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第七章 毒
①
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ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
吐き気がする。汗でベトベトする。目の前がかすんで、くらくらする。ここまで辛いのは、初めてかもしれない。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
蝦名 敏也は、布団の中で呻いた。隣の部屋で寝ている弟に気づかれないように、注意を払いながら。助けを求めるかのように、叫んだ。病気じゃない。健康体だ。十分学校に行ける状態だ。
だからこそ、苦しい。息が出来ない。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
その音が耳を貫く度、心臓が地に落ちるような絶望感。体中が抵抗している。どんなに力を入れても、腕さえ上がらない。
目覚まし時計が唸る。それは、一日の始まり。今日が始まる。
「いやだ、いやだ、いやだあ」
時間が止まればいいのに。このまま。布団の中で、先の人生を過ごしたい。誰とも関わることなく。このまま。そうすることが出来たら、どんなにいいだろうか。どんなに救われるだろうか。
「げほっ」
苦しみは。吐き出したくても吐き出せなくて。代わりに咳が湧きおこる。でも、吐き気は収まらない。増幅するばかりだ。ヨウイチの見下した眼。ショータの馬鹿にした笑い声。芳沢マリカの、汚いものを見るような、顔つき。
(うらぎりもの……。うらぎりもの……。死ね。死んじまえ)
みんなみんなみんな。俺の不幸を楽しむ敵だ。世界をまるごと殺したい。なんて、そんなのは妄想でしかなくて。今日も、俺に待っているものは。
「げほっ、ああ、げほっ」
咳が止まらない。1013ヘクトパスカルをひしひしと感じる。全身を押さえつけられながら、潰されそうになりながら。何のためなのか俺は、その全てに抗う。やめてくれ、と泣き叫ぶ心を慰める。
がんばろうよ。昨日だって一昨日だって、頑張れたじゃないか。我慢できたじゃないか。大丈夫。今日も乗り越えられるよ。
起き上がれ。
道を渡ろうと、車が途切れるのを待つ。こういうシチュエーションが、俺は怖い。目の前を走る車のひとつひとつが、怖くて仕方ない。まるで、自分が飛び出してしまいそうで。
こういうとき、自分の中の自殺願望に気づく。
べつに驚くこともない。道の真ん中に飛び出して、散らばっていく俺の体。そんな映像が頭をよぎる。だから、足に力を込める。自分が走り出していかないように。
「べつに死んだら死んだだけど」
呟きは、車の走行音にかき消された。
すごいな。「死」はすぐ近くにある。今、この足を踏み出せば。次の瞬間にはもう、俺はいない。死んでいる。この先の世界を見ることはない。
「はあ、毎日つまんないな。いいことないかな」
ふと、俺の中のくすんだ世界に、場違いな声が紛れ込んだ。
「昨日絵で表彰されてたじゃん。あ、青だよ、渡ろ」
スクールバッグを肩にかけた、男子と女子。中一の俺の弟と同じぐらいだろうか。二人とも整った顔立ちだ。楽しそうに会話する彼らを尻目に、俺は重い足をひきずる。向かう先は学校。俺にとっての地獄。
いいことないかな。なんて。なんて贅沢な言葉。そんなことが言える奴は幸せ者だ。
きっと、自殺なんてワードがかすめることもないんだろう。
もっと現状に感謝するべきなのに。退屈とはつまり平和だ。変わりのない平和な毎日に感謝するべきなのだ。どうして気づけないんだろう。
「そういうことじゃなくてさあ。千愛は良いよね、クラスに友達とか居てさ。あのー、ひいらぎだっけ? あの子」
「莉子はすごく素敵なお友達だよ。えへへ、うらやましいでしょ」
「うらやましいよ。ほら、楽しそうだ。俺なんかさ」
「なに言ってるの。有ちゃんは学校中の憧れなんだよ? もったいないなあ。人見知りなんだから」
「人間が苦手なんだよ」
「馬鹿なこと言って。もう、おおげさだよ」
別の世界が、軽やかに俺の横を通り過ぎる。世界中の他人が、恨めしい。くだらない。どいつもこいつも俺の敵だ。
「いやー、きたきた、トッシー。ちょお、マジやばい。一段とキモイ」
「おいい、本人の前なんですけどー。てか、もういいから。関わんのNGで」
「なに言ってんの、もー、マリカあ。その気もないくせに優しくした罰でしょー」
けらけらけらけら。俺を囲む、気味の悪い笑い声。怖くて、足が動かない。女は無邪気だ。そして、残酷だ。真っ白な笑顔で、天使のようにキラキラと。俺の心を削っていく。
「いや、あれ本気にする? フツー」
「まあ、蛯名をネタにしてたのは明らかだったけどさあ」
「そんなん、トッシーは気付かないでしょ。純粋なんだからさ。かわいそー。泣けてきた」
「ばか、笑ってるじゃん」
罪の意識が、まるでない。純粋にいとも簡単に。俺を突き落とす。
「ね、トッシーはマリカが好きなんでしょ」
「いや、そんな……」
「きゃはは、まさかの否定―。マリカフラれてるし」
「やばい、蝦名敏也にフラれるとか許せんし。あはは」
逃げて、いいだろうか。
また笑われるのだろうけど、ここにいたら危険だ。意識が保てるうちに、逃げなくちゃ。これ以上ないと思っていたのに。
どうして。昨日より辛い。きっと明日は、もっと。何年待てば終わるのだろうか。終わりが見えない。
「やっほー。とっしー。昨日ぶりー」
「!!」
全身が痺れるような。声を聞くことすら、拒絶反応。視点が定まらない。
足が不安定だ。ぐらぐらする。なみだ、出ていないだろうか。目頭がジンジンする。あつい。
「よお、蝦名。俺今お前にめっちゃムカついてんの。理由わかんだろ、おい」
こわい。こわい。逃げたいのに足が縫い付けられたみたいに、動かない。殺される。
「あはは、超怯えてんね。見てて気持ちいいわ。あはは」
吐き気がする。汗でベトベトする。目の前がかすんで、くらくらする。ここまで辛いのは、初めてかもしれない。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
蝦名 敏也は、布団の中で呻いた。隣の部屋で寝ている弟に気づかれないように、注意を払いながら。助けを求めるかのように、叫んだ。病気じゃない。健康体だ。十分学校に行ける状態だ。
だからこそ、苦しい。息が出来ない。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ。
その音が耳を貫く度、心臓が地に落ちるような絶望感。体中が抵抗している。どんなに力を入れても、腕さえ上がらない。
目覚まし時計が唸る。それは、一日の始まり。今日が始まる。
「いやだ、いやだ、いやだあ」
時間が止まればいいのに。このまま。布団の中で、先の人生を過ごしたい。誰とも関わることなく。このまま。そうすることが出来たら、どんなにいいだろうか。どんなに救われるだろうか。
「げほっ」
苦しみは。吐き出したくても吐き出せなくて。代わりに咳が湧きおこる。でも、吐き気は収まらない。増幅するばかりだ。ヨウイチの見下した眼。ショータの馬鹿にした笑い声。芳沢マリカの、汚いものを見るような、顔つき。
(うらぎりもの……。うらぎりもの……。死ね。死んじまえ)
みんなみんなみんな。俺の不幸を楽しむ敵だ。世界をまるごと殺したい。なんて、そんなのは妄想でしかなくて。今日も、俺に待っているものは。
「げほっ、ああ、げほっ」
咳が止まらない。1013ヘクトパスカルをひしひしと感じる。全身を押さえつけられながら、潰されそうになりながら。何のためなのか俺は、その全てに抗う。やめてくれ、と泣き叫ぶ心を慰める。
がんばろうよ。昨日だって一昨日だって、頑張れたじゃないか。我慢できたじゃないか。大丈夫。今日も乗り越えられるよ。
起き上がれ。
道を渡ろうと、車が途切れるのを待つ。こういうシチュエーションが、俺は怖い。目の前を走る車のひとつひとつが、怖くて仕方ない。まるで、自分が飛び出してしまいそうで。
こういうとき、自分の中の自殺願望に気づく。
べつに驚くこともない。道の真ん中に飛び出して、散らばっていく俺の体。そんな映像が頭をよぎる。だから、足に力を込める。自分が走り出していかないように。
「べつに死んだら死んだだけど」
呟きは、車の走行音にかき消された。
すごいな。「死」はすぐ近くにある。今、この足を踏み出せば。次の瞬間にはもう、俺はいない。死んでいる。この先の世界を見ることはない。
「はあ、毎日つまんないな。いいことないかな」
ふと、俺の中のくすんだ世界に、場違いな声が紛れ込んだ。
「昨日絵で表彰されてたじゃん。あ、青だよ、渡ろ」
スクールバッグを肩にかけた、男子と女子。中一の俺の弟と同じぐらいだろうか。二人とも整った顔立ちだ。楽しそうに会話する彼らを尻目に、俺は重い足をひきずる。向かう先は学校。俺にとっての地獄。
いいことないかな。なんて。なんて贅沢な言葉。そんなことが言える奴は幸せ者だ。
きっと、自殺なんてワードがかすめることもないんだろう。
もっと現状に感謝するべきなのに。退屈とはつまり平和だ。変わりのない平和な毎日に感謝するべきなのだ。どうして気づけないんだろう。
「そういうことじゃなくてさあ。千愛は良いよね、クラスに友達とか居てさ。あのー、ひいらぎだっけ? あの子」
「莉子はすごく素敵なお友達だよ。えへへ、うらやましいでしょ」
「うらやましいよ。ほら、楽しそうだ。俺なんかさ」
「なに言ってるの。有ちゃんは学校中の憧れなんだよ? もったいないなあ。人見知りなんだから」
「人間が苦手なんだよ」
「馬鹿なこと言って。もう、おおげさだよ」
別の世界が、軽やかに俺の横を通り過ぎる。世界中の他人が、恨めしい。くだらない。どいつもこいつも俺の敵だ。
「いやー、きたきた、トッシー。ちょお、マジやばい。一段とキモイ」
「おいい、本人の前なんですけどー。てか、もういいから。関わんのNGで」
「なに言ってんの、もー、マリカあ。その気もないくせに優しくした罰でしょー」
けらけらけらけら。俺を囲む、気味の悪い笑い声。怖くて、足が動かない。女は無邪気だ。そして、残酷だ。真っ白な笑顔で、天使のようにキラキラと。俺の心を削っていく。
「いや、あれ本気にする? フツー」
「まあ、蛯名をネタにしてたのは明らかだったけどさあ」
「そんなん、トッシーは気付かないでしょ。純粋なんだからさ。かわいそー。泣けてきた」
「ばか、笑ってるじゃん」
罪の意識が、まるでない。純粋にいとも簡単に。俺を突き落とす。
「ね、トッシーはマリカが好きなんでしょ」
「いや、そんな……」
「きゃはは、まさかの否定―。マリカフラれてるし」
「やばい、蝦名敏也にフラれるとか許せんし。あはは」
逃げて、いいだろうか。
また笑われるのだろうけど、ここにいたら危険だ。意識が保てるうちに、逃げなくちゃ。これ以上ないと思っていたのに。
どうして。昨日より辛い。きっと明日は、もっと。何年待てば終わるのだろうか。終わりが見えない。
「やっほー。とっしー。昨日ぶりー」
「!!」
全身が痺れるような。声を聞くことすら、拒絶反応。視点が定まらない。
足が不安定だ。ぐらぐらする。なみだ、出ていないだろうか。目頭がジンジンする。あつい。
「よお、蝦名。俺今お前にめっちゃムカついてんの。理由わかんだろ、おい」
こわい。こわい。逃げたいのに足が縫い付けられたみたいに、動かない。殺される。
「あはは、超怯えてんね。見てて気持ちいいわ。あはは」
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