蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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我が愛しの猟犬

12.

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「九雀先輩!」

 建物の陰から現れていた彼に、革袋を投げた。革袋は弧を描いて犬の頭上を飛び、九雀の腕におさまる。今度こそ、標的を見失って困惑したドーベルマンの顔とかち合った。

「よくやった、真田」

 そんな声が聞こえ、入り口のシャッターが降りた。そこで迷って作戦を台無しにしないあたり、さすが九雀だ――と律華は不安定な体勢のまま感心した。すぐに、背中から硬い床に落ちる。ずどん、と音が、震動が、狭い倉庫内に反響した。
 体勢を低くしていたために衝撃は抑えられたが、痛みがまったくないわけでもない。目の奥で軽く火花が散った。ついでに勢いのままのしかかってきた多聞丸と床との間に挟まれて、肺が押しつぶされる。
 軽く頭を振って目を開けると、犬の顔が目の前にあった。
(ドーベルマン……)
 ――よく見れば、顔立ちも可愛い。
 九雀がそう言っていたなと、どうしてかこの状況で思い出した。
(確かに、目はつぶらかもしれない)
 標的を見失った黒い目が、惑っている。困惑は、すぐ使命を邪魔された怒りに変わったのだろう。喉の奥から低い唸り声が聞こえたところで――

「多聞丸!」

 入り口の近くに積まれていた木箱の陰からぱっと飛び出してきた人影が、転がった律華と多聞丸との間に腕を差し込んできた。伊緒里だ。
 更に後ろから、丑雄が犬の体を羽交い締めにする。多聞丸は歯を剥き出したが、その歯が伊緒里の手に触れると、我に返って顔を引っ込めた。
 傷一つない手をそのまま伸ばして、伊緒里が多聞丸の首を撫でる。

「いけない子」

 激しい口調ではなかったが、多聞丸は言われたことを理解したようだった。
 あるいは一瞬でも歯を剥き出しにしてしまったことを後悔しているのか。短い尾を下げ、きゅうんと悲しげな声を上げている。犬が酷く落ち込んでいるのは、律華にも分かった。
 項垂れた多聞丸の首輪に、丑雄がリードを付ける。
 そこまで確認して、律華はようやく全身から力を抜いた。

 ****

 外で待たせていた鷺沼に肖像の入った革袋を引き取らせ、九雀は急いで倉庫へ戻った。作戦が成功したことは確かだが、後輩の安否が気に掛かる。最後の瞬間に酷く体勢を崩していたようだが、怪我はしなかっただろうか。あるいは、犬に噛まれてなどいないだろうか。
 携帯を見ると、丑雄からはインスタントメッセージが入っていた。鷹人からも着信があったが、こちらは無視した。今は、あの悪友に構っている場合ではない。
 首尾よくいったらしい。犬にリードを付けたという報告に胸をなで下ろし、外からシャッターを上げる。騒がせ者のドーベルマンは、今は異能者夫婦の足下で深く項垂れていた。
 彼らへの労いもそこそこに、律華の姿を探す。彼女は体を起こしてはいたものの、床にしゃがみ込んだままだった。ぎょっとして、駆け寄る。

「おい、真田! 大丈夫か?」
「すみません。安心したら腰が抜けてしまって……」

 怪我をしたわけではないらしい。
 ばつが悪そうに笑う律華を見て、九雀は胸をなで下ろした。

「そういうことなら肩を貸してやる。休むにも、こんな場所より署の方が落ち着くだろ」
「ありがとうございます、先輩。土岐の肖像は……」
「無事だよ。傷一つないし、もう鷺沼に持って行かせた」
「それなら、よかったです。少し乱暴にしてしまったので、心配でした」

 こんなときまで肖像画の心配とは、どこまでも真面目な後輩である。

「わたしたちは緒田原の邸へ連絡して、多聞丸を引き取りにきてもらいます。そのまま、緒田原学長のところで報告に向かおうと思っています」

 そう言ったのは、丑雄だった。九雀は夫婦の顔を見て、頷いた。

「分かりました。こちらも署へ戻り、一度報告を済ませてから皇明館大学へ伺わせていただきます。簡単な聴取などさせていただかなければならないので……」
「お手数おかけしてしまって、申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げる夫婦に軽く手を振る仕草で、かまわないと告げる。
 それから九雀は後輩を助け起こし、肩を貸して立たせた。女のわりには長身で筋肉質な体は、見た目よりもいくらか重量がある。自分でも分かっているのか、律華は酷く遠慮しているようだ。覚束ない足取りで、自重を支えようとしている。

「ほら、もっと体重を預けろよ。逆に歩きにくい」
「す、すみません……」

 言い合いながら、少しバランスを崩して木箱に片手をつく――
 そのとき、背後で見送っていた丑雄が虚を突かれたような声を上げた。声に、九雀も首だけで振り返り――ぎょっとした。ついさっきまで項垂れていたドーベルマンが、リードを掴んだ丑雄を引きずったまま、突進してくる。

「なっ……」
「丑雄さん!?」

 伊緒里も悲鳴を上げて夫の体を掴んだが、女一人の腕力では止められない。律華も遅れて事態に気付いたようだが、いつものように動けずにいる。
(急にどうしたってんだ!)
 なにがきっかけで異能犬のスイッチが入ってしまったのか、九雀には分からなかった。自分も、律華も、もう特定古物は身につけていないはずだが――
(匂いか? いや、そんなふうに見境なく襲わせる訓練なんてするはずが……)
 迷ってしまったが、考えている暇はなかった。反射的に、腰のホルスターに手が伸びる。それに気付いたらしい伊緒里の顔が、さっと青ざめるのが見えた。

「止まりなさい、多聞丸! 止まって!」

 丑雄の体にしがみつくようにして突進の勢いを殺しながら、悲鳴交じりに懇願する。
(くそっ、撃ちにくいな)
 九雀は内心、毒づいた。
 だが、それだけだ――と、口の中で唱える。
(俺なら撃てる。真田や石川とは違う。それが俺の強みで、役割だ)
 そうだ。撃とうと思って、撃てないことはない。

「そんな悲壮な顔をしないでくれ。たかが一年、預かってたってだけだろ」

 思っていたことの半ばは声に出してしまっていた。
 耳元でそれを聞いたらしい律華が、囁き返してきた。

「自分と先輩も、一年です。でも、たかがとは思いません。大切な一年です」

 拳銃を掴みかけた手が、今度こそ止まる。

「お前……このタイミングで、なんでそれを言うかな」



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