悪役令嬢不在の世界で、ヒロインは自分を苛め始めた

宮野夏樹

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悪役令嬢不在の世界で、ヒロインは自分を苛め始めた

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 この世界は、わたし───伯爵令嬢クリスティアナ・エインズワースが前世で、視力が落ちるまで画面に齧り付いて遊び倒していた乙女ゲーム、『薔薇の宮廷恋物語』そのものだった。

 王都の象徴である王立ガレア貴族学園。天を突くような大理石の尖塔、季節を問わず芳香を放つ魔力混じりの薔薇庭園。そして、わたしを取り巻く学園生活のすべてが、あのゲームのビジュアルを寸分違わず再現している。

 王太子を筆頭に、攻略対象の殿方たちは、絵に描いたような美貌と、それぞれの身分に相応しい残酷なまでの才覚を併せ持っていた。そして、そこに現れたのが物語の主役、庶民出身の奨学生ヒロイン、アメリア・ローズベルだ。彼女が数々の理不尽な困難を乗り越え、運命の男性と真実の愛を掴む……。それがゲームのシナリオであり、わたしが知る『薔薇の宮廷恋物語』の正しき結末のはずだった。

 わたしは、ゲームのクレジットにすら名前の出てこないモブ令嬢として、この世界に転生した。平凡な伯爵家の娘。顔立ちも、成績も、魔力も、すべてが「普通」。目立たず、静かに、誰にも干渉せず、与えられた人生を全うする。それが、転生者としてのわたしの誓いだった。

 だが、この世界はどうにも噛み合っていなかった。本来なら序盤から圧倒的な存在感を放ち、ヒロインを底なしの絶望へと突き落とすことで物語を駆動させるはずの「悪役令嬢」が、どこにも存在しなかったのだ。

 王太子殿下の婚約者であり、学園の女王としてヒロインを徹底的に苛め抜く役どころの、レイラ・ヴァインシュタイン公爵令嬢。

 彼女の影も形もなく、歴史を紐解いても、誰も彼女が「存在していた」気配すらない。まるで、彼女が担うべき「悪」という役割そのものが、最初からこの世界の設計図から消し去られていたかのように。不在の悪役令嬢。それは、物語の楔が打たれていないことを意味した。そのせいで物語は始まらない。

 攻略対象たちは、ただの「善良で優秀な学生」として、牙を抜かれたように日々を過ごしている。王太子殿下は退屈そうに政務の勉強に励み、騎士の公爵子息は情熱をぶつける先を失ったまま剣術の稽古に汗を流す。ヒロインであるアメリアは、その美貌と聡明さで周囲に好意的に受け入れられ、誰にも苛められることなく、吐き気がするほど平穏な学園生活を送っていた。

 平穏。それは、ゲームのシナリオにおいては致命的な「バグ」だ。ヒロインの成長も、攻略対象との劇的な出会いも、困難を乗り越えるカタルシスもない。何も起こらないのだ。

 わたしは転生したモブ令嬢として、それを端から見ていた。平凡に、なるべく目立たず、ただ静かに生きるつもりでいた。しかし、その静寂は、ある日突然、爆発的な音を立てて破られた。

 季節は春から初夏へ移ろうとしていた。昼食時。王立ガレア貴族学園の豪華絢爛な食堂で、わたしは目立たない窓際の席で、友人のモブ令嬢たちと静かに紅茶を飲んでいた。いつものように、王太子殿下を遠目から眺め、アメリアが穏やかに笑っているのを観察する。その瞬間だった。

「……どうして……どうして誰も私を苛めてくれないのっ!?」

 突如として、食堂の中央付近から、甲高く、悲痛な叫び声が響き渡った。カトラリーが皿に触れる優雅な音が凍りつき、周囲の貴族たちの視線が一斉にそちらを向く。わたしは驚きのあまり、口に含んでいた香り高い紅茶を、思わず吹き出してしまった。

「……ごほっ、ごほっ……な、なにを言っていますの、あの方……」

 慌てて口元をナプキンで押さえ、アメリア・ローズベルを見る。彼女は、王太子殿下たちが座る特別席のすぐ側で、完全に理性を爆発させていた。アメリアは、その美しい栗色の瞳を怒りと焦燥で血走らせ、白磁のような机に両手を叩きつけながら、顔を醜く歪ませて叫んでいた。

「分からないの!? 困難を乗り越えてこそ、物語は輝くのよ! 王太子殿下が私を庇ってくださるためには、誰かが私を苛めなくちゃいけないの! でも悪役令嬢がいないから、何も起こらない! このままじゃ、ただの退屈な学生生活で終わっちゃうじゃない!」

 周囲の令嬢や令息たちは、冷ややかな、あるいは戸惑った目で彼女を眺めている。「アメリア嬢、何を言っているんだ。君は被害妄想が過ぎるぞ」と、攻略対象の一人が眉をひそめて諭す。それが普通の反応だ。

 だが、わたしには分かった。アメリアは真剣そのものなのだ。彼女もまた、ゲームの記憶、あるいは「ヒロイン」としての役割の認識を持っている。そして、その役割を果たすための「敵」の不在に、耐えきれなくなっていた。

 ───ヒロインの苛立ちがピークに達している。このままでは、ヒロインの精神が崩壊するか、あるいは、予想もしなかった方向に世界が転がり出す。その懸念は、翌日には最悪の形で現実のものとなった。



 翌日、王太子殿下の執務室前の廊下。殿下と護衛役の公爵子息が話しているところに、アメリアは一直線に歩み寄った。そして、殿下の前に立ちふさがると、顔を厳しく歪め、大見得を切った。

「庶民風情が王太子殿下に近づくなんて、身の程を知りなさいっ!」

 その台詞は、ゲームの序盤で、悪役令嬢がアメリアを階段から突き落とす直前に発するものと、寸分違わぬものだった。殿下も、公爵子息も、目を丸くして立ち尽くす。

「……アメリア嬢?」

 王太子殿下が困惑した声で彼女の名を呼ぶと、アメリアは一瞬表情を緩め、そしてすぐに、再び険しい顔に戻る。

「違うの! 今のは悪役令嬢の台詞! 私が悪役令嬢を演じているの!」

 説明まで添える徹底ぶり。その姿は、痛々しいほどに滑稽だった。だが、アメリアは胸を張り、演じきろうと必死だった。

「さ、さあ、遠慮なんてするんじゃありません! その汚らわしい平民の手で、殿下のお手を煩わせるなんて……許しませんわ!」

 困惑しながらも、王太子殿下はその茶番に乗ろうと試みた。

「ええと……私は君の身分など気にしない。アメリア嬢は学園にふさわしい資質を持っている」
「なっ……そんなことを言われたら、私は……私は……!」

 アメリアは顔を覆い、演技のままに涙目で殿下を見上げる。

「ぐ、ぐすっ……悔しい……! 殿下は優しいけれど、私は庶民……! 立場なんて超えられない……!」

 茶番だ。それは完全に茶番だった。だが、恐ろしいことに、それは成立してしまった。アメリアは日々「悪役令嬢ごっこ」を繰り返した。

 図書室では、「庶民がここにいるなんて許せない!」と叫んでから、自分で「でも勉強したいの!」と悲痛に返す。剣術場では「あなたなんかが殿方に近づくなんて!」と怒鳴って、自分でその場に泣き崩れる。

 「平民の分際で」と罵倒する彼女自身が悪役令嬢役であり、その罵倒に耐える可憐なヒロイン役も彼女自身。一人二役を、日に何度も演じ始めたのだ。

 周囲は、初めこそ「アメリア嬢は頭がおかしくなった」と噂した。しかし、攻略対象の殿方たちは真面目に対応した。彼らはもともと、ヒロインを助けるという役割を無意識に持たされている。目の前で、理不尽に自分を苛めている少女アメリアに対して、もう一人の少女アメリアが涙を流していれば、助けずにはいられないのだ。王太子殿下は「私は君の味方だ」と優しく手を差し伸べ、公爵子息は「私たちが守る」と力強く宣言した。その結果、アメリアは着実に好感度を稼いでいった。

 物語は、悪役令嬢という「敵」を内包することで、歪な形で動き始めた。……世界は狂っている。わたしは転生したモブ令嬢。名前すら物語に出てこない、背景キャラだ。本来なら傍観に徹すべきだった。けれど、アメリアの姿は、目を離せないほど滑稽で、同時に眩しかった。

 彼女は必死なのだ。自分で自分を貶め、傷つけ、そして攻略対象からの優しさでその傷を癒す。



 気づけばわたしは、彼女の「悪役令嬢ごっこ」を観察するのが日課になっていた。誰にも見られないように、ポケットサイズのノートに彼女のその日の台詞を書き留め、そしてある日、ついに我慢できずに彼女に声をかけた。

「アメリア嬢。今の『身の程を知りなさい』という台詞、少し弱いわ。もっと喉の奥を鳴らして、内臓を吐き出すような軽蔑を込めるべきよ」

 アメリアは跳ね上がるように振り向いた。その瞳は恐怖ではなく、救いを見つけた狂信者のような光を宿していた。

「クリスティアナ様……あなた、私の『物語』を分かってくださるの?」
「ええ。あなたの『物語』には、有能な脚本家が必要だわ」

 その日から、わたしのノートは彼女の運命を研磨する台本になった。わたしは彼女に、より効果的な自傷の方法、より攻略対象の庇護欲を煽る「苛められ方」を指導した。アメリアは喜んでそれを受け入れた。彼女の腕は自ら抓った痣だらけになり、指先は自ら噛んだ傷で絶えず血が滲んでいたが、その分、彼女の「ヒロインとしての輝き」は増していった。



 恐ろしいのは、攻略対象たちだ。王太子エドワード殿下も、公爵子息も、アメリアが自分で自分を傷つけていることに、とっくに気づいている。

 だが、彼らもまた、物語という麻薬に飢えた獣だった。「虐げられる可憐な少女を救う」という甘美な陶酔に浸るため、彼らはあえてアメリアの狂言に加担し続けた。

 殿下は、アメリアが自ら切り裂いた制服の袖を見て、慈悲深い聖者のような顔で囁いた。

「……酷いな。誰がこんなことを。大丈夫だ、アメリア。君を傷つけるすべての悪意から、私が一生をかけて、この檻の中で愛してあげよう」

 そう言いながら、殿下の目は笑っていなかった。彼はアメリアを愛しているのではない。アメリアという「悲劇」を消費し、彼女が壊れるほどに強固になる自身の支配権を愉しんでいるのだ。



 迎えた学園最大のイベント、大舞踏会。煌びやかなシャンデリアの下、アメリアは王太子殿下の前で、最高のクライマックスを演じた。

「皆さま! わたくしこそが、この国を滅ぼす悪役令嬢なのです! わたくしを……どうか断罪してください!」

 自分で自分を糾弾し、泣き崩れるアメリア。会場は凍りつき、貴族たちは彼女を「取り返しのつかない狂人」として排斥した。

 だが、殿下だけは違った。彼は跪き、泥を被ったヒロインの手を取って、逃げ場のない宣告を下した。

「アメリア。君がどんな罪を背負おうと、私は君を離さない。君の歪みさえ、私が永遠に管理してあげよう」

 その瞬間、物語は完璧な終焉ハッピーエンドを迎えた。……すべてが、わたしのノートに書いた、最悪のシナリオ通りに。



 舞踏会の後、誰もいなくなった深夜の廊下。アメリアは一人、座り込んでいた。ドレスは乱れ、顔には涙の跡が残っている。

「……もう、誰も信じてくれない。私は、本当の悪役になれたのかしら」

 わたしは彼女の隣にそっと腰を下ろした。

「ええ、完璧だったわ、アメリア。社交界はあなたのことを『狂った令嬢』として語り継ぐでしょう。これであなたは、永遠に殿方の庇護なしでは生きられない『ヒロイン』になれたのよ」

 アメリアは目を潤ませ、しばらく虚空を見つめた後、かすかに微笑んだ。その笑顔は、これまでのどの演技よりも深く、暗く、そして美しかった。

「ありがとう、クリスティアナ。これからも、私の絶望を書いてくれる?」
「ええ、もちろんよ。あなたの物語は、まだ始まったばかりなんだから」

 わたしはノートに新しい一筆を加える。悪役令嬢が不在で、始まらなかった物語。それは今、モブが脚本を書き、ヒーローが檻を造り、ヒロインが自らを壊し続けるという、新しい地獄として幕を開けたのだ。
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