騎士シュヴァイン

河野彰

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騎士シュヴァイン

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 血だ。戦場に血の雨が降り注いでいる。
 騎士シュヴァインは頭上を見上げた。そこには東の守りの要であるアーチ―卿の城に巻き付く巨大な竜の姿があった。銀青色の鱗の大半が今は血に濡れている。その根源は鋭い牙が並ぶ口吻に咥えられた自身の率いていた小隊の若者たちの無残な残骸であった。竜が首を振ると、ぼたぼたと血肉や内臓、千切れた手足が降り注ぐ。
「……地獄だ」
 傍で十騎士の一人、ファイゼンが呆然と呟く。シュヴァインはその肩を手甲をつけた手で強く押した。鋭い眼光でまだ若い騎士へと怒鳴る。
「本物の地獄を見たように言うな!騎士が、将軍が弱気では軍の士気に関わる!戦場では二度と弱音を吐くな!」
 シュヴァインは五十八になる人間軍の十騎士の一人だ。白髪混じりの短い長い髪を背中で緩く束ねており、深く皺の刻まれた眉間に青灰色の瞳を持っていた。畏怖堂々たる美丈夫で十騎士の中でも群を抜いて体格が良く、身の丈に近い大剣を扱う事に長けていた。
 魔物と人間が争い始めてもう三百余年になる。後の歴史にいう三百年戦争だ。
 戦況は逼迫していた。
 特にここ数年は人間側の敗戦が続いていた。
 魔物軍の首領、魔王が代替わりをしたらしい。新王に践祚したまだ若い魔王は優秀な銀青色の竜であるという。
「こやつか……!」
 シュヴァインは再度、城の塔に巻き付き咆哮する竜の姿を見上げた。魔王が戦場の最前線に出てくるとは普通なら考えもしないだろう。だが、ここは人間軍の領地の東の要。人間軍も十騎士の全員と兵士たちの半数近くをこの戦場に送り出していた。魔王が降臨してもおかしくはない。
「シュヴァインさま、ファイゼンさま!一時、撤退しろとのことです!」
 伝令が十騎士の中でも最高位のクラウスの名と命令を伝える。ファイゼンはよろめきながら自軍の方へと駆け出した。
 シュヴァインは、尾を鞭のように振り今まさに空へと駆け上がろうとしている竜の姿を睨んでいた。

「シュヴァイン殿!」
 アーチー城の城下町のほど近く、野営地へ戻ると早速十騎士長のクラウスがシュヴァインのテントを訪れてきた。
「魔王らしき竜が出たと聞いたが……」
「ああ、そのようだな」
 シュヴァインの落ち着いた声にクラウスが微かに息を吐く。。
「貴公のその反応。──手も足も出ない、ということか」
「撤退命令を出したのは貴公だったかと思うが?」
 ああ、そうだとも、とクラウスは深い溜息を吐いて近くのベンチの上に腰を下ろした。クラウスは三十五才。豊かな金髪と口ひげを携えた、まだ若いが優秀な騎士だった。
「アーチ―城を見下ろせる丘からあの惨状を見た。兵士たちの士気に関わると思って撤退させたが」
「うむ、良い判断だと思うぞ」
 その言葉にクラウスが苦く笑う。テントの外を兵士たちが集団で騒ぎながら町の方角へ通り過ぎる声をシュヴァインは聞いた。嫌な予感がする。
「クラウス殿。街へ降りる許可を出されたのか」
「勿論だ、兵士たちにも休息は必要であろう。街で酒を飲み、女を買う権利は彼らにもある。良い気晴らしになれば良いが」
「ただ酒を食らい、女を強姦し、家々の家財を根こそぎ奪う、の間違いでは?」
「なに!?」
 シュヴァインの言葉に流石の温厚なクラウスも気色ばむ。
「──本当のことだ。噂になっておるぞ。戦のあった街は焦土になるがそれよりも酷いのは兵士たちの残虐な行いだと」
「少しくらいは大目に見てやれ。戦場での辛い記憶を忘れるためだ」
「その結果、生まれたのが私でございますがね」
「シュヴァイン殿!貴公は……っ!」
 クラウスは言葉を無くし、立ち尽くした。
 暫し言葉を探し、それでも言葉は出ずバサリとマントを翻し出て行ってしまった。
 本当のことを言って何が悪いのかとシュヴァインは思う。戦火の中、若かったシュヴァインの母は魔物でも盗賊でもなくその地に遠征へ訪れていた複数の人間の兵士たちによって犯された。一晩中続いたその惨い行いの果てにシュヴァインは生まれた。母には婚約者がいたが勿論彼との結婚は叶わず、母は苦労してシュヴァインを一人で育てた。
 シュヴァインはこの話を母から聞かされ続けて育った。
「あんな男たちになるのではない」
「お前は優しい子に育っておくれ」
 母はそう言い続けたが母の惨たらしい経験を詳細に聞かされ続け、シュヴァインは癇癪持ちの頑固な性格に育った。物心ついた時には木の棒で剣術の練習を始めた。魔物との戦争を憎み、兵士たちを憎み、母のような戦争の犠牲者たちを守らなければと本気でそう思っていた。
 強さのみを追求した結果、気付けば平民の出で初めての十騎士にまで昇りつめていた。周りは貴族の出身のエリートたちばかりだ。普通ならば、十騎士は大隊を編成しそれを率いる将軍になるのが通例だが、シュヴァインだけはそれを固辞し、また彼の気性も将軍には合わなかったので、十人ほどの小隊のみを率いる小隊長の地位にある。
 小隊は自分の手で育てた若い兵士たちを中心にした奇襲部隊だ。さすがに情は湧いていたが、彼らも街での饗宴に参加しているのだろうかと空しく思う。
「魔物も人間も何が違う」
 クラウスが出ていったテントの扉をシュヴァインはただ眺めた。
「あのぉ……」
 入れ違いにすらりとした赤毛の少年がおずおずとテントへと入ってきた。遠慮気味に「足を洗うお湯、冷めちゃいました……」と手に提げた桶を少し掲げて申し訳なさそうに言う。
「ファルか。ああ、頼んだのをすっかり忘れていた」
 すまないな、という言葉を寸でのところで飲み込んだ。
 元々世話係も下男もいらないと決め込んでいたシュヴァインに従者は一人もいなかった。だが、ある日このファルがシュヴァインの元を訪ねてきて「お願いです!何でもするのでお仕えさせてください!」と頭を下げたのだ。ファル曰く、以前魔物に故郷の村を襲われた時に、シュヴァインに助けられたのだという。そんなことは何一つ覚えていないシュヴァインだったが、三日三晩テントの前で頭を下げられては断るわけにはいかなかった。
 成人前の細い腕、まだ筋肉のつき始めの薄い身体、子犬のような黒い瞳。くるくると独楽鼠のようによく働く。
 本当は優しい声かけや労わりの一つでもやってやるのが良いのだろうが……。
「温くて良い、さっさと終わらせなさい」
 つい冷たい物言いをしてしまう理由がシュヴァインにはある。
「は、はい!では、失礼いたします」
 ファルが頬を紅潮させて嬉しそうに足元へとしゃがむ。素足にされて固くなった足裏や、指の間、足の甲などを丁寧に洗われる。土砂塗れだった脛辺りまでを丁寧に洗われて足元で懸命に働くファルのつむじを何気なく見遣る。
(これで、アレさえなければな……)
「あ、あの……」
「なんだ」
「今夜も、その、夜伽は宜しいのでしょうか?」
「……。私には不要だと言ってあったと思うが?」
「は、はい!失礼しました!」
 見る間に顔を真っ赤にしたこの従者は、そう、この老いぼれに惚れているらしい。
 シュヴァインは密かに溜息を吐いた。
 戦場には女気が無い。そういう時に将軍や上級兵たちが自分たちの従者や下男たちを「使って」いるのは周知の事実だ。
 だから、兵舎からの通いの従者として抱えて暫く経った頃にファルの方から誘われて、ああ、とシュヴァインは納得がいったのだ。少年、青年期の気の迷いかもしれない。生来のものかもしれない。それは分からないが、どうやら自分はこの少年の特別な想い人らしいと。
 それからだ。
 ファルとは自然に距離を置くようにした。勘違いなどさせないようにというシュヴァインなりの誠意と処世術だった。無骨な武人のシュヴァインには抱いてやる甲斐性などなかった。応えることは出来ない、だが故郷を捨ててシュヴァインを追ってきた少年を追い出すことも出来ない。
 少年を下がらせて、シュヴァインは再度軽く溜息を吐いた。

 朝が来た。
 夜中の内に三日後の早朝からの開戦が魔物軍から通達された。
 魔物は妙に律儀なところがある。そう思いながらシュヴァインは髭をあたる。
(あの竜は、また来るだろうか)
 そう思うと魔物への憎しみがふつふつと湧いてくる。 
 そもそもがこの戦争である。
 記録が古く、三百年戦争の開戦はどちらからだったのかは歴史者の中でも意見が分かれている。
ただ、魔物の性を知るだに……、彼らは享楽と悪の権化であった。情などは存在せず快楽と悪行のみのために生きる。人間を糧にし、多くの人間が彼らの餌食となっている。姿は様々で下級のものは獣の姿をしており、上級の者になればなるほど伝説上の生き物に近くなる。また、上級の化け物は人間の姿に化けることができ、その見目麗しい姿で人間を誑かして自分の懐へ入れてしまうのだとも。その末路は……聞かなくても分かっていた。
 そういうわけで、人間は魔物の恐ろしさ、残虐さを幼少期から聞かされ、この戦争には必ず勝たねばならぬのだとそう習って育てられる。
 シュヴァインは身なりを整えて野営地を歩いていた。そこここで酒におぼれ、屋外で寝てしまった兵士たちの姿が目に留まる。その手には街から強奪した宝石や食料が握られている。またテント内では夜通し犯され続けた娘たちのすすり泣く声がテントの外まで響いていた。
「ここが地獄ではないか」
 苦く笑い、シュヴァインは野営地を離れ早朝の丘に立った。戦火の痕が凄まじい荒涼とした景色が広がっていた。城は破壊され、魔物の住処との境界となっていた城から伸びる塀城もその大半が崩れている。
 しかしそんなことは気にしてもいないのか、太陽は遥か彼方から上がり、太陽の日で温められた翼を広げて小鳥たちが羽ばたき始めていた。何ともすがすがしい朝だった。足元に人間や魔物たちの屍がなかったら、だが。
 それでもシュヴァインには美しい光景に見えた。何ものの上にも平等に訪れる死と精の力強さがそこにはあった。太陽が昇り切るまでシュヴァインはその丘で静かに立っていた。
 


 魔物軍の申し入れどおりに三日後の早朝から戦いは再開された。
 シュヴァインは小隊を率いて前線で戦っていた。鎧同士がぶつかる、火竜が火を吐く、防御壁でクマのような怪物を押し返す。投石器があの丘に置かれて、人間たちは火器を、魔物たちはその強大な身と魔法を駆使し戦いは激化していった。
 その日の戦いにあの銀青色の竜は姿を現していなかった。ただ、夥しい数の蛇や小竜どもが人間軍を取り囲んでいた。シュヴァインは大剣をふるい、それらを根こそぎ切り捨てていった。硬い鱗も鎧もシュヴァインの前では切り捨てるに容易い紙に等しい。
 小隊の一人が血しぶきを受けた状態でシュヴァインの元へ駈け込んで来た。
「竜が!竜が出ました!」
「なに!?先日のあの竜か?」
「いえ、あれよりも小さな個体です。ですが、首が二つもあり氷を吐いて誰も近寄らせません!」
「承知した」
 シュヴァインは馬に乗り駆けだした。
 そこはすり鉢状の窪地になっていた。その真ん中に馬の十倍はあろうかという青い竜がいた。鎌首をもたげて威嚇するその裂けた口からは青い炎を吐き、今まさに竜へ背を向けて逃げようとしている兵士たちに青い炎を吐きかける。一瞬の出来事だった。数名の兵士たちは断末魔の叫び声をあげる暇もなく氷漬けの標本になった。棘のついた竜の尻尾がその身体を粉々に打ち砕く。二つの頭が咆哮した。
「竜よ!こちらを見ろ!」
 シュヴァインは雄たけびを上げ、崖のように反り返った窪地を躊躇うことなく馬で駆け下りた。
 その声が届いたのか竜が首をシュヴァインに向ける。青い炎が口吻の先から漏れ出ていた。口が大きく開く。その一瞬、馬をまっすぐに走らせながらシュヴァインはぐっと身体を横へと倒した。馬の腹をぎゅっと強く太腿で挟む。馬は身体を斜めにした主を乗せたまま竜へと突っ込む。竜が吐き出した青い炎が一瞬で馬の首を凍らせた。シュヴァインは馬がどうっと倒れる間際に馬の胴を蹴り、油断していた竜の首の一つをばっさりと切り落とした。
「~~~~!!」
 音にも声にもならない大絶叫が残りの首から放たれた。次の一撃を待っていたシュヴァインの目の前で竜は大きく羽を動かし風を起こした。思わず顔をそむけたシュヴァインの目の前で一つ目の首を刈り取られた竜が背を向ける。
 逃げる気だ。
 直感でそれを悟ったシュヴァインはついてきていた兵士の馬を借り竜を追いかけた。首の残骸を引き摺り低空飛行しながら竜は逃げる。すり鉢状のくぼ地を越えて前を塞ぐ兵士たちをなぎ倒し、どんどん逃げていく。
 このままでは、「最果ての森」へ逃げ込まれてしまう。
 「最果ての森」は魔物たちの領域と人間たちの領地を分断する迷いの森だ。魔物は迷わず森を抜けられるそうだが人間は一歩その中に足を踏み入れたが最後、出て来れないという噂だ。
 あと数歩。いや、あと半歩。もう、少し……!
 森も目の前だ。
(森には入れない……いや、ほんの半歩だ。とどめを差しすぐに引き上げれば良い)
 迷いは一瞬だった。そして、シュヴァインの隣を彼よりも高速で駆け抜ける者がいた。
 ぐわん、と。
 空間が歪み、森に入った、いや、包まれたとシュヴァインには分かった。
 どうっと落馬し何とか受け身をとって、その場に膝をつく。立てない。眩暈が酷い。吐き気がする。
「~~~~!!!!!!」
 それは断末魔の叫びだった。ほんの十数メートル先の、林の中だ。
 よろめきながら大剣を杖にしてシュヴァインはよろよろとそちらへ向かい歩いた。竜は、どうした。横を駆け抜けていった影は誰だ。馬を駆るシュヴァインより高速で傍らを抜いて出た者。もし、もし……竜の応援が駆けつけたのだとしたら。
 まずは青いマントが目に入った。それから、それを身に纏う長身の若者の姿。灰青色の鎧を身に着け、黒く短い巻き毛をした美しい青年。
 彼の頬には血が飛び、足元には先ほど逃げ出した竜の首が転がっていた。鋭利な刃物で切り落とされたのだろう。竜の首は切り口が綺麗に赤い断面を見せていた。
 青年は、青年は青い肌に黄金の瞳をしていた。魔物だ。
(魔物が、同胞を殺した……?)
 意味が分からずに、シュヴァインは咄嗟の判断が遅れた。気付けば青い肌の青年が目の前に立っていた。身体をぴったりと覆う鱗状の鎖帷子に灰青のくすんだ色の鎧を身に着けていた。年齢は人間に換算すれば二十代半場。けっして細くはないが、しなやかな若者特有の身体付きをしていた。そしてシュヴァインには及ばないが長身だった。
 その身体がゆっくりと傾き、シュヴァインへと手を差し伸べた。
「怪我はないか、お前」
「!」
 第一声は優しさと慈悲に満ちていた。声は掠れていて温かい。金の瞳が縦に細くなる。口角が僅かに下がる。心配げな様子だった。
「どうした、どこか怪我をしているのか」 
 シュヴァインは咄嗟に手探りで剣を探す。先ほどの眩暈で取り落としてしまっていた。
 魔物だ、魔物。魔物。魔物は殺さなければならない。
 そんなシュヴァインの恐慌をよそに青年は心でも読んだように続けた。
「お前の剣ならここだ。さて、それで俺の首でも刎ねるか」
 草むらに転がっていた剣を拾い上げ、柄をこちらへ向けて渡される。自身の鎧の隙間から片手の指を入れて自身の首を青年は軽く仰け反らす。そこを切れとでも言うように。
「良い剣だなぁ。長く、太く、何匹もの魔物を切り刻んだせいだろうか……呪詛が大量に絡みついている。手入れも良くされているしな」
「お前は……」
「ん?なんだ」
「お前は、魔物だろう」
「勿論そうだが?」
 シュヴァインは腕を引き、素早く自身の腰の短剣を抜いた。同時に飛び跳ねるようにして一歩後退する。
「ならば、敵だ」
 眼光鋭く、ぽかんと立ち尽くす青年を睨みつける。青年は瞬きをした後で、残念そうに眉尻を下げて口角も僅かに引き下げた。
「俺を信じて欲しい、と言っても無駄だろうな」
「魔物の何を信じる!?」
「この行為を」
 躊躇わず、青年はシュヴァインの剣を空中でくるりと回し柄を握り直す。目の前に転がっていた竜の首にドスッと垂直に突き刺す。それから剣を引き抜き、シュヴァインに向けてまっすぐに剣を投げた。避ける間隙さえない。シュヴァインの耳横を掠めた剣は背後から襲いかかろうとしていた大蛇を突き通した。
「剣を拾い戦え。囲まれているぞ」
 シュヴァインははっとした。目の前の青年に気を取られていて周囲への警戒を怠っていた。気付けばシューシューという唸り声が自分たちを取り囲んでいた。大群の大小の蛇の魔物たちだった。
 シュヴァインは無言で短剣を仕舞い大蛇の身体から自分の大剣を抜いて、立ち上がった。大丈夫だ。もう眩暈はない。
 青年がシュヴァインへ微かに笑った。
「背中は任せたぞ」



 「二人」にかかれば簡単な討伐だった。あっという間に蛇たちの躯が山となる。
 シュヴァインは戦いの最中も気を抜かず青年の気配を見張っていた。けれど、青年は黙々と、いやどこか楽しそうに見える様子で同胞を亡き者にしていった。不思議だったのは、蛇たちの方も仲間の魔物同士であるはずなのに青年を狙って攻撃していたことだ。
「素晴らしい太刀筋だな」
 最後の一匹を切り捨てた青年がまるで自分が年長者だという様にシュヴァインを褒める。その物言いが鼻についたので、シュヴァインは思わず言い返していた。
「貴様こそ、息ひとつ乱れておらぬな」
「この程度で息を乱していてはなぁ、我が眷属の名に傷がつく」
 色気と余裕たっぷりに青年が振り向いた。その背を叩き切ることは容易かったのにシュヴァインは動けずにいた。なんだ。この魔物は。同胞を殺し、同胞から襲われて、それを返り討ちにする。人間である自分をアシストして魔物たちを全滅させた。 
 わからぬ、分からぬ。どういうからくりだ。
「まだ疑っているのか。俺にお前を害する意思はない」
「……魔物を疑わぬ者がいようか」 
「頑なな奴だなぁ」
 やはり年下へ向けるような物言いだった。だがその声音には若い青年特有の快活さがあった。細身の長剣の露を払い、青年は完全に無防備になった。シュヴァインは自分だけが剣を抜き構えているのが滑稽に思えてきた。
 森の中はしんとしていた。鳥の鳴き声もなければ、木々の葉が風にそよぐこともない。
 青年はつまらなさそうに自分が殺めた蛇たちの躯を爪先で突いていた。
 シュヴァインはとうとう剣先を青年から外した。背へと納刀する。
 目の前の青年が自分に敵意を持っていないのは明らかだった。竜を倒した直後に、蛇たちを退ける間にも、青年はシュヴァインを殺すことが出来た。だがそれをしなかった。なぜか同胞である魔物たちにも襲われている。何か、理由があるのではないか。
「お前は何者だ」
「俺か?名前はアルトゥールという。何者と言われてもなぁ。魔物軍の弾き者というところかな」
 青年、アルトゥールは声をかけてきたシュヴァインに、お?という驚きと好奇心に満ちた眼差しを向けた。シュヴァインはまだ完全に警戒は解かずに剣の柄に手をかける。
「なぜ、魔物たちは貴様を狙う?仲間ではないのか。答え次第では貴様を切る」
「恐ろしい男だなぁ。なんと言えば良いのか。……お前たちにも、死刑執行人というのがいるだろう。俺はまぁ、魔物の死刑執行人だ。先ほどのように戦場から逃げ出そうとした者、罪のある者、魔王に反旗を翻す者、そういった魔物たちを俺は殺す」
「それが、なぜ魔物に狙われる?」
「殺された魔物の縁者からの敵討ちということもあるが、ほとんどは俺を恐れているかだなぁ」
 にっこりと青年は笑う。その邪気の無い笑みにシュヴァインは呆れる。子供のような、と言って差し支えの無い笑みだった。
「俺は強いからな。魔王の命令であれば誰でも殺す。魔王は魔物の王だ。誰も止めることなど出来ない。そして魔王は、悪戯に同胞を、家臣を、道を歩く子供を殺す。遊びでな。その手段に俺が選ばれることがあるのさ。だから、魔物たちは俺を恐れる。忌み嫌う。見かければ殺されてしまうのではないかと、思うのだろうな。殺られる前にやれ。そういうことだ」「魔物の中の弾き者……」
「そういうことだな」
 思わず先程のアルトゥールの言葉を反芻していたシュヴァインに、アルトゥールは理解を得られたと嬉しそうに笑った。だが、シュヴァインは気を抜かず次の問いを投げかけた。
「なるほど。しかし、それだけではお前が私を殺さない理由が分からぬな」
「お前こそ、俺を殺さないじゃないか」
 確かに。だが、それは……。
「……お前に敵意が無いからな」
 そう返すしかシュヴァインには出来なかった。何故かと問われても上手く言葉に出来ない。敢えて言うならば、朝だ。三日前に感じたあの朝の静かで柔らかな空気。それに似た気配をこの青年が纏っているからだ。面白そうに青年がその金の瞳を細めた。
「魔物は忌むべきものだろう」
「無論そうだ」
「ならば」
「そうだな、ならば……」
 そうだ、魔物は悪だ。人心を惑わし、肉体を快楽に堕とし、堕落させる。
 そして、人間を食う。
 魔物たちの主食は人間なのだ。他の動植物たちも食すが、なぜか境界の森から時々現れては人間を攫い、食っていく。騙し、欺き、誑かして人間を食らう。
 ぎりっと柄を握る手に力が籠る。
(悪しき魔物は殺されなければならない。人間のためにも)
 だが、その人間はどうだ。守るに値する者たちだろうか。
 母親の過去がどうしても脳裏にちらつく。強奪や強姦を暗に良しとする風潮の軍の上層部も。それにかこつけて好き勝手をする下級兵士たち。
 では守られなければならない女、子供たちは?彼女たちには罪はないのではないか。
 いや、だがすべからく人間というのは女から生まれる。子供も幼い頃には小さな罪しか犯さないかもしれないが、大人になればどんな罪を犯すか分からぬ。女だから盗みをしたり人を欺いたりしないわけじゃない。即ち、人間に生まれた瞬間に人間は罪深い存在なのだ。
 殺すべし、殺すべし。
 人間は殺すべし。
 なぜなら人間は悪だからだ。悪だ。
 悪。悪。悪。
「どうした?」
 不意に間近で声を掛けられて、柄を握る武骨な手を優しく両手で包まれていることに気付く。そして、いつの間にか抜刀していることにも。
「なるほど……。なかなかに難しい問題だなぁ。人間は確かに醜くく、醜悪な部分が多い。まぁ俺たち魔物はそんな人間の心が好きだが」
 滝のような汗がシュヴァインの首筋から流れていく。アルトゥールが何を言っているのかが分かるようでわからない。心を読まれている……?声は優しくシュヴァインの心臓を撫でた。
「人間は汚い、意地汚く、また行儀も悪い。ほら、こんな剣など今は必要ないだろう。ここにはお前を害する者などいない。人間はいないんだ。敵は、いない」
「敵は、いない……?」
 確かにそうだ。
 シュヴァインの敵は「人間」で、その「人間」はここにはいない。
 剣先を静かに地に着ける。そして地面へ向けて先ほどのアルトゥールのように垂直に剣を突き刺した。
「あいつらを守るなんてまっぴらだ!」
 声に出してから、自分で驚いた。自分は今、何を思っていた?考えていた?
「あはは!お前は面白いなぁ。あんなにも身体は強いのに、心はこんなにも弱い。少し誘ってやればこれだ」
 背を優しく叩かれて、今度こそシュヴァインは我に返った。
「お前!私に何をした!?」
 剣を下から大きく振り上げる。アルトゥールは難なくその切っ先を交わした。笑いながら傍の巨石に飛び上がる。
「ほんの少し、お前の憎しみに火をつけた。魔物の力を試しに使わせてもらっただけだ。お遊びだよ。そう怒るな。」
「怒らいでか!下りて来い、たたっ切ってやる!!」
 シュヴァインは怒りで己の恥を無かったことにしようとしていた。あんな、短絡的で、安易な考えを自分が持っていただなんて。魔物にその思考を読まれ、唆されたとはいえ……人間全てを敵扱いするだなんて。
「俺も、同じだがな」
 
岩に腰掛け静かにアルトゥールが微笑んだ。
「俺も、魔物などいなくなってしまえば良いと思っている」 



 「果ての森」は確かに迷いの森だった。
 シュヴァインが踏み込んだのは確かに数歩だったはずだ。だが、いくら探しても森への出口は見つからなかった。
 シュヴァインはアルトゥールと二人、野営をするしかなかった。自分を欺いた目の前の魔物を葬りたいと思う気持ちはあったが相手も相当の手練れだと分かっている。迂闊に手を出して逆に殺されてはかなわないし、目を離しては危険だから……とシュヴァインはアルトゥールと行動を共にしていた。
「それにしても、魔物は果ての森では迷わないという噂を聞いていたが、違うのか?」
「森には森の理がある。その理に則って道に分け入れば迷わない。だが、今回はあの手負いの竜を追い咄嗟に道を外れてしまった。だから、俺にも正しい道が分からない」
 二人で始末した蛇の身を齧りながらアルトゥールは肩を竦める。アルトゥールはシュヴァインにも蛇を勧めたが魔物はアクが強く人間には食えないと知っているシュヴァインは固辞して、自分の携帯食である鹿の干し肉を口にしていた。
 妙な気分だった。先ほどまで殺し合っていたはずの魔物軍の一員と、その弾き者とはいえ相当に力の強い者を相手に焚火を囲んで夕食を摂っている。アルトゥールといえばのんきそのものという風情で甲冑もすべて外して、首からつま先まで覆う黒い肌着のような姿で焚火の側に丸くなり寝転んでいた。
「しかし、食い物が無いというのは辛いな。……目の前に素晴らしく美味そうな食事はあるが、食ってしまっては話し相手がいなくなるしなぁ」
「悪食だな。腹が減ればこんなジジイでも喜んで食うとは」
 悪態をつくほどにはシュヴァインも気を許していた。先ほどの「俺も同じだ」という告白が引っ掛かっていた。
「何を言ってるんだ。お前は本当に美味そうだぞ」
「……本気か?」
 シュヴァインは鼻で笑う。もう五十八だ。平均寿命が七十に満たない人間の中では健康で、肉付きも良いとは思うが自分を獲物と置き換えた時に、老齢へ片脚突っ込んだ身を美味そうだとは到底思えなかった。
「おい、ジジイと言ったか?お前は人間にしては年寄りなのか?」
「いったい何を言っている」
 煩い上にしつこい。シュヴァインはアルトゥールを軽く睨んだ。小隊の若者ならば皆が震えあがったであろうが、アルトゥールはその視線をものともせずに、急に身を起こし火を挟んでシュヴァインの向かいに胡坐をかいた。
「俺たち魔物はおそらくお前たち人間と違う方法でものを見ている。俺にはお前が生気に溢れた猛々しい、雄の見本のような肉体を持った人間に見えている。しかも、染まりやすい弱い心も持つ獲物だ」
「最後の付け加えは余計だな。私は残念ながら、人間で言えば初老の域だ。食っても筋張っていて、肉はむやみに厚い上に古い。美味くはないだろうさ」
「そうかなぁ。美味そうだがなぁ」
 生のままの蛇の皮を剥ぎその身を食いながら、舌なめずりまでして見せる。その舌が炎に映えて青い切っ先が二股に別れているのをシュヴァインは見た。本体は蛇か竜だろうか。天と地ほども違うが、同種の形をしたものを食う精神が信じられなかった。
「そういう貴様はいくつだ。なんとも尊大な物言いを偶にするが」
「俺か?俺は、そうなぁ……およそで良いならば五百くらいか」
「五、ひゃく……?その成りでか?」
 思いもよらぬ年齢にシュヴァインは思わずまじまじと目の前の青年を見つめた。魔物が長寿であるとは知っていたが。知っていたが、目の前の若者が既に五百念を生きたということには疑惑が残った。
「人間は短命な上、成人してから老いるまでが早いらしいな。魔物は、成人するのは三百歳くらいだが、成人してから若い姿のまま長く生きる。老いるのは死の一瞬だな」 
「……それが本当なら、何とも羨ましい話だな」
 なかなか人間が魔物に敵わないわけだ。その力、その魔法、そして不死に近い寿命と英知があれば増える一方だろう。戦力には困らない筈だ。ふと思い立ち序に問いかけてみる。
「それでか。偶に私を若造扱いするかに上からの物言いをするのは」
 巨大な蛇を骨まで食らって、腹を満たしたらしいアルトゥールが不思議そうにこちらを見た。下品な食事を終えた後にもかかわらず、口元を拭ったその顔は一端の貴族のように美しい。
「お前たちは犬や猫を、いや、豚や牛といった家畜たちを人間と同等に扱うか?」
「どういう意味だ?」
「そのままだ。俺たち魔物にとっては人間は愛玩動物か食い物だ。野放しの家畜、というとややこしいか。人間にもいるだろう、ペットや家畜に名前を付けてこの子扱いするのが」
 その言葉にシュヴァインの背中から冷たい怒りが湧き上がる。
「……なるほど?貴様は私たち人間と戦争をしながら、家畜どもが煩いなと思っているというわけか」
 声の棘に気付かないわけはないだろうに、アルトゥールは悪戯な笑みさえ浮かべてシュヴァインを見返した。
「まぁ、今まではな」
「ほう。今は違うというわけか」
「ああ、俺はお前という人間を知った。こんなに瑞々しさと憎しみを宿した魂は初めて見る。地の底から這い出てきた意味もあろうというものだ」
「ふん。褒めているのか、貶しているのか分からんな」
「勿論、褒めているとも。魔物の視点だがなぁ」
 楽し気に笑うアルトゥールの方こそ、貴族の女性に飼われている若い燕だと言われた方がしっくりくる。しかし不思議だった。魔物だというくせにいやに馴れ馴れしく、敵意のかけらも見せないこの青年のまえにいると、シュヴァインは自分までもが若い頃に戻ったかのような錯覚に陥った。気がつけば気を許してこうして談笑などしている始末だ。勿論、アルトゥールの言葉を借りるならば、シュヴァインを小ウサギか何かに見立てているのかもしれないが。
 しかし、そんな気楽なやり取りも長くは続かなかった。
 森は深く、動かず救援を待つ方が良いというのは二人とも同じ意見だった。特にアルトゥールは森の中へ入る時に特殊な道標をつけてきたから、一族の者がそれを見て必ず自分を探しに来るはずだと語った。その時に、こっそりシュヴァインを逃がすとも。シュヴァインも森に分け入る自分を見た者は多い筈だと返した。何とかして救助の手が伸びるだろうと。
 だが、一日経ち、二日経ち、五日を過ぎても救援は双方来なかった。 
 シュヴァインの携帯食はすぐに底をついた。元々、野営地が目の前にある戦場だ。大量の食料を持ち運ぶ必要はない。そして、何よりも辛いのは水がないことだった。水さえあれば、人間はかなり長い間生きながらえられる。
 森は始終じめついているのに、まったく雨は降らなかった。また見える範囲、聞こえる範囲に水源や川、湖がある様子はなかった。
 シュヴァインは逆境には強い自信はあったが物理的な資源の枯渇にはどうする術もなかった。一度、どうにかして食えないかと竜や蛇の死骸を口にしたことがあったが、その血も肉もやはりどうしても飲み込めなかった。岩に貼り付く苔や僅かに湿る葉の裏側を舐めるしか水分を得る道はなかった。シュヴァインは見る見るやつれていった。アルトゥールは声をかけ励まし、何か食べれないかと様々な小さな魔物を捕まえてシュヴァインの前に持ってきた。だがどれも、まるで石や砂利のようにシュヴァインの喉を通らなかった。
 そして二十四日目。
 シュヴァインはとうとう指さえ上げられなくなった。
「──これを持ち、待っていろ」
 薄い硬い何かをアルトゥールがシュヴァインに握らせる。頷く体力さえもうシュヴァインには残っていなかった。ただ森の中へ分け入るアルトゥールの背中が視界の端に映っていた。



 水だ。水が喉を流れ落ちてくる。
 僅かに粘り、塩味のある錆臭い水。
 み、ず。みず。水。水。水!
「……っ!」
 意識を取り戻したシュヴァインは喉に流れ込むその水が喉から全身に流れ込んで来るのが分かった。また、その水をアルトゥールが必死で口移しでシュヴァインに与えていることも。ゆっくりと震える腕を上げて、その頬に触れる。アルトゥールが目を見開き、喜びに瞳を潤ませる。
 魔物が涙ぐむ。
 そんな嘘のような光景を何か尊いものを見たようにシュヴァインは眺めた。
「シュヴァイン!目が覚めたか!」
「アル……トゥー……ル」
 アルトゥールの真っ青な唇が真っ赤に濡れていた。血だ。水ではなかった。確かにこの鉄のような臭いと味は、血だ。
(どこで手に入れた……?)
 一瞬そんな疑問が掠めたような気もしたが、そんなことはどうでも良い。携帯食を入れていた革袋に血は満たされているようだった。その口を傾けてそっとアルトゥールがシュヴァインへ血を与える。ほんの少しずつ、シュヴァインはその血を啜った。最後には喉を鳴らして全て飲み干してしまった。それだけしか出来ずに、シュヴァインは気を失った。
 数刻後、シュヴァインは肉の焼ける良い香りで目を覚ました。枕元にはまた血がたっぷりと入った革袋が置かれている。喉がまた酷く乾いていた。 
「アル……トゥール」
 血が欲しくて声を出すと自分の声ではないような老いた声が聞こえた。声帯までが一気に年を取ったようだった。アルトゥールはこちらに背を向けて焚火の前で大きな獣の脚のようなものを焼いていた。綺麗に皮を剝がされた肉が焼ける端から薄く切り取って、足元の石の上に置いていく。
 振り返ったアルトゥールの目元が濡れていたように見えたのは錯覚だったろうか。
「シュヴァイン!良かった……今度こそ目が覚めたか」
「ああ……お前のおかげだ」 
 背を起こしてくれとシュヴァインは頼んだ。アルトゥールは片腕ですっかり薄くなってしまったシュヴァインの肩を抱き身体を起こした。口元へ皮袋を運ぶ。緩く首を振り自分で飲むと言いかけたシュヴァインだったが、アルトゥールの真剣な眼差しに黙って口を開いた。一息つくと、アルトゥールはシュヴァインを再度横たわらせてすぐに焼いた肉を口元へ持ってきた。シュヴァインは改めて口の中に広がる血の味と香ばしい匂いを放つ焼肉について聞かずにはおれなかった。
「私でも食べられる獣がいたのか……助かった」
 口を薄く開くと、カリカリにローストされた肉がその隙間に押し込まれる。じゅわりと油脂が甘く舌の上で蕩ける。シュヴァインは肉を噛み締めながら生きている実感が湧き上がるのを感じた。その肉は今までに食べたことのない肉だった。引き締まった身は鹿に似ているが、それよりもやや脂身が多い。
「ああ、俺たちが家畜として飼っている動物だ。この森で野生化した群れをたまたま見つけた」
「そうか……美味いものだな、魔物の食い物も」
「見た目があまりにグロテスクでな。残りは捌いて、近くの洞穴に埋めてきた。足りなくなったらまた取りに行く」
「それよりも乾燥させたら良い。その洞穴が風通しが良いなら……いや、待て。洞穴など近くにはなかった筈だ。それはお前が一番よく分かっている筈だ」
 アルトゥールの何気ない言葉にシュヴァインは引っ掛かった。確かに、お互いが離れ離れにならない範囲で隅々まで探索したのだ。水や食料を求めて。近くに洞穴などなかった。
 アルトゥールが少し目を逸らしてから仕方なくといった風情でシュヴァインを見つめ返した。
「禁忌を犯したんだ。俺の、一部を……お前に託して遠出した。俺の一部と俺自身は細い糸のようなもので繋がれていて、けっして離れることはない。それを命綱に遠くまで獣を狩りに出た。残念ながら森の外には出れないが……」
「そんなことを?お前の一部というのは、もしやこれのことか?」
 シュヴァインは手に固く握り込んでいた小さく薄い石のようなものをそっとアルトゥールの前に出した。それは改めてよく見ると魚かなにかの鱗に見えた。サイズは親指の爪ほどの大きさだ。
「そうだ。それは俺の耳の後ろの鱗だ。俺の……心臓に繋がっている。もしその鱗を壊されたら俺の心臓も握り潰されてしまう。だから、本当は「人間」に預けてはいけないんだ」
 儚い笑みを見せてアルトゥールは首を傾げた。しなやかな筋肉に覆われた腕がシュヴァインへと伸びてくる。上体へ覆い被さるようにして、今度こそ涙声でアルトゥールが告げた。
「生きてくれていてよかった。友よ……初めて得た、友よ。生きてくれ」
 シュヴァインはどうして良いか分からずにただその告白を聞いた。自分に友などいたろうか。かつても、今も。妻も、恋人も、勿論子供さえ作らずにきた。友と呼べる相手さえ。
 自然と涙が湧き上がった。気付けば細くなった腕で精一杯、アルトゥールの背を抱いていた。

 乾いた土地には雨が良く染みる。
 独り年老いたシュヴァインの身にはアルトゥールの誠実さと真っすぐな眼差しが良く染みた。
 二人は種族を越えて友人となった。二人は仮の住まいである現在の場所に本格的な拠点を作ろうと思い始めていた。長期戦を覚悟したためだ。
 森の中は奇々怪々だ。数歩と離れてしまえばお互いが森のどこにいるかも分からなくなる。だがそれには前兆があった。シュヴァインが森に入った時に感じたあの何とも言えない違和感だ。それを感じたなら引き返せば良い。
 二人は最初の場所から見えた大きな巨木の洞をとりあえずの寝床と決めた。基本は夜、交代で眠るための洞だ。そこから斜めに伸びた木の枝を利用し、引っ掛け棒要領で簡単な屋根を作る。乾いた枝や落ち葉を敷き詰め、マントをそれぞれ引き裂いて丈夫なシーツを作った。簡易の寝所作りだ。まずはそこからだった。
 昼間はシュヴァインが身体を養生しながら少しずつ拠点を仕上げる。アルトゥールは森を隅々まで調べて偶に獲物を仕留め、捌いて持ってくる。
 交代で眠る夜も、二人はなかなか寝付かなかった。お互いにかなりの読書家だという共通点があったためだ。シュヴァインが夜の月の姫の物語を語れば、アルトゥールが業火の魔女の物語を語る。睡眠は削られて、いつしか二人してほんの数刻寝てしまうこともあった。
 それは、シュヴァインが初めて送る、静かな日々であった。



 時間はとてもゆっくりと過ぎた。
 シュヴァインは自分が意外にも不器用であることを知った。それは狩りのための矢じりを木で作ろうと枝を削っていた時や火を起こす時に現れた。アルトゥールは器用に矢じりを作っていたのに対してシュヴァインが木を裂き矢じりを作ると何だか凸凹した仕上がりになった。火を起こす際にも、アルトゥールが手早く火を起こせるのに対してシュヴァインがいくら枯れ木を擦り合わせても煙しか出なかった。
 二人はたまに意見が対立することもあったが、概ねぴったりと考えが重なっていた。また、シュヴァインが苦手なことはアルトゥールが、アルトゥールができないことはシュヴァインが出来ることが多かった。
 友を得たシュヴァインには最早、戦場は遠く感じられた。
 勿論いくばくかの、小さな焦りはあったが、自分一人がいないというだけでは戦況にはそんなに大きな実害は出ないだろうとも思っていた。
 いつか戻れれば良い。戻れないということはないだろう。戻れなくても良いかもしれない。戻りたくない。
 いつしかそう思うようにもなっていた。それだけ、アルトゥールとの生活はシュヴァインにとって甘美で優しく、慈愛に満ちたものであった。
「しかし、本当にお前は狩りが上手いな、アル。」
「シューは年齢にしては回復が早い。やはり頑強な肉体がそうさせるのだな」
「いやいや、年齢のことを持ち出してくれるな」
 二人は互いを愛称で呼び合うまでになっていた。
 夜に久しぶりに新鮮な肉が獲れたとアルトゥールが満面の笑みで森の闇の中から現れた。片手には初日に見たのと大差ない肩から爪先にかけての大きな肉塊を抱えている。そうして逆の手には木で彫った簡易の水差しが。その水差しからは芳醇な発酵臭がして、甘酸っぱい匂いがあたりに立ち込めた。
「その、甘ったるい匂いはなんだ?」
「ああ、これか。自然にできた木の洞に少しずつ水分が溜まりそこに小さな獣が木の実などを落として、長い時間発酵してできた……まぁ、簡単に言えば酒だ」
「酒だと?こんな森で……奇跡だな」
「人間も酒は飲むか?」
「勿論だとも」
 シュヴァインにとっては数十年ぶりの酒宴だった。獲れたての肉を炙り、つまみにしながら酒はすすむ。酒は濃く、甘く、喉を焼くような旨さだった。
「なんだ、禁酒でもしていたのか」
 火の向こう側でアルトゥールが楽し気に尋ねてくる。シュヴァインは大げさに嫌そうな表情を作ると手を軽く振って見せる。
「お前たち、魔物のせいだぞ。常時、戦争をしていたのでは気が休まる時などない。いつ魔物の奇襲があるか分からんからな。王族の誕生祭などでは飲んだふりをしてフキンに吐き出していた」 
「はは、それは申し訳ないことをした」
 ちびりちびりと回し飲みをする。先に動いたのはアルトゥールだった。普段ならばとっくに眠っている時間だ。立ち上がったアルトゥールにそろそろお開きかとシュヴァインが彼を見上げると、シュヴァインの足元へ猫の子が擦り寄るように音もなくアルトゥールが座り込んだ。そのまま身体がぐらりと傾いて黒髪の巻き毛がシュヴァインの膝にぽてっと乗った。「どうした、アル」
 驚いたことに魔物にも体温はあった。酒が回っているせいか、シュヴァインよりも身体が温かいくらいだった。シュヴァインは少し優しい声を出した。
「故郷でも懐かしいのか」
「懐かしいものか。……今日は俺が先に寝る番だ。枕が岩や木では固くて眠れん。これでも旧家の跡取りなんだ俺は」
「はは、そうかそうか」
 子供のような態度が面白く感じられ、シュヴァインもらしくなく子猫を触るようにアルトゥールの髪を撫でた。ほんの些細な触れ合い。だが、ピリッと電流のようなものが互いの間を走った。
「お前はやはり美味そうだな」
「ジジイだと言うたが?」 
「俺たち魔物には外見など関係ないこと、とも教えたが」
「そうであったな」
 暫く大人しく髪を撫でられていたアルトゥールは不意に顔を上げた。髪を撫で始めたものの、止め時を失っていたシュヴァインはこれ幸いと手を引きかける。その手を咄嗟にアルトゥールが掴んだ。そして、その反射がどういうものか分からずにいるとでもいうように、困り顔でシュヴァインを見つめた。その瞳は瞳孔が細くなり、熱っぽく潤んでいる。二人の顔が互いに近づき重なった。唇が触れあったのは一瞬であった。
「──先に寝るぞ」
「ああ」
 アルトゥールは何事もなかったように立ち上がると木の洞に向かいふらふらと歩き出す。
 シュヴァインには何が起こったのか分からなかった。それこそ、いきなり噛み付かれでもした方がまだ理解できた。言葉にするには生々しく、忘れるには実感が伴い過ぎていた。ただ、触れた唇は互いにカサついていて、ひどく熱かった。

 次の日は朝からアルトゥールの機嫌が悪かった。旧家の貴族の出だというのは本当のようで、まだ自分を律せない年頃のようでもあり、時々とても感情的にアルトゥールはなった。それを隠そうともしなかった。
 シュヴァインはそんなアルトゥールに何をするでもなく、いつものように簡単な朝餉を拵えて、出口を探してくるとぶっきらぼうに言うアルトゥールを送り出した。
 午後に入った頃だろうか。
「シュヴァイン!獲物だ!」
 声も高らかにアルトゥールが森奥から現れた。
 シュヴァインはほぼ完治した身体で周囲の薪を拾っていた。獲物が多いのは喜ばしいことだが……と顔を上げると目の前にぼろ布を纏っただけの人間の少女がどっと倒れ込んできた。手足は傷だらけで、可哀そうなくらい痩せ細っていた。まだ十五、六に見えた。
「どうした、この娘は!?」
「森の中を彷徨っていた。俺たち同様、この森に迷い込んだらしい。さてどうする?食うか、犯すか。どちらが良い、シュヴァイン」
「何を……」
 嬉々として少女の手首を掴み片手で持ち上げるアルトゥールをシュヴァインは驚きの眼差しで見つめた。あの穏やかな青年はどこに行ったというのか。星を見上げ、詩を朗読し、己の足元で眠りかけたあの青年は。
「ああ、犯してから食えば良いのか。シュヴァインよ、どうする?同胞が食えぬというなら、犯すだけでも」
「止めろ!」
 シュヴァインはこの一月で久しぶりに友へ剣を向けた。アルトゥールは何が起きたのかとよく分からない顔をしていた。きょとんとした青年の顔に驚きが浮かび、それからじわじわと怒りが現れた。拳を握り、わなわなと唇を震わせて友を見上げる。
「シュヴァイン!」
「止めるんだ!その娘を解放しろ、アルトゥール」
「……本当に自分の同胞だと思っているのか」
「そういう話ではない、私はただお前が罪を犯さぬよう」
 その言葉に憎々し気にアルトゥールが顔を歪める。掴んでいた少女の手を離す。唐突に自由になった少女が地面に伏す。シュヴァインが声を掛けようとすると、一目散に森の中へと逃げ込んでいった。シュヴァインが止める間もなかった。暫くして、少女の絶叫がこだまとなり反響して逃げていった方からした。


7
「俺の同胞に食われでもしたか」
 口角を引き上げて、アルトゥールが醜く笑う。醜いと、シュヴァインは感じた。
「……どうして、助けなかった」
「なに?」
「お前は、あの娘を助けることも出来た筈だ」
「助ける義理は無かったと思うが?」
 会話はかみ合わず、お互いに二人は傷つけあうような言葉を投げかけ続けた。シュヴァインはアルトゥールの行いの罪を、また少女を助けられなかった悔いを口にした。アルトゥールは少女を犯し食う罪のありどころを、仲違いの原因になっている少女が消えた事への感謝を口にした。
「俺にとって特別はお前だけだ、シュヴァイン!」
 これで議論は終わりだとばかりにアルトゥールが叫んだ。これ以上は聞きたくないとその眼差しが語っている。
「連れてきたのが間違いだった。お前はもう既に人間への未練は捨てたものと思っていた。一緒に肉や血を啜れとは言わぬ。だが、人間がお前に何をしてくれる?お前が何をしてやれる?力無き生き物よ。魔物が世を統べるが必然!」
「お前こそ、私への慈悲や友情をなぜ他の人間へ向けることができないのだ!?」
「うるさい!!」
 まだ剣を構えたままのシュヴァインにアルトゥールが飛び掛かる。元々シュヴァインを凌駕する力の持ち主だ。シュヴァインの剣が浅くだがアルトゥールの頬を掠めた。アルトゥールは逆上した。シュヴァインが身構え顔を庇ったのは正しい動きだった。牙を剥き出しにしたアルトゥールが耳まで裂けた大きな口でズラリと並ぶ牙を見せつけシュヴァインの腕に噛みついた。鋭い牙が肌に食い込み、青い肌に鱗がざっと浮かび上がる。
「止めるんだ!アル!」
 圧し掛かってくる青年の身体を必死にシュヴァインは押し返す。だがまるで大木でも相手にしているかのように幾ら押してもアルトゥールを制することが出来なかった。せっかく綺麗に整えていた寝床へ二人は縺れ合い転がる。シュヴァインは木の洞に背中を突っ張り、手も足も使いアルトゥールを何とか止めていた。
 アルトゥールはその本性を剥き出しにガチンッ!ガチンッ!と何度も上顎と下顎を嚙み合わせる。その凶暴な口吻がすぐ目の前まで迫っていた。
 シュヴァインは我を忘れている友に歯を食いしばりある一つの決断をした。最近では枝を切り肉を切り分けるのにしか使っていない、ナイフ。それが腰にあった。
(すまない、友よ)
 シュヴァインは渾身の力でアルトゥールを跳ねのけ、彼がまた飛び掛かってくる瞬間にナイフを抜き狙いを定めて大きくそれを振りかぶった。
「ギャァーッ!!」
 獣が鳴いた。
 その片手に深々とナイフが突き立っており、貫通し、地面へと突き刺さっていた。
 アルトゥールの瞳に憎悪がみなぎり、そして、不意にゆらりとその激情が消えて、いつもの冷静で穏やかな色が戻ってきていた。
「俺はなにを……」
「正気に戻ったか、アル」
 ほっと息を吐いたシュヴァインは力が抜けてその場にへたり込んだ。漸く我に返ったらしいアルトゥールは現場の燦燦たる様からことを理解して、素早く自分の掌からナイフを抜いた。鮮血がぼたぼたと地へと落ちる。地に落ちた血は腐臭がし、その洪水に巻き込まれた小さな虫が酸にでもつけられたように溶けていくのをシュヴァインは見た。
「すまなかったな、友よ」
 アルトゥールが痛みで掠れた声で詫びを口にする。シュヴァインも身を起こすと自身の衣服を裂き、簡易の包帯を作りすぐに傷の手当てを始めた。
「さすが、十騎士のナイフだ。魔除けでも練り込んであるのか、傷が塞がらないな」
「そのとおりだ。刀身は魔除けの呪文を唱えながら錬成され、お前たちが嫌う薬草や呪符を使い磨いたナイフだ」
 なるほどな、と感心したようにも忌々しそうにも取れる声音でアルトゥールが呟く。ただの切り傷ではない。魔物にとっては毒で錬成されたようなものだ。毒でじりじりと肌や肉を焼かれているような痛みに違いなかった。
「アル、すまない」
「俺が我を忘れたのが悪いな。ただ、少しでも悪く思うなら……」
 そこまで言ってアルトゥールが膝を折った。シュヴァインは腕を差し伸べ、熱を持った若い身体が腕の中に転がるのを感じた。
「……すまない」
 そう呟くとシュヴァインはアルトゥールの身体を抱いて破壊された木の洞のベッドへと運んだ。己の腕の中にその身を抱いて、熱を逃がさぬようにとマントで包んでやる。肩で息をするアルトゥールの意識はもうない。焚火の残りかすを木の枝で搔き集めて、それから三日三晩、シュヴァインは友を腕の中に抱き続けた。


8
 四日目の朝。
 唐突にアルトゥールは目を覚ました。気力は充実しており、体力は以前より増して、傷はすっかり塞がり掌に深い傷跡を残すばかりとなっていた。
 腕の中の友が動いたものだから、シュヴァインもほぼ同時に目を覚ました。
 視線が絡み合う。
 アルトゥールが腕を伸ばしシュヴァインの頭を引き寄せた。シュヴァインも抗わずそのまま目を閉じた。ごく自然な流れだった。二人は口づけを交わした。数度、唇を重ねたところでアルトゥールがシュヴァインを押し倒し、唇の隙間から舌を這わせる。先が二股に割れた舌と厚い舌が絡み合う。二人は食い合うように口づけを続けた。漸く気が済み、終わるころには良い大人が息を切らして互いの口周りは唾液で濡れていた。
「すまん」
「いや、私の方こそ」
 妙に照れくさい空気が二人の間に流れる。けれど互いに支え合い立ち上がった後に、やはり二人はもう一度キスをした。

 二人の生活は元に戻った。
 いや、戻ったどころか一層親密になった。問題は棚上げされたままだったが、問題の元凶となった娘が目の前にいない以上、火種になることはなかった。
 二人はお互いに抱き合って眠るようになった。深く眠るのではないが、夜の番の交代間際にわずかな間、アルトゥールが夜具に潜り込むことがほとんどだったがシュヴァインを抱き寄せる。シュヴァインもそれを拒否したりはせずに束の間の熱い体温を許した。
 そして、朝起きた時。アルトゥールの狩りを見送る時。日が暮れ、どちらかが夜具に潜り込む時。二人は口づけを交わした。それはほんの一瞬の挨拶のような時もあれば、激しい若者同士の愛の交換のような時もあった。

 そして、そんな暮らしが二月も続いた。
 その晩は、早くからアルトゥールが夜具に忍び込んできて、身体の大きなシュヴァインを背後から抱きすくめ、二人して故郷の話や幼い日のこと、お互いの城のことなどを話していた。
 若い腕が時折悪戯にシュヴァインの胸板を擽るように撫でる。
「──そして、わたしの母は若くして死んでしまった。母の遺体は河口付近で発見された。前日に橋のたもとに立つ母を見た者がいたから、自死の噂も事故との噂もあったな」
「辛かったか」
「辛くなかったと言えば嘘だし、楽になったのも事実だ。この世のすべての人間への呪詛の言葉を消える寸前まで母は口にしていた」 
 パチッと生木が音を立てて弾かれる。周囲は静かなもので、虫の鳴き声はするが獣の気配も魔物の密やかな息も、何もなかった。
 シュヴァインを抱いていた腕がするりと動き優しくシュヴァインの胸板をトントンと叩いた。シュヴァインはまるで慰められているようだと感じながらもアルトゥールの気が済む様にさせていた。暫くして今度はアルトゥールが口を開いた。
「そもそもの話、諸々の根源であるこの戦争の引き金は人間が引いたというのは知っているか」
「いや、知らない」
 不意に始まった三百年前の話に戸惑いながらシュヴァインは答える。アルトゥールがどこか遠くを眺めるようにしながら、呟くように続ける。
「勿論、昔々から俺たち魔物は人間を食っていた。森に近づく人間を攫い、邪教の生贄とされる人間を食らい……そんな俺たちの行動を見て、ふとある人間がこう考えた。魔物は人間を食う。人間は食われる。だが、大人しく食われるだけで良いものか。銃や火器の扱いを人間は覚えた、獣を飼い慣らし家畜として囲い込んでも来た。それならば、脅威である魔物も退治してやれば良いのだと。考えたのが一般の市民であれば何もできなかったろうが、思いついたのが王であったため、それは実行に移された」
「それは、自然な流れだと思うが。誰しも、自分に害を及ぼす者を放っておくことは出来ない」
「いや、それはとても不自然なことだ。自然の世界では捕食者に集団で立ち向かう者などいない。せいぜいが身を守るため逃げ出すか、兎が最後の蹴りを狼に入れてから食われる、そんな程度だ」
 言われてみればそうかもしれなかった。この世で唯一、捕食者に集団で立ち向かい戦う者、人間。 
「三百年前には、人間の世界の側にも多くの魔物が住んでいた。人間の街や王城を襲い、奪って生きていた集団がいたのだ。俺の眷属がそうだった。俺が覚えている故郷の景色は灰色と赤だ。街は人間に焼かれ、焦土となり、火があちこちで俺たちの眷属を弄り殺しにしていた」
「故郷は焼かれたのか」
「そうだな。だが恨んではいない。ただ不思議なだけだ。何故人間だけがこうも自然に逆らうのか。ウサギは狼やタカを恐れはするが群れになって襲ってきたりはしない。子を殺された、親を亡くした、故郷を焼かれたと恨むこともない」
 そんな話をシュヴァインはぼんやりとアルトゥールの腕の中で聞いていた。それは不思議な感覚だった。捕食者へ復讐する人間。それは自然なことではなかったのか。家畜たちがと殺されるときに人間を恨み、その子らが復讐に現れたなんて話は確かに聞いたことがなかった。
 言葉を無くすシュヴァインにアルトゥールは何を思ったのか、彼の太い首筋の血管を割れた舌先で舐め上げる。考えがまとまらぬ、と素っ気なく放っておけばその日はどうしたものか、アルトゥールの悪戯は止む気配がない。首筋を何度も舐め上げ、胸板を探る手は力強く胸の肉を掴み揉む様にしてくる。
「おい、擽ったくて考えがどうにもまとまら──」
 最後まで言うことが出来なかった。アルトゥールは勃起した己の一物をシュヴァインの尻に擦り付け、羽交い絞めする様にして背後から唇を重ねていた。若者らしい性急な仕草で求められ、いつかこうなる日が来るだろうと薄々分かっていたシュヴァインはとうとうその行為を受け入れた。己の子供と変わらぬ、異種の、しかも魔物と交わる。同胞を裏切るこの行為。けれど、自分も望んでいたのだと相手の衣服を脱がしながらシュヴァインは認める。この若々しい魔物の男に抱かれたくて、仕方がなかったのだと。
「アル、早く……」
「分かっている、そう急くな」
 若い魔物の男に甘える自分の声にぞっとする。体中を二股に分かれた舌先で隈なく愛撫され、お返しに若い幹を口に咥える。人間の男と相手の経験がないシュヴァインはその精の味を知らない。だが、低く呻いて口内へ吐き出されたアルトゥールの精を飲み干した時に、その味は何物にも代えがたく、尊い気がした。
 最後に、いやその行為の始まりに、若い魔物の雄がシュヴァインの中へと入ってきた時に、痛みよりも更に大きな安堵がシュヴァインを包んでいた。何もかも手放して、背後から己を抱き締め突き上げてくる熱量に全てを任せてしまえば良いのだと気づいてしまった。
「アル、アル……アルトゥール……」
「シュヴァイン、……シュー、……こちらを向け」
 長く激しい律動が止み体内の奥に精を放たれる。同時に唇を塞がれてシュヴァインは全てを魔物に飲み込まれてしまう夢を見た。それより毎晩、いや日中も。二人は身体を繋ぐことを止めなかった。 


9
 長い間、湯で足を洗ってもいなければ水を浴びることもしていないな。
 そう思ったのはアルトゥールがシュヴァインの中で三度目に果てた時だった。その日は食料や水も十分にあり、気づけば朝から二人は番っていた。
 アルトゥールの一物は魔物のそれによくあるそうだが、長く太さがあり形容しがたく醜く歪んでいた。その凸凹した造形は見る時々によってまた変わる。泣く程の責め苦を内側から受け、シュヴァインは男泣きに泣いていた。どんな汚い声を上げようとも、気にならない。ここには誰も来ない。アルトゥールの精力は無尽蔵で、本当はもっと長く強く激しくしたいと何度も懇願されていた。回数も日を追うごとに増えていた。今では番っている時間の方が番っていない時間より長いくらいだと犯されながらシュヴァインは朦朧と思う。
「ひぃ……ひぃぁ、あぅ゛……────~…ッ、んぉ、お゛、おんっ!」
「良い声を出すなぁ……もっと泣き喚け、俺にお前を食わせろ」
「い゛っ!」
「シュー、腰を振れ。そんなでは俺はまだイケないぞ」
「ぃああ゛っ!ん゛~~~~…ッ!ぁ、ぁ、ぁああ、ああーっ!あんっ!」
 喉に噛みつかれ、根元まで太い肉棒を飲み込まされる。
 同じ男同士だ。身体はシュヴァインの方が幾分太く大きい。だが、抱くのは必ずアルトゥールの方だった。受け入れるのはシュヴァインだ。シュヴァインの一物はわけも分からず放置され、その実、触られることは殆ど無く、ただ無駄に精を吐き出し続けていた。朝から番始めて、その日は晩まで飲み食いせずに一日中精を貪り合った。
「……湯が浴びたい」
 喘ぎ過ぎたせいで掠れた声がぼそりと喉から出た。アルトゥールは勿論聞き逃さず、何度目か分からぬ行為を再度再開しようかとしていた手を止めた。
「湯を浴びてどうする」
「どうする?身を清めて湯の温かさで身体を包みたい。自然な欲求ではないか」
「ふむ。俺たち魔物は身体が汚れるということがないのでな。だが、湯を浴びるか……面白そうだ。少し準備をしてみよう」
 ずるりと長いペニスがシュヴァインの体内から引き抜かれる。小さく悲鳴を上げたシュヴァインを優しく抱き寄せ膝枕してやりながらアルトゥールが小さく首を傾げる。
「湯の調達はどうしたものか……湯を浴びるためには湯を溜める容れ物も必要だな」
「温泉があれば良いのだが」
「温泉?」
 乱れたシュヴァインの長髪を整え結わえてやり、不思議そうにアルトゥールが聞き返す。シュヴァインは目の前の土の上に小さな池や滝の図を簡単に書いて見せる。
「こう、自然と湯が沸いている場所だ。池のように溜まっている場合もあるし、川の流れの途中に発生していることもある。そこに行けば湯を浴びるだけでなく全身浸かれる」
「なるほど……確か、以前に探索した場所にやけに川の水が温い箇所があったな」
「ああ、そういった場所だ。少し上流に遡ったり、その川底を掘ると熱い源泉が湧いてきたりする」
「ほう、それは面白いな。俺も体験してみたくなってきたぞ」
「だが、そこまでどうやって行く?」
「行かずとも良い。その温泉とやらをここに運んできてやる」
「何を言っている。源泉はおいそれと運べるものでは……」
「お前こそ何か忘れてないか?俺は魔物の貴族の中の貴族だぞ。地形を変えてやることなど造作もない。この土地に穴を開けて、空間を繋げて、湯を源泉とやらから運んで来れば良いのだろう?」
 当たり前のように語るアルトゥールが至極真面目な顔をしている、呆れているようにも見えてシュヴァインは思わず苦笑する。これでは魔物になかなか勝てないわけだ。ちりりと望郷の思いがシュヴァインを責めた。アルトゥールに任せきりになっている森の出口の探索。今日はそれさえ怠けて温泉に浸かろうというのだ。こんな体たらくで良いのだろうか。
 しかし深く考えるよりも先に、アルトゥールが出立の準備を始める。シュヴァインも床から起き上がり身なりを整えた。
「すぐに戻る」
 そう言い置くとアルトゥールは深い森の奥へと消えていった。
 シュヴァインは何気なく、アルトゥールからは離しておいた魔除けのタリスマンを取り出した。紫のタリスマンがネックレストップになっている。その小さな石をポケットへと落とし込む。最近ではアルトゥールを思い、滅多に身に着けていなかったが、今日は何となくそうした方が良いような気がしていた。
 あの若者に心を開き過ぎている。魔物相手に身体を開いている。同胞たちが知ったらどう思うだろう。裏切り者だと糾弾されるだろうか。そんな罪悪感を打ち消すかのように、ポケットの上から静かにタリスマンを撫でた。

 小一時間も待っただろうか、寝床を整え、昼餉の準備をしていたシュヴァインの元にアルトゥールが帰ってきた。当たり前のように腰を抱かれ軽いキスを受ける。一瞬、アルトゥールが妙な顔をしたがすぐさま自分が持って帰った源泉に興味を戻し、小さな泉の模型のようなものをシュヴァインへと差し出す。
「やはり、以前の場所にあったぞ。なかなか見つけるのに苦労したが、地脈を辿れば良いと分かってからはどうにかな。ほら、そこを退け。住処の前に温泉を引いてやる」
 呪文を唱えるでも魔方陣を描くでもなかった。
 ほんのわずかに片手の掌を地に向けて胸の前で小さな泉を支え持つ。どっ!と水流がその小さな泉から溢れ出した。水流が土を抉り渦を巻き、小さなため池ほどの泉が出来たかと思えばその端から小川が流れだし、いつもアルトゥールが消えていく森の中へと流れていく。柔らかな苔が泉の周囲には生えて、僅かながらの木漏れ日が湖面に降り注ぐ。
「さて、これくらいで良いか」
 満足げにアルトゥールが手を叩く。褒めて欲しそうにシュヴァインへ視線を流してくる。シュヴァインはそんなアルトゥールを可愛く思いその肩を優しく抱いた。
「ありがとう、──それにしても素晴らしいな」
「よく分からんが、お前が言うならそうなんだろう。さぁ、浸かろう」
 衣服を早速と脱ぎ始めるアルトゥールを横目に、シュヴァインは習慣に倣い下履きだけをつけたまま湯に入った。貴族や騎士の間では肌をあまり見せないのが流儀だった。ポケットに入れたタリスマンのことはすっかり忘れていた。
 二人は揃って泉、温泉へと身を浸した。湯はたっぷりとあり、二人が並び足を伸ばしても十分な広さがあった。
「なるほど、心地良いものだな」
「そうだろう?」
「ああ、戻れたらこのような温泉の使い方を魔族へも広めてみよう。それにしても、……
少し肌がひりつくな」
「そうか?この湯は温くて滑らかだが」
 見れば先ほどまでほんのりと血管が浮き出ていたアルトゥールの顔色が今は悪い。シュヴァインは不思議に思い近寄り、魔物の若者の頬に触れる。
「っ!」
「どうした!?」
 頬が、シュヴァインが触れた頬が焼け爛れて肌を覆う小さな鱗が剥がれてぐずぐずに溶ける。湯に触れているアルトゥールの身体からは薄っすらと煙が上がり、強い酸に浸かっているかのように溶け始める。
「くそ、シュヴァイン!何を持っている」
 泉から這い上がるアルトゥールを支えることさえできない。シュヴァインはここまできて漸くタリスマンの存在を思い出した。急いでその小さな石を取り出し森の奥へと投げ捨てる。
「魔除け、か。泉全体を聖水に変えるとは……なかなかに強力なタリスマンだな」
 眉を寄せ歯を食いしばるアルトゥールが小さく呪句を唱えるとほんの僅かだが肌の爛れた様子が回復する。シュヴァインは急いで駆け寄りその怪我の程度を見る。
「すまない、アルトゥール!タリスマンのことをすっかり忘れていた」
「良いさ。誰しも間違いはある。だが、うん……少しまずいな」
「傷が痛むのか?」
「いや、こちらのことだ。気にするな」
 その夜は呪句を唱え続ける魔物の青年を抱き寄せて、真似をして呪文を唱えてやりながら一晩中シュヴァインは看病を続けた。

10
「アルトゥール様!!」
「主様!」
「王よ!!」
 怒号に怒声、大勢の気配。
 そんなものにシュヴァインは叩き起こされた。目を開くか開かないかの内に、腕の中から熱量と重さが消えていることに気付く。そして、一気に引き起こされた。
「こやつ!王に何たる無礼を!殺してやる!!」
「引き裂いて食ってやろうよ」
「ふん、切り捨てれば良い」
 目の前には二足歩行の巨大な黒い牛がいた。その後ろには目の覚めるような金髪の髪色をした美しい少年が。その横にはほとんど衣服を身に着けていない肌の黒い妖艶な大女がいた。更にその背後には数え切れぬほどの有象無象たち。
(魔物だ……!)
 丸腰で眠っていたことも忘れて習いで腰に手をやる。
 だが、すぐに混乱が襲ってくる。
(王が、魔王が来ているのか!?)
 どこに。いつ。アルトゥールはどこへ行った。
「良い、捨ておけ。少々肌は痛むが、なかなかに興味深い経験をした」
 涼やかな、だがよく聞き慣れた声がした。
 其方へ無理矢理に首を回す。いた。アルトゥールだ。なんだ、怪我は大したことがなかったのか。どうして魔物たちに囲まれているのか。なんだ。魔王とは、アルトゥールのことなのか。そんな、そんな──
(そんな相手と肌を重ねていたのか、私は)
 冷たい汗が背筋を伝う。
 アルトゥールがシュヴァインには向けたことのない冷たい視線を周囲へ向ける。怪我はもう治った様子で、ふと視線がシュヴァインに止まったかと思えば路端の石を見るような視線で見つめ返される。
(アルトゥールが……魔王)
 その事実がずしりと胸に重く圧し掛かる。裏切られた気持ちになるのはなぜだ。アルトゥールが魔物だということには変わりないのに。そうだ、アルトゥールは嘘をついていた。いや、黙っていただけとも言えるか。
「シュヴァイン」
 すっぽりとマントで全身を覆い、銀の靴を履き、青灰色の鎧を身に着けている。それに対してシュヴァインはどうだ。汚れた下着姿のまま、魔王の部下である魔物に身体を押さえつけられている。
「楽しかったぞ。良い暇つぶしになったな。少々長居しすぎたか」
「アル、いや、アルトゥール。お前は、本当にっ!」
「ああ、親愛なる十騎士のシュヴァインよ。我が魔物の長、魔王であるぞ」
「騙していたのか!」
「そうとも言えるし、そうでもない。名乗らなかっただけだ。我は全て真実を話していた」
 なるほど。一族から「外れた存在」。裏切り者たちを屠る役割、それは粛清か。あの最初に殺された竜も、軍から逃げ出したせいで殺された。裏切り者への粛清ということか。
「は、はは……私は何と愚かな……」
「なんだ、惚けた笑いをして。互いに楽しめた月日であったろう」
「偽りのな」
「ほう?」
 アルトゥールが、魔王が楽し気に唇を釣り上げる。アルトゥールはそんな冷酷な笑みはしなかった。もっと温かな、人間味のある……そこまで考えてシュヴァインは首を振る。
「そんなに真実が大事か。それでは、お前の命を救った、あの血や肉の話もせねばなぁ?」
「あれは、家畜だと」
「素直に信じるのだな、シュヴァインよ。あれは、」
 「人間」だ。
 その途端、シュヴァインは掴まれていた腕を振り解き寝床に置きっぱなしになっていた己の大剣の元へと走った。大木に両手をつく。胃の腑がひっくり返りそうな吐き気と眩暈がする。一頻り、木の根に吐いてからシュヴァインはじろりと魔王を振り返った。
「美味かったろう?同胞は」
 魔王が嬉しそうに目を細める。
「同族食いは魔物でも下等の者しかせぬ。人間はどうだ?」
「その口を閉じよ、魔王!」
 胃の中を空っぽにしても胃の痛みと吐き気は収まらない。あれが、人間の肉だった。嘘だ。……いや本当か。こんな森の中に普通の生き物がいる筈がないのだ。目を背けていたのは、自分だ。
「もう、名を呼んではくれぬか。しかし色々と不思議だとは思わないか。我が怪我をした途端、その翌日にこうして魔物が大群で押し寄せた。お前に与えていた人間はどこから来たのかとか」
「どういうことだ」
 シュヴァインはもう何も信じられなかった。アルトゥールが話す度にあの月日が嘘に塗れた醜いものになっていく。
「森は迷いの森などではない。我ら魔物にとってはな」
「どういう、ことだ」
「そのままだ。我らは子供を得るとこの森で遊ばせるくらいだ。我らの庭、我らの防波堤。この森があるから人間は我らの国に入って来れない」
「まさか、では……あの、私が口にした人間達は」
「ああ、我が適当に森から抜け出し近隣の村々から攫ってきた。お前はどれも美味そうに食っていたなぁ」
「……お前はなぜ、森から出なかった……?」
 自由に出入りできたのなら、三月以上もこの森へ引き篭もる理由などない。
「お前がいたからな、シュヴァイン。お前は本当によく出来た玩具だった。我によく仕え、人間を食い、身体まで差し出した。なかなかの暇潰しだったぞ」
「あの日々は……全て偽りだったのか」
「いや、真実。面白い余興であった」
「心は、ないのか」
「あれば、魔物などやってはおらぬな」
 快活な笑みさえ浮かべるその姿はシュヴァインの知るそれで、不意に腕の中からすり抜けてしまった恋人の影を見つめてシュヴァインは力無く項垂れた。
「お前がもしこちらへ寝返るなら今なら受け入れてやるぞ」
「……寝返る?」
「人間が嫌いだろう?お前は。人間の最後の希望の灯を自分で吹き消したくはないか?」
「は、何を言うかと思えば」
 そう答えながらもぐらりと心が傾いでいくのをシュヴァインは自覚していた。今なら、この恋人を失わずに済む。人間のしがらみを捨てて魔物として生きる。
 だが、シュヴァインは結局乾いた声で笑った。今、そんなことが出来よう筈もない。
「悪魔に渡す魂はない」
「なる程な」
 さして不満げにも寂しげでもなく、魔王は頷いた。その瞳の奥は楽しげに輝いている。その光を真っ直ぐに見る事が出来ずにシュヴァインは目を逸らした。
「丁重に人間の領土に放り投げてこい。気は抜くなよ。きちんと縛り上げて途中でやられるな」
「しかし、この人間は王の身体を……!」
 食い下がる牛の魔物を冷たい眼差しで一蹴すると、魔王はもうシュヴァインには興味を失った様子だった。
「アルトゥール……」
 小さくその名を呟いて両脇を魔物に捕えられてシュヴァインは魔王の背を見つめ続けた。

11
 人間の領土の端、ちょうどアーチー卿の領土の端にシュヴァインは打ち捨てられた。
 魔物たちの侵攻により、アーチー城は落ちた様子だった。仕方ない、もう3月は経ったはずだ……。しかし、どうしたことだ。短い夏の前だったはずだ。今はもう冬前の寒さで渡り鳥たちが渡ってきても良い頃だ。だが、周囲は短い草が茂り、木々は青々と青く日の光に映えて、体感も随分と温かい、というよりは少し汗ばむような陽気だった。
「ああ!シュヴァイン様!シュヴァイン様ではありませんか!?」
 遠くから青年の声がした。シュヴァインは転がされたまま顔を動かす。聞き覚えのある声だった。もっと若く透き通った声だったが、あれは……あれは、確かにファルの声だ。
「ファル!ここだ!私だ!シュヴァインだ!」
「シュヴァイン様!!」
 背後で膝をつき、ナイフで戒めを解かれる。ばっとシュヴァインは身を起こす。振り向きざまに少年の肩を抱いてやろうとした所で、その姿が己の知る少年ではなく成長途中の青年のものであることに気付く。その短い赤毛の下に見える明るい緑の瞳、すっきりと整った顔立ちには大人っぽさが漂っていた。手はごつごつと骨張り、喉仏がすっかり発達した二十歳前後の若者がそこにいた。面影は確かにあった。しかし、立派な兵士の姿をした自分の従者は己の知らぬ間に成長していたようだった。
「ファル!私はどのくらい不在にしていた!?」
「シュヴァイン様!?何をおっしゃっているのか……シュヴァイン様がおられなくなってからもう三回も季節は回りました。ご存じのように、人間軍は大敗中です。けれどもう大丈夫です。シュヴァイン様がお戻りになられた」
「三年……」 
 たった三か月の筈だった。あの森の中では時間さえこうも人を惑わすのか。
「十騎士の内、その半数はもう失われました。後輩から新しい十騎士を結成する動きも出ていますが……とりあえず、わが軍の駐屯地へ」
 涙を拭きつつファルがシュヴァインの前に膝をつく。シュヴァインは以前と変わらぬ忠誠を捧げる従者にふと不思議に思い聞く。
「お前はこんな戦場跡地で何をしていたのだ」
「シュヴァイン様をお探ししておりました。ほとんどの方は、シュヴァイン様は亡くなったのだと言っておりましたが……私はこの目でその躯を見ぬ限りはと。日夜、暇を見つけてはこのこの地を彷徨い歩いておりました」
「何ということだ」
 思わず、シュヴァインは目の前の青年を強く抱きしめていた。ファルは身体を硬直させてその抱擁を受けていた。
 帰ってきたのは間違いではなかった。ここには自分を待ってくれている人がいたのだ。
「帰ろうか、ファル」
「はい!」
 青年の成長を頼もしく思いながらシュヴァインは胸に迫る思いをなんとか表情に出さずにその地を後にした。
 
「シュヴァイン殿!帰還したと聞いたぞ!」
 半日を使いボロボロの前線基地へと辿り着いた二人を十騎士長のクラウスが出迎えた。先に伝令鳩をファルが放っていたのだ。十騎士のシュヴァインが戻ってきたと。クラウスは片腕でシュヴァインを抱擁した。続々とテントから兵士たちが顔を出す。あれがあのシュヴァインかと、誰もが目を見開いていた。その中に自分の指揮していた小隊の面々を見つけ、シュヴァインは手招く。多くの兵士たちが死に、又は怪我や病で戦場を去った筈が、小隊の隊員は一人も欠けることなくシュヴァインの前に頭を垂れた。
「良く生きていたな」
「シュヴァイン様も。一同、ご無事のご帰還を信じておりました。……いえ、本当はほとんど諦めておりました。ファルだけが、本当に貴方の生存を信じておりました」
 隊長のアルスが少し言いよどみながらも誇らしげに胸を張る。改めてファルを振り返ると青年は既にシュヴァインの傍で着替えを捧げ持っていた。
「お召し替えを。随分と傷んでいるようです」
「お前はもう兵士なのだろう?私の身の回りの世話をしなくとも」
「いえ、私はシュヴァイン様にお仕えしております。隊は除隊致します」
「待て、兵士として在籍していれば除隊後にも色々と手当が」
「そんなものいりません。貴方にお仕えできれば、私は!」
 押し問答の末、間に入ったのはクラウスだった。
「では、ファルは私の元からシュヴァイン殿の元へ派遣することにしましょう。元々、私の軍の歩兵です。兵士の籍は残したまま、以前のようにシュヴァイン殿に仕えれば良い」
 その答えに感謝しますとファルは嬉し気に頭を下げる。シュヴァインも自分より身分の高い戦友にそこまで言われては受け入れざるを得なかった。
 すぐにテントが一張りシュヴァインのために用意された。シュヴァインの少ない私物は主にクラウスが保存してくれていたようだった。自身の匂いが薄れた私物たちは、けれど新しいテントの住居になぜかしっくりと馴染んだ。
 改めて、シュヴァインは肩から力を抜いた。わが家だ。三カ月ぶりの……いや三年ぶりだ。だからか、ファルとの距離も測りづらかった。
 青年は明らかな熱情を持ち、シュヴァインの一挙一動を見守っていた。湯を借り、足を洗われる。何度も目元から溢れる涙を拭う。綺麗に足を洗い上げたファルが誇らしげに笑みを浮かべた。
 ふと、身体や精神がひどく疲弊していることに気づいた。
「今日はもう休もうか。流石の私も疲れたよ」
 言葉にすればそれは真実だった。明日はこの三年間のことを根掘り葉掘り聞かれるはずだ。ファルがすぐにベッドを整える。毎日木の洞で身を縮こまらせて寝ていた身だ。久々のベッドは簡易な戸板で作られたものだが、たっぷりと綿や布を使ったそこはまるで天国だった。身体を伸ばせばあっという間に眠りにつけそうだ。だが、足りない。圧倒的なあの存在……。毎朝、毎晩、抱いて寝たあの身体。
 ──駄目だ。それだけは……。
 叫ぶ己を無言で圧する自我がある。盥を片付けて下がろうとする青年にシュヴァインは声をかけた。
「ファル、添い寝を申し付ける」
「は、……は?!」
 ファルは目を大きく見開いて手に持っていた明日の朝のための洗面具を床にガシャンと落としてしまった。

「今夜もまだ作戦会議ですか?」
「ああ、先に寝ていなさい」
「いえ、まだ起きています。……寝るのは一緒が良いです」
 すり……と背後から青年の腕がシュヴァインの腰に回される。恋人兼従者のファルだ。夜も遅いのでもう既に夜着に着替えている。
 シュヴァインが戻ってから半年が経っていた。人間軍はその陣地の端をじりじりと後退させながらも、どうにか戦線を保っていた。
 シュヴァインの帰郷が兵士たちを奮い立たせた。シュヴァインは迷いの森から魔物の国へと迷い込んだことになっていた。なぜなら、シュヴァインが魔物たちの生態に詳しく、魔王が住む城の内情に詳しいのが決め手になった。何のことはない。魔王の城とはアルトゥールの故郷のことだ。アルトゥールの話に偽りはなかったようで、魔物に捕えられたが逃げ出したという兵士たちとの証言ともしっかり合致していた。
 人間軍の最後の戦いが目前に迫っていた。
 兵士たちの数も長年にわたる戦いで少なくなっていた。次の兵士たちが育つまでの少年兵の投入も話に出ているほどだ。その戦いに終止符を打つことができるかもしれないと、最初で最後のゲリラ戦に突入することが決められた。
 その指揮を執るのは勿論シュヴァインだ。
 これがアルトゥールを追い詰める作戦なのは百も承知だ。だがやり切らねばならない。シュヴァインが人間である内は。
「疲れたな」
 今日も作戦の最終シミュレーションをして夜更けに自分のテントにまで戻った。何となく口から出た言葉をベッドの中でファルが聞きとがめる。
「少しは眠ってください」
「……眠れないんだ」
「では、眠れるように私がお慰めしましょう」
「すまないな」
「すまないと思ってくれるのならば、私を……本気で受け入れて下さい」
 切ない呟きと共に、身体の奥深くに若い雄を感じた。腰を打ち付けられて、身体が跳ねる。固く抱きしめられてはその身を抱き返す。名を幾度となく呼ばれて、その声に応えれば応える程、律動は激しく速くなっていく。
 アルトゥールとの身体の交わりとは違い、人間との交わりには限界がある。まだ若く精気旺盛な青年であるファルも三回も果てればぐったりとその身をベッドへ沈めた。
 まだまだ欲しいのだと、その若い陰茎に手を伸ばすと駄目だと言うように手を阻まれる。その手を軽く噛み、シュヴァインはやや強引にペニスを口に含む。若い身体はその快感に申し訳程度に頭をもたげる。そのわずかな硬さを求めて、緩んだアナルへとあてがい一気に押し込む。そう、人間の性器ではアルトゥールを受け入れることに慣れ過ぎた身体では温く感じた。そのせいで、すでにファルにはこの三年間の間、誰かに身体を許していたのだということを知られている。ファルは聡い。その相手がもしや人間ではなく魔物かもしれぬと分かっていても、シュヴァインへの忠誠と恋心から言葉にはしないでくれた。
 ただ、時折。先ほどのように、自分を受け入れてくれと懇願するのみだ。
 シュヴァインもその言葉の意味が分からぬほど朴念仁ではない。だが、身体が心が、忘れられないのだ。強烈に焼き付いた、友の……たった一人の恋人の存在を。その裏切りを。
 中で次第にファルが硬く太く育っていく。その瞬間、下になっていたファルが身体を起こしシュヴァインの厚い身体を組み敷く。年齢差は四十近くもある。だがベッドの中では主従の関係も年齢差もなく、ただただ貪る性と貪られる性があるのみだった。
 太い屹立が隘路を分け入り、なかなか常人では到達しない結腸の入り口を亀頭で叩かれる。シュヴァインは他の雄との性交経験がない。だから、そこまで到達する性器が普通よりもはるかに大きなものだということを知らなかった。ただその奥にペニスを埋められると痛みを遥かに超えた快感を得られるのを知っていた。だから、ファルにそこへ深々とペニスを突き刺されると声が我慢できなくなってしまう。
「お、お……ん゛っ、あひぃ~…ひぃ…ひぃひぃ……ふぅ、あっ…あっあっあっあっ」
「あまり声を上げては、ダメ、ですよ……はぁ……本当はもっと喘いで頂きたいんですけど」
「ファル、ふぁ……る……んはぁ、はぁ……──~~んひぃ」
「ああ、堪らない。すみません、そろそろ、出しますね」
「なか、なかに……ほしい、ファル……ファル、お前の精をくれ……」
「は、……~~っ出します、ね」
 身体や後始末を思えば中に出すべきではないとファルはいつもシュヴァインを事前に諭す。シュヴァインもそれは重々承知している。だが、どうしても最後までされないとあの熱を思い出してしまう。あの、冷たい悪魔の、熱を。
「────~~っ!」
 身体の深部で熱が放出される。何度目だったろうか。もう分からない。ひときわ高く声を上げたシュヴァインの口を塞ぎファルがしっかりと口づけをする。互いの呼吸を貪り合うようなキスは唐突に終わり、心底嬉しそうにふにゃりとファルが微笑む。
 その一瞬だけ。
 シュヴァインはあの男の影を忘れられるのだった。

12
 そんな夜が何度も繰り返された。今やファルはシュヴァインの側近としてどこに出してもおかしくない立派な兵士として育っていた。シュヴァインが指揮する小隊とは別に常にシュヴァインの傍に控え、命令を黙々とこなす。兵士としての力量やセンスも飛び抜けており、他の若い兵士たちと比べようもなかった。
「決行が近いと聞きました」
 閨の中で静かにファルが腕の中のシュヴァインに問いかける。
「出陣なさるのですね……?」
「無論だ」
「……敵陣には、シュヴァイン様の想い人がおられるのではないですか?」
 ぴくりとシュヴァインの肩が跳ねる。今まではけして触れられなかったそれ。もう過去のことだと何度も言い聞かせてきたかつての恋人の姿。
「勘違いだ」
「ですが」
「お前の勘違いだ!ファル!」
 鋭く一括するとファルが背後で身を硬くしたのを感じた。そしてそっとベッドから出ていく。シュヴァインはそれを引き止めはしなかった。あのことは、彼のことは未だ己の中で整理がついていない。胃や整理がつくことなど永遠にないだろう。それほど深くに根を張ってしまった、あの存在が。他人と思い出だと割り切り語り合うことは出来なかった。
 明日は結構前の最後の軍議だ。早く寝なければならない。そうは思うのに夜が白々と明けてきてもシュヴァインは眠りにつくことが出来なかった。

「……というわけで、地下のこの広場へ魔物たちを一堂に集め、一網打尽にするという作戦です」
 シュヴァインが作戦をそう締めくくると会議に参加していた面々から同意を示す頷きや声があちこちから上がった。ただクラウスだけが首を微かに横に振った。
「魔物どもを集めるのは良い。だが、戦力のほとんどをこの小さな地下広場へと集めるのは危険に感じる。これでは、牢獄の更にどん詰まりだ」
「心配は無用です。この場には必ず魔王が登場します。奴は気位が高く、負けず嫌いだ。自身の城に入り込まれて、挙句に多くの部下や同胞たちを殺されておめおめと逃げ出すような臆病者ではない」
「まるで見知っているかのようだな」
「……三年間で色々ございましたから」
「なるほどな。……分かった。では、これを最終フェーズとして、この戦いに終止符を打つ。決行は十日後の深夜。魔物どもが一番騒ぐと言われている刻限だが、逆に良かろう。奴らに引導をくれてやれ!」
「「「おう!」」」
 会議の場である大きな天幕が揺れるような決起の声だった。いや、必死の声だったかもしれない。人間側の勢力はもうこのアーチー卿の城に残る僅か数百名の兵士たちのみだった。もし彼らが全滅すれば、戦場には少年兵が送られることになる。少年兵たちはただの捨て石だ。遠い地から大人の兵士たちを運び育成する間、何とか持ちこたえてくれれば良いというだけの捨て駒。その数は一万二千。そのほとんどが故郷を踏めず二度と家族と会えないだろう。
「それだけは避けなければならぬ……」
 シュヴァインは小さく呟く。ファルのような子供を、自分のような子をこれ以上増やしてはならない。
「シュヴァイン様」
 ファルが天幕を出たところで駆け寄ってくる。逞しく成長した彼の姿を見るだに、シュヴァインは頼もしく輝かしく思いつつも後ろめたい思いが胸を過る。
「ファル、其方の首尾は」
「問題ございません。ありったけの弾薬と武器を集めました」
「量はそんなになくても良い。ただ魔物を切れる武器が欲しい」
「城へと向かうのは二百名でしたか」
「その内、地下まで足を運ぶのは三五名だ、私とお前を含めてな」
「はい、十分に武器はございます」
「頼んだぞ」
 シュヴァインは瞳を細め若者を見つめた。あの夜以来ファルとは肌を重ねていない。だが、この瞳を見つめることができるのも後十日かもしれない。そんな思いがシュヴァインを駆り立てた。彼らしくない焦燥に焦がれる。天幕に戻りシュヴァインはベッドへと腰を下ろした。若い少年だったころのようにファルが何くれと鳴く世話を焼こうとするのを制する。
「ファル」
「はい」
「今宵、夜伽を命じる」
「はい。──え」
「二度は言わんぞ」
「は、はい!」
 喜色に涙まで浮かべてファルが頭を下げる。自分には抱かれてやることくらいしかできない。それから毎晩、シュヴァインは真心を込めてファルへと奉仕し身を捧げた。彼の誠意や忠誠、恋慕に身体をくれてやる以外の方法をシュヴァインは知らなかった。

 十日後。
 夜が更け月が昇り始めた刻限にシュヴァイン達二百名の精鋭たちは迷いの森の入り口近くに集っていた。寒風吹きすさぶ嵐のような夜だった。それにもかかわらず森の木々はそよとも靡かない。静まり返った静寂のみがそこにあった。
「しかし、この森を通って行くとは……誰も、魔物でさえ思いつかないだろうよ」
 クラウスが戦闘で森へと分け入っていくシュヴァインへ声をかけた。シュヴァインは小さく笑みを返す。
「私は、魔王の耳の後ろの鱗を持っております。これは奴と繋がっております故、迷わずにこの森を進むことができるのです」
「なるほどな。そのようなものをどこで手に入れたかというのは……」
「知らぬが宜しいかと」
「……分かった」
 ファルがその話を聞き傷ついたような顔をしたのをシュヴァインは無視した。ファルは聡い。シュヴァインが行方をくらませた三年間誰と過ごしていたのか、その身を内側から作り変えた相手が誰なのか、それに気付いたのだとしても言ってやれる言葉は無かった。
 シュヴァインは心が異様に高揚している自分に気付いた。
 森の空気さえ懐かしい。湿った、おどろおどろしい影を落とす木々、虫一匹さえ生きてはいない死の森。ここで過ごした日々とかつての恋人を思うと、自然と微笑みさえ浮かぶのだった。
 もうすぐ会える。
 どのような形でも、一目その姿を見たかった。そのために「この計画」を立てた。
 森はほんの一時間で抜けることが出来た。その先は魔物たちが住む、死の都。デルヴォード。魔王の居城はその中心に黒々とそびえ立つ、歪な教会にも似た城だった。勿論、魔物たちに信仰心などないだろう。だがたった一つ、畏怖。その思いが彼らにこの城を作らせたに違いない。人間が神を時に敬い、時に恐れるのと同じかと思うと皮肉だった。
 二組に分かれて、街を抜けるのに数時間。精鋭ぞろいとはいえ、魔物たちが跋扈する街中を抜けるのは容易ではなく、一人また一人と兵士たちは減っていった。最後に魔王の城前へと集結できたのは一二三名。
「……予想以上に残ったな」
 その呟きはファルの耳にだけ届いた。心のこもっていない、淡々と事実だけを述べたようにも、それを残念がっているようにも聞こえた。
(どうかしている、俺は。シュヴァイン様に限ってそのような……)
 だがこの胸のざわつきはなんだ。立ち入ってはいけない禁足地へと足を踏み入れてしまったような、底なし沼に首まで浸かってしまったような、この不快感は。目の前にいるこの男こそ魔王ではないか。
(そんなことはない、シュヴァイン様は俺を選んでくれた。この十日間の蜜月を忘れたか)
 何年も想い続け、行方不明の間もけして諦めずに探し求め続けた主。シュヴァインこそがファルの世界のすべてで、シュヴァインのいないこの世などもうファルには想像もつかなかった。それほど、彼に溺れていた。
「手筈どおりだ。地下へ、城へと入るのは私と私の小隊とファル、クラウス殿の精鋭部隊のみだ。他の者は城を見張り、万が一の時のための退路を確保しておいてほしい」
 無言で全員が頷き、鎖帷子や鎧の擦れる金属音が微かにした。
「行くぞ」
 シュヴァインの人としての声を聞いたのはこれが最後だった。

13
 城の地下へと魔物たちを誘い出し、一網打尽にする計画。
 そうだった筈だ。
 確かに城にいた魔王の側近たちは夜半の城への侵入者たちに意表を突かれ、慌てふためいていたかに見えた。魔王を庇い、地下へと逃げていく一行たち。魔王の印とされる銀の王冠が松明の明かりにきらりと光る度に、青灰色のマントが翻る度に人間たちは勝鬨の声を上げて襲いかかった。あと一飛び、あと数歩。だがそれが届かない。まるで鬼ごっこを楽しんでいるかのように、魔王の姿は暗闇に見え隠れしてその全貌さえ見えない。
 おかしいと。思わない者がいなかったではない。魔王は気位が高く負けず嫌いだったのではないか。ではどうして逃げ続けているのか。背を見せ、配下に己の背後を守らせている姿は滑稽ですらある。
 だが、人間たちはシュヴァインを筆頭にもう進むしかなかった。一人、また一人と。暗闇の中へ兵士たちが引きずり込まれる。目的の地下広場に辿り着いたのはたった十四名だった。
 これでは、残った魔物たちを囲うことなど出来やしない。
 今や地下広場には数え切れぬほどの魔物たちが集っていた。広場の中心に互いに背を向け合って、シュヴァイン達は武器を周囲に向ける。誰か一人でも動いたら、死が襲ってくる。
 だがその緊張の糸を切ったのは流石というべきか、百戦錬磨のクラウスだった。
「これでは、ただの嬲り殺しだ!シュヴァイン殿!貴殿、疑いたくはないが……もしや!」
 声を張り上げ対極で剣を構えている筈の老兵へ叫ぶ。返る声は無かった。その代わりに、独特の掠れた声が答えた。
「ふむ。大儀であった、シュヴァイン」
「……恐れ多いお言葉」
 そのシュヴァインの声が歓喜に静かに震えているのを側のファルは聞いていた。そして、剣を収め敵の首領であるはずの魔王の元へと跪く恋人の姿を傾いでいく視界に捉えていた。
「え」
「すまない……」
 ごとんっとファルの首が床へ落ちた。恋人の名を呼ぼうとしてその恋人の剣で首を落とされ、返す刃で身を二つに裂かれて青年は絶命した。誰も指一本動かせなかった。目の前の事実が信じられず、また耳でしか確かめる術がない現実に戦慄していた。まだ若く、青年の域を出ない魔王が静かに歩を進める。シュヴァインの肩に手を軽く添えた後、涙を流したファルの生首をその髪を引っ掴んで持ち上げる。首から滴るその血を魔王は舌先で啜った。
「一人も生きて帰すな」
 その一言で、一方的な殺戮が始まった。 

 人間どもが一人残らず絶命するまでに一刻もかからなかったか。最後の一人、クラウスはそれにしても善戦した。一人で魔物たちの大軍を押し返し、狭い路地に適を誘い込んでは一匹ずつ始末してゆく。
「あの男は少しお前に似ているな」
「確かに」
 アルトゥールは側に跪くシュヴァインを立ち上がらせた。今にも、クラウスとかいう人間の首が落とされようというところだった。
「きさまぁ!シュヴァインめ!我らを、人間全てを売ったのか!」
「……少し話をしても宜しいでしょうか」
「構わぬ。だが手短にな」
 シュヴァインが囚われの敵将の前へ静かに膝をついた。四肢を魔物にとらわれ、腕は千切れ掛け、顔面はその容貌が分からぬほどに潰された男が、鋭い眼光をシュヴァインへと向ける。まるでその瞳の力だけでシュヴァインを殺そうとするかのように。
「クラウス殿」
「シュヴァイン……!」
 シュヴァインが胸元から輝く青白い小さな鱗を取り出した。
「魔王の鱗の話を覚えておられますか。私はこの鱗があるので迷いの森や街の中を案内無しで進めることができると貴殿へ伝えた。それは本当です。だが、同時に黙っていたこともある。この鱗、魔物たちの動きを逐一知れることが出来たのと同様に人間側の動きも逐一魔物側へと漏れておりました」
「な、に……?」
「しかもこちらは、魔王の心臓と繋がっている唯一の弱点。この鱗を傷つければ、魔王は心の蔵を砕かれる仕掛け。黙っていてすまなかった」
「では、この始末は……部下たちの命は、多くの、これまでに死んでいった多くの人間たちの命は……その小さなかけらさえ砕けば、失われることはなかったと!?」
「申し訳ございませぬ」
 そこにはただの事実を告げただけというシュヴァインの姿があった。風が吹いた、そのことを告げた、ただそれだけのような。クラウスは絶望した。声もなく、その場で立ち上がったシュヴァインにより斬首された。
 アルトゥールは地下広場に玉座を下ろしそこに座っていた。一番先に命を落とした若者の首から注いだ血でワインを飲む。腹立たしいことにこの血の持ち主は、シュヴァインの無聊を慰めるために一時情夫であったという。シュヴァインの忠誠と愛情を疑いはしなかったが、たかが人間風情にシュヴァインの身体をくれてやるのは腹が立った。肌身離さず鱗を身に着けていたシュヴァインのおかげで、二人が身体を結んでいる間中、その息遣いや乱れるシュヴァインの喘ぎ声がアルトゥールには直接流れ込んできていた。
 だがそれも今は愛おしい。嫉妬は魔物が最も興奮し愛する感情の一つだ。シュヴァインに出会ってなければこんな感情さえ知らなかった。
「戻りましてございます」
「皆、席を外せ」
 シュヴァインの登場にアルトゥールはその金の瞳を細くして微笑む。人間側の裏切り者。悪魔の騎士。そう囁く魔物たちの密やかな声には喜色こそあれど、蔑む色は無かった。
「来い、シュヴァイン」
 久しぶりに恋人の身体を貪れるのだと思うと先ほどまでの憂いや人間達を征服した歓びなど遠くなってしまう。魔物とはそういうものだ。目先の欲にいつも目が眩んでいる。
「アル……」
 玉座へと押し倒すと懐かしい声が名を呼んだ。

 互いの腕が衣服を解きにかかる。互いに鎧を着こんでいたため、下肢を露出させるだけでも一苦労だった。やっと下履きまで辿り着いたかと思えば上下を逆にして、シュヴァインがアルトゥールの股間に顔を埋めた。今まで何度となく口にしてきた奇形種のような巨大な陰茎を口に含む。口を窄めて舌を絡めているともっと奥へと言うように手荒に髪を掴まれてペニスを喉奥へ含まされた。それに逆らわずにシュヴァインは喉輪を開いて食道にまで亀頭を受け入れる。懐かしい精の香りに頭がくらくらとする。気づけばシュヴァインは己の下肢に手をやり、自身の雄々しく立ち上がるペニスを慰めていた。アルトゥールが腰を激しく使い、シュヴァインはその動きに付いていこうと必死に頭を前後させる。頬を窄めて強く強く亀頭を吸い上げると、大きく引いた腰が突き入れられて食道を越えて胃の入り口まで亀頭が捻じ込まれた。喉が裂けてしまうのではないかという激痛の中、びくんと身体を震わせたアルトゥールが勢いよく精を放つ。喉を懸命に上下させて太い肉棒を刺激してやりながら、シュヴァインも己の手の中に果てた。
 アルトゥールが一息ついたとばかりにワイングラスを手に取る。そのワインの横にはファルの生首が飾られている。
「こいつの血はなかなかに美味いぞ」
 そう笑うアルトゥールがファルから搾り取った血肉が混じるワインを口づけて寄越す。シュヴァインは喜んで口を開き、それを咀嚼し喉奥へと流し込んだ。人を食うのは初めてではない。今回はそれがファルだったというだけ。そう言い訳じみた言葉が浮かぶのは、アルトゥールが僅かでもファルに心を寄せていたせいかもしれない、ただファルの絶望に見開かれた濁った瞳が二人の交接を見つめているからかもしれなかった。
 地下広場は地獄絵図だった。
 殺された多くの者は手足を捥がれて生きながらにトルソーにされ、絶命するまでその身体を弄ばれていた。死んだ後は汚く食い散らかされる。食い残しは城から放り出されて下級の魔物たちに骨のひとかけらまで食われた。
「なぁ、シュヴァイン。お前を抱いていた男の具合はどうだ」
「……っんぁ、よう、ございます。死んでから日が経っているせいか、少し緩うございますが」
 魔物たちの饗宴は二日目に入ろうとしていた。魔物たちの一日はつまり人間にとっての一月。ファルの腐った死体にペニスを突き入れながら、もう一月もこうしているのかとシュヴァインは面白く思った。背後から女を片手に抱きながらアルトゥールが腰を使ってくる。シュヴァインの奥深くにあの醜悪なペニスが押し込まれていた。シュヴァインとの性交は基本二人きりで行われたが、時折、女や男を引っ張り込んでアルトゥールは楽しんでいた。多情なのは魔物の性だった。シュヴァインは嫉妬する気持ちもないではなかったが黙ってアルトゥールの好きにさせていた。
「あぁ゛っ!アルトゥール、アル、アル……っ!」
「シュー……思いっきり突いてやれ。その男も本望であろう」
「んはぁ……、んッ゛、あひ……ひぁ、ひゃんっ……、ォ゛、おんっ、おほォ……~は、アルぅ」
 シュヴァインがファルの遺体の中に果てたと同時にアルトゥールは抱いていた女を突き飛ばし、まるで以前のようにシュヴァインの腰を深く抱き、シュヴァインの胎内へと深く射精した。 
「は……ぁ…、アル」
「どうした、シュヴァイン」
「もうこの死体は不要です。腐り過ぎて役に立たない」
「なるほどな、罪人たちと一緒に切り刻んで谷に捨てて来させよう」
 シュヴァインの背へと口づけて、アルトゥールは残飯の処理がかりを呼びつける。アルトゥールの腕の中でシュヴァインはただ頷いた。

 魔物たちにも受け入れられて、シュヴァインは他の魔物と一緒に人間の掃討作戦に参加した。それはもう陰惨な戦いだった。主だった戦力を魔王討伐に向かわせていただけに、少年兵たちの必死の抵抗も空しく人間界はあっという間に魔物たちの手に堕ちた。
 人間たちが降伏までにかかったのはたった半月、魔物たちの時間ではほんの半日だった。

 その後の話は魔物たちの聖書に詳しい。ここでは割愛する。人間の暦で翌年の春に大陸のすべての国々が魔物たちの元に着いたということだけ記しておこう。
 シュヴァインは魔物の王の側近として二か月を過ごした。たった二か月。その短い寵愛を受けるために彼は祖国を売ったのであった。だが人間の世界にしてはそれは二十年という長い時間だった。いよいよ彼がこの世を去るというその晩にも、魔王アルトゥールはその身体を開き腕に抱き、骨と皮になった身体を愛していた。
「本当に魔族へ転生する気は無いのだな」
「申し訳ありません」
「まぁ、気にするな」
「愛している、アルトゥール」
 声にならないその言葉が遺言となった。アルトゥールは慣例に習い、魔王がその毛の一筋までも食らいつくした。
 それからアルトゥールの御代は五百年続いた。彼は遂には妻を持たず、遺言はたった一言だった。
「シュヴァインが死んでからつまらんな」
 そう言い残し、アルトゥールは首を搔き切った。
 これは、そういうお話。

















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