭の男ラグレムはどうなったのか。イリスは牢で最後に見たあの二人を頭に浮かべる。


「お前に任せよう。殺すのも生かすのも自由だ。益になるようであれば、駒にすればいい」

「サイに戻るまでは何とも言えません。あの三人はサイに同行させるつもりです」

「そうか。お前は今やるべきことをすればいい」

エドームの王は出立の日程は?と聞き、ライアンは明日ですと答える。


何も聞いていないイリスは急な話に驚いたが、サイに帰れると思うと安心がジワジワと心を満たしていく。

やっと、やっと帰れる。長かった今までを振り返り、イリスは安堵の息を漏らした。

 
「では、この件は終了ということで。俺たちも失礼します」

ライアンとイリスは共に敬礼すると、謁見の間を後にした。




「なぁーんで俺らが歩きなんですかァー?一応元貴族なんですけどぉー」

「ルド、品位が欠けて見える。大人しく黙って歩け」

「お前もサイまで徒歩ってダルイだろー?こんなむさ苦しく武装した奴等の中で無言で歩けってのがなぁ。もっとこう、美女に囲まれて華がある方が落ち着く」


後方を歩くルド達の声が、前方を進むイリスの所にまで聞こえてくる。

図太い神経の持ち主だと思いながら、イリスは柔らかな日差しが差し込む道で馬に乗っていた。そう、行きにきたサイへのルートを今度は逆に辿っている。


「おいおいルド、殺されないだけマシってこった。つべこべ言わず歩こうぜ」

「もっと待遇がよくてもいいんだろー?誰か俺を覚えてる奴いねーの?ルド様だぜ、ルド様!覚えてる奴挙手ー!」

「奴隷の分際で、煩わしい!少しは静かにできないのか!」

苛立った騎士から怒りの声が上がるが、ルドは怯えもせずに鼻歌までうたっている。


「ライアン様、俺あいつ殺していいですか?ああいうの見ると瞬殺したくなるんですよね。ホラ不思議、いつの間にか剣まで抜いちゃってますよ俺」

イリスの近くにいたルークは笑っているが青筋を浮かべたままライアンに尋ねる。


「視界に入れるな。ああいう飄々した奴に限って手練だったりする」

「嫌でも入ってくるんですよねー…あぁムカつく。いっそのこと崖から蹴落としてやりたいです」

「殺すのはやりすぎですよルーク様……」
 
イリスは途中から話に加わり、呆れ顔になった。


後から聞いた話によれば、イリスが体を休ませている間にルド達はずっと地下牢に放り込まれていたらしい。

ライアンはルドがファンシー家の人間だとすぐに見抜き、王城まで連れて行った。収容所にいた他の奴隷たちはその場で解放されたとか。

なぜルド達がサイに同行させられているのか……イリスはある人物と会うためだと考えていた。


「ていうかイリス様にもうバレちゃってるんですよね?レインがファンシー家の人間だったことは」

「まだ言っていないが気づいていたんだろ、イリス?」

「それは……確信はありませんでしたが、薄々気づいてはいました。なぜレイン様が私を目の仇にするのか考えたら合点がいったので」


ルドとレインは顔立ちは似ている部分が多くあった。

それに共通するのは黄色の耳飾り。かつてバロン氏が同じようにつけていたのを今でも覚えている。

ルドが言っていた、「弟はとうの昔に売られた」。きっとルド達はずっと弟のレインを探して生きてきたのだろう。


「あの人たちと接触したのは短い時間でしたけど、父が起こした全てを知りました。陛下が仰っていたことも納得がいきます。こんなこと、知りたくはなかったけれど」

イリスは心痛が込み上げ、伏し目がちになる。


「まぁレインも昔からファンシー家の話題は禁句でしたから。ライアン様に拾われる前は変態貴族の奴隷だったみたいだし、幼少期は相当つらかったはずです」

「……っ」

「かと言って身内のイリス様を恨むのも違うかと思いますけどね。実行したのはイリス様ではないんだし」

ルークは後ろから聞こえてくるルドの声に苛々しながらも、顔を曇らせるイリスを気遣うかのように言葉を付け足す。


「私だったら、きっと……レイン様と同じように思います」



肉親を火によって殺されたなら果てしない憎しみが湧きあがり、なぜ自分がこのような仕打ちに合わなければいけないのかと激しく自問し、もがき苦しむはずで。

そして仇である人の子供が何の苦労も知らずに健やかに育っていれば殺意さえ浮かぶだろう。


レインがあれほど自分を毛嫌いし、疎ましく思っていたのも今になってよく分かる。 



イリスは横にいるライアンを見つめ、思いを馳せる。

常に自信に溢れ、落ち着きを乱さないライアンが自分を助けるためにボロボロになって動いていたこと。

通常なら制圧に時間がかかる襲撃さえも迅速に終わらせ、怪我を負ってまで救い出してくれた。


その事実に心が揺らいだのは確かで。

そこまでして自分を想ってくれているのかを考えたら、その心に寄り添うことは出来ないとすぐに答えは出る。

どうしても、ライアンの想いに応えることはできない。サイが抱える今を思えば、到底許すという感情は湧かない。


「イリス、体調はどうだ?」

こうやって、優しく覗きこむのだって、ずるい。

傾いてはいけないと、惑わされていけないと、深く根付く壁がライアンの思いやりを遮断する。

分かっている、この人がどれだけ自分を大事にしているか…上辺だけではない想いを抱いてくれていることも。


「……大丈夫、です」

なびくことは、ない。イリスは胃がぎゅっと収縮されるような痛みを感じた。

ライアンがサイを攻めることがなければ、少しは変わっていたかもしれない。それでも思い浮かぶ、シンディや城の人間の憔悴しきった顔。

犠牲になった人がいることを忘れてはいけない。大事な未来を奪ったのは他でもない、自分なのだから。


命を賭して守ってくれたサイを、なかったものにはできない。

私はどうすればいいのだろうと誰にも伝えられない感情をイリスは胸に仕舞い込む。



『――…全ては、時が解決してくれますよ』

アルトリアの柔らかい声が心に染み込み、イリスは静かに目を閉じた。

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