【完結】フェイドアウト

有喜多亜里

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1 彼女の弟

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 目覚めたときには、すでに八時五分前だった。
 祥一しょういちの家から駅までは自転車で二十分ほどかかる。まさか本当に来はしないだろうとは思ったが、ベッドから跳ね起きて身支度を済ませ、一階への階段を駆け下りた。

「……しょうくん」

 顔も洗わず玄関に直行した祥一に、リビングから出てきた義母が声をかけてくる。
 髪を栗色に染めてボブにしているせいか、実母と同い年とは思えないほど若く見える。ごくごくたまに一緒に出歩くと、十中八九、姉弟に間違われる。
 どこも似ていないだろうとそのたび不快に思うのだが――かといって、父親によく似ているとも言われたくない――それを表情には出さない程度には成長した。が、一分一秒を争っているときに呼び止められれば、相手が義母でなくとも無言で睨み返したくもなるだろう。
 一瞬、義母は怯んだ。しかし、母親ならここで引き下がってはいけないと我に返ったように再び口を開いた。

「朝御飯は……」
「いらない」

 皆まで言わさず、祥一はスニーカーを突っかけて玄関を出た。そんな暇などないことくらい見てわからないのか。実母ならきっと笑ってスナック菓子でも投げて寄こした。
 たぶん、父はまたゴルフに出かけたのだろう。平日はもちろん、今日のような日曜の朝でも滅多に顔を合わせない。合わせる気がない。できるものなら祥一は高校を飛ばして大学に入りたかった。もちろん、ここから通えないほど遠く離れた大学に。

 ――来ないよな。

 全速力で自転車を走らせながら、何度も心の中で繰り返す。
 だが、その一方で来ていることを期待している。そうでなかったら、もうとっくに八時を過ぎているのに、これほど急いだりはしない。
 しかし、それは認めがたかった。あれは気まぐれだった。冗談だった。何だかいじらしく思えてきて、だから言ってみた。それだけだった。少なくとも祥一はそう思いたかった。
 夏休み中の日曜の朝は、普段と人通りも変わらない。
 通行人たちの非難がましい視線を幾度も浴びながら、祥一はただひたすら自転車を走らせつづけた。
 今日もまた、暑い一日になりそうだった。

 * * *

 普通は『ちょっと話したいことがあるから中庭に来て』と言われた時点で察するのだろう。しかし、祥一は不審に思いつつも、その可能性についてはまったく考えなかった。

「好きなの」

 人気のない中庭で、震えながら狭山さやまかおるは言った。
 三年生になって初めて同じクラスになった。名前は知っていたが、これまで会話したことはほとんどない。驚くよりも唖然とした。

「あの……突然、こんなこと言われて迷惑だろうとは思うけど……もう受験で、後がないでしょ? だから、その前に言っておきたくて……」

 長い黒髪が印象的な薫は、クラスの女子の中では可愛い部類に入っていて、しかも性格も可愛いというので男子にひそかに人気があった。が、その男子の中に祥一は含まれていなかった。
 別に女より男が好きなわけでもない。しいて言うなら、人間が嫌いだ。だから、友人と呼べる存在も今はいない。
 中二のとき、派手で陽気で料理下手だった母親が病死して、それからほどなく一見清楚で料理上手なあの女が自分の母親になった。母親の親友として付き添いもしていたあの女が。――たぶん、そのときから女も男も嫌いになった。
 薫はうつむいて、もじもじしながら祥一の返事を待っている。好きだから、だから何だと意地悪を言いたい気分になったが、でもまあ、ちょっとくらいつきあってみるのも悪くないかと思った。

「つきあおうか?」

 自分でもびっくりするくらい自然に言えた。

「え……いいの?」

 薫がはっと赤い顔を上げる。祥一は思わず眉をひそめた。

「じゃあ、何で言ったんだ?」
「だって……そんな……全然期待してなかったから……」

 ――期待してないんなら、どうして「告白」なんかするんだ?
 とまどったように答える薫を見ながら、祥一はそう思わずにはいられなかった。
 何はともあれ、その日の帰りから、祥一は薫と登下校を共にしはじめた。
 クラスの何人かからやっかみの混じった冷やかしを受けたりもしたが、そのうち祥一が薫とつきあっていることは日常の一部と化してしまい、別段何も言われなくなった。
 薫のほうも、最初は祥一と一緒にいるだけで精一杯という様子だったのに、徐々に教室の中でも話しかけてくるようになり、やがて馴れ馴れしいくらい平然とした態度をとるようになった。名前の呼び方も「小川おがわくん」から「祥一くん」、しまいには「祥くん」に変わってしまっていた。
 薫のその変化は、嫌でもあの女――本当のお母さんだと思ってねと笑って言ったあの厚顔無恥な女――を連想させた。たぶん、卒業前にこのつきあいは終わる。そんな思いもあって、祥一は頑なに薫を「狭山」と呼びつづけた。

「ねえ、今日、うちに寄ってかない?」

 薫がそう口を切ったのは、学校から駅へ向かう道のりの途中、五月も半ばを過ぎた頃のことだった。

「狭山の?」
「うん。来週、中間あるから一緒に勉強したいなって思って。祥くんに教えてもらいたいところもあるし」

 それまで祥一は薫の家には一度も行ったことがなかった。二人とも同じ路線の電車で通学していたが、降りる駅は違っていたからだ。

「そりゃ、別にいいけど」

 いったいどういう風の吹き回しだと思いながら祥一は続けた。

「でも、俺が行っても大丈夫なのか? 親は?」
「大丈夫。お母さん、今日はパートなの」

 ああ、そういうことなのかと祥一は納得した。同時に、顔には出さずに冷笑した。
 薫の家には駅から十分ほど歩いて着いた。近所の家と見分けがつかない、二階建ての白い家だった。
 その家の玄関ドアを薫が解錠して開けた、その瞬間、かすかだがなぜか線香のような匂いがした。だが、頭が痛くなるほど芳香剤が使われている自宅よりずっと好ましい。そう思いながら、近年他人の家を訪ねたことがなかったことに今さらながら気がついた。

「ここにいて。今、何か作るから。パスタでいいかな」

 リビングに祥一を通した後、薫がキッチンに向かいかけた、まさにそのとき。

「ただいまーッ! 薫姉かおねえ、腹減ったーッ!」

 玄関でそんな傍若無人な大声が響いたかと思うと、どたばたと廊下を駆ける音がして、リビングの扉が乱暴に開かれた。
 一瞬、祥一は我が目を疑った。――薫が二人いる!

「あ……れ?」

 扉を開けた〝薫〟は、眼前に祥一を認めて呆然としていた。紺のブレザーではなく黒い学ランを着ていて髪も短い。すぐに決まり悪そうな顔になり、「ごめん、薫姉、来てたの」と言った。

「もーっ、あんたは! 玄関見てわかんなかったの?」

 黒目がちの目をいからせて、薫が自分と同じ顔を睨みつける。

「ごめんごめん! 俺、外で飯食ってくるから! ははっ、薫姉、うまくやんなよ!」
「ばかっ!」

 照れて真っ赤になっている薫にかまわず、もう一人の〝薫〟は豪快に笑うと、また外に飛び出していった。
 台風一過。そんな表現がぴたりとした。

「ごめんね。あたし、弟がいるって言ってたでしょ。あれがそうなの」

 あっけにとられていた祥一に、薫があわてて説明する。

「ああ、弟か。……双子?」
「ううん、年子。でも、そっくりだから、いつも双子に間違えられるの。香島高校の二年生」
「へえ……」

 薫そっくりで、薫とはずいぶん仲もいいらしい弟。珍しく興味が湧いた。

「弟、何て名前?」
あきら。〝にちへん〟に〝光〟って書くの。フリガナないと読めないってよく言われてる」
「……確かに読めない」

 しかし、それだけにその名前は祥一の記憶に強く残った。――忘れてもよかったのに。
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