蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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張り子の虎【耳中人】

3.

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 ***


 彼の身に、いったいなにが起きたのか。
 白いベッドに横たわっている十間あきらを眺め、天月比奈は愕然としていた。
 配送にきたあきらが、帰り際に突然倒れた――と、北岡重光から連絡を受けたのは、ほんの三十分前である。仕事を副所長の常盤碧に引き継ぎ、慌てて北岡の店へ急行した。それから救急車が到着したので、あきらに付き添って乗り込んだのだ。
 搬送先の大病院ですぐ検査が行われたが、原因はまだ判明していない。
 医師が少し難しい顔で、今月に入ってから同じように昏倒して運ばれてきた患者が三人いると言った。

「その人たちは、どうなったんですか?」
「それが、まだ目覚めていないんですよ。原因も分からず、でして。まあ、この子が彼らと同じ病気だと決まったわけでもありませんが……」

 いずれにせよ、MRIや脳波検査、心電図検査の結果待ちになるだろう。
 あきらの家族に連絡を取ったが、父親は出張で関西におり、母親の方も妹のオープンキャンパスで都外へ出ているため、駆けつけるには時間がかかるということだった。
「わたしが付き添いますから、慌てないで気を付けて帰ってきてください。こういうとき、怖いのは焦ったご家族が病院へくる途中で事故に遭ってしまうことです」
 動転するあきらの母親を落ち着かせたのはいいが、他になにができるわけでもなく、こうして意識の戻らないあきらの顔を眺めている。

「……一人暮らしをはじめたり、教習所に通ったり、ここのところ忙しそうだったものね。未成年なんだから、もっとわたしが気に掛けてあげるべきだった」

 影に向かって呟く。病室の白い床から、獣がのそりと起き上がった。
 御霊だ。
 黒狐は音もなくベッドに飛び乗ると、鼻先をあきらの顔に近づけた。赤い目を珍しく心配そうに細め、すんすんと少年の匂いを嗅いでいる。

「御霊も心配? そうよね。十間くん、御霊のことを可愛がってくれたものね」

 かつて誰にも心を開かず比奈を守っていた影の狐だが、今では随分と自分の「好み」を主張するようになった。特に――比奈には内緒のつもりで――昼飯を分けてくれるあきらには、懐いている。
 御霊はあきらの顔を鼻先でつついたり、影の舌で舐めたりしていたが、不意になにかに気付いて体の方へ飛び退いた。少年を心配していた赤い目が、みるみるつり上がっていく。

「御霊?」

 ただならぬ様子に、比奈も椅子から立ち上がった。御霊の傍に寄り添い、あきらの様子を注視する。だが、人の目には――いや、思念さえ捉える異能者の目にも、なんら異変は認められない。御霊だけがそれを感じているのだと、すぐに気付いた。

「なにがいるの?」

 低い声で訊ねながら、御霊と比奈自身を繋いでいる黒い影に右手で触れた。そこからずぷり、と影の中に沈んでいく。狐憑きが持つ能力の一つだ。精神面で繋がっている宿主と狐は、どちらかの影に寄り添うことでいっそう感応力を深める。
 瞬きをする間に、比奈の目は御霊と同じ攻撃的な赤に変わっていた。人の目ではない。宿主の目でもない。黒狐の目、黒狐の視界であきらを見つめる。慎重に、そこにあるなにかを見定める――今度は、すぐに気付いた。
 あきらの耳の中から、もぞもぞと白い塊が這い出ようとしている。思念ではない。それは半分ほど外に出ると虫のように節くれ立った細い手を、ぴょこんと伸ばした。
 ――生きもの?
 と、呟いたつもりだったが。ぐるるるる。比奈の唇から零れたのは、狐の獰猛な唸り声だ。それを聞くと、白い塊は慌てたように手をばたつかせ、はじめてこちらを見た。
 目が合う。最初は、なにか分からなかった。真っ白な塊の中に、顔が埋まっている。左右でちぐはぐな黄金の目。額から二本、突き出ているのは角だろうか。それも長さが違う。
 絶望的に造形の崩れた奇妙な生きものだが、どうやら小さな夜叉のようだ。
(そんなものが、どうして十間くんに……?)
 訝りながら、比奈は体を乗り出した。その動きに合わせて、御霊が小さな夜叉へと前脚を伸ばす。鋭い影の爪に触れられると、それは枝のような手をいっそうじたばた振り回し、まるで穴の中へ戻っていく鼠のような動きであきらの耳の中へ隠れてしまった。
 その瞬間――

「ああああああああああっ! 黙れええええええっ!」

 意識を失っていた少年が、唐突にカッと目を見開いた。白目が、真っ赤に充血している。苦悶に歪んだ夜叉の顔で体を起こし、御霊と繋がったままの比奈に手を伸ばしてくる。鉤爪のように折り曲げられた指の先で喉を抉られるより早く、比奈も獣の俊敏さで後ろへ飛び退いていた。睨み合ったのは、一瞬だ。御霊が、比奈が、甲高い声で吠えて威嚇した。直後、あきらの体は後ろへ傾いていった。力の抜けた少年の体を、病院の硬いベッドが受け止める。

「十間くん!」

 警戒を解いて、比奈はあきらに駆け寄った。目を見開いたまま小刻みに痙攣している少年の頬に、両手で触れる。そのまま掌を顔の横へ滑らせ、耳を塞いだ。あの生きものを出してはいけないような、そんな気がしたのだ。
 あきらの体から震えが去ったのを確認してから、比奈はゆるゆると息を吐き出した。
 これは、病気ではない。

「思念? ううん、でも……」

 思念にしては、奇妙だった。思念は想いの塊である。人の記憶を、感情を暴く黒狐にとっては、相性のいい相手だ。普通なら少し触れるだけで、思念を構成する想いの正体も分かる。分かるはずだが――

「なにも、なかった……」

 感情らしきものは、なにも。悪意さえもなかった。その事実に、比奈は困惑していた。
 御霊を見つめる。影の狐はまだ警戒を解かず毛を逆立てていたが、比奈の視線に気付くとやはり困惑を含んだ鳴き声を零した。なにも感じられなかった、ということだろう。
 比奈はしばらく考えていたが、やがてかぶりを振った。

「わたしたちだけで、どうにかしようとすべきじゃないわ」

 獲物を見つけた肉食獣のように興奮している――血気盛んな黒狐を、比奈はなだめた。
 人の想いを暴き、なんの苦もなく思念世界へ介入し、ときに思念を食い荒らす。なにからなにまで力尽くで、どこまでも理不尽な存在。それが黒狐だ。繊細な状況には向かない。

「あの生きものを追いたい気持ちは分かるけど、思念世界で暴れるのとはわけが違うんだから。十間くんのこと、傷付けたくないでしょう?」

 あるいは熟練の狐と宿主なら力加減もできるのだろうが、御霊と比奈は未熟である。敵を前に我を失いがちな御霊を、一人で制御する自信はない。そう、一人では。

「こういうときこそ辰史さんに相談しないと。ねえ、御霊」

 彼の名前を出すと、黒狐はようやく赤い目をやわらげた。それを同意と受け取り、御霊の耳に囁く――原因の一端を垣間見てしまった以上、電話をかける少しの間でもあきらの傍を離れる気にはなれなかった。あきらの家族に対する責任もある。

「お願い、御霊。辰史さんを呼んできて」

 黒狐は一度だけ目を瞬かせると、影の中へもぐった。半身が離れていく気配を感じながら、比奈はパイプ椅子に座り直した。御霊と離れた今、あの生きものの気配は感じないが――牽制するつもりで、意識を失っているあきらの耳を、じっと睨み付ける……


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