蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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虚妄と幸福

9.猛犬と報復屋(2)

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 ***


 インターフォンを鳴らす手間も惜しんで、ドアを開ける。鍵は掛かっていない。真田律華は横からいかにも警官らしく不用心さを責める視線を送ってくるが、辰史は無視して寝室へ向かった。
 閉ざされたドアを手前に引いて開けると、ベッドの上に横たわる比奈の姿とは別に、少年の姿が見えた。十間あきらだ。彼は入り口に背を向けるようにして床に膝を立て、比奈の顔を覗き込んでいる。
 近いぞ――と、舌先に生まれた言葉を、辰史は喉の奥に戻した。

「彼は?」

 律華が訊ねてくる。

「十間あきら。比奈のところで働いている。留守を任せたんだ」

 会話が聞こえていないわけではないだろうが、あきらは振り向きもしない。また失望させてしまったな、と辰史は苦い吐息を吐き出した。これで二度目だ。比奈を守れなかったのは。今回の事件は不可抗力だが、異能者でないあきらにしてみれば知ったことかといったところだろう。
 ――なんであんたが傍にいたのに、比奈さんがこんな目に遭うんだ。
 強ばった背中に、そう責められているような気がした。

「そうか。自分は八津坂署の異能対策課に所属する、真田律華だ」

 あきらの背中に、律華が律儀に挨拶する。

「本件を、三輪氏とともに捜査することになった」
「…………」

 あきらはだんまりを決め込んでいる。
 普通なら気分を害するか戸惑うかするところだが、律華は意にも介さなかった。警官というだけあって、あきらのような少年の対応は慣れているのかもしれない。

「未成年を捜査に巻き込むつもりはないが、事件の捜査で三輪氏を連れ回している間は君にこのまま留守を守ってもらうことになるかと思う。協力よろしく頼む」

 一方的な挨拶を終えて、今度はこちらに向き直ってくる。

「で、三輪氏はここでなにをするつもりですか?」
「比奈の影から、犯人の気配が探れないか試してみる。黒狐は完全に消滅したわけじゃない。比奈が生きているからな。呪症の影響を受けて、形を保てないところまで消耗しているが――とすれば、こちら側から手を貸してやれば元凶に導いてもらうくらいのことはできるかもしれない」
「具体策は」
「黒狐をこれ以上消耗させないために、俺の陽の気を与える。それから比奈の影と式神を繋いで、黒狐の依り代にしてやるんだ」
「つまり体を失っている黒狐に式神を操作させ、探索機代わりにすると?」

 律華が頷き、理解を示した――奇妙な喩えだが、的は射ている。異能を異能として理解する気はないが、理屈は分かったということなのだろう。

「自分にできることはありますか?」

 訊ねてくる彼女に、辰史はかぶりを振った。

「いや、ない。邪魔をしないでいてくれたらいい」
「でしたら自分は部屋の外で警備しています。もしも所有者が異能者であった場合、妨害がないとも限りませんし」
「相手が素直に玄関から襲撃してくれるとも限らんがな」
「では、ベランダから来た場合には大声で呼んでください。すぐに駆けつけます」

 そう言って一度頭を下げると、律華はさっさと部屋を出て行った。

「つくづく話の早い女だが、可愛げはないよな……」

 だからこそ――あの面倒くさそうなオカルトマニアでなく、うるさそうな呪症管理者でもなく、飼い主面した不良警官でもなく、律華を選んで連れてきた――とはいえ。
 比奈との会話が、どうしようもなく恋しくなってしまう。比奈はいつだって、気持ちに寄り添った言葉をくれる。不躾にならない程度に踏み込んで、気遣ってくれる。

「あんたは比奈さんの甘さに慣れすぎなんだよ、おっさん」

 独り言を聞いていたらしい。
(……まあ、この距離なら普通は聞こえるか)
 はじめて言葉を返してきた少年に皮肉を投げる気にもなれず、辰史は肩を竦めた。

「あきら、悪いがお前も外してくれ」

 術に集中するためというよりは、単純に気分の問題だ。
 比奈と二人きりになりたかった。
 あきらは猶も比奈の顔を見つめている。

「あきら、お前の気持ちは分かるが……」

 もう一度、酷くすまない心地で促す――と、あきらはようやく立ち上がった。
 振り返ってくる。その目は怒っているようにも傷付いているようにも見える。

「比奈さんは……」
「ああ」
「助かるのか?」

 目には疑念が浮かんでいる。
(当然だよな。俺があきらだったら、俺のことなんて信用できない)
 それでも、真摯に頷くしかない。

「助ける。いつもと舞台が違うのは厄介だが、気を揉むほどのことじゃない。俺は、どんなことをしても比奈を助ける」
「……あんたがそう言うなら、そうなるんだろうな」
「…………」

 皮肉か、それとも本当に信じてくれているのか、辰史には分からなかった。

「終わったら呼べよ。比奈さんが眠ってるからって、変なことするなよ」

 念を押すように言って部屋を出て行く少年の背中に、小声で抗議する。

「……変なことって。俺は比奈の恋人だぞ」

 あきらは答える代わりに、少しだけ荒っぽくドアを閉めた。
 やれやれと見送って、辰史はあらためてベッドに横たわる比奈の顔を見下ろす。

「そうだろう、比奈。俺は、お前のためならなんだってできる」

 恋人も、今は返事をくれないが――
 悲劇のヒーローぶっている場合ではない。思い直して、懐から式符を取り出した。ごく簡単な呪を唱える。次の瞬間、独眼の鴉がぱっと姿を現した。屍喰だ。

「さて、次は……」

 ベッドのサイドテーブに載っているランプを引き寄せ、明かりを付ける。意識のない比奈の腕を持ち上げ、床に影のできる角度で固定した。

「宇迦御霊神と。御饌津神よ。かの獣に我が陽の気を与えよ」

 三度唱えつつ、影に指で触れる。体から精気が抜けていく感覚にも慣れて、四年――全身を襲う軽い脱力感に、辰史はかえって安堵した。影の狐は、この瞬間、陽の気を貪っている。目には見えないが、確かに存在している。
 頃合いを見計らって、影を指先で――恐る恐る――つまむ。細い糸ほどの漆黒が、まるでそこからほつれたように、影の中から飛び出した。それもまた比奈の一部であり、御霊の一部でもあるものだ。

「屍喰、来い」

 独眼の鴉を呼びつけ、その足に影の糸を結びつける。
 すると、鴉は鋭い声で一度だけカァと鳴いた。

「感じるか、屍喰」

 赤の目が、ひときわ暗く輝く。それは屍喰ではなく、黒狐の赤だ。

「なにが御霊に干渉しているのか、探れ。相手の居場所を突き止めたら、ここではなく俺の許に帰ってこい。いいな」

 言い含め、ベランダへと続く窓を開ける。忠実な式神は陽の落ちた空にぱっと飛び立っていった。その黒は、すぐ空の色に溶けて見えなくなる。

「仕込みはよし」

 呟き、辰史も立ち上がった。
 外に声をかける前に、もう一度だけ恋人の顔を見下ろす。穏やかな表情は、どこか幸福そうにも見えた。きっと今の比奈は、様々な負の感情とは無縁の夢を見ているのだろう。そこは物語を繰り返す思念世界よりも、もっと苦痛のない世界だ。

「こちら側に呼び戻したら……」

 お前はがっかりするのかな、比奈。
 もし比奈が目覚めていたら、そんなことはないと否定するに違いない。そのことは分かっている。けれど、それでも不安になってしまう辰史だ。
 ――こちら側に戻ったことを後悔しないでいられるほど、俺は比奈を幸せにしてやれているだろうか?
 体を重ねることはできても、けっして二人で一人の存在にはなれないのだ。
 天才異能者と呼ばれても、人の心の奥底までは読めない。人の心の闇に関わってきたからこそ、疑ってしまう瞬間がある。
 比奈と出会い、思念世界から彼女を連れ戻して四年。周囲に呆れられるほど、比奈を愛している。想いも、執着も、伝えている。比奈からも愛されていると感じる――だが、自らを苛むなにもかもを相殺できるほど愛情は万能なものではない。
 そのことを、報復屋としての辰史は知っている。

「……たまに、御霊が羨ましくなる」

 苦く呟き、比奈の目蓋に口付けを落とした。



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