蛟堂/呪症骨董屋 番外

人魚姫の涙

　狭い道路の脇に、店が所狭しと押し込められたように建ち並んでいる。古びた不動産屋だとか、客が入っているのか分からないブティックだとか、路上に水を垂れ流す魚屋だとか、近年になって作られた新しめのコンビニやファストフード店、携帯電話ショップなどが入って、酷くちぐはぐに見える――そんな、どこにでもある商店街。その通りを一つ入って角を三つ四つ曲がった裏通りに、その店はある。
　古書店〈幻影書房〉――
　立地の悪さに加えて、開いているのか閉まっているのか分かりにくい、やる気のなさそうな店構え。もし店を見つけることができたとしても、多くの人は中へ入ろうとは思わずに素通りしてしまうに違いない。足を運んでくるのは店主の友人知人か、古くからの常連客。もしくは余程の物好き、暇人くらいのものだ。

　俺は無駄に繊細な彫刻の施されたアンティーク調のドアを掌で押した。ギィ、と蝶番が音を立てる。
　赤い絨毯の敷き詰められた床。ディテールに凝ったブックシェルフ。天井から吊り下げられたペンダントランプの光は暗すぎもせず、明るすぎもせず。落ち着いた色調に店内を照らし出している。
　古書店というよりはアンティークショップと呼んだ方が相応しい。そんな店の奥のデスクに、一人の男が座っている。それが、幻影書房の店主、鬼堂さんだ。鬼堂六。
　皺一つない白いシャツに黒のフォーマルベストをきっちり着こなす姿は、まるで漫画の中から抜け出してきた執事のようにも見える。古書店の店主らしくない――というか、そもそも現実的ですらない。けれど一方で、その恰好は人形よりも人形じみた顔をした鬼堂さんには妙に似合っているのだった。

「こんにちは、鬼堂さん」

　俺が挨拶をすると、鬼堂さんは本にブラシをかける手を止めて顔を上げた。

「おや、瑠璃也君。今日は遅刻をしなかったのですね」

　俺の名前は名島瑠璃也。
　この〈幻影書房〉でバイトをしている文系大学の二年生だ。

「俺だって、前もって連絡をもらっていれば遅刻なんかしませんよ」

　まるで遅刻魔のように言われるのは心外なので、抗議をしておく。この人ときたら、いつも急に電話をかけてきては――「店番を頼みます、瑠璃也君。今すぐに、です。私は仕入れに出なければいけませんので」――ときたものだ。
　急いで直行したところで、キャンパスからここまでの道程はゆうに二十分以上はかかる。唇を尖らせる俺に、鬼堂さんは涼やかな顔で笑った。

「そうですか」

　と。
　女も羨むくらいに艶やかな黒髪――額にかかった長めの前髪を後ろへと撫でつけながら、鬼堂さんは赤い革張りのアームチェアから立ち上がった。
　仕入れの仕度をするのだろう。そのまま何を言うでもなく奥の部屋へと引っ込んでしまった彼の代わりに、俺はアームチェアに腰を下ろした。デスクの傍らには古びた本が何十冊と積み上げられている。そのうちの一冊を手にとって、洗剤を染み込ませた布で表紙を丹念に拭いていく。まったく、どこから仕入れてきたのやら。どれもこれも埃で真っ黒に汚れていた。
　恐ろしく気の遠くなるような作業を想像してうんざりしていると、鬼堂さんが奥からひょいと顔を覗かせてきた。

「手を抜かないでくださいよ。大事な子たちなんですから」
「分かってますって」

　溜息混じりに頷くと、納得してくれたんだろう。鬼堂さんの顔が、また奥へと消えていく。

「では、行ってきます。あ、私がいない間はくれぐれも気をつけてくださいね」

　そんな声と、ドアの閉まる音だけが聞こえてきた――鬼堂さんは出かけるときに、いつも店のドアではなく裏口を使うのだ。俺は、その裏口がどこか別の世界に繋がっているのではないかと密かに疑っている。
　だって、そうだろう？
　不格好なところなんて何一つない。非人間じみた美しさを持つ執事服の男が、普通に商店街を歩いている――そんな光景は酷く人目を引くし、ちぐはぐだ。
　鬼堂さんの姿をぼんやりと思い浮かべて、ないないと苦笑しながら作業を続ける。

　それにしても、汚い。
　黒く煤けたような汚れに、赤茶けた……錆、ではないよなぁ。表紙を軽く擦るだけで、みるみるうちに布が真っ黒になる。それを洗って、再び布に洗剤を染み込ませて、拭いて――時折、本当にごくごく稀に訪れてくる客の相手をして――黙々と手を動かし続ける。その繰り返し。正直、青春を浪費しているような気がしなくもない。たまに溜息を零しながら作業を続けて、最後の一冊を手にしたときには手は洗剤と埃で荒れきっていた。
　――まるでシンデレラだ。
　と、声に出して言ったら“本人”に怒られそうなことを考えながら、時計を見る。二十二時。閉店時間だ。
（ま、あと一冊だし。終わらせちゃおう）
　気分はすっかり薄幸の主人公。脳内で鬼堂さんを継母に見立てたりなどしながら、俺は手の中に視線を落とした。今までのものよりいっそう汚れた、薄い本。泥と埃にまみれているが、辛うじて蒼い装丁をしているのだと分かる。
　布を押し当てるようにして丁寧に拭けば、表紙があらわれた。おっ、金髪の綺麗なお姉さんだ。外国の本なのだろうか。ぱらっとめくると――中身はやはり英語で書かれているが――絵本らしいことは分かった。

「ああ、人魚姫か」

　幼い頃に読んだことがある。哀しくも美しい物語の内容を思い出しながら、俺はなんとはなしにページをめくった。
（泡になって消えちゃうんだっけ）
　酷く報われない恋。王子は結局、何に気付くこともない。それだというのに、一途にも王子への想いを胸に秘め、一人深海へと消えていく姫の姿を思い浮かべる――嘆息せずにはいられない、遣りきれない話だ。

「可哀想に。もしも俺が王子だったら――」

　なんて思わず呟いて、なんとなく恥ずかしくなる。店の中には俺しかいないけど……いや、独り言だからこそ余計に恥ずかしいのか。とにかく、絵本を吹き終えた俺は、それを積み上げた本の山の一番上へと重ねて、速やかに閉店作業を始めた。
　うっかり人魚姫に気を取られていたせいで、随分と遅くなってしまった。
　店の戸締まりをして、帰路を急ぐ。なんだかんだで腕時計を確認すれば、二十三時を回っていた――当然、あたりは暗い。
　静寂の闇に、切れかけた街灯がジジッと音を立てて点滅しているのを不気味に思いながら、俺は歩く速度を速める。別に恐いわけじゃない。閉店時間まで残るのは初めてのことではないし、そもそも俺みたいないい年をした男が恐がっていても、可愛くもなんともないし。
（けど、なぁんか嫌な予感がするんだよなー）
　それは、覚えのある感覚だった。
　自慢ではないが、俺の嫌な予感というのは外れたことがない。もっと言えば、俺はこの危険察知能力とは裏腹に予期した危険から逃れたことがただの一度もないのだ。

　そのうちに、俺は足音が自分一人のものだけでないことに気付いてしまった。

　ぺたぺたぺた――と。
　足音？
　それにしては、なんだか不自然だ。人間が立てる乾いた靴音とは違う。もっとこう、そう、水を含んでいるような。まるで水辺を歩いているかのような、そんな音だった。
　ちなみに、空はからりと晴れて星が出ている。今日は一日晴れていたし、昨日もずっと晴れだった。あたりには水溜まり一つ、ない。
　そこまで考えた俺は、鬼堂さんの出かけ際の言葉を思い出した。

　――私がいない間は、くれぐれも気をつけてくださいね。

（どうやって気をつければいいんだよっ！）
　気付いて走り出そうとした俺の足に、狙ったかのように何かが絡まった。足がもつれて地面に転がる。痛い。ものすごく、痛い。打ち付けた膝を押さえて転がりながら、視線を足首に移す。縄か何かかと思っていたのに――予想の斜め上をいって、そこには海草が絡まっていた。
　ていうか、なんで海草？　ああ、なんか濡れてて気持ち悪いしっ！
　慌てて両手で海草を剥がそうともがく。そんな俺の目の前で、ぺたぺたという足音が止まった。月明かりに浮かび上がる、真っ白で凹凸のある体。甘いハニーブロンドに輝く巻き毛。彫刻のように端整な顔立ち。
　彼女が人間だったのなら、是非ともお近づきになりたいと思っただろう。もしも人間の女の子だったら、の話ですけどね！！
　頭の天辺から爪先まで濡れ鼠。全裸で海草を体に巻き付けた人間の美女なんて、どこの世界にいるっていうんだ。お近づきになりたいどころか、全力で遠ざかりたい。とはいえ、こういった経験は初めてではないから、俺の頭はすんなりとこの異常事態を受け入れたわけだけど。

「ちょ、待って、待った！　話し合おう。俺、英語できないけど、とにかく話し合おう。ストップ！　ストップ！　オーケイ？」

　女が首を傾げる。口をぱくぱくと開閉させているけど、そこから漏れるはずの声はない。俺は、ふと閉店間際に手に取った絵本を思い出した。――人魚姫。

　――もしも、おれが、おうじだったら、きみを、ひとりあわにしたりは、しないのに。

　薔薇の蕾にも似た唇が音を紡がずに、けれどはっきりとそう動いた。かぁっと頬に熱が昇るのを感じて、両手で顔を押さえる。恥ずかしいその台詞を呟いたのは、他でもない俺だった。

　――ほんとうに？

　全裸の海草美女――もとい人魚姫が、首を傾げて声には出さずに訊いてくる。

「そ、それは……」

　地面に転がったまま後退る俺の足を、彼女の手が掴んだ。氷のように冷たい。しっとりと濡れた体にのし掛かられて、身動きが取れなくなる。近付いた顔、赤い唇からはやはり冷たい吐息が零れて俺の唇を湿らせた。
　人魚姫の白い手が、ひたりと頬を撫でる。アイスブルーの瞳に覗き込まれて、俺は声を詰まらせた。
　氷の青。哀しみの青。孤独の、青。酷く切ない色をした瞳は、今にも泣き出してしまいそうに潤んでいた。

　――ねえ、ほんとうに、あなたなら、わたしをひとりにしない？

　頭の芯がぼうっとする。口を開くことのできない俺に焦れたように、人魚姫は俺の胸――心臓の上へと、冷たい手を乗せしっとりと撫でた。

　――すきだと、いってくれますか？

（ああ、深い海の底で眠りに就いていた彼女を起こしてしまったのは俺なんだ）
　本心だった。
　けれど、軽い気持ちで同情なんてしたら駄目だって鬼堂さんから常々忠告されていたのに。
　〈幻影書房〉鬼堂六さんが営むその店は、普通の古書店とは違う。以前の持ち主から強い思いを込められて思念を宿してしまった本屋、曰く付きの本ばかりを扱う――日常に住む人を非日常へと誘う店だった。
　俺は鬼堂さんの先輩だったという母の薦めでこの見せでバイトを始めて、初めて自分がこちら側の人間であることを知ったのだ。

「ああ、君はなんでも受け入れてしまうタイプなんですね」

　初めて会ったその日に、鬼堂さんからそう言われたことはよく覚えている。どういう意味なのかと訊く俺に、あの人は微笑とともに告げてきた。

「好かれやすいってことですよ。君の大らかさはね、うちの子たちにとっては明かりのようなものなんです。君を目指せば満たされるのだと、受け入れられるのだと、そう思わせてしまう」

　最初の頃こそ、その会話の意味も分からなかったが、こうして何度も奇怪な事件に巻き込まれると嫌でも自覚をする。俺が引き寄せるのか、それとも引き寄せられているのか――普通の人なら気付くことのないシグナルに、俺は応えてしまうのだ。彼女たちが一番欲しがっている言葉を、無意識のうちに与えてしまう。
　
　――ねえ、わたしの、おうじさま？

（あ、もう駄目かも）
　意識を手放せば、次の瞬間に俺はこの世界から消えているのだろう。そして、恐らく――この場に残ったただ一冊の絵本の結末が、ほんの少し変わっているに違いないのだ。
（それも、悪くはないかもしれない）
　嫌だと思う反面で、俺はふっとそんなことを思った。思念世界へ赴くことは、死ぬこととは違う。永遠に続けられる物語の世界。人の想いが綴る世界。

「そうしたら、君は救われるのかな」

　ぽつりと訊くと、人魚姫は笑った。悲しそうに、自分でも分からないといったふうに、瞳を細めた。その拍子に涙が一滴、俺の頬に落ちた。
（可哀想に）
　どうすれば救われるのか、何をすればいいのかも分からずに、俺を目指して出てきてしまった。そうして、本能のままに俺を求めている。
　冷えた頭の隅っこでそんなことを考えながら、俺はブロンドの髪にそっと手を差し入れた。

「ごめんな」

　人魚姫はふるふると首を左右に振る。そっと近付けられた唇に、俺は瞳を瞑り――
　諦めかけた、そのとき。不意にパンっと乾いた音が響いた。 




「瑠璃也君。うちの子に手を出さないでくれませんか」 

　辛うじて視線だけを動かす。街灯の下で、呆れたような顔をした男が一人、黒の革鞄を足下へと置いて両手を合わせている。

「あ、鬼堂さん」 

　体が、軽くなった。
　俺の上に圧し掛かっていた女の感触はなく、ただ一冊の本だけが胸の上にばさりと広がっている。鬼堂さんはこちらに歩いてくると、シルクの手袋をはめた手で本を摘み上げた。 

「やれやれ、今度は人魚姫ですか。瑠璃也君、あなたもよくよく本に好かれる人ですね。人間の女の子にはもてないのに」 

　呆れた声にむっとしたけれど、その言葉は正確に俺の痛いところを突いていて反論の余地がない。


「どうせ、またあなたが口説くようなことを言ったんでしょう」 
「言ってませんよ」 

　決まりが悪くなって小さな声でそう返したけれど、説得力なんてなかったんだろう。

「本は繊細なんですから気をつけてくださいと、いつも言っているはずなんですが……あなたも学ばない人ですね」
「うう、すみません」
「付いてきてしまうなんて、この子も余程あなたのことが気に入ったとみえます」

　溜息混じりに零しながら、鬼堂さんは俺にその本を差しだした。この世界を捨ててしまってもいい――と、ほんの一瞬だけ諦めてしまった自分を思い出すと、ぞっとせずにはいられなかった。受け取るのを躊躇う俺に、鬼堂さんはほんの少しだけ目つきを鋭くした。

「いらないんですか。冷たい人ですね。ここまで執着されてしまうと他の方には売れないので、あなたが受け取ってくれないのなら処分するしかないんですが――」

　穏やかな口調の中には有無を言わせぬものがある。俺は渋々、差し出された絵本を手に取った。

「も、もう出てきたりはしませんよね」 

　俺には鬼堂さんのような、思念を強制的に押し込める能力なんてない。次に彼女が出てきたとして――もしも迫られたら、そのときこそこの世界と別れる羽目になるのだろう。怯える俺に、鬼堂さんはひょいと肩を竦めた。

「多分ね」 



　＊＊＊




　最初に見たときよりも、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした女の横顔が表紙のその蒼い絵本は、今は俺の部屋の本棚に飾られている。鬼堂さんは“多分”と頼りないことを言ったが、今のところ彼女が本の中から出てきて再び俺に迫ってくる気配はない。代わりに彼女は俺の夢に現れて、にっこりと微笑むのだ。 
　傍にいられれば幸せとでもいうような、そんな健気さを可愛いと思ってしまうあたりが、やはり俺が鬼堂さんから「好かれやすい」と言われる所以なのだろう。悲しいことに人間の女の子に――ではなく、本にではあるが。 
　そんなことを考えながら、ページをめくる。結末を含む数枚が真っ白くなっていることに気付いて、俺は少しだけ口許を綻ばせた。 

「君は幸せになれたのかな」

　その問いかけに答えるように、窓から吹き込んできた風がばらばらと紙をめくった。やがて、一枚の押し絵で止まる。頬を健康的な色に染めて、微笑む彼女だ。夢の中と同じ笑顔に俺は安心した
　――夢の中でなら、いつでも君の王子になってあげられるから。
（って何を言ってんだ、俺は）
　彼女に向けて呟いた言葉が相変わらず酷く恥ずかしい台詞であることに気付いて一人頬を染めながら、俺は蒼の絵本を丁寧に棚へと戻した。



　幻影書房――
　そこは誰かを求める本が集まり、何かを求める人が惹かれ訪れる不思議な場所である。