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第4話 幸せな夢と不幸せな現
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真綿で首を絞められるような息苦しさに、ハッと目を覚ます。頭の中で反芻する光景。罵倒にも踵を返さず、搾取に耐え忍び、暴力的な正義を前に立ち尽くし、圧倒的な力の蹂躙を堪え、怒声に気圧されて、幾度となく涙を飲み込んで……そうやって、命からがら生きてきた。まるで死んでいるかのように。随分と過酷な運命を課されたものだ。何度、神を恨んだかわからない。自分だってものを考えて生きている。あの暗い世界の外側で光をはらんで生きる者たちを羨んだことはないが、もっとマシな人生にならないものだろうか。ずっと、そう思っていた。
体を起こした彼はふと、暗い室内を見回した。
(……ここは、どこだ……?)
ランプの仄かに明るい光に照らされた部屋は、どこもかしこも綺麗で、なぜかとてつもない不安感が胸中に広がった。寄る辺を失った心がざわつく。自分の家は、本棚に囲まれたもっと乞汚い部屋だったはずだ。
ここがどこだか調べなければ。彼はランプを手に、部屋を抜け出した。素足に触れる絨毯は随分と上質のようだ。壁紙も青色の花とツルが描かれた美しい代物。花台には花がなく、朝になれば新しい花が飾られるのだろう。随分と立派な屋敷だ。
おおよそ自分には不釣り合いな場所だ。なんだってこんなところにいるのだろうか。どうして帰らなければならないのだろうか。あんな乱雑な部屋に。なんのために。あの屑溜まりのような人生に。それになんの意味があると言うのだろうか。
「シアン」
不意に背後から声をかけられ、ヒッと息を呑む。振り向いてランプをかざすと、誰かが立っている。しかし、その誰かは背が高くて顔まで光が届かない。
「だれ……?」
「俺だ」
光の範囲内に入るように、その人は腰を屈める。照らし出されたのは見知った顔。それを認めた途端、頭の中を支配していた靄が腫れていくようだった。
「……スマルト兄様……」
気付かないうちに上がっていた呼吸が、落ち着きを取り戻そうとしている。スマルトはハンカチを取り出すと、シアンの前髪が張り付くひたいの汗を拭った。
「こんな夜中にどうした。しかも素足で」
優しく問いかける声に押し出されるように、次から次へと涙が零れ落ちる。止め処なく溢れる雫が頬を伝い、このまま干乾びてしまうのではないかと思うほどだった。
すべての苦しみから解放されたいと、心からそう願っていた。それでも手の届かない輝きを追い求め、手のひらから零れ落ちたものを拾うことはできず、いつも何かが枯渇していた。どの人生でも等しく、それがいつも通りのことになっていた。だからこそ、怖がる心を抑えられないのだ。
慰めるように触れる手に引き寄せられ、スマルトの肩にしがみつく。スマルトは片腕でシアンを抱え上げ、彼の歩いて来たほうに向かった。そこにあるのは、シアンの寝室だ。
スマルトはランプをチェストに戻し、ベッドに腰を下ろす。シアンは彼にしがみついたまま、ただ泣いていた。
「悪い夢を見たようだな」
果たしてどちらが正しい夢なのだろうか。幸せな夢を見ているような気がする。このまま眠れば、あの薄汚い部屋に戻るのではないだろうか。愛されたいと願ってどれほど経っただろう。だから、こんな夢を見ているのではないだろうか。
優しく頭を撫でる手は温かい。愛されることを知ってしまった。もしまたあの部屋に戻るのなら、こんな気持ちは知りたくなかった。何も知らずにいたかった。
「少し横になれ」
眠りたくない、と首を横に振る。次に目覚めたとき、まだこの世界にいるとは限らない。そう考えると胸中に広がるのは恐怖感で、あの数々の人生がいかに悲惨だったかを思い知る。
それでも、優しく背中を叩く手の温もりに誘われるように、心地の良い夢の世界へと呑まれていった。
* * *
次に目を覚ましたのもシアンの寝室だった。この世界が夢でないと確信を持てたわけではないが、賢者はひとまず安堵の息をつく。まだしばらくはこの世界に居られるらしい。
ふと手元を見ると、スマルトのハンカチを握りしめている。そのまま寝てしまったようだ。
(泣き疲れて眠るなんて、子どもでもあるまいし……。いや、いまは子どもじゃったのう)
現在のシアンの心は、半分が九十八歳の賢者で、もう半分が六歳のシアン・サルビアだ。賢者の過酷な記憶が、シアンを不安にさせてしまったのかもしれない。
(そういえば、スマルトくんの部屋は隣じゃったの。ドアの音を聞きつけたのだとすれば、実に羨ましい聴力じゃ)
九十八ともなれば、聴力はかなり衰える。何度も聞き返して、最終的に耳元で大声を出されて「うるさい」と逆に怒る始末だった。あの元気いっぱいな弟子も変わらず元気でやっているといいのだが。あれから何年が経ったのかは知らないが。
「おはようございます、シアン様」
ノックのあとにドアを開いたマゼンタが穏やかに微笑む。これまで貴族の家に生まれ落ちたことは何度かあるが、マゼンタはその中でもトップクラスの愛嬌だろう。
「おはよう、マゼンタ」
「あら? シアン様……なんだか目元が赤いですね」
マゼンタが心配そうに顔を覗き込む。涙を拭った際に擦った跡がついてしまったのだろう。シアンがそう説明しようとしたとき、マゼンタの視線がシアンの手元に落ちた。
「これは、スマルト様のハンカチ……まさか、夜這い……」
戦慄(わなな)くマゼンタに、シアンは苦笑を禁じ得なかった。
「そんなわけないでしょ。これも洗濯に出してくれる?」
「かしこまりました」
気を取り直したマゼンタの手を借りて身支度を整え、朝食を楽しみにしながら寝室を出ると、見計らっていたかのようなタイミングでアズールが向かって来るところだった。
「シアン、おはよう」
「おはようございます、アズール兄様」
アズールは腰を屈めると、シアンの頭を少々乱暴に撫でる。せっかくマゼンタが綺麗に整えてくれたのに、もう崩れてしまった。とは言え、毛髪に対する美意識はない。九十八ともなれば、そんなこだわりを持っているだけ無駄というものである。
「ん? シアン、目元が赤いな。よく眠れなかったか?」
シアンを愛する者たちは、シアンの変化に目敏いらしい。先ほど鏡で確認したときは、言われれば確かに、という程度に思えた。賢者では気付かなかったことだろう。
「少し夜更かししてしまったんです」
「そうか……。じゃあ、今日は一緒に昼寝をしよう」
「お前は事務所で会議があるだろ」
アズールが蹴飛ばされるので顔を上げると、スマルトが呆れた表情で見下ろしている。アズールは掴みかからんばかりの勢いで立ち上がった。
「スマルト! 兄に対してなんたる仕打ちだ!」
「ちゃんと靴の上面で蹴っただろ」
「そういう問題じゃない! まったく、いつも僕とシアンの邪魔をして……――」
ふと言葉を切ったアズールが、何かに気付いたようにハッとしてスマルトの肩に掴みかかる。
「お前、まさか……シアンに滅多なことはしてないだろうな」
アズールと言いマゼンタと言い、スマルトに対する信用が低いのか常にその疑惑を持っているのか。スマルトにその疑いをかけられるような言動は見られないのだが。何がそう思わせるのかはよくわからないが、それは明らかな被害妄想である。
スマルトは面倒くさそうに溜め息をつきアズールを引き剥がすと、行くぞ、とシアンの肩を推した。アズールは怒りながらそのあとに続く。スマルトが冷静沈着な青年であるのは、快活なアズールと活発なネイビーに挟まれているからなのだろう、とシアンはそんなことを考えていた。
「シアン」
廊下の角を曲がったところで、母セレストが歩み寄って来る。ネイビーであれば駆け寄って来るところだっただろうが、セレストは上流階級の貴婦人らしく優雅な姿だ。
セレストはシアンを抱き上げ、そのか細い腕からは想像もできない力強さでシアンを抱き締めた。
「おはよう、シアン」
「おはようございます、母様」
「ああ、あなたとおはようの挨拶ができて素晴らしい朝だわ」
「毎朝してますよ」
「ええ。毎朝、神に感謝しているわ」
もしかしたらその役目は自分のものになるかもしれない、と賢者はふとそんなことを考えた。無事にこの世界で目覚め、愛する家族と朝の挨拶をすることができる。それは確かに、素晴らしい朝だった。
父ゼニスとネイビー、ブルーはすでに着席していた。すぐに穏やかな朝食が始まる。ネイビーとブルーがシアンに話を振るため、なんの話をするにしてもシアンに視線が集まった。
「シアン、今日からカージナルの授業ね」
セレストが和やかに言う。今日の午前中は、家庭教師となるカージナルの授業が行われる。いまのシアンはカージナルのことを憶えていないが、大事なシアンを任せるということは、ある程度は信用してもいいのだろう。アズールとネイビーは不服のようであったが。
「シアン、カージナルには気を付けるのよ」ネイビーが真剣な表情で言う。「彼はまさに変質者よ」
随分な言い草だ、とシアンは苦笑いを浮かべた。この家族が陰口を叩くようなことはないと考えると、おそらく常日頃からカージナルをそう称して来たのだろう。
「スマルト兄様の監視があれば妙な気は起こさないだろうけど、彼はある種の変態よ。彼の人間性や性格を否定するつもりはないけど、シアンを異様に可愛がっているもの」
(それについては人のことを言えんのではなかろうか……とは言わないほうがよさそうじゃの)
「警戒するに越したことはないわ。でも、悪い人ではないわよ」
「話の通じる変質者だから安心してもいい」
アズールがあまりににこやかに言うので、シアンはまた苦笑する。変質者であることは全員の共通認識のようだ。
この世界のことはほとんど知らないため、いちから勉強をするのは楽しみだ。賢者ともなると、もう学ぶことがなくなりつつあった。これまでの知識と似通った点は出てくるだろうが、新しい知識を身に付ける喜びは何よりも大きい。例え家庭教師が変質者であろうとも、その授業は楽しみだった。
食後のお茶を飲み終えると、待ってましたとばかりにゼニスがシアンを抱き上げた。その力強さに、飲み下したばかりの紅茶が逆流するかと思った。
「シアン、来月は誕生日だな。何か欲しい物はあるか?」
うーん、とシアンは首を傾げる。この世界にどんな物があるかを知らないため、欲しい物と言われても思い浮かばなかった。
「考えておきます」
「ああ。遠慮する必要はないぞ。シアンの欲しい物なら、なんでも用意してやる」
(国と言っても買い上げそうな雰囲気じゃな)
「盛大なパーティを開かないといけないわね」セレストが楽しげに言う。「いまから手配をしておかなくちゃ」
「そんな……家族で祝ってもらえればそれで充分です」
慌てて言ったシアンに、スマルト以外の五人が瞳を潤ませた。ゼニスがシアンを抱き締める腕に力を込める。
「なんて謙虚な子なんだ……! ああ、そうだな! パーティは家族だけで行おう!」
自分のためだけに盛大なパーティが開かれるのは、賢者にはあまりに馴染みがなさすぎるため、嬉しさよりも困惑してしまうかもしれない。そもそもパーティというものに馴染みがない。家族だけのささやかなパーティであったとしても、困惑してしまうかもしれないが。
賢者には、家族と呼べる者はいなかった。親がいなかったこともあるし、結婚しても冷遇されていた。ほとんどの人生がそうだった。孤児ではなかったとしても、まともな家族ではなかった。賢者には弟子がおり、彼らが孫のようなものであったが、彼は家族の愛を知らない。どうかサルビア家が夢でないよう、彼の願いはたったそれだけだ。
体を起こした彼はふと、暗い室内を見回した。
(……ここは、どこだ……?)
ランプの仄かに明るい光に照らされた部屋は、どこもかしこも綺麗で、なぜかとてつもない不安感が胸中に広がった。寄る辺を失った心がざわつく。自分の家は、本棚に囲まれたもっと乞汚い部屋だったはずだ。
ここがどこだか調べなければ。彼はランプを手に、部屋を抜け出した。素足に触れる絨毯は随分と上質のようだ。壁紙も青色の花とツルが描かれた美しい代物。花台には花がなく、朝になれば新しい花が飾られるのだろう。随分と立派な屋敷だ。
おおよそ自分には不釣り合いな場所だ。なんだってこんなところにいるのだろうか。どうして帰らなければならないのだろうか。あんな乱雑な部屋に。なんのために。あの屑溜まりのような人生に。それになんの意味があると言うのだろうか。
「シアン」
不意に背後から声をかけられ、ヒッと息を呑む。振り向いてランプをかざすと、誰かが立っている。しかし、その誰かは背が高くて顔まで光が届かない。
「だれ……?」
「俺だ」
光の範囲内に入るように、その人は腰を屈める。照らし出されたのは見知った顔。それを認めた途端、頭の中を支配していた靄が腫れていくようだった。
「……スマルト兄様……」
気付かないうちに上がっていた呼吸が、落ち着きを取り戻そうとしている。スマルトはハンカチを取り出すと、シアンの前髪が張り付くひたいの汗を拭った。
「こんな夜中にどうした。しかも素足で」
優しく問いかける声に押し出されるように、次から次へと涙が零れ落ちる。止め処なく溢れる雫が頬を伝い、このまま干乾びてしまうのではないかと思うほどだった。
すべての苦しみから解放されたいと、心からそう願っていた。それでも手の届かない輝きを追い求め、手のひらから零れ落ちたものを拾うことはできず、いつも何かが枯渇していた。どの人生でも等しく、それがいつも通りのことになっていた。だからこそ、怖がる心を抑えられないのだ。
慰めるように触れる手に引き寄せられ、スマルトの肩にしがみつく。スマルトは片腕でシアンを抱え上げ、彼の歩いて来たほうに向かった。そこにあるのは、シアンの寝室だ。
スマルトはランプをチェストに戻し、ベッドに腰を下ろす。シアンは彼にしがみついたまま、ただ泣いていた。
「悪い夢を見たようだな」
果たしてどちらが正しい夢なのだろうか。幸せな夢を見ているような気がする。このまま眠れば、あの薄汚い部屋に戻るのではないだろうか。愛されたいと願ってどれほど経っただろう。だから、こんな夢を見ているのではないだろうか。
優しく頭を撫でる手は温かい。愛されることを知ってしまった。もしまたあの部屋に戻るのなら、こんな気持ちは知りたくなかった。何も知らずにいたかった。
「少し横になれ」
眠りたくない、と首を横に振る。次に目覚めたとき、まだこの世界にいるとは限らない。そう考えると胸中に広がるのは恐怖感で、あの数々の人生がいかに悲惨だったかを思い知る。
それでも、優しく背中を叩く手の温もりに誘われるように、心地の良い夢の世界へと呑まれていった。
* * *
次に目を覚ましたのもシアンの寝室だった。この世界が夢でないと確信を持てたわけではないが、賢者はひとまず安堵の息をつく。まだしばらくはこの世界に居られるらしい。
ふと手元を見ると、スマルトのハンカチを握りしめている。そのまま寝てしまったようだ。
(泣き疲れて眠るなんて、子どもでもあるまいし……。いや、いまは子どもじゃったのう)
現在のシアンの心は、半分が九十八歳の賢者で、もう半分が六歳のシアン・サルビアだ。賢者の過酷な記憶が、シアンを不安にさせてしまったのかもしれない。
(そういえば、スマルトくんの部屋は隣じゃったの。ドアの音を聞きつけたのだとすれば、実に羨ましい聴力じゃ)
九十八ともなれば、聴力はかなり衰える。何度も聞き返して、最終的に耳元で大声を出されて「うるさい」と逆に怒る始末だった。あの元気いっぱいな弟子も変わらず元気でやっているといいのだが。あれから何年が経ったのかは知らないが。
「おはようございます、シアン様」
ノックのあとにドアを開いたマゼンタが穏やかに微笑む。これまで貴族の家に生まれ落ちたことは何度かあるが、マゼンタはその中でもトップクラスの愛嬌だろう。
「おはよう、マゼンタ」
「あら? シアン様……なんだか目元が赤いですね」
マゼンタが心配そうに顔を覗き込む。涙を拭った際に擦った跡がついてしまったのだろう。シアンがそう説明しようとしたとき、マゼンタの視線がシアンの手元に落ちた。
「これは、スマルト様のハンカチ……まさか、夜這い……」
戦慄(わなな)くマゼンタに、シアンは苦笑を禁じ得なかった。
「そんなわけないでしょ。これも洗濯に出してくれる?」
「かしこまりました」
気を取り直したマゼンタの手を借りて身支度を整え、朝食を楽しみにしながら寝室を出ると、見計らっていたかのようなタイミングでアズールが向かって来るところだった。
「シアン、おはよう」
「おはようございます、アズール兄様」
アズールは腰を屈めると、シアンの頭を少々乱暴に撫でる。せっかくマゼンタが綺麗に整えてくれたのに、もう崩れてしまった。とは言え、毛髪に対する美意識はない。九十八ともなれば、そんなこだわりを持っているだけ無駄というものである。
「ん? シアン、目元が赤いな。よく眠れなかったか?」
シアンを愛する者たちは、シアンの変化に目敏いらしい。先ほど鏡で確認したときは、言われれば確かに、という程度に思えた。賢者では気付かなかったことだろう。
「少し夜更かししてしまったんです」
「そうか……。じゃあ、今日は一緒に昼寝をしよう」
「お前は事務所で会議があるだろ」
アズールが蹴飛ばされるので顔を上げると、スマルトが呆れた表情で見下ろしている。アズールは掴みかからんばかりの勢いで立ち上がった。
「スマルト! 兄に対してなんたる仕打ちだ!」
「ちゃんと靴の上面で蹴っただろ」
「そういう問題じゃない! まったく、いつも僕とシアンの邪魔をして……――」
ふと言葉を切ったアズールが、何かに気付いたようにハッとしてスマルトの肩に掴みかかる。
「お前、まさか……シアンに滅多なことはしてないだろうな」
アズールと言いマゼンタと言い、スマルトに対する信用が低いのか常にその疑惑を持っているのか。スマルトにその疑いをかけられるような言動は見られないのだが。何がそう思わせるのかはよくわからないが、それは明らかな被害妄想である。
スマルトは面倒くさそうに溜め息をつきアズールを引き剥がすと、行くぞ、とシアンの肩を推した。アズールは怒りながらそのあとに続く。スマルトが冷静沈着な青年であるのは、快活なアズールと活発なネイビーに挟まれているからなのだろう、とシアンはそんなことを考えていた。
「シアン」
廊下の角を曲がったところで、母セレストが歩み寄って来る。ネイビーであれば駆け寄って来るところだっただろうが、セレストは上流階級の貴婦人らしく優雅な姿だ。
セレストはシアンを抱き上げ、そのか細い腕からは想像もできない力強さでシアンを抱き締めた。
「おはよう、シアン」
「おはようございます、母様」
「ああ、あなたとおはようの挨拶ができて素晴らしい朝だわ」
「毎朝してますよ」
「ええ。毎朝、神に感謝しているわ」
もしかしたらその役目は自分のものになるかもしれない、と賢者はふとそんなことを考えた。無事にこの世界で目覚め、愛する家族と朝の挨拶をすることができる。それは確かに、素晴らしい朝だった。
父ゼニスとネイビー、ブルーはすでに着席していた。すぐに穏やかな朝食が始まる。ネイビーとブルーがシアンに話を振るため、なんの話をするにしてもシアンに視線が集まった。
「シアン、今日からカージナルの授業ね」
セレストが和やかに言う。今日の午前中は、家庭教師となるカージナルの授業が行われる。いまのシアンはカージナルのことを憶えていないが、大事なシアンを任せるということは、ある程度は信用してもいいのだろう。アズールとネイビーは不服のようであったが。
「シアン、カージナルには気を付けるのよ」ネイビーが真剣な表情で言う。「彼はまさに変質者よ」
随分な言い草だ、とシアンは苦笑いを浮かべた。この家族が陰口を叩くようなことはないと考えると、おそらく常日頃からカージナルをそう称して来たのだろう。
「スマルト兄様の監視があれば妙な気は起こさないだろうけど、彼はある種の変態よ。彼の人間性や性格を否定するつもりはないけど、シアンを異様に可愛がっているもの」
(それについては人のことを言えんのではなかろうか……とは言わないほうがよさそうじゃの)
「警戒するに越したことはないわ。でも、悪い人ではないわよ」
「話の通じる変質者だから安心してもいい」
アズールがあまりににこやかに言うので、シアンはまた苦笑する。変質者であることは全員の共通認識のようだ。
この世界のことはほとんど知らないため、いちから勉強をするのは楽しみだ。賢者ともなると、もう学ぶことがなくなりつつあった。これまでの知識と似通った点は出てくるだろうが、新しい知識を身に付ける喜びは何よりも大きい。例え家庭教師が変質者であろうとも、その授業は楽しみだった。
食後のお茶を飲み終えると、待ってましたとばかりにゼニスがシアンを抱き上げた。その力強さに、飲み下したばかりの紅茶が逆流するかと思った。
「シアン、来月は誕生日だな。何か欲しい物はあるか?」
うーん、とシアンは首を傾げる。この世界にどんな物があるかを知らないため、欲しい物と言われても思い浮かばなかった。
「考えておきます」
「ああ。遠慮する必要はないぞ。シアンの欲しい物なら、なんでも用意してやる」
(国と言っても買い上げそうな雰囲気じゃな)
「盛大なパーティを開かないといけないわね」セレストが楽しげに言う。「いまから手配をしておかなくちゃ」
「そんな……家族で祝ってもらえればそれで充分です」
慌てて言ったシアンに、スマルト以外の五人が瞳を潤ませた。ゼニスがシアンを抱き締める腕に力を込める。
「なんて謙虚な子なんだ……! ああ、そうだな! パーティは家族だけで行おう!」
自分のためだけに盛大なパーティが開かれるのは、賢者にはあまりに馴染みがなさすぎるため、嬉しさよりも困惑してしまうかもしれない。そもそもパーティというものに馴染みがない。家族だけのささやかなパーティであったとしても、困惑してしまうかもしれないが。
賢者には、家族と呼べる者はいなかった。親がいなかったこともあるし、結婚しても冷遇されていた。ほとんどの人生がそうだった。孤児ではなかったとしても、まともな家族ではなかった。賢者には弟子がおり、彼らが孫のようなものであったが、彼は家族の愛を知らない。どうかサルビア家が夢でないよう、彼の願いはたったそれだけだ。
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