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出会い、私から

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    『もうすぐこの街にも、桜の咲く季節が訪れるのかな』

    そう思いながら、頼まれた買出しの荷物を抱えて街路を急いでいた。
    
    その時、ジーンズのポケットに押し込んだ携帯電話が着信を知らせた。

    荷物を片手に持ち替えて携帯電話を取り出してみると祖母からだった。
   
     『婆ちゃん、何?どした?』
    
    『まーちゃん、夕御飯の仕度ありがとなぁ。今日は帰り遅いのけ?』
    
    『うん、遅くなるよ。先に食べててね。終わったらまた電話するから』
    
    気を付けてな、祖母はそう言って電話を切った。
   
      私は腕時計を見て、少し急がないといけないことに気が付いて足早に地下鉄のホームへ降りる。

    ちょうどタイミングよくホームに入って来た登り電車に駆け込むように乗った。乗り込んでから見渡すと、幾つか空席があった。大きな紙袋二つを抱えていた私は、近くの空席に腰を落ち着けた。
    
     何とか店が開く時間に間に合いそうなことに安心して「ふうっ」と小さく溜息をつく。
    
    気持ちが落ち着いたところで、車内の吊り広告などを眺め始めた。その時、ふと気が付いた。

    『あれ?あの人……。前に何度も見掛けた……。あの人だ……』

    斜め左に立っているその人に目がいった。

    その人は、ちょっと笑ってしまうくらいだらしなく吊り革に掴まっている。
    
    でも、本当に笑ってしまうことは出来なかった。それは私にも覚えのあることと、彼のある特徴が重なったから。

    『多分、彼の左腕……幅広の腕時計のベルトと目立たないリストバンドの下にはきっと……』

    私は思わず右手で、荷物を抱えた左腕の手首を握り締めた。    
    
    そんなに意識しているつもりはなかったけど、意外と長い間見詰めてしまったらしい。
    
    何処かに視線を向けていた彼が、不意にこちらを向いた。

    私はめっちゃ慌てて下を向いた。

    暫く彼の視線を感じている間、私の心臓は今までないくらい早く鳴り続けた。
    
    『早く他の方を向いて』そう思っていたら、電車が次の駅に着きドアが開いた。
   
     それと同時に私の右側からドタバタとせわしい音が聞こえてくる。

    薄目を開けてみると、彼が網棚に置いた荷物を慌てて掴み、ドアに挟まれそうになりながら降りていくのが見えた。
    
    『大丈夫かな?』私は気になりながらも、見詰めていたのがばれなかったことにホッとした。

   彼の立っていた辺りの網棚を見ると、何かが載っているのが見える。

席を立ち網棚に手を伸ばすと、それは一冊の手帳だった。
    
    何気なくパラパラとページを捲る。気に掛かる言葉が幾つか目に飛び込んでくる。そして、裏表紙の内側に書かれた署名に目が止まった。

    「 R.YOSHIHASHI……」私は、そう書かれた文字を指でなぞりながら口にしていた。
   
     そうやって手帳を見ていたら、私まで降りる予定の駅を危うく乗り越しそうになった。先刻さっきの彼のように、私は慌ててホームへ降りた。

    何とか乗り越すことなく店の最寄駅で降りて地下の改札から地上に出ると、辺りは既に暮れ始めていた。
    
    店に着いてオーナーに頼まれた買出しの品物を渡すと、直ぐに開店の準備をしてメイクを整えてから衣装に着替えて開店を待った。

    その日は嬉しいことにお客さんも多く、店は盛況だった。
    
    忙しい中で私にはちょっと気になることがあった。それは、あの手帳をどうしようか、ということ。

    手帳には名前しか書かれていないから駅か交番に届けるしかない。

    彼の元に返すだけならいいけど、彼の左腕にあれがあるとしたら……。

    私は彼に会ってみたいな、と思っている自分に気付く……。言葉では言い表せない、着地点を見つけられない、何かに動かされてるみたいだ……。
    
    考えた挙げ句、私は仕事終わりに駅の遺失物窓口にあの手帳を届けることにした。

    あの手帳に彼宛のメモを挟んで。

    彼から連絡があるかどうかは分からないけど、私には根拠のない自信があった。
    
    『彼は必ず連絡をしてくれる』と。
    
    私の確信が証明されたのは、予想外に早く次の日の夜だった。
   
    携帯電話に見知らぬ番号からの着信があったから。

    掛けてきた相手は、声もそこから伝わる印象も控え目な感じで、年齢は私とそう違わないように思われた。

    話した感じからは、あの時だらしなく吊り革に掴まったり、慌てて電車を降りた人とは思えないくらい落ち着いていた。

    きっとあの時は、よほど疲れて、そして慌てていたのだろう。

    私はその光景を思い出すと、あの人が可愛らしく、また可笑しくなって電話の後、一人でクスクス笑ってしまった。

    会う約束については、断られるかと心配したが、それは無用の心配だった。
 
    引きこもりまででなくても、人嫌いとか、もしくは人との交友に後向きだったら断られただろう。
    
    そもそもこんな方法で接触して来たら、怪しんで近寄られなくても不思議じゃない。

    でも、彼は違った。

    喜んで、という訳ではないけど会ってくれるそうだ。二日後に会う約束をして電話を切った後は、少しドキドキしてその夜は寝付けなかった。
    
    約束をしてから会うまでの二日間は、結構忙しかった。

    朝から自分と祖父母、三人分の昼食、夕食の準備。祖父母の仕事の手伝いを終えたら、夕方から店に出て、と一日中動き回る毎日
    
    そんな日を送って、その日を迎えた。

    通っている病院の定期検診に少し時間が掛かってしまい、約束した午後六時に間に合うか微妙なところだった。

    駅ビル内の待ち合わせのカフェへと急いだ。
    
    店の前まで辿り着き、腕時計で時間を確認する。

    『なんとか間に合ったみたい』

    入り口のドアの前に立つ。

    ひょっとしてもう来てるかも、と思いながら多少の緊張を伴ってドアを開けた。

    店内に入って入り口付近に立ち止まり、中を見渡す。

    外の通路に面した席の人と視線が合った。
   
     あの時は、下を向いて目を合わせなかったが、今は違う。

    しっかりと顔を見て、あの時だらしなく吊り革に掴まっていた人に違いないと確認する。

     声を掛けてきたウエイトレスの女の子に答えながら、吉橋さんの席まで行って挨拶を交わして席に着いた。

     席に着いて最初に気が付いたのは、吉橋さんが私の顔を見て『おや?』という表情を見せたことだった。
    
     多分、私の左頬のあれを見てるのだろう。

    多分上手く隠せているとは思うけど。まあ、ハートマークのフェイスペインティングと思ってくれてたらいいかな……。

     初めてまじまじと吉橋さんを見た印象は、真面目とも大人しいともちょっと違う感じだった。落ち着いてはいるけど、今一つ感情が読み取れないな、と思っていた。
    
    そんな吉橋さんを見ていたら、ふと地下鉄を降りる時の慌てふためいた姿を思い出して、吹き出してしまった。

     『まずい、まずい、まずいっ』
    
    こんなことしたら変な奴って思われるし、二度と会ってくれなくなると思って慌てて誤魔化した。
    
    幸いにも彼は気に止めていないみたい。

    吉橋さんの寛容さにちょっぴり感謝。

    でも、寛容過ぎて詐欺とかキャッチセールスに捕まりそう。私がそういう人だっらどうするんだろう?まだ吉橋さんの全てを知っている訳じゃないけど、話して直ぐ私は彼に 対して興味が湧いてきた。

    変な奴と思われていないらしいことに安心した時、横にウエイトレスさんが立っていることに気付いた。慌てて、メニューを開いてちょっと思案……。

    えっと何飲もう……。あ、私にぴったりなドリンクがあった。『ミックスベジタブルジュース』これだっ、これにしよう。

    ところで何処の野菜使ってるんだろう?家でも野菜はあれこれ作っている。もちろん、じっちゃん、ばっちゃんと三人で。もう一つ言うとお米も作っている。まあ、それだけじゃ生活は楽ではないから夕方からお店に出てるけど。作り手としては、作った苦労も分かるから、有り難くじっくり味わおう。因みに、吉橋さんは……コーヒーみたい。うーん、私はちょっと苦手かな……。

    あっと、私はここにミックスベジタブルジュースを飲みに来た訳じゃないんだった。

    えっと、何か訊くことがあったはず、何だっけ……。そうだ、吉橋さんの名前だった。手帳には、ローマ字で『R.YOSHIHASHI』と書いてあったから、私は名字しか知らない。何て言うのだろう?R……R……Rか……。気になった私は、思い付く名前を次々上げて行くが当たらない。幾つか上げて、段々答えに近づいてきたみたい。

    そして、やっと答えに辿り着いた。
    
    『リュウノスケ』……。芥川龍之介と同じ『龍之介』だって。

    意外に男らしい、と言うか芯の強そうな名前で、そんな人が慌てふためいて電車を降りるのをまた思い出して、吹き出してしまった。

    二度も人を見て吹き出したら、それこそ失礼な奴と思われちゃう。話題を逸らそうと、自分の名前に話しを切り替えた。

    自分の名前を変だ、何て言っちゃったけど実は『真坂』という名前は気に入っている。子供の頃は、名前を付けた理由が別のところにあるんじゃないかって思ってたけど……。吉橋さんも気遣って、フォローしてくれている。何か、めっちゃいい人じゃない?思わず口許が弛んで笑みが洩れる。先刻さっき、吹き出したのとは違うよ。吉橋さんの優しさが嬉しかったから。
    
    私が嬉しさを噛み締めてたら、唐突に呼び出した理由を訊かれた。『お礼の要求』だって揶揄からかったら、本気にしてるよ。真面目かっ、て思ってツボに入って笑っちゃったよ。

    確かに吉橋さんに『お礼の要求』をする気はないけど、一緒にしてみたいことは沢山ありそう。

    出来たら……出来たらだけど、吉橋さんの心の中に……多分あるはずの傷を癒せたら。

    それが何なのか私は知らない。知らないけど、そんなことが出来たらいいのに……。そうしたら、私もあの時、出来なかった自分、尽くせなかった自分を取り戻せる……かもしれない。

    吉橋さんの心の傷、その象徴である左手首の自傷行為リストカットの痕……。私は吉橋さんの、そこを見詰めていた。
   
    「……そう……そこ」私はその左手首を指差して呟く。

    吉橋さんの動揺が波になって伝わってくるのが分かる。

    だけど、私は確かめる為に声に出さなければならない。

    「それって……自傷行為あれだよね?」

    その言葉が、吉橋さんを一層の動揺へと導く。でも、大丈夫。私は、絶対に貴方の傷に辿り着き、それを癒す……。

    『大丈夫だよ』そう思って、一つ頷いた。
    
    大丈夫、そう、だって貴方は『特別なたった一人』じゃない。私も同じ。理由わけは違っても、同じように傷を負った者同士なんだよ。

     その証しである、自分の左手首を見せた。

    「貴方と私は同じ……。色んな意味で同じってこと……」私の伝えたいことは届いただろうか。

    吉橋さんはジッと俯いたまま、私にどうしたいの?と問い掛ける。

    『どうしたい』その答えは私の中で、はっきりしている。

   一番シンプルに言うと『もっと、あ、いや、もう少し近い間柄なりたい』ということかな。何故なら、傷を負った私達は互いを補い合わないといけないから。この先に続く、互いの未来の為にもさ。

    私の言葉に耳を傾けていた吉橋さんは、沈黙を続けている。

    「覚悟を決めないと!」
   
    そんな 吉橋さんを見て、私は彼の背中を押す、というより蹴り飛ばす勢いで声を上げた。

    ところが、これは少し急いてしまったかもしれない。吉橋さんは席を立って去ろうとする。私の気持ちは、伝わらなかったのか?それとも吉橋さんを追い込んでしまったのか?何にしても、私はこれでお終いにしたくはなかった。絶対に……。

    だから私は最後の望みを込めて、吉橋さんの手を握り締めた。

    私の体温《ぬくもり》を伝えたくて……。

    そして願いを声に出した。

一緒に行きたいところが、一緒に見たい景色があるから……。


    私は彼の背中を瞳で追いながら、根拠のない確信を抱いた。

    『きっと来る……。きっと。絶対に』




    






    
 

   



    

   

    


   



    

   

    





    

    
   
    
   

     
  

   
     
    

    
    


      



   


    


    


    

    
    
    



    
    
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