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亡国の王子の復讐
しおりを挟む母であるベルティーナが処刑された。そう聞かされ、眉ひとつ動かさなかったウィール。
そんな感情と直結していないかのような表情が一変し、突如、堰が切れたかのように大粒の涙が溢れ出す。
そしてウィールは派手な音を立て弓矢を落とすと、大きな声を上げてわんわんと泣き出した。
まるで、今の行動が己の意志ではないかというように。本当は、こんなことをしたくなかったと張り叫ぶように。
静止していた時間が動き出し、ウィールの切り裂くような甲高い泣き声だけが、闘人場に響いた。
しかしイリスには、そんな音でさえも、聴覚から分断された。
血が止まらないライアンの体を見つめ、頭が真っ白になる。もう何をしても無駄だった。どんな手を使ってライアンの死を避けようとしても、運命には逆らえない。
胸を貫いた矢は、刻一刻とライアンの命を蝕んでいく。認めたくなどないのに、視界いっぱいに広がる赤い血が冷たい現実を突きつける。
ライアンは微弱の息をして、イリスに笑いかけていた。
「ライアン、様……!」
こんなことって。こんなことって、ない。
イリスは成す術もないまま、ただ唇を震わせて、ライアンに触れた。
「分かって、いた……ウィールが、俺を、殺そうと、していたのも……ルドと、テオに迫り……エドームを、潰そうと、していたことも……」
分かっていた。すべて、分かっていた。
ライアンは、ウィールが自分を殺そうとしているのを知っていて、止めることをしなかった。そんな身の破滅を悟っていたなら、事前にいくらでも防げた。こんな状況は、起こり得なかった。
なぜ。なぜ。
なぜ?
イリスは駆け巡る衝動を抑えきれず、夢中でライアンを掻き抱く。
もうそれしか、できることはなくて。目の前で頼りなく揺れる命の灯を、耳元で感じることしか、できなくて。
「貴方は、自分を殺すための手段を、ウィールに教えていたと言うの……っ?」
あんなに必死に食らい付いてウィールが弓の鍛錬に励んでいたのは、憎きライアンの命を狙うため。
いつかこの手で、奪い取ってみせると。いつか自分が受けた相応の痛みを、いやそれを上回る苦しみを、ライアンにぶつけてやる、と。
あの幼さを押し殺す鬼の形相は、狂気さえ孕んでいた。
ライアンは何もかも、全部知っていて、ウィールに弓を叩きこんだ。その意味を考えたら胸が一杯になって、とてもじゃないが、息ができなくなる。
「――イリスの、本当の幸せを……考えたら……隣にいるべきなのは……俺じゃない」
ライアンの目が、ディルへと向かう。
バチリと絡み合った視線に、ライアンが何を思い、何を感じ、何をしようとしているのか、ディルには、はっきりと鮮明に、伝わった。
かたく通じ合ったものを感じたのか、つぎにライアンは、泣き崩れるウィールを見つめる。
「ウィールを、恨むな……あいつは、何も、悪くはない。ウィールを、復讐の悪鬼に変えたのは……紛れもなく、俺だ……」
俺が、すべての原因だと。ライアンはそう、強く言った。
イリスの目から涙が、頬を伝っていった。
「もう嫌、嫌です!どうして貴方は、そんなにも、優しいの……!私がいなければ、貴方はこんな思いをすることもなかった……貴方が、こんなところで、終わりを迎えることもなかった……もっと別の、今があったはずなのに…私が、ライアン様の幸せを、殺した…!」
ああ、と切なくなる。
両手でこぼれないように懸命に掬っても、指の間から滑り落ちていくライアンの生命。どうすることもできないのだと心では理解していたのに、簡単には諦めたくなかった。
彼が身をもって証明してくれた本当の愛が、今は、胸を裂くほどの痛みを伴っていた。
命が燃え尽きようとしているその時まで思ってくれる深く優しい愛に、これほど自分を揺さぶる感情を受けて、イリスはせめてライアンのかき消えていく体温だけでも温めようと、どこまでも残酷な運命に僅かな抵抗を見せた。
もう何もかも、無駄だと分かっていても。止められない。お願い、お願い…逝かないで、とささやくことしかできなかった。
「違う……俺は、幸せだった」
ライアンの手が、いつもと同じ仕草で、イリスの髪に触れた。
「かけがえのない、ものを……手に、した……リースという、唯一無二の、宝を…与えてくれた……俺に、奇跡が、舞い降りた」
痛みに堪えるように、ライアンは微笑む。
「やめて……やめて、ください……私を、リースを……置いて、いくのですか……?」
イリスは震えながら、尋ねた。
「そうじゃ、ない……託して、いくんだ」
ディル、とライアンが初めて名を呟く。呼ばれたディルは、堪えるかのような表情で、ライアンのそばまで行き、膝をついた。
「――生涯を懸けて、守り抜け……自分の、持てるだけの力で……イリスを、幸せにすると、誓え……」
ディルとライアン、二人だけにしか共有できない心を、止め処なく流し込むかのように。
己が抱える、すべての感情を剥き出しにして、お互いが紡ぎ出す一つの決意を、切っても切り離せない糸で、永久に結び付けるかのように。
「命に、代えても」
ディルは薄く涙を浮かべながら、力強く、真剣に頷いた。
ライアンが何の悔いもなく、何の不安も残さず、去っていけるように。確かに想いは引き継いでいくと、確固たる意志を示し、もう一度だけ、頷いた。
「それで、いい……」
そして最期に、ライアンはイリスを見た。
「泣く、な……笑え……これは、俺自身が、望んだ結果、だ」
イリスは首を振って、ライアンの手を強くぎゅっと握る。体が真っ二つに裂けそうだった。もう、これ以上の言葉は必要なかった。
「愛している、イリス……」
今も、これからも。
そして、ぱたりと、ライアンの手が、垂れた。
「あ……っ」
ピクリとも反応しない、ライアンの手。
もう二度と、目を覚ますことはない。もう二度と、優しい声で、名を呼んでくれることはない。
熱の通わないその頬の輪郭を、イリスはゆっくりと指でなぞった。
最期まで、微笑んでくれた。最期まで、愛し抜いてくれた。ライアンが示した心を噛みしめるかのように、イリスはあぁぁと呻くような声で泣いた。
滂沱として流れ落ちる涙を拭ってくれる人は、もうこの世にはいない。
深く大きな風穴があいたような、塞がる事のない空虚感が胸に広がっていく。ライアンを失って初めて、こんなにも大切な存在だったのだと思い知った。
「イリス……」
ディルが、後ろから抱き締める。湧き起こる安堵と、激しい罪悪感が、同時にイリスの身体を満たしていった。
「ライアンの犠牲を、無駄にはしない。今度こそ、イリスを幸せにしてみせる」
イリスは、思った。
自分がディルを、心の底から、望んだから。ライアンは今まで犯した罪を償うかのようにウィールに復讐を果たせ、そしてディルにすべてを任せるかのように、その身を引いた。
――それが、あの人の愛し方。生涯を通した、揺ぎ無い、真実の愛の貫き方。
「イリスと離れていたこの三年間は……サイで過ごしたあの九年間より、ずっと、ずっと長かった…」
ディルの言葉に愛おしさが込み上げ、イリスはディルの腕を強く抱きしめ返した。
「ライアン様じゃ、駄目だったの。どうしても、ディルでなければ、いけなかった。何を犠牲にしても、貴方だけを、欲しいと願ったの……」
ディルの隣を、歩きたかった。
同じ時を、同じ今を、彼と共に、生きたかった。ライアンはその思いを汲み取って、温かい光で包まれた道を与えてくれた。
「ライアンが、託した……イリスを思って。俺には出来ない事を、やり遂げた……」
「ディル……」
二人の視線が、一つに交わった。心がいくつあっても足りないだろう、限りない愛を込めて。
そして、離れていた空白を埋めるかのように、深い深い口付けを落とした。
「――愛してる…」
もう、迷わない。
優しいディルの声が、色を失いかけたイリスの世界を、色鮮やかに染め上げていった。
「――…ウィール、おいで」
ディルに支えられながらひとしきり泣いた後、それでもまだ地に這いつくばって震えているウィールへ、イリスは優しく呼び掛けた。
小さく反応を示したものの、ウィールは顔を上げられずに力なく首を振る。懺悔するかのようにさらに体を丸めていくと、地面に血が滲むほど強く爪を立てた。
「おいで」
再びイリスは、いつもと変わらぬ口調で言った。
その言葉を受けて、一度大きく身を揺らすウィールは、耐えきれずにイリスの胸へ飛び出していった。
「ごめんなさい、ごめんなさい!僕は、憎しみには勝てなかった……!」
ひたすら謝り続けるウィールの頭を撫でながら、イリスは張り裂けそうな思いごと、その体を包み込んだ。
「ウィールは、何も悪くないわ。今まで、ずっとずっと、苦しんできたでしょう……その痛みに寄り添うことが出来なくて、ごめんね……」
「違うんです!僕は、僕は……!ライアン様を……心の底では、恨んでいなかった……!」
ウィールはしゃくりを上げながら、ぎゅっとイリスの服を握る。
「慕って、いたんだっ!あの人のすべてを奪っておきながら……こうすることでしか、僕は自分を保てなかった……!」
許して下さい…と掠れた声で呟き、鼻水をすすりながら、ぼろぼろになった顔をうずめた。
イリスは、ウィール、聞いて……と囁きかけた。
「ライアン様は、きっと全部分かっていた。だから、ウィールが憎しみに染まり切らないように貴方の側にいて、最後には貴方の手で、気付かせた。もう二度と、こんな悲しい思いを繰り返さなくていいように……今度はウィールの手で、誰かを守っていけるように……」
泣かないで、とイリスは微笑みかける。
「大切なことを、ライアン様は託していったの。ウィールのその力は、破壊に使うのではなく、優しさで大事な人を守っていくため。そしてこれから先の未来を、貴方自身の手で、作り上げていくために。ライアン様はそう、ウィールに願ったのよ」
語りかけるイリスの言葉に、ウィールは我慢できず、声を上げて泣いた。
こうして、エドーム全土を巻き込んだ大規模な内乱は、多数の犠牲者を払って終わりを迎える。
双方ともに甚大な被害をもたらす結果となり、ルドとテオの悲願だった奴隷身分撤廃は、ようやく実現されようとしていた。
レインによってリースの無事も確認され、イリスは安堵して体の安定を失う。
初めてディルがリースと対面し、その腕に抱き上げた時、イリスは感慨深いものが一気に込み上げ、声を震わせてゆっくりと微笑みかけた。
闘人場に横たわるライアンとルドの遺体は、イリスの願いによって、丁重に葬られた。
人気のない宵闇の中、何も語らないライアンのそばで、寄り添う一つの影があった。細身の輪郭が陽炎のように揺れ、涙を湛えたその瞳には、深い愛しさが込められている。それは、アルトリアだった。
「――…本当に、不器用な人ですね。最期に、こんな形で愛を貫くなんて…」
棺の中の青白い頬に手をやり、アルトリアは顔を近付ける。
「それだけ、貴方の思いは深かった……私がどれだけ思っても、ライアン様には届かなかった…分かっていて、私はそばにいた」
もう開くことはない、降り注ぐ太陽の煌きのような光で溢れていた目をじっと見つめ、アルトリアは片手に短剣を持ち出した。
「貴方を、独りにはさせない。永遠の眠りについたのなら、私もその後を追っていく……無限の暗闇でも、果てのない先でも、どこまででも、一緒に逝きます」
そうして鼓動を重ねる心臓に、短剣を突きつける。躊躇いはなかった。瞼を閉じて、心から好いたライアンの面影を探す。やはり彼は、笑っていた。
「許しませんよ」
突然、アルトリアの手を遮るものがあった。ハッとなって目を開ければ、真剣な表情で力を込める、ルークがそこにいた。
「冗談じゃない。大切な貴方を、みすみす死なせるわけにはいかない」
「離してっ!私の、邪魔をしないで…!」
アルトリアは暴れ出すと、短剣がかすり、ルークの腕を傷つけた。それでも離さない強い力に、アルトリアは涙目で睨みつける。
「『アルトリアがもし、俺の後を追おうとしたのなら。ルーク、そのときは全力で止めろ』」
ルークが奥歯を噛みしめて、そう呟いた。アルトリアはぴくっと動きを止めて、大きく目を開いたまま、ポタポタと透明の雫を散らす。
「ライアン様はこうなることを見越して、貴方の未来を託していきました。応えることが出来ない代わりに、俺が貴方を支えられるように……生きる意味に、なれるように」
「……ッ」
アルトリアは、声を詰まらせて下を向く。
「俺を好きになれとは言いません。でも、死のうとはしないでください。貴方を失って、誰も悲しまないなんて、どうか思わないでください」
か細く震えるアルトリアを、ルークがぐっと引き寄せた。
「ライアン様の、願いです。貴方が、幸せになれるように……俺が、貴方を守り抜いていけるように。俺は絶対、アルトリアを離さない」
だから、どうか。
ぴたりとくっつくルークの腕の中で、アルトリアは背中に手を寄せて、子供のように泣き崩れた。
「ライアン様から、です」
翌日イリスは、レインから一つの手紙を渡される。
レインは泣き腫らしたであろう目に深い皺ができ、悲痛な表情を浮かべていた。ライアンの選択を知っていたとしても、最愛の主君を失った苦しみは計り知れない。
加えて兄のルドもこの世を去り、今のレインからは沈んだように生気が感じられなかった。それでも、瞳はかすかな光を保っていた。一つの強い覚悟を、宿していた。
イリスはこくりと頷き、かすかに震えながら、しっかりとその手紙を受け取った。
「ライアン様からの最後の命令は……イリス様のそばで、リース様を命を懸けてお守りすること。
私は、何度も何度もライアン様を止めました。時には体を張って訴えかけました。しかし頑として聞き入れて下さらなかった。貴方のためだと言って、あの人はこの決断をしました」
やり切れないように、レインはぐっと拳を握る。
「私は、貴方が嫌いです。いつも大事なものを奪ってしまう貴方が……大嫌いだ。それでも、あの人が守れとおっしゃるのなら……この人生を捧げる覚悟で、イリス様とリース様に忠誠を誓います」
涙を堪えるレインは、イリスへ敬意を表すかのように、頭を垂れた。
「この手紙に、全てを書いたと……今まで黙っていた心の内を、余すことなくこの手紙に記したと、おっしゃっていました」
最後まで読んでくださいとレインは言うと、静かに部屋を後にしていった。
残されたイリスは、一人、真っ白な手紙を見つめる。
そこに綴られる言葉を、どんな風に受け止めればいいのか、見る前から迷いが起きそうだった。胸を締め付けるだろう、あの人の愛を、もうここに温もりはないのだと、向き合うことが怖かった。
彼は、どんな思いを抱えて、これを書いたのだろう。そう考えたら、苦しくて押し潰されそうだった。
大切なものを包み込むかのように、イリスは封を開ける。
泣くなと声が聞こえそうで、既に涙腺は熱くなっていた。それでも逸らすことは出来ず、ライアンの文字を、少しずつ目で追っていった。
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これをお前が読むとき、俺はこの世にいないのだろうな。
それでもいい。この文が、お前に向ける最後の言葉になる。何を書き示していけばいいのか頭では整理がつかないが、俺が隠してきた全てをここに記してある。最後まで、読んでほしい。
ウィールを、恨むな。
あいつは復讐のために、俺を殺しただけだ。国を奪われ、自尊心を破壊され、愛する者を失った。わずか五歳で、自分の世界が崩れた。
自我が保っていられないほどの憎悪に包まれ、隙あらば俺を八つ裂きにしたいと闘志を燃やしていただろう。
何よりも、心から慕っていたイリスが傷心していくのを見て、自責の念に駆られた。そうして、ある思いに至った。俺を追いつめるため、息の根を止めるため、必死に頭を巡らせ、一つの方向性を導き出した。
それは、ファンシー家の長男であったルド、そして従者だったテオに迫り、エドームでレジスタンスを結成するように説得すること。
エドームの内部で反勢力をつくり、根本から壊していくつもりだったんだろう。
ウィールは俺を殺す機会を作り、苦しむイリスを救いたいと、ただ純粋に思っていた。
もちろん俺は、ウィールの動きに気付いていた。餓鬼だと思っていたウィールがどこまでやれるのかと傍観していた。
ウィールは、正義の意味を語り、夢を示し、何度もしつこく通って、ようやくルド達を突き動かした。
ファンシー家の設立者、バロンの精神論を知っていたんだろう。『弱者を救い、自由と解放を求めろ』と。
確立性の低い策であるにも関わらず、なぜルド達は従ったのか。それは、ウィールの信念に触発されたからだ。
奥底に秘めていた闘志を引きずり出し、お前たちなら出来ると訴えかけ、明るい希望を見出す。ウィールは、その頃から王としての才覚を持ち合わせていた。だから、ルド達は計画を支持した。
そしてルドは、俺とイリスの監視役として内部から情報を探り、テオはエドームの下層から仲間の呼び込みを始める。
何年かかるか分からない無謀な試みでも、追い風となったのがエドームの混乱だった。疫病が流行り、不満が高まった奴隷たちや民はテオを指導者として抵抗運動を行うようになり、自由を訴えかけた。やがてその勢いは、国をも巻き込んでいった。
となれば、俺が駆り出されるのも時間の問題。
もし追い込まれることになれば、ルドは必ず行動に出る。最終手段として残しておいた、イリスやリースを盾に、奴隷身分撤廃を要求するだろう。それだけは、避けたかった。
しかし、確信していたことがある。ルドは、お前に惹かれていた。だから、命まで取ることは絶対にないと分かっていた。
――そのときからか、いや……ずっと前から俺は、イリスの幸せを考えるようになった。
リースを産み、俺の側で生きていく。果たしてそれが、イリスの本当の幸せなのか。
そんなはずはない。お前が望んだのはただ一人。俺じゃない。十分すぎるほど分かっていた。歯がゆくもあった。
心から笑う事ができないイリスは、いつも苦しそうに俺を見ていたな。
これを書いている今でも、覚えていることがある。
二年前の真夜中、眠る俺の横で、イリスは涙を流して何度もごめんなさいごめんなさいと、罪悪感に苛まれるように、自分を責めるように、掠れた声で口にしていた。
俺は、イリスに無理をさせていることが、堪らなかった。
どうしても欲しいと思ったイリスを、ただ傷つけることだけしかできないのかと悔しくなった。俺が幸せを与えてやることは未来永劫、出来はしないのかと――。
初めはイリスをものにできれば何でもいいと思っていたはずなのに、このとき既にどうでもよくなっていた。
何が出来ると思い悩んだ末、あることが浮かんだ。苦悶せずとも、答えなど簡単に出ていた。
イリスの願いは一つ。それは、ディル・カモーアと生きること。すぐ隣で同じ感情を共有し、真っ直ぐに歩いていくこと。
強く惹かれあったお前たちは、いつでも互いを思っていた。そこに俺が干渉することなどできなかった。俺でなくても、誰にもできなかった。
俺は、二人を引き裂くことでイリスを留めようとしたが、無意味だった。
離れれば離れるだけ、イリスの思いは強くなっていく。俺に気持ちが傾くことはなくなっていく。どんなに時が経とうとも、イリスが俺を愛することはない。自覚するのも嫌だったが、現実は変わらなかった。
そして、思い返した。カモーアがサイを離れていくあの日の夜、なぜ俺がイリスを解放したのか。この時、はっきりと、分かった。
俺は、イリスの笑顔が見たかっただけだ。
例えそれが俺との道でなくとも構わない。イリスの一番の幸福がディルであるのなら、何も迷う必要はない。
イリスを手に入れるため、俺がもたらした全ての罪の報いを受けるためにも、俺が身を差し出せばいい。
血で塗り固められた人生に、陽だまりのような、温かい光を示してくれたイリスに、俺が最期にできるのはこれくらいしかないと思った。
俺が、不器用だと思うか。もっと他に手段があったと嘆くか。イリスが震えながらこれを読む姿が目に浮かぶ。だが、分かって欲しい。これが俺の出した答えだ。後悔なんてない。
それでも、一つだけ、心残りがあるとするのなら。リースの成長を、すぐ側で見れないことだけだ。
正直、俺の子ではないと思っていた。イリスの想いの強さなら、ディルの子を産んでもおかしくないと思った。
しかし天は、夢を見させてくれたらしい。金髪の、俺の目を受け継いだ赤子を用意してくれた。あの瞬間に出逢った時、これ以上の喜びはなかった。満たされるほど、幸せだと思った。初めてイリス以外に、愛しさというものを感じた。
ここまできて未練など持ちたくはなかったが、リースの微笑みを思い出すと、躊躇いが起きそうになる。
身勝手な父親を許してほしいとは思わない。いつかリースは、俺のしたことを憎く思う日がくるかもしれない。
そのときは、イリス。そっと、リースにささやきかけてほしい。
これが、あの人の愛だった、と。
それから、優しく抱きしめてやってほしい。
決して、リースを愛していないわけではなかった、と。
イリスとディル、二人に、リースを託していくことに不安は感じていない。お前たちなら、リースを立派に育て上げてくれるはずだ。
その深い愛情で、俺が幼い時見たイリスのように、リースは健やかに成長していくのだろう。大人になれば、心から好いた相手と結ばれる。そして、俺が感じたような愛しさを経験する。そう、願わずにはいられない。
最後になった。何をどう、伝えていけばいいのか。
イリス。お前は、俺を憎く思っているだろう。父親を惨殺され、居場所を奪われ、純潔を失い、何より心から望んだディルから遠ざけられた。
狭い鳥籠の中を生きるように、自由を束縛し、俺はイリスの生きる道を断たせた。悪かったと言っても俺の罪が消えることはない。
深く、深く傷つけた。その痛みが癒えることはない。何をしても、償われるものではない。
それ、でも――…俺という存在が、イリスの心に生き続けることを望んでしまう。そこに残るのは一握りの愛だけでいい。
ただ、忘れないでいてほしい。俺が、イリスを愛したことを。心から、愛したことを。
幸せに、なれ。周りを幸せにできるほど、笑顔が満ち溢れるほど、幸せになれ。
俺のことは気にしなくていい。ディルと同じ時間を生き、さらには新しい命を宿し、そして自分の命を全うするそのときまで、愛し愛され、愛し抜け。
命が尽きるとき、もしイリスが人生を振り返ったのなら、心から幸せだったと思えるように、生きてくれ。それが俺の願いだ。
最後に、本当に最後に、言わせてほしい。
愛している。この世の何よりも、イリスを愛している。俺に、幸せを見せてくれた。感謝しかない。もしまた命が巡るのなら、今度こそイリスと結ばれたい。
それほどに、好きだった。その気持ちだけは、分かっていてほしい。心の隅にでも置いてほしい。俺が伝えたいこと。イリスへの、ありがとうという言葉だけ。
イリスと過ごした三年間、本当に幸せだった。
ありがとう。
体を支える力が、なくなった。
その場でバタッと崩れ落ち、滲む視界の中で、もう一度だけライアンの文字を読み上げる。
最初は流れるように。二度目はゆっくりと、愛しい思いで溢れた一つ一つの言葉を大切に拾っていった。
「ライアン、様……」
その名を呟くことすら、罪だと思った。
私はそんな綺麗な存在じゃない。ライアンのような、温かい光を宿した人間ではない。
初めて出会った時に遡り、すべてをやり直したい。あんなに優しい人が苦しまなくていいように、私の存在そのものをこの世から消し去ってしまいたい。
脳裏に焼き付いたライアンを思い返し、心が悲鳴を上げるように打ち震えた。
あの人に、応えることすらできなかった。せめて、嘘でもいいから、一度だけでも愛の睦言をささやき、強く抱き締めれば良かった。
ここに至るまで、ライアンには、一体どんな葛藤があったのか。考えただけで目頭が熱くなり、後悔が深く根を張って生い茂り、虚しく手に力が入った。
彼の祈りが、今ここに立たせてくれている。それだけで、全身から悲しみが込み上げる。もし命が巡るのなら、どうかライアンに幸せをと、切に願った。
あの人が示してくれた答えを、決して、無駄にはしない。
イリスは体の水分が枯れるまで滴り落ちた涙を拭うと、静かに立ちあがった。
「……貴方に出会えて、本当に良かった」
心から、そう思う。幸せが何たるかを、身をもって教えてくれた。この温かさを、生涯忘れないと強く誓った。永久に生き続けるライアンを、しっかり胸に仕舞って前を歩いていく。
それが、あの人の願いだから。イリスは真っ白な手紙を胸に当て、噛みしめるように目を閉じた。そして、机上へ、大切に置いた。
そのときだった。キィと扉が開き、ディルが柔らかな表情で入ってくる。
「イリス」
名を呼ぶ、そんなディルが、愛しくて仕方がない。
「……ディル」
イリスは手を広げて迎える彼の腕の中へ、真っ直ぐに駆け出していく。
もう、躊躇う必要はない。恋い慕い、そばにいたいと何よりも望んだディルの胸。包み込まれる温度に、これ以上の幸せはないと思った。
「やっと、俺のものになった」
積年の思いを籠めるかのように、熱い余韻を持ったディルの声が、耳元で響く。
イリスは頷き、染み渡るような愛情を感じながら、伸びかけたディルの銀髪に触れる。大きくなった背中に手を回し、甘く疼く体を捧げた。
「もう……ディルしか、見れない……」
イリスは奥から膨れ上がる熱情を隠し切れず、縋るようにディルを見つめた。
内に沸き返る、底の知らない欲を、抑えることなどもう出来ない。ただ、欲しい。ディルだけがすべて。もう他には、何も、いらない。
今まで遮られてきた厚い壁が取り払われ、一筋の淡い光が差し込んでくるかのように。
歪な鎖で繋がれた理性など、簡単に吹き飛んだディルが、ついに我慢の限界を超え、イリスの体をきつく掻き抱いた。
――白銀の坩堝の中を、二人で彷徨いながら。そこに宿る、確かな愛を、感じ取って。絡まった運命を、一つに結び付けるように。
イリスの瞳から、涙が、こぼれていった。
カモーアに、朝日が昇った。
降り注ぐ眩しい光が家々を照らし、快晴を告げる鐘がカーンカーンと街を響かせる。眠そうな目をこすり、早朝から動き出す年端もいかない子供の姿も見られた。
復興に全力を注いでいたディルの力もあり、カモーアはめざましい発展を遂げる。
戦いで倒壊していた建物の復旧、そしてサイの支配下にあった政治も一からつくり直し、ディル・カモーアが王として名を轟かせていく。
小春のような温かい日差しが差し込むカモーアの王城の一室で、長い髪先にウェーブを巻いたミレイアが、幼い子どもを抱き上げていた。
愛おしそうに笑いかけると、無邪気な笑い声がもれる。ミレイアが短い銀髪をふわりと撫でれば、くすぐったそうに肩を上げた。
「ミレイア様」
後ろからディッシュが声をかけ、穏やかな顔で、そばにやって来る。
「日を重ねるごとに、貴方に似ていきますね」
「そうかしら。父親であるディッシュの方が、ずっと面影があるわ」
そう言うと、ミレイアはふっと力が抜けたように息を落とす。伏せられた目には、寂しげな感情が浮かんでいた。
「――お兄様との未来は、もう、なくなってしまったけれど。この子がいれば、もう何もいらない、なんて……あれだけ固執していたのが、嘘みたいね。今が、本当に幸せよ」
「……後悔、していますか?」
ディッシュは一抹の不安をよぎらせ、ミレイアにたずねる。
「何を言っているの。貴方がいてくれたから、私は救われた。我が儘で自分勝手な私を、ディッシュだけが受け止めてくれた。感謝してるわ」
不思議そうに見上げる息子を自分の胸から下ろし、ミレイアはディッシュに肩を預けた。
「私は、愛されたかっただけなのかもしれない。お兄様だけがすべてだったのは、それしか縋るものがなかったから。でも、今は違うわ。私には貴方がいる」
傷つけてごめんなさいと、ミレイアは瞳を閉じて、ディッシュに謝る。
「結果的には、ディッシュを縛ってしまった。貴方には、貴方の人生があったのに、私が強引に引きずり込んでしまった。王家のしきたりに関してカモーア内部で大きく揉めたとき、たくさん迷惑をかけたわね……」
その言葉に、ディッシュは首を振って、優しくミレイアを引き寄せた。
「違いますよ。迷惑と思ったことは一度もありません。俺が、ミレイア様の力になりたいと思ったから行動しただけです。そしていつしか貴方の一番でありたいと、願うようになりました。今こうしていると、あのときの俺の判断は間違っていなかったと強く思います。こんなに大切な存在に、巡り会うことが出来たのですから」
ちちうえ、と甘えん坊に手を伸ばす愛しい存在を見て、ディッシュは笑顔で応じる。
心に染みる温かいものが喉元まで迫り、涙を堪えるミレイアは、窓の外を見つめた。
「……お兄様とイリス様。あの二人の絆を壊すことなんて、誰にも出来なかった。本当に、強い気持ちで結ばれていたから。私は何度も何度もイリス様を苦しめたのに、あの人は微笑んで許してくれた」
何も、気にしないで。ミレイア様に、本当の幸せが、やってきますように。
そう、言ってくれた。
過去の痛みも、記憶の憎しみも、心の愚かさも。
暗く、どこまでも淀んだ色を放っていた種。それが今では、眩いほどの光を宿した、美しい花が芽吹いた。
「誰よりも、幸せになってほしいわ」
ミレイアは静かに、呟いた。
さわやかな風が、通り過ぎていった。
その先に一人の少女が楽しそうな声を上げ、草をきりながら軽やかに走っていく。ぜいぜいと息を弾ませて後を追いかけるのは、顎鬚を揺らすラグレムだった。
「お待ちください、リース様!」
「待てって言われて待つ人がどこいるのー?はやくはやく!ホラ、豚男ーっ!」
あの小さな体には無限の体力があるのか。加えて口の悪さと言ったら、父親にそっくりだった。
後ろ姿から見える、射光に煌めく金の髪は飛び跳ねるように宙を踊り、どんどん距離が開いていくのが分かる。ラグレムは天を仰ぐと、しばし放心した。
「おい見ろよ、ルド、テオ。あの歳で、俺のこと豚扱いだぜ……?確信出来る。将来は、絶対大物になる。俺好みの、巨乳金髪美女にな。まあ、こんなこと言ったらディル様に切り刻まれるから口が裂けても言えねぇ」
今じゃ歩く破壊魔に成長したよ、と目を細めながら呟く。
そういうリースはきゃははと笑いながら、自然の空気を胸いっぱいに吸う。
視線を前に向ければ、綺麗な花畑が広がっていた。木漏れ日が差し込む葉の影には、二匹の蝶がひらひらと遊ぶように上下に舞う。どこかで、金色の小鳥が気持ちよさそうに鳴いていた。
吹き抜ける風に草が波打ち、リースの背中をかすった。ふと何かを感じ、リースは足を止める。そして瞬時に満面の笑顔になると、ブンブンと大きく手を振った。
「お母さま!お父さま!」
呼ばれた二人はリースに気付くと、綻ぶような笑みを見せ、揃って手を振り返す。それは、イリスとディルだった。寄り添う二人は墓前に立ち、色鮮やかな花を添えていた。
墓には、ライアン・エドームと名が記されている。
「リース。またお城を抜け出したの?」
「だって、お外の空気を吸いたかったんだもの。それにお城ばかりだと退屈だわ」
大好きなイリスに駆け寄り、リースは嬉しそうにぎゅっと抱きついた。やっとの思いで辿り着いたラグレムを見ると、悪気もなく、御苦労さまーとにっこり笑いかける。
この小娘ェ……とラグレムは額の汗を拭った。一部始終を見ていたディルは苦笑して、リースの頭に片手を置いた。
「幼い時のイリスにそっくりだな。いつも侍女の制止を振り切って木登りをしていた」
「そ、そんな昔のこと覚えていないわ。ディルだって、なんだかんだ一緒について来てくれたじゃない。ちゃんと私のこと見ていてくれたわよね」
「ああ、放っておけなかった」
もちろん今も、とイリスを自分の元に引き寄せ、ディルは小さな口付けを落とした。林檎のように赤くなるイリスは、リースが見てると言って、恥ずかしそうにディルから離れる。
すると、ディルの腕の中にいた銀髪の小さな赤子が、もぞもぞと動き出した。
「ほら、苦しそうにしているわ」
「ふふ。お父さまの中で、安心して眠っているのね」
そしてリースは、ゆっくりと、目の前の墓に視線を変えた。
「――…本当の、お父さま」
リースは悲しそうに目を伏せて、墓の前に座る。
「お母さまが、いつもお話して下さるわ。私のこと、いっぱいいっぱい愛してくれたって。本当は、今ここで、お会いしたかったけれど……どうしてかしら。ちっともね、淋しくないの。ほんの少ししか覚えていないけれど、顔だけはぼんやりと見えるわ。それにね、空耳かもしれないけれど……時々風に運ばれて、『リース』って、優しくささやきかけてくれるような気がするの」
ねぇ、お父さま。
リースは、静かに、語りかける。
「私、とってもとっても、幸せよ。私を愛してくれて、ありがとう」
そう言って、淡く微笑んだ。
亡国の王子の復讐
END
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