悪役令嬢不在の世界で、ヒロインは自分を苛め始めた

宮野夏樹

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後日談 悪役令嬢不在の世界で、それでも物語(地獄)は続いていく

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 舞踏会の夜から、季節は二度巡った。王立ガレア貴族学園の中庭では、蔦薔薇が静かに冬支度を始めている。葉は色を落とし、花はもう咲かない。かつて色鮮やかに咲き誇っていた庭園も、今はただ、凍てつくような寒風が吹き抜けるだけの死んだ空間だった。わたしはその様子を、回廊の影から眺めていた。平穏だった。少なくとも、表面上は。

 アメリア・ローズベルは、もう自分を苛める台詞を口にしない。「庶民の分際で」だとか、「身の程を知りなさい」だとか、かつて彼女自身を縛り、そして熱狂させていた呪詛のような言葉は、学園のどこからも聞こえなくなった。授業中も、廊下でも、彼女は穏やかに笑い、必要以上に声を張り上げることもない。

 王太子エドワード殿下との関係も、変わらず続いている。学園内では、二人が並んで歩く姿を見ても、誰も驚かない。護衛役の公爵子息は少し距離を取り、かつての攻略対象たちも彼女を「守られるべき壊れもの」として遠巻きに慈しんでいる。

 ───けれど。

 学園の外、社交の場では、空気が残酷なまでに違っていた。公式の茶会、王宮主催の夜会。そこでは、アメリアの周囲に、透明で厚い絶壁のような輪が生まれる。完全な排斥ではない。露骨な罵倒でもない。ただ、誰もが彼女と目を合わそうとせず、一歩引くのだ。挨拶はされる、笑顔も向けられる。けれど会話は二言三言で途切れ、人々は逃げるように目線を逸らす。

 あの大舞踏会の夜。自らを悪役と称して叫び、泣き崩れた彼女の姿は、貴族たちの記憶に「触れてはいけない異物」として焼き付いてしまったのだ。

 「奇人」
「精神を病んだ哀れな娘」
「王太子の歪んだ愛に飼い慣らされた亡霊」

 誰も口には出さないが、その空気は毒のようにアメリアの肌を刺し続けている。

 アメリアはそれに気づいている。いや、誰よりも敏感にそれを察知し、その絶望を糧にして「ヒロイン」としての自分を維持していた。かつての「自作自演」という過酷な訓練は、今や彼女が孤独という地獄で正気を保つための、唯一の呼吸法となっていた。

「クリスティアナ」

 背後から響いたその声に、わたしは手に持っていたノートを閉じることなく振り向いた。

 中庭の入口に立つアメリアは、薄青の外套を纏い、死人のような白さで微笑んでいた。彼女の首元には、王太子の独占欲を象徴する、指の形をした赤い痣が薔薇のように刻まれている。以前のような華やかさはないが、その分、彼女は「物語」に魂を喰らい尽くされた一人の生贄として、そこにいた。

「こんなところにいたのね。また、私の物語の続きを書いていたの?」
「ええ。薔薇が眠りにつく頃には、新しい悲劇の種が必要でしょうから」

 そう答えると、アメリアは恍惚とした吐息を漏らし、わたしの隣に滑り込んできた。彼女はわたしの持つノート───彼女を「悲劇」へと導き続ける黒い台本を、愛おしげに細い指でなぞる。

「書くことが、また増えたわね、クリスティアナ。私が演じるのをやめた代わりに、あなたが私の現実を『悪夢』に書き換えてくれるから」
「……あなたは、それでいいの? アメリア。もう一度、普通の令嬢に戻る道だって……」

 わざとらしい問いかけに、アメリアは今日一番の、そして一番「狂った」笑顔を見せた。

「戻る? どこへ? 誰も私を見ない、物語のない空っぽな現実へ? ……嫌よ。私はヒロインなの。誰かに虐げられ、誰かに守られ、絶望の果てに愛されなければ、私は私の形を保てないの」

 彼女の指先が、白紙のページを強く弾いた。

「お願い、書いて。来月の夜会で、私は誰に裏切られればいい? 誰に汚らしいと罵られれば、殿下の腕の中で泣くことができるかしら?」

 彼女はもう、自分自身の魂を喪失していた。わたしの書く絶望という名の麻薬がなければ、彼女は生を実感できないのだ。



 その時、回廊の奥から重厚な足音が響いた。王太子エドワードが、慈愛に満ちた、しかし眼光の鋭い微笑みを浮かべて歩いてくる。

「アメリア、ここか。冷えるから、あまり外にいてはいけないと言っただろう」

 殿下はアメリアの肩を抱き寄せ、その首筋の痕を隠すように外套を整えた。その手つきは、宝物を慈しむ聖者のようでもあり、獲物を離さない捕食者のようでもあった。

 アメリアは愛おしそうに彼に縋り付く。殿下は満足げに目を細め、アメリアが目を伏せた一瞬の隙に、わたしに冷酷な視線を向けた。

 殿下は、慣れた動作で上着の懐から重い革袋を取り出し、わたしの手に握らせた。ずっしりとした金貨の重みが、手のひらに伝わる。

「今月の報酬だ、クリスティアナ。……次はもっと、彼女が私の慈悲なしでは息もできないほど、残酷な脚本を用意してくれ。彼女が孤独に震えるたびに、私の愛は深まり、彼女の居場所は私の腕の中だけになるのだから」
「お望みのままに、殿下」

 わたしは淑女の礼カーテシーで見送った。
 殿下は彼女を愛の檻に入れ、わたしはその檻の中にトゲを投げ込み続ける。アメリアは血を流しながら、それを「救い」と呼んで恍惚となる。



 悪役令嬢が不在だった世界は、確かに歪な傷跡を残した。物語のルールは壊れ、ハッピーエンドは永劫に続く地獄へと変貌した。

 アメリアは生きている。わたしの書く物語の中で、死よりも深い悲劇に酔いしれながら。わたしも、ここにいる。モブという背景キャラから、彼女の運命を執筆する創造主へと成り上がって。

 中庭の薔薇は、もう二度と咲かない。けれど、この腐り果てた土壌の上で、わたしたちは永遠に終わらない「地獄の続き」を踊り続ける。遠回りでも、不器用でも───いいえ、救いようのないほどに狂っていても。これが、わたしたちの選んだ「現実ハッピーエンド」だった。
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