蛟堂/呪症骨董屋 番外

鈴木麻純

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我が愛しの猟犬

11.

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 狭い車の中で、律華は前屈みに体を折り曲げた。
 はき慣れた運動靴の靴紐を、解けないように固く結び直す。呪症管理協会に向かって運転してくれているのは、九雀だ。丹塗矢夫妻は呼び戻した鷺沼に、指定のポイントまで送らせ、すでに到着したと連絡があった。こちらも、正面門はもう目の前に見えていた。

「お前を置いたら、俺はそのまま裏門へ向かう」
「はい」
「走るお前たちを追いかけるのは、無理だ。だから、俺のサポートは倉庫付近ぎりぎりまでないと思ってくれ。ただ、協会側には不測の事態に備えて建物内からの監視は頼んでいる。いざというときは、爆竹を鳴らして多聞丸の気を引いてもらう手はずだ」
「承知しました」

 緩やかに車が停止する。律華は体を起こすと、一度だけ九雀の顔を見た。
(先輩の方から、わたしにこういった役割を与えてくれるのははじめてかもしれない)
 そのことが、たまらなく嬉しいのだ。
 目が合うと九雀はひとつ頷き――

「頼むぞ、真田」
「はい、九雀先輩」

 律華も頷き返した。

「行ってきます」

 車内で軽く敬礼し、外へ出る。肖像画の入った革袋を背中に背負い、正面門をくぐった。いつもは呪症管理協会に所属する者や見学者の誰かしらが歩いている敷地内が、今は静まり返っている。
 開いた門が、再び閉じていく。セキュリティ会社か、あるいは管理部にある監視センターの方で操作しているのだろう。素っ気ない音とともに、電子錠が掛けられた。
 視界のうちに、まだ多聞丸の姿はない。様子を見るつもりで、ゆるやかに歩き出す。助走を付けるため、徐々に歩みを早め、手前にある見学棟を通り過ぎる。静寂には、自分以外の息づかいは聞こえない。
 だが、視線は感じた。
 次の瞬間、律華は弾かれたように――反射的に――走り出していた。地面を強く蹴り、前へ飛び出す。一拍ののち、植え込みから飛び出してきた細身の影が前脚で空を掻いた。

「残念だったな。今度はお前が空振りだ」

 呟きは、多聞丸には伝わらなかっただろうが――
 犬が背後で体勢を立て直す。その気配を深くは探らずに、律華はとにかく距離を稼ぐことに集中した。いつもだったら腕力に頼りたくなってしまうところだが、今回は迷わなかった。
 与えられている役割は多聞丸の誘導であって、捕獲ではない。
 まして、対峙し、撃退することでもない。
(先輩は、いつものように無茶をするなとは言わなかった。わたしを信じてくださっているということだ。ならば、その信頼に応えなければ……)
 気負うわけではなく、自然とそう思えた。長く迷っていた迷路の中で、はじめて出口を見つけたような心地だった。無意味な闘争心や焦りから解放され、感覚が研ぎ澄まされる。
 首の後ろあたりに、生暖かい風が吹き付けてくるのを感じた。
 多聞丸が追いついてきたのだろう。
(まずはわたしを走らせ、疲労させる。追いながら、絶好のポイントを見極めている)
 猟犬の狩りさながらに、獲物の集中力が途切れる瞬間を狙っている――
(興奮しているかと思いきや、意外と冷静なのだな)
 それとも、訓練の動きが体に染みついているのか。
(だが、それはわたしも同じだ)
 徹底的に人間のやり方を仕込まれた相手だからこそ、律華は成算があると思っていた。
 走っているうちに肩から下がってきた革袋の紐を、落ちないように手で握りしめる。研究棟を過ぎたところで、先に仕掛けてきたのは多聞丸の方だった。追い立てているのが哀れな兎ではなく、同じ猟犬であることに気付いたのだろう。
 地面を蹴る音。唸る風の音を聞き、横へ飛ぶ。背負っていた革袋を前に抱え直し、ほとんど横転に近かった。背後から飛びかかってきた多聞丸は勢いを殺しきれず、着地したときの恰好で地面を滑っていく。律華は素早く体勢を立て直し、また走り出した。資料棟へ続く道をひたすらに駆けながら、通路沿いに作られた植え込みを障害物代わりにする案も浮かんだが、すぐに現実的ではないと思い直した。木が根を張る平坦ではない地面と、膝のあたりの高さで刈られたボックスウッドは犬の動きを鈍らせてくれるだろうが、こちらも革袋を背負っている。引っかけてしまったら、目もあてられない。
 地面を滑っていった四つ足の追跡者も、すでに進路を戻したようだ。追いかけてくる足音が規則正しさを取り戻すのを聞きながら、背後は振り返らない。
 白の紳士がデザインしたのだという白の建物の横を通り過ぎる――
 建物三つ分。長距離というほどではないが、短距離というには少し長い。さすがの律華も、全速力で走り続けるのが辛くなってくる距離だ。
(もう少し……!)
 もう三十メートルで白の建物が途切れている。角を曲がれば、倉庫が見えてくるはずだ。
 多聞丸も、本能的になにかを察したのかもしれない。ラストスパートといわんばかりに、猛然と迫ってくるのが感じられた。もう少し。もう少し。だからこそ気は抜けないと歯を食いしばりながら、思わず建物の角に手を伸ばし、掴む。掴んだ壁を手で押し返すような仕草で、反動を付けた。前へ出る。灰色の倉庫が、手前に見えている。

 と――

 不意に、ポケットの中で携帯が鳴った。
 集中力が、ふっと途切れる。車に置いてくるべきだったと舌打ちしながら、片手でポケットを探った。着信音で、九雀でないことは分かっていた。相手の名前を確認する余裕もないため、そのまま電源を落とそうと思ったのだが、焦ったせいで手が滑った。
 携帯がポケットから零れ、落下していく。つい足を止めそうになってしまって、律華は舌打ちした。隙を逃さず飛びかかってきた多聞丸の前足が、すぐ背後で着地していた。
 ドーベルマンの長いマズルが、革袋に触れる。律華は反射的に足下の砂を蹴り上げた。目つぶしにもならなかったが、多聞丸が飛びのいたため、再び距離が開いた。そのチャンスを逃さず、律華はすぐそこに見えている終着点を目指した。
 十メートル、五メートル、一メートル。駆け込む寸前で、背後の多聞丸が再び地面を蹴った。やはり人間に仕込まれた犬だな、と律華は口の中で呟いた。勝負所を分かっているが、それが徒となる。この体勢から反転するのは、いくら反射神経のいい動物でも無理だろう。
 律華は背負っていた革袋を前に抱え直し、勢いはそのままに半歩だけ振り返った。その瞬間に、目が合う。飛びかかってくる多聞丸ではなく、さらに後ろで構えている――

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