【完結】フェイドアウト

有喜多亜里

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2 映画館(前)

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 薫がその話を持ち出したのは、学校帰りの電車の中でだった。

「今、どうしても見たい映画があるんだけど……映画館で一人で見るのは寂しいから……」
「映画? 何の?」

 特に行きたいわけでもなかったが、面白そうな映画だったら見にいってもいいなと祥一は思った。
 薫は今話題になっている洋画の名前を挙げた。

「あ、あれか。それならいい。じゃ、いつ行く?」
「え、ほんと? ほんとに行ってくれるの?」

 向かいの席から不安げにこちらを見ていた薫がぱっと表情を輝かせる。これほど簡単に話に乗ってくるとは思っていなかったのだろう。それまで祥一は学校と薫の家以外のところへ一緒に出かけたことはなかった。

「ああ。俺もそれは面白そうだと思ってたから。で、いつ?」
「じゃあ、今度の日曜は? 何か用事とかある?」

 口早に薫が言った。喜びのあまり、彼女の目は潤んできらきらと光っていた。
 それほど喜ぶようなことかと内心とまどったが――これがいわゆる初デートになることに薫と別れてから初めて気がついた――大丈夫、行けると答えた。
 そして、今日。

「おっせえなー」

 苛立って、また自分の腕時計に目を落とす。
 家に携帯電話を忘れてきてしまったことに祥一が気づいたのは、薫が利用している駅の待合室で携帯電話をいじっている人々を見かけたときだった。
 自分一人だったら取りに戻っていたかもしれない。だが、今日は薫がいる。携帯電話がなくてもどうにかなるだろうと待合室で薫を待っていたが、約束の時間を十分も過ぎても彼女は姿を見せなかった。

 ――寝坊でもしたのか?

 乗る予定だった電車が出ていく音を聞きながら祥一は思った。
 映画は電車で近くの大きな街まで行って見、そこで昼食もとるつもりだった。誘ってきたのはそっちのくせにと腹が立ったが、あれほど喜んで、それからも今日の日をずいぶん楽しみにしている様子だった薫が、理由もなく約束を破るとは考えにくい。

 ――電話してみるか。

 嘆息して公衆電話のところへ行こうとしたときだった。

「小川さんッ!」

 後ろから急に腕を引っ張られた。

「うわっ!」

 あわてて振り返ると、そこに息を切らせた晄がいた。
 赤のギンガムシャツにブルージーンズ。もともと少女めいた晄だが、学生服を着ていないといよいよボーイッシュな少女めいて見えた。

「おまえ……どうしてこんなとこに……」

 あれからも薫の家には何度か行った。しかし、鉢合わせしないように何か策でも練ったのか、晄に会ったことは一度もなかった。

「でもまあ、ちょうどよかった。今、狭山に電話しようとしてたとこだったんだ。狭山、今何してる?」
「そ、そのことなんですけど……」

 やっといくらか落ちついてきた晄は、いかにも決まり悪そうに言った。

「薫姉、急に熱出しちゃって……今、三十八度以上もあるんです。それで小川さんに連絡しようとしたんですけど、携帯つながんなくて……小川さんの家電のほうにかけたら、もう出かけたって言われて……だから俺、必死でチャリすっとばして来たんですけど……」
「熱ーッ?」

 祥一は思わず声を張り上げた。仮病だろうかと一瞬ちらりと考えたが、本当に申し訳なさそうな顔をしている晄を見るかぎり、嘘をついているようには思えない。

「悪いな。俺、家に携帯忘れてきちまったんだ」

 どうしてたまたま携帯電話を忘れたときに限ってこんなことが起こるのか。そう思いながらも祥一は晄に詫びた。

「ああ……そうだったんですか……」

 晄はほっとしたような表情をした。祥一に無視されているとでも思っていたのだろうか。

「ほんとはもっと早く連絡すればよかったんですけど……遅くなってすいません」
「別に、おまえがそんなに謝ることないだろ」

 まるで自分のことのように平謝りに謝る晄に、祥一は逆に怒りを覚えた。

「熱出して来れなかったのは狭山なんだし。でも、狭山が来れないんじゃ、今日一日ヒマになっちまったな」
「……すいません」

 うなだれるように晄は頭を下げた。

「本当にごめんなさいって謝っといてくれって薫姉言ってました。たぶん、明日も学校休むと思います。……じゃあ俺、帰ります。今日はほんとにすいませんでした」
「あ、おい、ちょっと待てよ!」

 そのまま外へ出ようとした晄をあわてて呼び止める。

「おまえ、今日ヒマか?」
「は?」

 晄はまったく予想外のことを言われでもしたかのようにぽかんと口を開けていた。が、すぐに何か警戒でもしているかのように、「ヒマですけど……それが?」と注意深く問い返してきた。

「いや、ヒマならおまえ、これから映画見に行かないか?」

 軽い調子で祥一は言った。

「せっかくここまで来て、これから帰るのも一人で見に行くのも何だから。嫌ならいいけど、どうする?」
「ど、どうするって……!」

 一転して、急に晄が狼狽しだす。

「俺、急いで出てきたから、金持ってないし!」
「おまえ一人ぐらいならおごってやるよ」
「でも、小川さんに悪いし、それに……」
「それに?」

 晄は上目使いに祥一をちらっと見ると、うつむいて呟くように言った。

「何か……薫姉に悪いなあって思って……」
「何でだよ」

 いきなり熱を出して今日の予定をふいにしたのは薫のほうだろう。そして、晄はそんな姉のためにわざわざ駅まで謝りに来たのだ。別にそこまでしなくても、あの女に伝言しておくとか祥一からの電話を待つとかしておけば、それで済んだことなのに。

「狭山がおまえにここに行けって言ったのか?」

 もしそうだったとしたら何て勝手な女だろうと祥一は思った。

「いや、違います! 俺が自分から言い出したんです!」

 とんでもないとでもいうように晄がかぶりを振る。

「薫姉が約束すっぽかしたって思われるの、俺が嫌だったから!」
「ふーん。おまえってほんと、姉貴思いなんだな」

 祥一は素直に感心した。ここまでしてくれる弟ならいてもいいなと思った。たぶん、あの女の年齢ではもう無理だろうが。

「そんな……姉貴思いってわけじゃ……」

 晄は照れたように笑って頭を掻いたが、ふと笑うのをやめて真顔になった。

「あの……」
「何だ?」
「あの……やっぱり俺、今から急いで財布取りに戻ります……」
「何だよ。まだそんなこと気にしてたのかよ。今日はもう待つのはうんざりだ。どうしても気になるんなら、あとで遣った分払えばいいだろ」
「……それもそうですね」

 そう呟くと、晄ははにかむように笑って祥一を見た。

「なら、そうさせてもらおうかな」
「じゃ、決まりだな。おまえの分も切符買っちまうぞ」

 祥一は切符売り場に向かって歩き出した。晄もその後に続こうとしたが、突然「あっ!」と叫んで身を翻す。

「すいません! やっぱ少し待っててくれますか!」
「今度は何だよ。金ならかまわないって言っただろ」
「そうじゃなくて、チャリ! 俺、チャリぶん投げてきちゃったから、ちゃんと自転車置場に入れてきます! 鍵もかけて!」

 そう叫び終わるか終わらないかのうちに、晄はドアの外へと飛び出していった。
 まるで初めて薫の家で会ったあのときのようだ。祥一もまたあのときと同じようにあっけにとられて見送っていたが、ふとおかしくなって笑った。
 同じ顔をしているのに、薫といてこれほど愉快な気分になったことは一度もなかった。
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