政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました

宮野夏樹

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第1章 溺愛が解き放つまで

08.陰謀の晩餐会

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 王都イシュタリアで最も格式高いとされる慈善晩餐会が、王城内の大広間で盛大に催された。きらめくシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、会場全体を幻想的に彩っていた。

 軍事と外交を担うヴァレリオ公爵家の当主ジュリアンと、その新妻リシェルも招かれたこの夜は、王国中の貴族が集い、豪華絢爛な衣装で社交に興じる、まさに“上流階級の見本市”であった。それぞれの思惑が交錯し、視線が飛び交う華やかな舞台だ。

 リシェルは、シャルロッテが選んだ淡いブルーのシルクドレスを身に纏っていた。シャルロッテは「地味すぎず、派手すぎず、公爵夫人にふさわしい清楚さを」と強調してこの色を選んだのだ。

 細やかな銀の刺繍が施されたドレスは、彼女の白い肌と栗色の髪を一層引き立て、まるで冬空に舞う一片の雪のような気品を纏っていた。髪はエミリアの手で完璧にまとめられ、うなじのラインが美しく強調されている。胸元には小ぶりながらも輝きのある宝石が添えられているが、その輝きはリシェルの控えめな美しさを引き立てる程度に抑えられていた。

 侍女の努力の甲斐あって、リシェルの姿はまさしく“完璧な公爵夫人”そのものだった。その完璧な姿は、どこから見ても非の打ち所がなく、周囲の視線を集めた。

 隣を歩くジュリアンは、漆黒の礼服を寸分の隙もなく着こなし、ヴァレリオ公爵家の威厳と品格を余すところなく示していた。

 その整った容貌と威厳ある佇まいで、入場の瞬間から周囲の視線を一身に集めていた。彼の表情はいつも通り冷静沈着で、感情の動きは微塵も感じられない。だが、その完璧な面持ちの裏では、彼の理性が静かに悲鳴を上げていた。

(はあああ……なんという美しさ……いやしかし……いつもの、あの小リスみたいな愛らしさがどこにもない……!  完璧すぎて、手が届かない……。)

 ジュリアンは、リシェルが纏う完璧な淑女のオーラに、魅了されながらも、どこか寂しさを感じていた。彼が書斎や庭園で見た、素のリシェルの生き生きとした表情が、今ここにはない。その事実が、彼の胸を締め付けていた。彼女が、自分のために、これほど完璧な仮面を被っているのだと思うと、切なさすら感じた。

 リシェルは、ジュリアンの隣で完璧な淑女の微笑みを浮かべ、控えめに彼に言葉をかけた。

「ジュリアン様、本日も素晴らしい夜ですわね。このような慈善の集いに参加できますこと、光栄に存じます」
「……ああ、そうだな。君も、疲れていないか?  顔色が悪く見えないか、心配だ」

 ジュリアンの問いかけに、リシェルは微かに眉をひそめた。彼の言葉には、彼女の体調を気遣う優しさが滲んでいたが、同時に「完璧な淑女」としての仮面が揺らいでいることを指摘されたようにも感じたのだ。

 その姿は、まるで宮廷画に描かれる理想の夫婦そのものであり、貴族たちは羨望と賞賛の目を向けた。「やはり公爵夫妻は絵になる」「完璧な夫人だ」といった囁きが、会場のあちこちから聞こえてくる。

 だが、リシェルの内心は穏やかではなかった。背筋を正し、笑顔を絶やさず振る舞いながらも、その瞳の奥には張り詰めた緊張の色が滲んでいた。呼吸をするたびに、コルセットが胸を締め付け、息苦しさを感じていた。



 リシェルの“完璧な演技”は、もちろんシャルロッテの入念な教育と準備の賜物だった。シャルロッテは、リシェルが少しでも完璧さを欠けば、ジュリアンが幻滅し、自分に振り向くと信じていた。だがそのシャルロッテ本人は、離れた場所からリシェルの一挙手一投足を睨むように観察していた。彼女の瞳は、鷹のように鋭く、リシェルのわずかな綻びも見逃すまいとしていた。

(あの子リス女……まさか、ここまで演じ切るとは……!  私の言いつけ通りに動いているのが、気に食わないわ!  あんなに完璧に演じられるなんて、まるで私が愚かであるかのように見えてしまう……!)

 焦りと苛立ちを押し隠し、シャルロッテは、わざとらしく隣のフォレット伯爵夫人に話しかけた。フォレット伯爵夫人は、社交界の噂話が大好きなことで有名だ。シャルロッテは、その夫人の好奇心を刺激すれば、たちまち噂が広まることを知っていた。

「ご覧になって、フォレット夫人。ヴァレリオ公爵夫人になられたリシェル様、本当に立派な淑女になられましたわ。見事なものです」
「ええ、本当に!  お美しい方ですわね」

 フォレット伯爵夫人は、リシェルの美しさに感嘆の声を上げた。シャルロッテは、ここぞとばかりに微笑んだ。

「そうでしょう?  でもね、昔は、男の子のように無邪気で、毎日の学術書を読みふけり、論詰めでとある男爵令息を泣かせたり……」
「まあ!  そんな時代があったのですか?  信じられませんわ!」

 伯爵夫人は目を輝かせた。彼女の興味を引くことに成功したシャルロッテは、さらに言葉を続けた。

「ええ、私が何度も礼儀作法を叩き込んだものですわ。今では、まるで別人のよう。ヴァレリオ公爵様も、さぞご苦労されたことでしょうね。公爵夫人にふさわしい淑女として、彼女を育て上げなければならなかったのですから」

 あくまで親しみと称賛を装いつつ、シャルロッテはリシェルの過去を“暴露”するような言葉を繰り出していく。彼女の言葉は、まるで「リシェルは、私が手を加えてようやく淑女になれたのだ」と言外に示しているかのようだった。会場の空気はさざ波のようにざわつき始め、貴族たちの視線が徐々にリシェルに集まり始めた。「あの完璧な公爵夫人が、まさか?」という疑問の眼差しが、リシェルに向けられる。

(シャルロッテ……やってくれたわね。この期に及んで、私の過去を……!)

 リシェルは心の中で毒づきながらも、笑みを崩さず、貴族たちとの会話を続けた。彼女の顔は、微動だにしなかった。このような公衆の場で感情を表に出すことは、敗北を意味する。ましてや、公爵夫人としての品位を損なう行為は、絶対に避けなければならない。

 彼女は、シャルロッテの企みに気づきながらも、ただ耐えるしかなかった。胸の奥で、じりじりと熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 だが、その均衡は思わぬ形で破られることになる。



 晩餐会も中盤に差しかかった頃、会場の隅で、一人の給仕が足を滑らせた。彼は、豪華な装飾が施された大きな花瓶を、盆に載せて運んでいたのだ。

 その勢いで、花瓶は給仕の手から離れ、傾き、倒れかけた。花瓶の中にはたっぷりと水が入っており、もし床に落ちれば周囲のドレスや礼服を汚し、混乱は必至だった。特に、その花瓶の近くには、王妃陛下のドレスの裾が触れるかどうかの位置にあり、もし倒れてしまえば、一大事になりかねない。


「危ない!」


 誰かの叫び声とともに、視線が一斉に集まる。その瞬間、ジュリアンも動こうとした——しかし、その前に、彼の隣から一陣の風のように走り出した者がいた。その動きは、淑女のそれとはかけ離れた、敏捷で力強いものだった。

「このっ!」

 それは、ドレスの裾をたくし上げて飛び出したリシェルだった。彼女は一瞬の迷いも見せず、倒れかけた花瓶に駆け寄り、両腕で胴体をがしっと抱え込んだ。その動きは、まるで訓練された兵士のようだった。彼女の行動は、反射的であり、計算されたものではなかった。

 水の重みでふらつきながらも、リシェルは歯を食いしばって踏ん張った。彼女の腕の筋肉が隆起し、足元はしっかりと地面に根を張っていた。

 その顔には、日頃の“おしとやか令嬢”の面影はなかった。代わりに現れたのは、まるで戦場の一線に立つ騎士団長のような真剣な眼差しだった。その瞳は、集中力と決意に満ちていた。乱れた髪、ずれたドレス、それでも花瓶を必死で支えるリシェルの姿は、周囲の視線を釘付けにした。

 会場にいた誰もが、息を呑み、その光景を見守っていた。


「奥様!  お見事です!」


 レオンが誰よりも早く駆け寄り、リシェルを支えた。彼の顔には、心底からの賞賛が浮かんでいる。彼の目には、リシェルの真の強さが、何よりも美しく映っていた。

「さすが、姫頭ひめがしら!  その胆力、並大抵のものではありませんぞ!」

 レオンの言葉は、彼の心からの感嘆を物語っていた。給仕たちもすぐに駆けつけ、花瓶は無事、安全な場所へと運ばれた。床には一滴の水もこぼれていなかった。

 会場は再びざわつき始めたが、それは先ほどまでとは違う意味を持っていた。驚嘆、感嘆、そして尊敬——人々は、リシェルの“仮面の奥”にある本当の姿に気づき始めていたのだ。「あれが公爵夫人……」「なんて勇敢な」「美しいだけではない、真の淑女だ」といった声が、会場のあちこちから聞こえてくる。王妃陛下も、リシェルの行動に感銘を受けた様子で、静かに拍手を送っていた。



 シャルロッテは、その様子を目の当たりにし、青ざめた顔で口元を押さえた。彼女の計画は、完全に裏目に出たのだ。リシェルの欠点を晒すどころか、彼女はその強さと優しさを世に知らしめてしまったのだ。彼女の顔は、嫉妬と屈辱で歪んでいた。

 一方のリシェルは、息を整えながらふと我に返り、ジュリアンの方を恐る恐る見た。彼の視線は、真っ直ぐに自分に向けられていた。

(しまった……私としたことが!  これはもう、“おしとやか”どころじゃない!  公爵夫人の品位を……)

 恥じらいと後悔で顔を赤らめるリシェルに、ジュリアンはゆっくりと、しかし確かな足取りで歩み寄った。彼の顔には、普段の無表情はなかった。そこに浮かんでいたのは、深い感動と、そして、今まで見たことのないほどの優しい感情だった。

「リシェル……怪我はないか?  無茶をして……」

 その声には、震えるほどの感情がこもっていた。彼の瞳は、彼女への深い愛情と、誇らしさで満たされていた。リシェルはその問いかけに、ほっと安堵の息をついた。彼が、自分を責めるどころか、気遣ってくれていることに、心の底から安心したのだ。

「……大丈夫、ですわ」

 その瞬間、ジュリアンは彼女の手を取り、優しく包み込むように囁いた。彼の指先が、リシェルの手の甲についたわずかな土をそっと払う。

「君の強さが、誇らしい。まさに、私の妻にふさわしい。君は、誰よりも美しい」

 慈善晩餐会という晴れの舞台で、リシェルは社交界に“完璧な夫人”ではなく、“本物の彼女自身”を示した。その姿は、誰よりもジュリアンの心を打ち抜き、そして、周囲の評価を根本から変えていくことになる。

 その夜、社交の仮面の裏で咲いた一輪の“真実の花”は、確かにイシュタリアの貴族社会に新たな風を吹き込んだ。それは、単なる勇敢な行いとしてだけでなく、公爵夫人の新しいあり方を示す出来事として、長く語り継がれることになるだろう。

 リシェルの心には、ジュリアンの言葉が温かく響いていた。そして、彼女は、もう自分を偽る必要はないのかもしれない、と感じ始めていた。
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