亡国の王子の復讐

朝日

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決別の朝、曇る視界 Ⅰ

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澄み切った空が、どこまでも青々と続いていく。

温暖な気候が肌に染み込み、快晴を告げる太陽の光がキラリと網膜に入ってくる。

風に揺れるサイの国章がはためき、懐かしい城が目に飛び込んできた。


「帰って、来たのね……」

口に出してようやくその実感が湧いてきた。もう何年もお城に帰っていないかのように錯覚してしまう。

それほどエドームで起こった出来事は衝撃的で、思い出すたびに恐怖が込み上げてくる。それと同時に恥ずかしさや怒りも広がっていく。


「イリス様、サイに戻れて嬉しそうですね。やっと俺の欲望も解禁されるので安心です」

後ろにいたルークはイリスに声をかけた。


「解禁するつもりはないのでご安心くださいね。これ以上私の悩みを増やさないでください」

「手厳しいな~サイは淑やかな可愛い子が多くて俺好みなんですけどね。イリス様もばっちり許容範囲です。どうです、今夜俺と過ごしませんか?」

「あ、お迎えが来ました」

ルークの甘い誘いを完全に無視をして、イリスは走ってくるロズの姿を確認した。

他にも侍女や留守を任せた大臣など、見慣れた顔が視界に入ると、安心で涙が溢れそうになった。


「イリス様!よくご無事で……!」

周りの人目も気にせずにロズが駆けこんできてイリスは少し驚いた。目に涙を溜め、ロズは掠れた声でもう一度名を呼ぶ。


「ロズ、落ち着いて。どうしたの、貴方らしくないわ。私はちゃんと戻って来たでしょう?」

「一時連絡が取れなかったではありませんか!危険なエドームで、もしもの事があったらと心配で夜も眠れませんでしたっ」

ディル達に捕らわれて消息がつかめなかったこともあったせいか、ロズは精神的に心の傷が残っているのかもしれない。

また不安にさせてしまった、とイリスは罪悪感が浮かぶ。エドームで起こった出来事を話したらショックで倒れてしまうかもしれない。


「大丈夫。私は、ちゃんと生きているから。心配をかけてごめんね、皆も」

イリスが安心させるように微笑めば、周りも笑い返してくれた。

留守中に何か問題はなかったか聞こうとしたら、後ろにいたライアンが声をかけてきた。 


「イリス、ついてこい」

ごめんねまた後で、とロズ達に一言残しイリスは馬で駆けてその後を追った。


昨日ライアンと話していたことを思い出して、ぎゅっと胸が痛くなる。

今から行く場所――レインがいるところへ向かう。ファンシー家の兄弟の再会に自分は立ち会うことになった。

私が全ての事実を知った今、レインから伝えたいことがあるらしい。


もう既に、生き別れた兄弟のルドが見つかったとレインは書簡で確認しているはず。

彼がどう思い、何を語るのか……それは、想像がつかなかった。



「おかえりなさいませ、ライアン様……イリス様」

あぁお前いたのかと言わんばかりに後から付け足すレインの無愛想な態度は、サイに戻ってからも変化がなかった。

会議用の室内にレインは一人で書類整理をしていた。何十枚もの紙が綺麗に並べられた光景は、本人の性格をよく表していた。

イリスはパッとレインと視線が合った瞬間に、ぎこちなく逸らしてしまう。レインはイリスを見ることなく、自然な流れでライアンと向き合った。


「ご苦労だったな。何か変わったことはなかったか?」

「小競り合いが何件かありましたが、他に目立った衝突はなかったです。エドームの件、また後ほど詳しくお聞かせ下さい」

「ああ。それより今は、お前の兄弟についてだ」

そこでレインの表情にようやく感情が浮かぶ。困ったような、切ないような、少しだけ戸惑った姿で歯切れの悪い返事をする。

イリスは何も言わず、静かな顔で成り行きを見守っていた。ライアンが廊下に待機していた部下につれてこいと言えば、最初に鎖に繋がれたルドが入ってきた。


「――…レイン?」

「ルド…」

厳かな雰囲気で見つめ合う二人は、言葉にできない思いを無言で語り合うかのように口を閉ざす。

次第にルドの目に涙が浮かびあがり、肩が小さく震え出す。込み上げる衝動を堪え切れずに、もう一度レインの名前を呼んだ。

うわーお前元気だった?何だよ、俺を覚えてねぇの?ルドだよルド!何年振りー?とりあえず会いたかったんだよ!と元気な口調で話すかと思っていたイリスは少し驚いていた。


「何だよ…一人前に、成長しやがって……ずっと俺は…お前を、探してたんだ」

「…悪かった」

「ただお前に、会いたくて…唯一の、弟を…今もどっかで泣いてんじゃねぇかって…毎日、考えてた」

何だよ俺だけバカみてぇとルドは額に手を当てて苦笑した。その瞳に零れ落ちるいくつもの透明の涙が積年の思いを象徴する。


イリスはその顔を見て、今は亡き父を思い出した。記憶は優しい笑顔ばかりで、心に棘が刺さったように痛かった。

引き裂かれた家族、募る憎しみの影、悲しい再会。全ては父の強欲が引き起こした悲惨な事件であり、それがなければ今頃彼らは夢に満ちた生活を送っていたはず。


時間という大きな流れは兄弟の絆さえ薄めさせていく。傷を癒すのには不十分で、瘡蓋を剥がすのにはあまりにも呆気なく。

どんなに過去を後悔しても、出来ることは何もなくて。ただ痛みと苦しみが心に染みついて離れない。


「元気なら、いい…お前も、俺と同じだ…ファンシー家の誇りを…失ってはいなかった」

双方の耳に光るのは黄色のピアス。まったく同じものが、二人を家族だと証明する。


「あの日、牢の中で…泣き叫びながら連れていかれたお前の後ろ姿が、今も頭から離れねぇ…どうすることも出来なかった…ごめんな」

「いや…」

「お前だけが、希望だったんだ。テオもラグレムも、必死で探した…剣奴として生きながら、少ない情報を求めて…まさかクソ王子の側近だったなんてな」

皮肉なもんだと掠れた声で笑う。


「分かってんだよ…お前が命を捧げてるのはライアン様なんだろ。それを否定はしない。実直な性格なのは昔から変わってねぇな」

「生涯をかけて尽くすと決めた」

「なら、それでいい。ファンシー家を復興しようなんて今更考えちゃいない…自分に恥じない生き方をしろと教えたのも父上だからな」

そこでルドはイリスの方を向いた。



「あんたを憎むのは筋違いかもしれねぇが……俺とテオを庇ったことには礼を言う」

ゼクスにルド達のことを問われて無関係だと言ったことを覚えていたとは。イリスは首を振って口を開く。


「私のせいで、もうこれ以上傷つく人を見たくなかったから」

「あんたのおかげで弟にも会えた。皮肉な話だが……感謝している」

「いいえ。私は何もしていないわ……」

ただ、無知であった。自分の知らない所で、数え切れない人が苦しんでいた。

その事実を背負って、これからどう生きていくべきなのか、まだはっきりと道筋は見えてこない。


「ライアン様、姫と少しお時間をください。私から伝えることがあります」

レインはイリスを一瞬見ると、ライアンに声をかける。


「他の奴の再会はいいのか?」

「また後でも出来ますので。今は姫とお話をさせてください」

ライアンは無言で頷くと、行くぞと言ってルドを外に出させる。

イリスはいなくなる二人を見つめながら、静かになる部屋の中でレインと向かい合った。


「私がずっと貴方を疎んでいた原因は、今は亡きサイの王が犯した過去にあります。何年すぎても、許すことができなかった。復讐こそが生きる糧でした」

「当然、です……」

「ライアン様に出会う前は毎日が思い出したくないほど苦痛でした。ライアン様に拾われて、ようやくまともな人間になることができた」

レインは手の平を広げて、昔を振り返りながら、ぐっと握りつぶした。


「ライアン様は私が命をかけて尽くす代わりに、一つの約束をしてくれました。“いつかお前の手で、サイの王に復讐させてやる”と。だからお前は一生俺に忠誠を誓え、と」

「――…それ、は」

「ブレイヴをなぶり殺したのはライアン様ではなく、私です。拷問に近い方法で、何時間も苦しめて憎しみをぶつけました」


ライアン様は約束を違えることなく、私の望みを叶えてくれた。

積年の願いは忠実に実行でき、気の済むまでサイの王を追い詰められた。泣き叫ぼうが、苦しみ喚こうが、王の痛みは快感となって復讐を加速させた。

やめてくれ、許してくれと懺悔されても、少しも躊躇うことなく手を掛けた。自我が狂ったように痛めつけ、一秒でも長く絶望を味わうことに専念した。


「最終的に止めを刺したのはディル王子ですが、瀕死にまで追いやったのは私です。ライアン様は私との約束を裏切ることなく実現させてくれました」


貴方という、愛しい存在を手に入れるため。そして絶対の信頼を置ける、揺ぎ無い側近を得るために。

賢く残酷なやり方でも、何でもいい。必要としてくれるのならば、全ての力で応えようと思った。


「私はライアン様のためなら命などいつでも捨てられます。家族の仇を討たせてくれたからではなく、己を捧げたいと心から思ったからです」

「レイン様……」

「恨むのなら、私を恨んでください。ライアン様はただ私の願いを叶えてくれただけです。貴方を想う気持ちに偽りは何一つありません」

真っ直ぐな目。力強い口調。

ライアンを慕って、捧げて、傍にいて。彼は一点の曇りもなく、純粋な心でライアンに仕えている。


イリスはその真剣な言葉をどう返したらいいのか分からずにいた。

因果応報によって、父は報いを受けた。レインの痛みに相応の苦しみを味わった。

人にした仕打ちが巡り巡って必ず自分に還ってくる。それと並行するように、今私に無知であった罪が降りかかっているようで。


誰を、何を、どう憎んでも、悲しさしか生まれなくて。

思う事の全ては色んな事象が絡んで、進んで、混じり合って…複雑な形をした現在に繋がっている。


どうすれば、いいの?私は何を頼って生きていけばいい?

どの選択をしても誰かの幸せを踏みにじり、傷つけてしまいそうで怖い。本当に得たいものはいつもこの手から消えていく。



「貴方が変われば、ライアン様は必ず応えてくれるでしょう。心の中に迷いや葛藤もあるかと思いますが、私の件を含めてよく考えてみてください」

「私は……」

「あの方は、一時の感情で貴方を想っているんじゃない。やり方は強引でも、心底欲しいと願ったら誰でも自分だけのものにしたいと思います。貴方も思い当たる節があるのでは?」

心の中まで探るような視線に、何も言えなくなる。

どうしたって欲しいと激情のように込み上げる気持ち。抱え込む全てを取っ払って溺れたいとさえ願う心。

ライアンと自分はきっと何一つ変わらない。ただ違うのは思う相手が異なることだけで、根底は同じもののはずで。


「混乱させて申し訳ありません。しかしライアン様がサイを攻めたのは軽はずみの行動ではないと知ってほしかった。エドームを出る前には死者を最低限に抑えるため、何度も作戦を練っていました」

「でもっ、たくさん傷ついた人がいます!」

「初めから犠牲は承知の上。ライアン様も好んで殺しをしていたわけではありません。それでも手に入れたかったんです、貴方を」


イリスは、言葉が、出なかった。

 
「応えられない。私はあの人を、思うことなんて、出来ないのに……」

「本当ですか?自分でも気づかぬうちに、少しずつ惹かれているのでは?感情に蓋をして認めたくないと思いが先行しているように思えますが」

「――ッ…」
 
イリスは思わずカッと赤くなった。自分の何を知っているのと言い返したくなった。

この人に見透かされているようで怖い。自分でさえ知らないことを簡単に言い当てられそうで耳を塞ぎたくなる。

 
「あなたの立場や置かれている状況を見て、ライアン様に心を開くことに抵抗があるのは分かります。思うこと自体がサイへの裏切りのように感じてしまうからでしょう」

「私が心を開いて、ライアン様を好きになればよいと言いたいのですか?」

「いいえ。ただ、あの方の傍にいてほしいのです。例え心に別の人がいるとしても、離れることはしないでください」

レインが直接頭を下げて頼み込んでいるのを見て、イリスは押し黙った。

この人はライアンと同じで気づいている。心の奥でディルを求めている事を分かっている。それでもライアンを思うことを強要するわけでもなく、ずっと隣にいてほしいと言っている。


「図々しい願いかもしれません。こんなこと言いたくはありませんが、貴方がいるとライアン様はいつも幸せそうにしています」

「残酷なことを、言うのですね……」

「ライアン様のためになるのなら、どんなことでも」

イリスは薄く微笑んで、ライアンにはこんなにも思ってくれる人がいることや、レインのどこまでも真っ直ぐな忠誠心を羨ましく思った。

自分がどうすべきで、何が最善なのか。惑わすように訪れる言葉に心が乱されそうになる。

まるで誰かに試されているように、自分の不安定な心は一体どこへ向かうというのだろうか。



「私の立場は、はいと頷くほか、ないのでしょうね」

イリスは徐々に近づいてくる岐路を前にして、未だに留まり続ける存在が自分を強く離さないのを感じた。

それは願望でもあって、未練でもあって。別離がすぐ傍まできているのを心のどこかで悟っていた。 



――月が、煌々と輝きを投げかけていた。

それがどこか、寂しげに銀の光が揺れているように感じて、少しの間だけ目を閉じた。


世界が闇に包まれる瞬間、最初に浮かぶのはやはりあの人だけ。


気付いていた、この心の一部に別の存在が光だしていたことを。

あまりにも強烈で、眩しくて、大きくて。体が繋がった時から嫌でも意識してしまうほどに、貴方は少しずつその存在を増していった。


ずるい人だと何度も思った。

あんなにひどいことして激しく感情を揺さぶっておいて、繊細な硝子細工を愛でるように態度を優しくして惑わした。

嫌悪感を少しずつ払拭させていく、ある意味ではずる賢いと思わざるを得ない段階を踏んで、奥の心に近づいてきた。


試しては一定の距離を置き、時々優しく触れては何事もなかったかのように過ごす。

女性関係で苦労したこともなく、こうやって心を乱すのも簡単だったはず。分かっていたのに、何故か抗えなくなっていた。



「イリス」


そうやって愛おしいと囁くように、名前を呼ぶ。


「カモーアの屑は、明日国へ戻るらしい。サイへは用事でもない限り、入国はしないだろうな」

ひどい、人。表情を覗きこんで感情を読み取ろうとする。

そんなことをされたら、意地でも無を貫きたくなる。まだまだ子供だと自分で情けなくなった。


「それではもう会うことも、少なくなるでしょうね」

淡々と零れていく言葉に少し安心する。


「本音では、行かせたくないんだろう?妹などに渡したくない、自分だけのそばにいてほしい。違うか?」

「……そうですと言えば、ライアン様は満足しますか?」

分かっているのなら隠しても仕方ないと自分で開き直ることしか出来なくて。

憐れだと、惨めだと言いたいの?と目で問いかけ、曇っていく視界がどうしても抑えきれない。


行かせたくないに決まっているのに。思うだけでこんなにも胸が痛いのに。

しがらみや葛藤から少しでも解放されたらどれだけ楽なのかとライアンに訴えかけるように声を震わせる。


「何度、言わせる?俺を愛せばいい。どうしてそんな頑なになって拒む?」

ライアンに後ろから抱きしめられ、下を向けばついに涙が頬を伝っていった。


「……ライアン様には、その理由が分かるはずです」
 
もう、会えない。この夜が本当の最後になるかもしれない。今すぐこの人の中から抜け出してディルに全てを伝えたい。

苦しいのはもう嫌。こんな思いをするのなら、初めから出会いたくはなかった。アルトリアのように、ただ幸せを願えたらよかったのに。



「私には、貴方が眩しすぎる。いつも強い光を投げかけて、心ごと覆い込もうとする……だから、いつも前が見えなくなる」

照らし出される太陽は真っ直ぐに見れない。日向のような優しさもあるけれど、網膜が焦げるような痛みもある。

その存在は大きくて、自分を射止めて離そうとしない。じわじわと心にまで光を与えてくる。


イリスは自分の腕を抱きしめて、絞り出すように続けた。


「私は夜の月の方が、いい……満ち欠けする月光の下で、生きていたい」

静かな月は何も語らない。時々優しく降り注ぐかと思えば、雲に隠れて姿を消してしまう。

その危うい夜の光にどれだけ手を伸ばしても届くことはない。でも全てが儚くて愛おしくて、縋るように求めてしまう。



「貴方が与えようとするものを、私は返すことが出来ないんです」

レインが言ったように、傍にいるだけでいいとしても。真っ直ぐな思いをぶつけてくる度に、小さな罪悪感が芽生えていく。

こんな私に、人の命を犠牲にしてまで得る価値はあったのかと問いそうになる。応えられないと分かっていて、幸せなど生きて形を成さない。


貴方はその手で何人葬ってきたの。その度にいくつの未来を奪って来た?

私は心で寄り添うことは出来ない。いくら情を求めても欠陥の愛では悲しませるだけだ。


「そんなことを考えていたのか?バカな事を……イリスらしくもあるがな」

抱きしめていた手を解くと、ライアンはイリスを自分の方に振り向かせた。

ポロポロと粒の涙を散らすのを見て、呆れたような顔をしてから大きな手で一つずつ拭っていった。


「憎いんだろう?それならずっと俺を憎んでいればいい。心の欠片も渡さず、いつか殺す日を夢見て過ごせばいい」

「……憎んでいるのなら、もう既に剣を持っています…心の欠片だって戻らない。貴方と生きていく道は確立されている」

こんなことを言わせてしまっているのも、自分の薄情さなのだと思い知る。

本当は少しでも負担を和らげようと言葉を選んでくれているのだと、最近になってようやく分かった。


「それなら何も言わず、ただ傍にいればいい。いつか愛せるのなら、その時に俺を愛したらいい」

そんな曖昧な選択を示すライアンに、イリスは納得がいかないように首を振った。


「お前の心の大部分を屑が占めているのはとうの昔に分かっている。分かっていて、卑怯で残酷な方法でもイリスを手に入れた。何をしてでも、お前が欲しかったからだ」

「……ライアン、様」

イリスの瞳が静かに揺れる。

苦しい思いをした。体も許してしまった。なのに、どうして…傷ついてほしくないと、願ってしまうの。



「――行きたいんだろう、屑の元に」

ライアンはただ短く、そう零した。 


「お前の心を引き裂いたのは俺だ。甘い言葉を囁いても、強引に身体を奪っても、イリスの思いは変わらない。むしろ強くなっていく」

愛おしげに頬を撫でられ、イリスは小さく嗚咽を吐き出しながら目を瞑る。


「甘かった。どんなに引き離しても揺さぶっても、お前たちは互いに思いを膨らませていく。そして惹かれ合っていく。どうやって邪魔をしても、深い所に強い繋がりを持っている」

嫉妬するくらいにな……と呟き、少しの距離がさらに短くなった。


視界が、白く鈍く、歪んでいく。

目の前にいる人が、ライアンだと思えなくなっていた。


「俺に傾いているのは分かる。そうなるように優しくもした。なのにどうしても、肝心な心の中心には手が届かない」

「……ごめ、なさ……」

「謝る必要はない。そんなお前だからこそ、愛おしく思う」

込み上げる熱が、ひたすら涙となって散っていく。

優しいの、優しいからこそ、こんなにも胸が苦しい。傷つけるだけしか出来ないのに、彼は何も望もうとはしない。


「本当に欲しいものは、いつも屑に持っていかれる。イリスにこんな顔をさせても、思われている事実を見ようともしない」

だから、今日だけは解放してやると一房の髪に口付けを落とした。



「今はお前の意志に、従えばいい。一夜くらいなら許してやる。悔いのないように、イリスの思うままに、全てを伝えてきたらいい」

ライアンは慈しむような微笑みで、最後にイリスの唇に触れた。



「……行きたい、の」

口に出るのはそんな言葉だけで。

イリスは肩を震わせて、ライアンの胸あたりの服を掴み、沈む頭を寄せた。


「どうしても、断ち切ることが、出来ないんです……独り善がりの、醜い……執着です。だけど、今日を諦めたら……私、一生後悔します」

この先二人と現れはしない、それほど恋しい人。

目の前にいる人を受け入れて愛せたなら、苦悩することなく幸せを手に入れたかもしれない。

そう出来ないのは、想いが証明している。距離が遠ざかるほどに願いが強くなっていき、顔を見る度にディルが好きだと実感する。それはもう、連鎖のように。


「ごめんなさい……」

もう一度だけ、謝った。

そしてイリスはライアンの顔を見ることなく、下を向いたまま涙を散らして駆けだしていく。

ライアンはその姿を目で追いながら、すれ違いざまにイリス、と優しい声で呼びかけた。


「 愛してる 」

その声はしっかりとイリスにも届けられた。

たった五文字の短さだとしても、重く深く心の淵にまでずっしりと響く。今この時に言うなんて、残酷な人だと思った。

止まりそうになる足を僅かな理性が突き動かし、イリスがそのまま振り返ることはなかった。揺ぎ無い速度で一歩一歩と進んでいき、やがてライアンの視界から消えていく。



「――…よろしかったのですか?」

物陰から出てきたレインは、イリスの後ろ姿を見つめ続けるライアンへ静かに尋ねた。


「いや。なぜあんなことを言ったのか俺自身もよく分かっていない。ただ、イリスの悲しい顔を見ていたら行かせたくなった」

「戻ってくるという保証はありません。後を追いかけますか?」

「その必要はない……イリスは賢い女だ、最後には必ずここへ戻ってくる。感情に流されることはないだろう」

ライアンは確信を口に出し、スッと夜空を見上げた。


「ここまで俺を翻弄する女はいないだろうな。体は手に入れても、心までは渡さない。気高く強いように見えて案外脆かったりする。だから惹かれるのか」

「……ライアン様からそんな台詞が聞けるとは思いませんでした」

「ああ、俺も思わなかった」

フッと笑みを浮かべる主を見て、レインは複雑そうに顔をしかめた。



足が鳥のように軽かった。

早く行きたいという思いばかりが体を急き立て、頭から離れることのない顔が鮮明に瞼の裏に焼き付く。

どこにいるかわからないのに、向かう場所はすぐに思いついた。あそこにきっとディルがいるのだと心が直感した。


ディルの元へ駆けつけて一体何になると言うのか、自分でもわからない。

ただ、狂おしいほどにこみ上げる想いを吐きださなければ出口のない迷路の中に彷徨うかのようで、居ても立っても居られない。

自分を突き動かすものが恋しさであろうと愚かさであろうと構わなかった。今を動かすものに理由なんていらない。
 

――そんな、時だった。


「お姉さまッッ!」

こんな夜に聞こえるはずのない声に初めて足を止めた。自分を呼ぶ幼い声の必死さや、焦燥を感じさせるものに、体が反応してしまった。

小さな弟は供をつけずただ一人で涙ながらに走ってくる。イリスは驚き、慌てて近寄って抱きしめた。


「ウィール…どうして、ここに?」

「お姉さま!行かないでくださいっ…」

ぎゅっと力を入れて抱きしめるウィールはひたすら行かないで…と囁いた。監視を抜けてどうやってここまで来たのか。声を震わせながら縋り付く弟にイリスは戸惑って頭を撫でる。


「僕、怖いんです。お姉さまが違う所へ行ってしまいそうで…っ!嫌です…そばにいてください。僕を、置いていかないでください…」

「ウィール…私はどこにも行かないわ」

「嘘だ…っ!お姉さまはリリィお姉さまのところに行こうとしているのでしょう?だからそんなに必死になって探しているんだ!」

何を悟ったのか分からない。真正面からぶつかってくるウィールは何も言わないイリスを見て嗚咽を吐き出す。


「どうして…お姉さまは、僕だけのものだったのに!あいつが邪魔をして奪っていったんだ!」

「落ち着いて、ウィール。大丈夫よ、私はずっと離れないから…部屋に戻りましょう、ね?」

「嫌ですっ、絶対に…!だってもうお姉さまは、僕のお姉さまじゃない!僕の知らない…ただの、女の人みたいだ……」


ただの女。ウィールの言っていることは正しい。

姉である以前に、私は一人の女でもあって。誰かを好きになったり、望んだりすることもある。王女でもある自分が、完璧であることなど出来はしない。


「そうね。私は、立派な姉でありたいけれど……ただの女でも、あるのね」

柔らかい金髪に触れながら、僅かの間だけ物思いに沈む。ウィールはそんなイリスを不安げに見つめ、どこにも行かさないと力を強くした。


「ウィール様、探しました…」

ハァハァと息切れを零すロズが、髪を乱しながら後ろからやってきた。相当探し回ったのか、顔がやつれて目が血走っている。

普段彼女を知る者が見たら驚いて目を開くだろう。そのくらい顔に疲れが出ていた。


「さぁ、お戻りください。サミル様も起きて心配されていましたよ」

「僕は行かない。今日はずっとお姉さまと一緒にいる。じゃないと、もう会えなくなる…」

「我が儘は聞けません。イリス様、少々強引ですがウィール様を連れていきます。その間に」

全てを見透かしているようなロズに、イリスは切なげに瞳を揺らした。

止めることなく、遮るわけでもなく、先へ行かそうとするロズの優しさが心に響く。この想いを否定することなく、受け入れてくれている。

きっと初めから見抜かれていた。自覚する前から、ロズには分かっていたのだろう。


「ごめんね、ウィール。今日だけは、許して……」

嫌々と首を振り、尚も暴れるウィールをロズに預ける。

お早く、と背中を押してくれるロズの言葉を背負って、再度イリスは駆けだしていった。



慣れ親しんだ城の中を抜け、夜空に輝く星の下を走り、見えてきたのはあの庭園だった。


頭をかすめる顔に胸がせつなくなる。星夜祭のときに見かけたディルはどこか儚げで夜風に紛れて消えてしまいそうだった。


幻でも、夢でもいい。一秒でも永く瞳の中にいたい。

そう願う事はいけないことなのか。自分の元には帰らないことを嘆き、傍にいたい、ただ一つの願いさえ叶う事が出来ない歯がゆさに胸を痛め、何度も空を見上げた日々。

それはまだ、近くにいるからという安心があったのかもしれない。


自分の息切れが耳元で聞こえる。

そして、月明かりに見えた姿が目に入った途端、呼吸が一瞬にして止まり、蓋をしたはずの思いはあっけなく溢れ出していってしまう。


自分が欲しているただ一人のひと。

貴方には、月がよく似合う。月光のように曖昧で、闇夜に浮かぶ姿は美しいほどに切ない。

そう、どうしたって届かない存在のように。満ち欠けする危うさを持って薄雲に身を隠す貴方はいつも心を見せてくれない…


「ディル」

そう呼べばピクッと反応する背中。星を見ていたのか、ディルは夜空を見上げて感傷に浸っていた。

ゆっくり振り向くと、いつもと変わらない銀の瞳で見つめ返してきた。お姉さま、と声にならない声が唇から紡がれる。


何をどう伝えるべきなのか、頭では混乱している。心の準備さえ整っておらず、衝動に従うままここまで来てしまった。


「明日には、カモーアへ…行ってしまうの?」

違う。そんなことを言いたいんじゃない。


「はい」

「……そう」

会話が、続かない。普段どんなことを話していたか思いだそうとするが、緊張が上回って何も考えられない。

行かないで。傍にいて。私だけを、見て。素直に口に出すことが出来たなら、どれだけいいか。


「こちらからご挨拶に出向くべき所を失礼しました。お姉さまには何も言わずに去った方がいいかと思ったので」

「どう、して…?」

「……決心が、狂いそうだったので」

決心ってなに?と問おうとしても、返ってくる言葉は自分を虚しくさせてしまいそうで怖かった。

そうやってディルは面影だけ残してどこかへ行ってしまう。私は今まで本当のディルに、どれだけ触れられただろうか。


「今日は…ミレイア様の傍にいなくていいの?」

「付きっきりで一緒にいるわけではありません。それに今日は、一人になりたい気分でした」

それは誰を想って?

一部にでも私を考えてくれていたら、なんて…この期に及んで馬鹿みたいと悲しくなる。


後、一歩。ほんの少しだけの勇気でいい。どうして、どうして言えないの。

人には想いを伝えることができるのに。言葉を発せない動物とは違い、一言で簡単に意志疎通が出来るというのに。

もどかしい。歯がゆい。ディルを困らせたとしても、私の想いを知ってほしいとあんなに願ったのに。


「ディル……」

私は。


 
「……お姉さま」
 
ディルは小さな声で呼ぶと、淡い月影を浴びながらイリスに近寄った。
 
真っ直ぐで逸らせない視線を受け止め、イリスは切なげに眉を落として静かに向かい合う。
 
 
何か、大切なことを言おうとしている。そんな気がした。
 
この九年の歳月が深い銀の瞳に集約しているかのようで、吸い込まれそうな錯覚がした。
 
交わした約束、共に過ごした想い出、優しい眼差し、触れた体温。全てを絡め取って、イリスはディルに釘付けになる。
 
 
「まだ、伝えていないことがありました。ずっと心に止めて、貴方に言うべき事を言えなかった」
 
真剣な表情は崩れることなく、イリスをとらえて離さない。
 
心臓は滾る血に反応して、バクバクと強みを増している。縛られたように体は動けず、足は地に根を張っているかのように静止する。
 
一秒が何分にも感じるほど、鈍く過ぎていった。何も意識していないのに、目に薄い涙の膜が広がっていく。
 
 
「身を守る後ろ盾も、男としての価値も、生きる尊厳さえ与えられなかった私を、お姉さま……貴方はどこまでも優しく接して、守ってくださいました」
 
「……ディル」
 
私は貴方を守っていたんじゃない。本当は心の奥底で、溺れるように依存していた。
 
当時にとっては使命感や弟のような感情だったとしても、今思い返せばずっと傍にいてほしいという願いがあった。
 
いつだってディルの痛みは共有していたかったし、そして何より自分を頼ってほしかった。ディルにとって必要な存在なのだと分かりたかった。
 
 
イリスは哀しげに過去を振り返る。
 
 
「あの頃はいつも貴方を憎み、傷つけ、怒りをぶつけていた。そうすることでしか自分を保てず、日々を生きるのが精一杯でした…貴方の気持ちを考える余裕もなかった」
 
憂いを帯びた目に銀の睫毛が伏せられる。イリスは魅入られたように見つめた。
 
 
「――今ではなくもっと早くに……心からの謝罪と、感謝を言うべきだった。貴方がいたから望みを叶えることができ、あの地獄を生き延びることが出来た。感謝しています」
 
謝罪と、感謝。私は何一つディルの役に立てなかったのに、そんなことを思ってくれていた。 
 
 
つらかっただろう。苦しかっただろう。言葉が足りないほど、体の痛みに代えられないほど、ディルは深く傷ついてきた。
 
心の支えにもなれなかった。自分という存在が憎しみを増幅させ、消える事のない過去を甦らせたはず。
 
何度も何度も闇へ突き落とし、眠れない夜を経験させ…殺意や憎悪をひた隠しにして、傍にいる事を強要させた。 
 
 
私はただ、ディルにとっての光になりたかったのに。
 
それだけだったと、イリスは思う。
 
 
 
「……最後の別れのように、言うのね」
 
掠れる喉から、ようやく言葉が滑り落ちる。
 
 
「最後、ですから」
 
ディルの声が、イリスの心の水面を揺らすように聞こえた。
 


「――最後、なら」

イリスは悲しみで張り裂けそうになりながら、精一杯の勇気を総動員してディルの手を掴んだ。

触れた部分は熱く、そして柔い。一瞬だけ顔を歪ませるディルを見つめ、イリスは首元に手を持ってくる。


「九年前の約束を貴方の手で、叶えて……私たちを繋ぐものを、ディルが断ち切って」

いっそその手で私という存在を刻みつけたまま、幼き日の約束を守ってくれたらいい。

父に止めを刺すことで、ディルの復讐は果たされたのかもしれない。それでも、曖昧に結びつけられたディルとの関係は終わらない。


共に生きてきた九年間の意味は、この時のためだったでしょう?

無言のまま強く目で訴えると、ディルの表情が少しずつ変わっていくのを感じた。決意が固まっていくような、何かに踏ん切りをつけたような顔だった。


「っ…!」

突然バッと強引に手を離され、イリスは一瞬だけ体がよろける。

そしてディルは腰にある剣を抜刀し、片手で構えた。迷いを感じさせない動きに、イリスは悟ったように薄っすらと笑んだ。

直にくる痛みを前に、一秒でも長くディルを目に焼き付けておこうとした。しかしディルはあろうことか自分に剣を向けた。


「待っ……!」

まさかと思って、イリスの背中にヒヤッとしたものが走る。


「お姉さまが証人です。私は今ここで、リリィの名を捨てます」

ディルは澄んだ目で言うと、片方の手で自らの長い銀髪を握り、躊躇いもなく切り捨てる。

サラサラと銀の粒子が散っていくように、ディルの手から髪が地面へ零れ落ちていった。イリスは呆然として立ち尽くし、大きく目を開けた。


「何を、しているの……!」

せっかくの綺麗な髪を…とイリスは切なげに目を細めて呟く。ディルの髪は首のあたりで不規則に切られ、浮いた銀は夜風に流れる。


「この髪は憎しみを忘れないためにずっと伸ばして、復讐を果たすその時がきたら切ろうと心に決めていた」

短くなったディルは知らない誰かを見ているようで、一気に男らしくなった印象をもたらした。イリスは瞬きして、戸惑いながら耳を傾ける。


「これで縛るものはなくなった。貴方との因縁もここまでにしたい。だからイリス……もう俺から、解放されてほしい」

「解放……?」

イリスは気付かぬうちに手が震えていく。ディルがどんな思いで口にしているのか分からなかった。


「ずっと俺の存在が心に枷をつけていた。イリスは復讐で俺に生かす道を示して、自らの命で果たせようとした。そして俺は約束を裏切った」

ディルがカランッと音を立てて剣を落とす。そしてイリスの近くに歩み寄った。

柔らかな頬を親指でなぞり、違う指が光沢を帯びたような金の髪に絡みついた。そのまま長い髪に沿って手を滑らせると、つかんだ一束に唇を向ける。


まるでいとおしむような触れ方。イリスは胸が熱くなり、涙腺が緩みそうになった。



「恨んでもいいから、俺を憎んでもいいから。貴方は貴方で心から愛した人と……誰よりも、幸せになって」


幸せ、に。 


「……違う」

イリスは下を向いて小さく首を振った。


「私は、幸せになんてなれない。ディルじゃなきゃ、何の意味もない……!」

我が儘な言い方で呆れられるかもしれない。思い通りにならない恋慕を八つ当たりのようにぶつけているだけかもしれない。

でも、この苦しい想いを分かってほしかった。


グッと胸元をつかんで、乞うように喉を震わせた。ディルの表情は見たくない。きっと困っている。なのに止まらない。堰を切ったように心の澱を吐き出す。


「嫌よ、最後だなんて。ずっと、ずっと貴方しか見ていなかったのに……私をこんな風にさせたのは貴方なのに!私は、ディルが――…」


最後を言うことは出来なかった。

一瞬何が起きたか分からずにいたが、直ぐに塞がれた唇の温かさが全身を貫いた。



キスをされている。荒々しく重ねられ、酸素が上手く吸えない。イリスの中で断ち難き愛染が燃え上がり、成されるがままになってディルの腕に囚われた。

切ない思いに駆られ、夢中でディルの服を握った。もうこの人を離したくないと強く願った。自分が持てるすべての力で縋りつきたいと体が強張る。


「……言うな。頼むからこれ以上。俺を、掻き乱すな」

何分たったか分からない。白くなる頭にディルの声が響いて、胸が満たされていく。

イリスは途切れる事のない深い接吻によって、生理的な涙で視界が歪み、まともに物事を考えられなかった。


ただ意識が甘く沈む前に、どうしても聞きたいことがあった。


「お願い、言って……本当のディルの言葉を聞かせて。私のこと、どう思っているの……?」

今この瞬間が夢ではなく、ディルが私を抱きしめているのなら。そこに一切の感情がないとは思いたくない。

愛でも憎しみでも何でも受け入れる。だから正直な気持ちを教えてほしい。だってもう、今夜しかない。


だからどうか、逃げないで。

イリスは、瞳に想いを込めた。


「今更伝えたところで、この状況が変わるわけでもない。俺たちの時間は、これからも交わることがない」

ディルは歯をくいしばるように言うと、顔を見られないようにイリスを引き寄せた。


「このまま悲しみの届かないところへ、イリスを連れてしまいたい」

それを聞いて、思いが熱く込み上げてきた。

言葉で言い表すことができない感情を、抱きしめることで伝えることができればいいのにとイリスは苦しくなった。


「イリス」

切なげに、掠れるような吐息で、耳元に囁かれる。

息が止まりそうなほど強く、隙間さえ与えないほど近くに。今まで離れていた距離を埋めるかのように、イリスはディルの体温を傍で感じた。



「――…好きだ。

誰よりも、何よりも、イリスの全てが愛しくて仕方ない……」


知りたくて、聞きたくて、欲しくて。

透けて見えそうな薄氷に漂い、それでも触れられなかったディルの思いにようやく触れられた。

不思議なほど静かに、ストンと自分の心へ落ちてくる言の葉を、イリスは大切な宝物のように感じた。


「待っていた……貴方の声が聞けるのを、ずっと、待っていたの」

イリスは想いに応えるように、ディルの首に手を回して縋り付いた。

このまま一つになってしまいたいと、溢れる涙の狭間でイリスは切に思った。



「好きよ……ディル。貴方が、大好き」

好きと言葉にするのがどれだけ勇気のいることなのか、今になって良く分かる。


自分たちには越えられない一線や担うべき大きな存在がある。

それでものしかかる重圧を振り切って、この胸の中で幾度唱えたか分からない想いを、ようやくディルに伝えることができた。


許されないことだとしても。この気持ちが罪になるのだとしても。求めずにはいられない、そんな愛しい人。

愚かだと言われてもいい。今この瞬間に巡り会えるのなら、きっと何度でも過ちを犯す。


「――…たい」

「え…?」

ディルの腕の力が強くなり、小さな声が耳の奥で震える。イリスは心臓を高鳴らせたまま、静かに聞き返した。


「……抱きたい。もう、抑えきれない……限界なんて、とっくに超えてるんだよ」

内側から絞り出すように囁かれ、イリスの身体は熱くなった。

嬉しさに似た喜びと困惑した迷いが混じり合って、ただ顔が紅潮していく。イリスは恥ずかしさに耐えて、精一杯の言葉で返した。


「好きに、して……ディルになら、何をされてもいい…から…お願い。私だけを、見ていて……」

消え入りそうな声は甘く掠れ、羞恥で染まる顔は真っ赤になってディルを見ようとはしない。


「……っ」

ディルもつられて赤くなり喉に出かかった言葉を無理やり沈めると、切羽詰まったようにイリスを抱き上げた。

驚いたイリスは思わずディルの服をぎゅっと掴み、戸惑いながら上目で見つめる。性急な動きでディルは花のアーチを抜け、どこかへ移動していく。

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